ナカヤマン。(YAMAN NKYMN)
ロサンゼルスと京都を拠点にするマエストロ・ストラテジスト、コンテンポラリーアーティスト。2007年以降ソーシャルメディアを活用したバイラルマーケティングやコンテンツクリエイションで注目を集め、「ルイ・ヴィトン」「シャネル」「グッチ」等の海外のラグジュアリーブランドをパートナーに活動する。2019年『シン・エヴァンゲリオン劇場版」にストラテジストとして参画し、映画監督の庵野秀明と共同代表で八万・能を設立。結果、同作はシリーズ前作の約2倍となる興行収入100億円を突破した。自らも2021年の西本願寺内の国宝、飛雲閣での展示“陸奥の 安達原の黒塚に 鬼籠もれりと言うはまことか (UN)KEEPALL”で、現代アーティストとしての活動を開始した。翌年にはアートフェア「Frieze Week Los Angeles」の公式プログラムに同作品が招致されプレミア上映を実施、ウエストハリウッドのシャトーマーモントではプレミアディナーを開催、初展示からわずか1年でグローバルデビューを果たした。
現代アーティストとしてのデビューからわずか1年で「Frieze Los Angeles 2022」の公式プログラムに招致され、FRIEZE Studioによって作品に関するドキュメンタリーフィルム『THE ULTIMATE OTHER』(2022)が制作された作家、ナカヤマン。が京都で新作を発表した。
通常は非公開の大徳寺 芳春院で披露した新作は「年ごとに 人はやらへど目に見えぬ 心の鬼はゆく方もなし WHITE2BLACK 11072023」と名付けられていた。編集部に届いたインビテーションには「(跡見:) 追儺 黒節分/ (ATOMI:)WHITE2BLACK」と記されているだけ。一貫して作品に登場する「おに」が意味するものは何か。そもそもタイトルに女流歌人の詠歌がつけられた理由とは。ナカヤマン。に同作の制作背景とインスピレーション源等を訊く。
個人的に時間をかけて溜め込んだ澱が作家性を引き出す
−−マエストロ・ストラテジストの知見・経験は今作、または現代アーティストとしての活動にどのような影響がありますか?
ナカヤマン。:影響はかなりあると思います。まず、アーティスト活動をしていると「自分がいかに普通の人間か」を思い知ります。大前提「溢れ出る創作意欲」というものが一切ありません。
作家として僕にあるのは、マーケターやストラテジストという役割に真摯に取り組んできた経験で溜まった“澱(おり)”のようなものです。理想と現実の葛藤。創作活動と商業行為の歪み。表面的な対応に強いられて日々削られていく本質。
特にファッションやアニメのような業界における「本来在るべき状態」と「実際に在る状態」の差分が存在することは、個人的には絶望的と感じます。その業界に好きでいるはずの人間で構成されていても理想の状態が具現化されないわけですから。
そこに数字を担う立場で立っていると客観的視点を強いられる分、特殊な澱を溜め込む気がします。逆に言えば、少しずつ溜まって行った澱が、凡人だから発信できるメッセージを形成して来た感覚です。ですから、作品に含まれる要素はすべて、体験したもの、調べてきたもの、繰り返し考えてきたものでしかありません。
唯一、「凡人の仕事」として「伝える」ことを強いられる立場でいたことが、ある意味での特殊性を形成したと思います。個人的に時間をかけて溜め込んだ澱は、そうそう他人に伝わるものではありません。逆に、他人に伝わらないからといって、正しくないとも思えない。だからこそ比喩や言い換えで伝えようと手段を思案します。今回の「茶の湯」的表現もその1つだと感じます。
−−カルチャーを用いるスタイルもキャリアが関係しているのでしょうか?
ナカヤマン。:関係している点とそうでない点があります。関係していない側面を先に話すと、そもそも企画を「3+1次元」で考えるタイプです。世界(三次元)を自由な時間軸(+1次元)で瞑想する感覚です。カート・ヴォネガット的というか、SFでよくある思考ですよね。つまり昭和・平成・令和を、平安時代や安土桃山時代と同等に扱っています。鉄腕アトムは千利休と同価値というか。もともと、時間軸の意味で近代カルチャーと古典がシームレスに繋がっている思考の人間である気がします。
逆説的になりますが関係している側面でいえば、古典ほど重くて遅い、現代のコンテンツほど軽くて早い。メッセージは重くて遅い、エンタメは軽くて早い。これが現代のマーケティングには非常に重要な視点です。2項対立ではなく、そのバランス、中庸が重要ということです。アーティスト表現として正しいかは別にして、自分なりに、世界に絶望せずに向き合い続けるためのバランスだとも現時点では思います。
また2007年から10年以上、ソーシャルメディアを使ったマーケティングに関わっていたことが直接、本作の「リレーショナル・アート」の選択に繋がっています。要はコミュニケーション自体がキャリアの中心にあり、そのキモがオンライン・オフラインのバランスにあった。その視点で1998年のニコラ・ブリオー以降数名の文献を読むと、そもそもソーシャルメディアの有無も含め、現代とはリレーションのインフラが違うことに気付きます。そこで同コンセプトを扱う前作「陸奥の 安達原の黒塚に 鬼籠もれりと言うはまことか (UN)KEEPALL」を飲み込みながら「2023年のリレーショナル・アート」としての新作を構成することを考えました。
−−「年ごとに 人はやらへど目に見えぬ 心の鬼はゆく方もなし WHITE2BLACK 11072023」と「(跡見:) 追儺 黒節分/ (ATOMI:)WHITE2BLACK」、2つ存在する作品名の兼ね合い、意味を教えてください。
ナカヤマン。:前者はアート作品としてのタイトルです。平安時代中期の賀茂保憲女(かものやすのりのむすめ)の和歌から引用しています。女性として生まれ、疫病によるひどい痘痕を患い、権威と無縁に生きながらも、自由闊達かつ鋭い創作を残した、マイノリティによるこの和歌が作品のすべてを表現しているといっても良いと思います。
後者は茶事としての呼称です。こちらはオーセンティックでありマジョリティの視点。あえていえば名称は開催日にリンクしています。現代で節分といえば2月の節分を想起しますが、本来は季節の起点「立春・立夏・立秋・立冬」の前日がすべて節分なんです。黒節分は立冬の前日、秋から冬に変わる節目を示す造語を陰陽五行説を用いて名付けました。
今回の展示は、企画のあらゆるところに“3”という数字と3の乗数を配置しています。前作から、善悪両義の「おに」など脱二元論をテーマのひとつとして扱ってきましたが、“3”は二元性を統合する「一元性=oneness」を示します。仏教においては「中庸」を示すといわれます。「現代アート作品であり、オーセンティックな茶事である」という一元性により無限の可能性を示しています。
−−改めて展示の概要を教えてください。
ナカヤマン。:「(跡見:) 追儺 黒節分/ (ATOMI:)WHITE2BLACK」は「追儺 黒節分/WHITE2BLACK」と「(跡見:) 追儺 黒節分/ (ATOMI:)WHITE2BLACK」の2日間を1セットとして構成しています。
1日目、前者は1日3名を招き、3時間の茶事を行いました。各日程、シアスター・ゲイツさん、荒木飛呂彦さん、十六代・樂吉左衞門さんに正客を務めていただきました。大徳寺の三門、金毛閣でお迎えするところから亭主と客の関係性が始まります。その後、芳春院に移動して待合、薄茶、懐石、濃茶と進みます。
2日目、後者は「跡見の茶事」の形式で1日27名に対して行いました。1日目に行われた茶事の痕跡を残す形で展示が構成されています。茶会記という、参加者、用いられた道具、料理の献立などを記した1枚の紙を作成し置きました。1日目に行われた茶事とそこにあった関係性を痕跡から読み取るという趣向で、読み取るという行為によって既に存在するその関係性に参与していくという構造です。
この2日間1セットを3回、合計6日間行いました。これを総じて「情報伝達とその(沈着した)歪曲」をコンセプトにした新作「年ごとに 人はやらへど目に見えぬ 心の鬼はゆく方もなし WHITE2BLACK 11072023」としています。
−−跡見の日を拝見しましたが、おに、菅原道真、千利休など古典からの引用に加えて、近代カルチャーの引用も多く見られたところに特徴を感じました。
ナカヤマン。:企画の初期には「おに・菅原道真・千利休」の3つの対比のみで構成していました。現在でも作品の主たる構成要素は「歪曲され沈着した情報」の代表としてのこの3つです。それでもコンセプトワークとして十分に成立する反面、作品としての軽快さや美しさの振れ幅の狭さに悩みました。もう1つの意味では、アジアにもグローバルにも通用するプロトコルとして弱かった。
そこで映画『アメリカン・ビューティー』をリファレンスしました。脱ステレオタイプを描いた美しいコメディですが、上映当時から個人的には、アメリカ人なりの侘び寂びを見いだす物語であり、主人公が解脱した瞬間に死を迎える物語だと解釈していました。
それを「おに・菅原道真・千利休の不遇」に反するオルタナティブな生き方(死に方)として重ねています。もともとが3つの「まつろわぬもの」の視点で構成された展示でしたので、恨みつらみの要素が強くなりすぎていた。そこをバランスよくさせてくれたと思います。本作の重要な要素である茶美会やリレーショナル・アートが活発だった時代、1999年公開の映画であることも大切な要素です。
鉄腕アトムも同様です。個人的なコレクションとして所蔵していた1963年開始のモノクロアニメーション『鉄腕アトム』のセル画と茶碗。セル画を掛軸にして展示することで全体の空気がガラッと変わったと思います。茶事にその茶碗を用いることで緊張の中に緩和も生まれました。加えて、温めていたネタとして「おに」と「アトム」を重ねて見せることに挑戦しています。
この1960年代の鉄腕アトムはただの勧善懲悪の物語ではありません。人種差別やマイノリティ・イシューがしっかり描かれている。ロボットは人間と同等の感情を持つ設定である反面、ロボット三原則という法の下、人間と平等に競うことも争うことも許されていない。ある意味では人種差別の事例に重ねることもできる構造で各話が構成されています。アトムがロボットとして差別されることも、「まつろわぬもの」の役を演じる物語も少なくない。
加えてこの1963年制作の『鉄腕アトム』は、韓国で1970年から放映されていたそうです。当時のあるあるですが、韓国の方が自国制作のアニメとして受け入れていた事例も少なくないと聞きました。その後クローン的な作品も多く作られていたそうです。この部分は、本作のコンセプトである「情報伝達とその(沈着した)歪曲」を、汎アジア的な視点で示すのに興味がありました。その善悪を問いたいのではなく、モノクロアニメ『鉄腕アトム』が国内キャラクターライセンスビジネス第1号である事実と対比すると、非常に興味深い物語であるなと。ルールやスキームが誰のためのものであるか、は「茶道」にも通じる問いになると考えました。
−−前作に引き続き今回の展示でも、スニーカーが展示物の1つとして扱われていました。
ナカヤマン。:アレッサンドロ・ミケーレの「グッチ」2016年クルーズコレクションのキャンペーンに関わったことがあり、個人的な思い入れもあります。彼の思想もクリエイションも好きです。彼の思考が顕著に現れていた1つが“Fake Not”のコレクションで、コンセプトにも共感しました。僕の伝えたいメッセージとも重なるので、今のところこのスニーカーが皆勤賞で展示に登場しています。
別の側面では、このスニーカーはいつも下駄箱など来場者が実際に靴を脱ぐ場所に置きます。すると皆さんこの靴を見て「ああ、先に来場者が1人おられるのだな」と見えざる客をイメージされるようです。毎回、作品のモチーフに用いる「おに」ですが、民俗学的には「隠(おぬ)」とリンクして定義されてきた経緯もあり「見えざるもの」という意味があります。アレッサンドロの2020年のアイテムが展示の冒頭で「見えざる客」を想起させることで、「おに」の2000年以上の歴史に触れる旅に誘ってくれているとも感じます。
−−前作から一貫して作品に登場する「おに」について教えてください。
ナカヤマン。:前作は2021年に発表しています。図らずも、コロナ禍の緊急事態宣言下での展示となりました。制作の途中にコロナ禍に入り、変わってしまった環境を踏まえて企画を見直したことで「おに」を引用した形に着地しました。
歴史や民俗学を紐解くと「おに」は、非常に都合よく扱われてきたことに気付きます。当時、特に注目したのは、1000年前には疫病は「鬼魅(きみ)」によるもの、鬼や妖怪がもたらす厄災とされていた点。他方で、日本人は疫病を鎮めるために「おに」や怨霊神を頼り、祀り祈っていた点です。要は日本人は当時起こったパンデミックにおいて、原因も解決策も自分以外の誰か、つまり「外」の概念である「おに」に押し付けている。
逆に今回の作品タイトル「年ごとに 人はやらへど目に見えぬ 心の鬼はゆく方もなし WHITE2BLACK 11072023」に引用した和歌においては「内」の概念にも鬼が存在することを指摘しています。平安時代当時としては非常に新しい視点だったのではないでしょうか。
加えて、古典的モチーフであるはずの「おに」はご存知の通り、「鬼滅の刃」然り、近代の作品にも頻繁に登場します。これは古典に加えて、漫画・アニメ・特撮・映画・SFなどからも引用する僕の作風には非常に相性が良いと感じています。
重いメッセージに向き合うために必要なエンタメ性という瞬発力
−−ナカヤマン。さんのInstagramでは参加者からの批評・感想が投稿されています。漫画家の荒木飛呂彦さんが「最後にまた『書』が飾られていた。書いてある文字は『咄々々(とつとつとつ)』。意味は『ゴゴゴ』みたいな昔の擬音なのだとか。何かが起こる」と投稿されていたり、放送作家の高須光聖さんが「謎解き」というキーワードを用いています。
ナカヤマン。:「おに」をはじめとしてモチーフが自らさまざまなリンク形成に寄与してくれていると感じます。また逆のベクトルとして、古典的モチーフを現代のエンタメ的な視点で分解、埋め込んでいる側面はあります。
リンクが多い多層レイヤー構造で作品を構成すること、それに付帯した「謎解き」要素については、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」に関わった際に庵野秀明さんから直接伺った彼の思考に影響を受けています。現代アートとは違うリファレンスカルチャーもそうですし、アートとは似て非なる「言い切らない」アプローチもそうだと思います。
僕はデビューから一貫して「情報伝達とその(沈着した)歪曲」というコンセプトや、マイノリティ・イシューというテーマを扱っています。簡単に「正解」を導ける類のものではありませんから、まずは何かを感じ取っていただける状況が生まれればという感覚です。
20年以上にも及ぶマーケティング・ストラテジストとしてのキャリアがそう思い込ませているのかもしれませんが、瞬発力のあるエンタメ性がないと、重いメッセージに向き合えない世の中になってしまっていると感じます。こちらが真剣になればなるほど。その意味では尊敬するお2人のこの言葉はありがたいです。ホッとします。
−−今回はリレーショナル・アートの形式で作品を作られたとのことですが、詳しく聞かせてください。
ナカヤマン。:関係性の美学、芸術と呼ばれるものです。1998年のニコラ・ブリオーの著作「Esthétique Relationnelle」において定義された概念です。作品の制作過程で生じる周囲とのインタラクションに重点があります。
インタラクティブ・アートが、作品と鑑賞者との相互作用を重視するとしたら、リレーショナル・アートは、作家と鑑賞者の相互作用を重視します。その相互作用自体を作品と定義し、その生成過程や、鑑賞者の参与自体を本質とします。
1998年以降、批評家の間で議論の対象となった点の1つは、リレーショナル・アートは「社会における関係性/social relationships」を切り取り得るかですが、先ほど述べたリレーションのインフラ自体が変化した点に解が潜んでいると考えています。
−−近代カルチャーや「謎解き」などのいわゆるエンタメ要素を含みながらも、初代長次郎の黒茶碗や、ノンコウの黒茶碗等、数千万円、数億円クラスの銘品を用いた非常に重厚な展示に見受けられました。今回、茶道や茶事を用いた理由を教えてください。
ナカヤマン。:千利休にはもともと興味がありました。トム・フォードの「グッチ」の時代なので、やはり1990年代ですね。ただ調べれば調べるほど、求道としての「千利休の茶の湯」はどこまで現在に継承されているのだろう? という疑問が強くなりました。そもそも利休の情報すら歪曲されたものが多い。
2月に茶美会のクリエイティヴ・ディレクターに就任したこともあり、主宰の伊住と、それに関する議論を相当重ねました。そこで出てきたのが「茶の湯」をアートの側面で切り取るというアプローチです。
茶の湯には「一座建立」「主客一体」などの言葉に現れる、亭主と客のやりとりこそが作品であるという、そもそもリレーショナル・アートに通じる考え方があります。そこで前述の「オーセンティックな茶事でありながら、リレーショナル・アートの作品である」という一元性的企画になった。当然、茶の湯の視点でも最高の茶事でないと意味がありません。そこには良い道具が不可欠です。
他方で、長次郎の黒茶碗も、利休がそれを採用した時には今焼にすぎません。仰る通り現在では高額な美術品になりましたが、この現状を利休が意図していたかどうかは甚だ疑問です。市場の理屈はさておいてコンセプトに合う良い道具をそろえてみようと、主宰の伊住と考えたのが今回選んだ道具になります。
−−「情報伝達とその(沈着した)歪曲」というコンセプトに行きついた理由は何ですか?
ナカヤマン。:まずは「歪曲」と表現しているものの、善悪両義で扱っています。歪曲によって良い結果が形成されることもある。要は、情報として伝達した時点で何かしらの歪曲を含んでいる、しかもそれが500年も経つと沈着して何が事実で何が歪曲かわからなくなるということです。
加えて、500年、1000年、あるいは2000年前の情報が現存しているということは、多くの場合、当時の勝者、権力者、体制側、つまりマジョリティの意志が介在しているであろうと疑う視点は必要だと考えます。「史実」と「正史」の違いというか。
IT時代以前の情報の解釈ですらそうですから、テクノロジーによって2次関数的に情報の生成量が増加した現代においては更に、情報を吟味する視点は欠かせません。他方でミームが新しい視点を付加することがあるように、情報と歪曲された情報を、並置観察することにも意義があると考えています。
−−逆に「情報伝達とその(沈着した)歪曲」というネガティブにも取れるコンセプトを表現する事例として、500年続いた茶道を用いることにリスクはないのでしょうか? 2023年にクリエイティヴ・ディレクターに就任された第2世代の茶美会としてどう考えますか?
ナカヤマン。:リスクは相当あると思います(笑)。しかし必要な指摘だとも考えます。何よりそれが自ら興味を持って触れてみて、茶の湯に関して感じた素直な気持ちでした。
企画時に茶美会の主宰の伊住とも、どこまで踏み込んだ表現をして良いかという議論をしました。そこで彼は「そこは、現代アーティスト・ナカヤマン。の個展として恥ずかしくないものにしていただければ良い」と話してくれました。プロデューサーとしての度量に感服しましたし、逆に茶の湯500年の歴史の重みを感じました。
今回、茶事に9名、跡見に81名の方に御参与いただきましたが、一様に現代アートにも茶の湯にも興味を持っていただけたと感じています。各者各様で興味を保たれたポイントは違いましたが「難しいだけではなく、おもしろいものなのですね」というリアクションをいただいています。
−−最後に現代アーティストとしての今後の展開を教えてください。
ナカヤマン。:今回挑戦したリレーショナル・アートとしての表現に、非常に可能性を感じました。冒頭でお話ししたように、僕は生粋のアーティストではありません。どちらかといえば、社会構造の中で生まれたバグのような存在だと思います。
表現したいことも自身のキャリアに基づいているがゆえに、表現の手段との相性は重要です。その意味では、うたいやすい言語を見つけた喜びを感じています。今回、茶事初日に来春、森美術館で展示を行うシアスター・ゲイツにもご参加いただきました。思いもよらぬ関係性を見いだせましたし、彼と何かコラボレーションしたいねと話しています。
「黒節分」自体は年次の行事にしていきたいと考えています。本年度分は既にペリメトロンと撮影を終えましたが、2023年から2025年まで3年を費やす外部とのプロジェクトも進めていたりします。
−−おもしろそうですね。
ナカヤマン。:2023年分のローンチ日は未定です。2024年以降の「黒節分」をどこで、どういう形でやるかはまだ決めていませんが、今年同様、Instagram経由で参与いただける方を募る予定です。これらの見通しも含め、リレーションによって形成される作家像をイメージしている気がしますね。
Vol.2へ続く。
Photography Kisshomaru Shimamura