ぼく・わたしにとっての「東京」を紹介する本連載。第11回は、宮入圭太が生まれ育った東京の新たな魅力を探しに。
宮入圭太
1974年東京都生まれ。型染を生業とする。古き良き先人の作品に感銘を受けながらも、自身の感じる自由を表現。民藝には生き様が投影される。あたりまえに過ごしてきた東京。知らぬ間に蓄積された感覚は、アートとして注目を浴びている。https://keitamiyairi.jp
Instagram:@keitamiyairi
制約の中に、自由を観る
民藝思想。1926年に柳宗悦等によって提唱されたこの文化は、華美な装飾ばかりを施した当時の工芸界に警鐘を鳴らすものだった。美は生活の中にこそある。そう考えた柳宗悦達が、名も無き職人の手から生まれた日常の道具を「民藝」と名付け、新しい美を提示したのだ。
「いつからか、この思想に惹かれるようになっていました」と、染色家の宮入圭太は言う。しかし、制約された表現のなかで、仕事をすることにそれが正しいとわかっていても、どこかふてくされている自分もいた。
「大衆に受けないと意味がないというか……個性とか趣味とかが悪とされる世界なんです。でも、自分が“好き”と思う感覚を大切にしたい。そんな時、柚木沙弥郎の作品に出会いました。あ、おもしろいぞ、って」。
生まれ育ちは池袋。幼い頃から、あたりまえのように都会の暮らしを楽しんでいた。気の向くままにスケートボードを手に取り、時には絵を描く少年だった。
「池袋の普通の家庭で育ったので、センスとかあまり考えたことがなかったです」。
そんな宮入は、結婚がきっかけで30代前半からは後楽園に転居。居心地のいい地元を離れ、友達もいない場所で黙々と自分の仕事と向き合う。近くの「小石川植物園」は好きな散歩コースで、気付くと一番いる場所になっていた。
直観。大切にしてきたものが繋がる瞬間
「植物園や民藝館にはよく足を運びます。ネタ探しでもあり、刺激を受ける場所。特にコロナの時は、この植物園にめちゃくちゃ行ってました」。
「美術業界に知り合いなんて1人もいなかった」。そう話す宮入の前で、フォトグラファーの濱田が笑う。今では一緒に仕事もするし、遊ぶ仲だ。
「あの展示がなかったら出会ってないかもしれないな」。
宮入圭太という存在を大きくしたのは、世界的なグラフィティアーティストであるバリー・マッギーがきっかけ。彼の来日作品展で、宮入の作品が飾られたのだ。天井から吊り下げられた手ぬぐいに、多くの人がざわついた。
「無名だった私にたくさんの人が興味を持ってくれました。え、なんで!? バリーさん達とたまたま笑うものが一緒だった。あ、でもこの感覚(直観)って、すごく重要なのだと思いました」。
民藝とも通ずる直観。宮入が尊敬する柳宗悦の「素朴なものはいつも愛を受ける」という言葉は意外な場所で形を受けた。
「どこで生まれたとかは関係なくて、直観が共鳴すればすぐに繋がれるんだと感じました。そして、それを直に確かめ合えるのは東京だから、なのかな、とも」。
東京という存在が生んだもの
インターネットを知らない時代を生きてきた彼は、今日もシンプルな気持ちで作品と向き合う。売れることを考えれば必要なSNSも興味がない。ただ、目の前に見えるリアルな風景を楽しんでいる。彼にとっては今日も“好き(直観)”が重要だ。
「幼稚園の頃から染色を教えてきた娘は、もう中学生。明らかに子ども達の方が才能あるんです(笑)。子どもの自由さに勝てる人なんて、きっと1人もいないんだろうな。バリーさんの展示会のきっかけを作ってくれたタイラー君という友達もそういう目を持っている人で、彼とは4年間、毎日連絡をとっています」。
安定を求めて我執を隠して活動するより、自分が感じる正しさを表現したい。そんな彼が多くの出会いを経て感じたこともある。
「僕は東京生まれですが、実は東京出身の我々はダサいんじゃないか? と。作品を通して、東京を目指してきた人に会う機会も増え、その野心や感性に驚くし、知らない東京がまだまだがいっぱいです」。
Photography Shin Hamada
Text Akemi Kan
Edit Kana Mizoguchi (Mo-Green)