「沖縄の戦後」と「パレスチナ」——これから世界がどうなるべきか 連載:小指の日々是発明 Vol.9

先々週、私達は沖縄へ行った。きっかけは、オペラシティで開催されていた沖縄の写真家・石川真生さんの展覧会と、その帰りにギャラリーショップで買った『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』(集英社)という1冊のルポルタージュだった。
この本は藤井誠二さんというノンフィクションライターの作品で、これが沖縄の戦後史を非常に緻密に取材されたすさまじい作品だった。無知な私は、この本で初めて戦後の沖縄の苦しみ、というより本土が沖縄に押し付け続けていた問題を知った。私は強烈に「沖縄を見たい、見なければ」と思った。
すると数日後、偶然見た旅行サイトに片道5000円という破格の飛行機を見つけた。半ば衝動的に同行者(夫)の分と往復分のチケットを買い、カバンの中に財布とボールペン、『沖縄アンダーグラウンド』の文庫だけを詰めて早速ブーンと沖縄へ飛んだ。そして、この本の中で語られている沖縄の街と歴史を辿っていったのだった。

那覇空港に着くと私達は高速バスに乗り込み、「キャンプハンセン」という米軍基地のある「金武町」へ向かった。一時間半ほどバスに揺られて金武町の社交街に着くと、横文字の看板ばかりの昔の横須賀のドブ板通りみたいな街並みが目に飛び込んできた。
はじめはちょっとした懐かしさも感じたが、建物はどれもかなり老朽化しており街全体ががらんどうとしている。夜の街だから昼に行っても人はいないだろうと思ってはいたものの、想像していた以上に人の気配がない。ここに暮らす人達は一体どこへ行ってしまったんだろうと不思議になるほどだった。
そこから数百メートル歩いた所には「いしじゃゆんたく市場」というバラック造りの小さな市場があり、そこはさっきの社交街とうってかわって昔の沖縄の空気を凝縮したようなのどかな雰囲気だった。木でできた台の上で南国の果物や野菜、日用品、家具、米軍の服やアメリカの缶詰なんかがフリマみたいに売られていて、その脇でお年寄り達がお茶とお菓子をひろげ、ゆんたく(世間話)していた。東京の私達にとってはどれも目新しいものばかりで見ているだけで面白かったが、その中でも特に度肝を抜かれたのは、ゴロゴロと積まれた見たこともない大きさの巨大やまいもだった。やっと両手で抱えられるほどの重さで、茶色のデコボコした表面にはびっしり逞しいヒゲ根が生えている。沖縄だけに自生する「クーガ芋」という希少種のやまいもがあると噂で聞いたことがあるが、この「クーガ」とは沖縄の方言で『男性の睾丸』という意味らしい。あの形からして、もしかしたらあれが伝説のクーガ芋だったのかもしない。

その後、私達はバスに乗って「コザ」へ向かった。コザとは、沖縄最大の米軍基地・嘉手納基地のある街だ。知人から「まるで外国だよ」と言われて気になってはいたものの、いざ行ってみると外国というより岐阜のシャッター商店街のような歴史と郷愁を感じた。コザ十字路に沿って伸びる広く長いアーケード商店街は店のほとんどがシャッターを下ろし、午後にも関わらずとても暗い。私達の他に歩いているのは、酒を片手に片足を引きずって歩く酔っ払いだけだった。さっきの金武町といい、基地のために作られた場所は時代と共に置き去りにされているように見えた。
商店街を歩いた後は、同行者がかねてから行きたがっていたゲームショップへ行くことにした。同行者はこのゲーム屋が唯一の沖縄旅の目的だったようで、ぜひ行かせてやりたい……と思って行ってみたものの、店の前について私達は言葉を失った。グーグルでは「営業中」と表示されているにも関わらず、店のドアのガラスは破られ、中は散乱し、挙げ句アーケードゲームの台は誰かに殴られたのかバリバリに画面を割られて外の歩道に打ち捨てられていた。
私達は肩を落とし、その日の宿へ向かった。

宿に着いた頃にはすっかり夜も更け、スマホの万歩計を見て私達は驚愕した。なんと、たった1日で23kmもの距離(ホノルルマラソン半周分)を歩いていたのだ。普段運動不足の私達にはあり得ないことだ。そのせいか同行者の足は蒸れに蒸れ、悶絶するほどの悪臭を放っていた。
宿のおじいさんが「どこから来たの」と声をかけてくれたので「東京です」と返すと、和室に招かれお茶を出してくれた。おじいさんの優しさに感激したが、この臭い足で本当に部屋にあがっていいものなのか、バレて人が変わったように怒られたらどうしようとか内心気が気でなかったが、おじいさんが子供の頃のコザの話や興味深い話をたくさんしてくれるのでいつの間にか夢中で聞き入っていた。

私が「商店街はほとんどお店が閉っちゃってますね」と言うと、おじいさんは手を大きく広げ「今日は日曜日だから。あなた達、今度は金曜日か土曜日に来るといいよ。もう、沖縄中のベース(基地)から人が集まって、すごいことになるよ。肩をぶつけないように歩くのが大変なくらい!」と言った。金と土は人が溢れるくらい大繁盛らしく、私達が来た今日(日曜日)はその祭りのあとだったようだ。他の曜日は店を開けなくていいくらい、その2日間だけで充分な稼ぎになるのだという。
このおじいさんは生まれも育ちもコザで、30代から大阪でトラックの運転手をして引退後戻ってきたらしい。だから内地(沖縄以外の県)は全部行った、沖縄よりもよく知ってるよ、と誇らしげだった。私が「今の私と同い年くらいですね」と言うと、「ちょうどその頃に返還されたからね」とサラッと言った。そうか、沖縄がアメリカから返還されたのは1972年。それまでは米国の統治下で内地へ行くにもパスポートが必要だった。返還と共に、おじいさんの日常はずいぶん変わったに違いない。少ししんみりして、「おやすみなさい」と別れ部屋に帰った。

翌日、私達は朝から開いているゴヤ市場の天ぷらとおにぎりを路上で食べながら散策をした。路地を一本入ると古い家屋が増え、東京では見ないようなヤシ科の木、埃っぽい白壁を眺めていると下手な観光名所を見るよりずっと濃い沖縄を感じた。時々、ニワトリのコケコッコーという威勢のいい鳴き声がどこかから聞こえてくる。コザと隣の胡屋という町の路地だけでもニワトリを飼っている家を3軒も見つけた。
しばらく歩き、この辺り懐かしいな、とふと電柱を見たら「照屋」という町名が書いてあった。『沖縄アンダーグラウンド』によると、ここはかつて”照屋黒人街”と呼ばれた特飲街だったとある。当時は歓楽街ごとに、利用する客の人種が分かれていたらしい。石川真生さんもかつてこの照屋のバーで働き、同僚の女性達を写真に撮っていた。私はあの展覧会で石川さんの作品に圧倒されたが、現在の照屋の街は意外なほどに静かで、やさしげな陽射しがさしていた。腰を曲げて歩くおばあさんが、ゆっくりと目の前を横切っていった。

旅先ではその地の銭湯に寄ると決めている私達は、沖縄で現存する最後の銭湯「中乃湯」に立ち寄った。入り口に座っていた高齢の女性が、店主さんのようだ。
浴場ではご近所さんと思われる婦人達が和気藹々とおしゃべりしていて、1人でいる私にまで「どこから来たの? 東京のどこ? 息子が所沢にいるよ」と、声をかけてくれた。結果のぼせて目の前がチカチカしてくるまで雑談の輪に混ざった。ここの湯は天然温泉らしく、まるであんかけのようにとろみがあり肌がすべすべとする。お湯から上がろうとすると「ここの湯は足の裏もツルツルになりすぎるから、床で滑らないように」と私の転倒まで気にかけてくれ、この沖縄の優しさあふれる銭湯をあとにした。

最後の日の夜は、一泊800円の宿に泊まった。8000円ではなく、800円だ。前の宿泊客のゴミも掃除されていない稀に見る酷い宿だったが、座布団みたいに薄べったい布団を2人でお腹に巻き付けているうち気付いたら朝になっていた。この日は「神の島」と言われている久高島に行ったが、その辺りの話はちょっと今回のコラムと大筋がずれてしまうので今度改めて漫画にでも描こうと思う。

私は帰りの飛行機の中で、道中ずっと持ち歩いていた『沖縄アンダーグラウンド』を読み返していた。沖縄でいろんな街を見て回ってからというものの、この本の中にある戦時中や戦後の占領下の様子が読んでいていっそう身につまされた。

<上陸時から米兵は沖縄の民間人に対して傍若無人にふるまい、凶悪犯罪、とりわけレイプ事件を頻発させた>(『沖縄アンダーグラウンド』より引用)
<強盗や暴行致死、クルマで轢き殺すなど、沖縄の人々を人と思わないような犯罪が日々重ねられた。沖縄戦を生き残った人々は、戦後は米兵たちの暴力に怯える日々を送らねばならなかったのである>(『沖縄アンダーグラウンド』より引用)

女性の被害に関する記録は特に、まるで自分の身に起きているかのように恐ろしく、胸が痛んだ。米兵による女性の連れ去りは日常茶飯事だったという。家にいても扉を蹴破られ自宅で襲われ、食べ物をあげるからと基地へ誘き寄せられて襲われ、食料を探しに海や山菜取りに行った先でも襲われ殺害された。”集団で”芋掘りをしている時さえも、女性達は襲われたという。そして、米兵がいくらこれらの蛮行を働いてもろくに処罰もされず闇に葬られた。

私はこの当時の沖縄の話が、頭の中でパレスチナの現状と重なった。
パレスチナ人もまた、ずっと入植者(イスラエル人)に人権を蹂躙されてきた。『ガザとは何か~パレスチナを知るための緊急講義〜』(著:岡真理)によると、イスラエルの不条理な暴力に耐え続けたパレスチナ人が対抗すれば逮捕されてしまい、イスラエルの刑務所に入れられたという。パレスチナ人というだけで子供まで逮捕される。だが入植者はというと、殺人をしても放火をしても逮捕されることはなかった。
ガザ地区が封鎖されてからは、物資の搬入出も制限され、燃料も食料も医療品も入らず、病院では足の切断手術も”麻酔なし”でおこなわれた。汚水処理施設も稼働していないので汚染された水で病気になり、貧困や栄養失調で命をおとしていく。そして今は、広島の原爆の2倍の火薬量に匹敵する爆発物を落とされ虐殺されている。その中でも使用されている「白リン弾」は、国際法では禁じられている非人道兵器だ。そんなものを使って逃げようのない民間人が日々殺されているのだ。
ガザの惨状を、ずっとSNSで見続けてきた。人の体があまりに破壊され尽くすと、人形か石や焦げた木切れに見えてくる。それはおそらく、自分の心が破壊されないようにするための脳の防衛本能だと思う。それでも息を止めて目を凝らすと、その遺体になってしまった人が殺される前は確かにここで生きて、笑ったり悲しんだり、家族や大切な人達と暮らしていた様子が見えてくる。もちろん一度も会ったこともない人だけど、時に自分の身内と重なって頭の中に浮かんでくることもある。
ある日、臓器を抜かれた(臓器売買のため)パレスチナ人の遺体が発見されたという報道を目にした。その時、それまでいた足元が一気に崩れるような衝撃と恐怖を感じた。もしかすると、私も知らず知らずに心を削られていて、こうやって理由をつけて無意識的に沖縄へ逃げたのかもしれない。

私はこれから世界がどうなるべきか、小さな脳みそで自分なりに考えてみた。
おそらくもう「停戦」だとか「人道」なんて言葉では足りなくて、この世界から植民地というものをなくすしかないんじゃないだろうか。虐殺をする国もそれを支持する国も、このままじゃ未来永劫、世界平和など口にする権利はない。

今、「ラファ」というガザ南部の唯一の避難エリアが攻撃を受けている。ここが爆撃されれば150万人が命を落とし、いよいよパレスチナ人は殲滅させられてしまう。
そこで殺されているのは、この旅で出会った銭湯の奥さん達や宿のおじいさんのご先祖様達のような、ただその時代に生まれ、その土地に生きていただけのパレスチナの人々だ。

現実を知ることはつらくて苦しい。できたら、私もずっと自分の世界にこもって夢を見ていたい。だけど、知らないままでいたら声をあげそびれてしまう。未来を変える機会を見過ごしてしまう。生活に追われてそれどころじゃないという人もいるかもしれない、資料を読んだり見聞きして情報を集めることも簡単なことではない。自分の心を守るためにはどうしても直視できないという人もいるかもしれないし、「知らないから教えて」と気軽に聞ける隣人がいなくて孤独と罪悪感を募らせている人もいるかもしれない。だから、私はどんな人でも今の状況を知れるような文や漫画をまた描かなきゃと思った。
そういうことに気づかせてもらうために、きっと私は沖縄に呼ばれたのだ。

author:

小指

1988年神奈川県生まれ。漫画家、随筆家。バンド「小さいテレーズ」のDr.。 過去に『夢の本』『旅の本』『宇宙人の食卓』を自費出版で発表。小林紗織名義にて音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行う。 https://koyubii.wixsite.com/website Twitter:@koyubii Instagram:@koyubim Photography Noa Sonoda

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