多屋澄礼, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/sumire-taya/ Mon, 10 Apr 2023 09:45:55 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 多屋澄礼, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/sumire-taya/ 32 32 急速に成長を続ける、新世代のフィメール・シンガー・Hana Hope インタヴューでその素顔に迫る https://tokion.jp/2023/01/19/interview-hana-hope/ Thu, 19 Jan 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=164596 映画『あつい胸さわぎ』主題歌やCMなどマルチに活躍の幅を広げるHana Hopeのインタヴュー。

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豊かな表現力を持つ歌声で、ソロ・デビュー以前から何組ものアーティストからボーカリストとしての依頼を受け、高橋幸宏、佐橋佳幸、細野晴臣、ROTH BART BARON、テイ・トウワ、鈴木慶一、am8などそうそうたるアーティストと共演し、デビュー前から熱心な音楽ファンや業界内で話題を集めていたHana Hope。2022年11月に開催された初めてのワンマンライヴの会場には、その才能を一目見ようと多くの観客が集まっていた。

ギターには、相対性理論の永井聖一、シンセサイザー・コーラスには、デビュー曲を提供したBlack Boboi、millennium paradeのermhoi、キーボードには、以前TOKIONでもインタヴューした網守将平という豪華なサポートメンバーに囲まれた彼女は、序盤には緊張を感じさせながらも、全編通して天性のまばゆい歌声をあますことなく堪能できるものとなった。1月に公開されるまつむらしんご監督の映画『あつい胸さわぎ』の主題歌「それでも明日は」などの新曲に加え、坂本龍一「Ballet Mécanique」やYMO「CUE」のカバーも披露していたが、彼女がYMOのトリビュートライヴに参加した当時、わずか13歳だったこと等を考えると、心が熱くなるものがある。そんな彼女のパーソナリティについて掘り下げていきたい。

Hana Hope
2006年生まれ。東京都出身。2022年2月に、シングル「Sentiment / Your Song」でデビュー、国内外における数多くのプレイリストやチャートに入る話題のニューカマーとなり、11月にはセカンド・シングル「きみはもうひとりじゃない」、そして初の自身の作詞・作曲による「16 – sixteen」をリリース。12月14日に発売した最新シングル「それでも明日は」は映画『あつい胸さわぎ』の主題歌として起用。これまでに日立、ソニーコンピューターサイエンス研究所、花王、JR東日本などのコマーシャル・ソング歌唱、ナレーションも行っている。16歳とは思えない表現力を持つ Hana Hope は、まさにデジタルネイティブなZ世代。ジャンルを超えた幅広い音楽性を表現する、新世代のフィーメール・シンガーである。
Litlink: @Hana Hope
YouTube: @HanaHope
Twitter: @hanahope_2022
Instagram: @hanahope_official
facebook: @Hana Hope

独学の作曲方法とコロナ渦でのデビュー

−−デビューから9ヵ月が経ちましたが、スタートしてからライフスタイルや歌手であることによって歌う姿勢に何か変化はありましたか?

Hana Hope(以下、Hana):デビューしてからプロフェッショナルなアーティストとして、他の業界の人との接し方であったり、どうやったらリスナーの人達に自分の思いや気持ちを伝えられるか模索し続けてきました。

−−10代とは思えない落ち着いた歌声と、ステージでMCなどをする際の初々しくはにかむ姿のギャップがHanaさんの魅力ですね。ステージに立つと緊張しますか?

Hana:もちろんです。特に初めてのソロライヴでは数日前から緊張して全然寝られないくらい。実際ライヴをやると、みんなが楽しんでくれている雰囲気が伝わってきたので、ホッとしました。

−−先日のソロライヴでもリハーサルを重ねたと思いますが、ミュージシャンとしての活動と、学校生活との両立は大変ですか?

Hana:学校の課題と重なりそうな時には事前に調整しているので、今のところは大丈夫です。

−−歌手としてこんな活動をしていきたいというイメージや目標はありますか?

Hana:歌手としては、とにかくいっぱいライヴの経験を重ねて、リスナーとの繋がりを深めていきたいなと思っています。大きな目標やゴールを設けず、1つ1つの経験を大切にし、成長していければと思いますね。今この時点でも、周りの皆さんのおかげでとても貴重な経験をさせてもらっているので、これを大切にしていくことを心掛けています。

−−Hanaさんの学校の友人や周りの人はどんな風に活動を応援してくれていますか?

Hana:活動をスタートした当初から周りの友達にはすごく支えてもらっていて。デビューした当時はコロナ禍で、コミュニケーション手段がほぼすべてオンラインで、実際にオーディエンスを前に歌うとか、直接人とコミュニケーションを取るチャンスもなかったので、今こうやって観客の前で歌うことができて、自分を応援してくれる人がこんなにいるんだと実感できました。

−−先日のソロライヴは東京でしたが、これからどんなところでパフォーマンスしてみたいですか?

Hana:まだ東京以外でのライヴの予定はないですが、ニューヨークだったり、日本の地方なども廻ってみたいですね。

−−デビュー当時のインタヴューでオリジナルソングを自分で作ってみたいという話があったんですけど、実際に作ってみてどうでしたか?

Hana:自分の曲なので、世の中の人に聞いてもらうのはすごく緊張しますが、自分の気持ちを自分で書いて自分でメロディーを考えたことで達成感がありました。自分の作った曲を聴いてもらえるってすごく貴重な体験ですよね。ピアノで作曲をしていますが、曲の複雑な構造を理解していないからこそ、シンプルなコード進行で作曲することが大切だなと。他の人にも気軽にプレイしてもらえたら嬉しいです。

−−作曲方法は誰に習ったのでしょうか?

Hana:独学です。「16 – sixteen」を作曲した時は、以前共演させてもらったROTH BART BARONにサポートしてもらい、ピアノで作曲したシンプルなメロディーをギターで広げる手法などを見て学びました。これからも、他のミュージシャンと共演する中で、自分の作ったメロディーの核みたいなものを広げて、より複雑にしていく方法を試していきたいですね。

Hana Hope First Live 2022 – Your Song / Sentiment

16歳の自分が抱えていた不安や思いを記録した「16 – sixteen」

−−タイトル「16 – sixteen」はどこからインスピレーションがあったんですか?

Hana:自分が抱く不安について感じることを歌詞に書いてみました。私にとって年齢は重要で、この年でこんな不安や思いがあったことを記録しておきたい、その思いからこのタイトルにしました。16歳って大人への一歩というか、多感で外見や精神にも大きく変化があるので、そういう複雑な感情などを曲の中で表現しています。

−−ご自身の経験も反映されていますか?

Hana:歌詞を最初に書いたのは13歳の時で、自分の思いや不安を書き留めたものだったので、それを16歳の視点で考察して少し変えてみて。13歳と16歳の視線が混在していて、それも聴きどころかなと思っています。

MVも自身で監督を務めた『16 – sixteen』

−−どんな作詞スタイルが好きですか?

Hana:初めて聴いた時には、あまり意味がないように思えても、実は深い意味がある歌詞が好きですね。それと、曲の中でストーリーを描いているようなストーリーテリング的な歌詞が好きですね。本を読むとイマジネーションが広がって、言葉の使い方であったり、言い回しの表現力が豊かになるので、本を読むことは詞を書く上でとても役立っています。

−−最近はどんな本を読みましたか? 

Hana:最近読んで好きだったのが、ハニヤ・ヤナギハラ(Hanya Yanagihara)の『A Little Life』です。大学時代の4人のルームメイトがNYで成長していくストーリーなんですけど、登場人物達が抱える成長に伴う苦しみや、不安などに共感して。私自身もまだまだ成長への過渡期なので、自分の人生と重ねてみたりもしました。

聴く人達の気持ちを繋げていくこと、歌詞の世界観を守ることを心掛けて

−−歌詞といえば、先日のソロライヴでは、江﨑文武さん作曲、加藤登紀子さんが作詞を手掛けた「君はもうひとりじゃない」を披露していましたね。あの歌詞には今の世界情勢とも重なり、強いメッセージを感じました。

Hana:今、世界で起こっていることに対する不安が歌詞に反映されているだけでなく、誰でも共感できる歌詞なのが素晴らしいですよね。この曲を聴く人達の気持ちを繋げていくこと、歌詞の世界観を守ること、このふたつを心がけて歌いました。

Hana Hope – きみはもうひとりじゃない

−−英語・日本語どちらの歌声も違う魅力や特徴があって興味深いなと思いました。特に英詞の曲に関してはスネイル・メイル等、米インディーシーンのフィーメール・シンガーを連想しました。Hanaさんが影響を受けた国内外の歌手はどんな人ですか?

Hana:ノルウェーのシンガーソングライター、オーロラ(AURORA)です。声が特徴的で、一度聞いたら忘れられないような個性があって。歌声はもちろん、ステージでのパフォーマンスは人々の想像を遥かに超えるもので憧れますね。国内なら、中村佳穂さんです。声のレンジがすごく広いんですけど、気持ちの表し方がおもしろくて、彼女の歌を聴くといつまでも耳に残ります。あとは、アーティストとして注目しているのはスティーヴ・レイシー(Steve Lacy)ですね。

−−それは意外なチョイスですね。

Hana:「Ted Talk」でも、iPhoneをメインツールとして楽曲を制作し、自身のプロデュースした曲を(ケンドリック・ラマー等に)提供している。彼が作るメロディーがとにかく好きで。

頑張る勇気が欲しい時に、背中を押してくれる「それでも明日は」

−−1月27日に公開される映画「あつい胸さわぎ」の主題歌「それでも明日は」についても聞かせてください。レコーディングはどんな雰囲気でしたか?

Hana:柴田聡子さんも、UTAさんもレコーディングの現場への立ち会いはなかったのですが、曲や詞がドラマチックで、メッセージ性も強く、こういうテーマソング的なものは歌ったことがなかったので、チャレンジでしたね。作品自体、本当に素晴らしい作品で。笑えて、泣けて、すごく心が温まるレンジが広い作品だなと。東京国際映画祭で監督に会う機会があって、歌についてもすごくいいコメントをいただけて嬉しかったです。やはり、自分の歌が映画館で流れているのを実際に聴くと、やりがいや達成感を感じられました。大変なことが重なって、頑張る勇気が欲しかったり、嬉しかったり、ランニング中だったり、リフレッシュしたい時に聴いてほしいです。

MVは映画ロケ地でもある和歌山県雑賀崎で撮影。まつむらしんご監督が手掛けている
Hana Hope – それでも明日は(作詞:柴⽥聡⼦ 作曲:UTA MV監督:まつむらしんご)

−−作品では母と娘の関係性が主題になっていますが、Hanaさんとお母さんの関係と比較してどうでしたか?

Hana:ダイナミックな感じとか、共通点は多いです。それを踏まえて映画を見るとすごく感情が揺さぶられますね。

−−Hanaさんが音楽をやりたいと思ったのもご家族からの影響はありますか?

Hana:幼い時から音楽が好きで、家族の前でパフォーマンスをしたり、楽器を始めてからは1人で歌いながら演奏していました。こういうところがあったからこそ、今こうやって曲を作ったり好きな歌を歌うことができるのかなと思います。

−−1人で歌いながらといえば、ソロライヴのアンコールでは、ビリー・アイリッシュの「Halley’s Comet」をウクレレでカバーをしていましたね。

Hana:ウクレレでもギターでも1人で演奏するのはすごく大切なことだと思うので、練習を重ねて、もう少し自信を持って弾きたいなと思います。

−−ライヴの時にはフォトZINEを販売していたと思いますが、ロゴ等のデザインもかわいらしくて、Hanaさんのイメージにぴったりでした。

Hana:あんなにバリエーション豊かな写真を撮影するのは初めての体験でした。私のアイデアやビジョンもとりいれてもらって。思い描いていたイメージは作れたかな。写真を撮られることには、なかなか慣れないですけど。まだ変な感覚がありますね(笑)。ZINEに使用したロゴは、イメージを伝えて母に作ってもらったオリジナルです。

−−最後に、音楽以外のことでトライしたいことがあれば教えてください。

Hana:父とハーフマラソンを走りたいです。父がクロスカントリー経験者で、私もその影響で走るのが好きになって。マラソンをしている時は、何も考えずに頭の中をクリアにできます。それに、好きな音楽と私だけの貴重な時間が生まれるので、これからも継続していきたいなと思います。

「きみはもうひとりじゃない」
きみはもうひとりじゃない
(作詞:加藤登紀⼦ 作曲/編曲:江﨑⽂武)
16 – sixteen
(作詞/作曲 : Hana Hope 編曲 : ROTH BART BARON)
https://lnk.to/YouAreNotAloneAnymore

「それでも明⽇は」
(作詞:柴⽥聡⼦ 作曲:UTA 編曲:UTA for TinyVoice,Production)
https://lnk.to/SoredemoAshitaha

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UK音楽シーンの最前線を疾走するブラック・カントリー・ニュー・ロード ステージで証明したバンドの絆、連帯で生まれる強力なエネルギー https://tokion.jp/2022/08/30/interview-black-country-new-road/ Tue, 30 Aug 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=142230 「フジロックフェスティバル’22」で初来日したブラック・カントリー・ニュー・ロードのインタビュー。

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ブラック・カントリー・ニュー・ロード

突き抜けた音楽性、演奏力の高さで、バンドとしての圧倒的なパワーを感じさせてくれるブラック・カントリー・ニュー・ロード(Black Country, New Road、以下BCNR)。ポストロックにストリングスや叙情的な歌を重ねた独自のチェンバーロック、ここ数年のイギリス音楽シーンの中でも頭ひとつ抜けたバンドとなり注目を集めた。ファーストアルバムに続き、全英チャートでの快挙を遂げたセカンドアルバム『Ants From Up There』のリリース直前にメインボーカル、アイザック・ウッドが脱退するという大波乱を乗り越え、「フジロックフェスティバル’22」(以下、「フジロック」)で待望の初来日が実現。うわさ通りすベて新曲で構成されたセットでは、メンバーそれぞれの実験的な演奏が1つになることで、大きな躍動感を生み出していた。バンドの軸となるスリリングなドラムパートを担当するチャーリー・ウェイン、そしてアンダーワールドのカール・ハイドの娘であり、アイザック脱退後にはベースに加えてボーカルも担当していたタイラー・ハイドに、今回のフジロックでの経験や、アイザック脱退後の活動について話を聞いた。

オーディエンスと一体になれた「フジロック」での初ステージ

——まずは「フジロック」でのパフォーマンス、お疲れ様でした。日本での初ステージ、オーディエンスのリアクションはどうでしたか?

チャーリー・ウェイン(以下、チャーリー):最高の体験でした。ステージに上がった瞬間は、オーディエンスが大勢集まりざわめていましたが、いざ演奏を始めると空気がガラッと変わって、アーティストに対する敬意が伝わってきました。パフォーマンスは、盛り上がるパートと、じっくりと聞かせる落ち着いたパートなどで全体的に抑揚があり、ダイナミックなものになったと思います。

タイラー・ハイド(以下、タイラー):他の国では、ソフトな曲調になった途端にオーディエンスがおしゃべりを始めたり、演奏に集中できないこともあるけれど、フジロックではオーディエンスと一体になれて最高でした。

——曲によってボーカリストをチェンジしていくスタイルが印象的でした。アイザックが抜けて、そのスタイルになったのはみんなでの話し合いの結果ですか? それとも自然に?

タイラー:アイザックがバンドを抜ける以前から、徐々にそのフォーメーションへと変化していきました。でも、練習やライヴのリハーサルなど、準備に割ける時間がとても少なく、自分達が持っているマテリアルを最大限に生かすためにメインボーカルが3人になりました。次のアルバムではきっとフジロックで披露したようなスタイルになると思います。

——3人はボーカリストとして特訓してきたわけじゃないですよね。

タイラー:そうなんです。でも、私の場合はもともと歌うのが好きだったのと、ソロプロジェクトでは自分で歌ってるので、その経験のおかげで緊張せず歌えています。

——アイザックさんは、ステージで歌詞を微妙に変えて歌ったりしてましたよね。歌詞については歌い手がアレンジしてますか?

チャーリー:アイザックは歌詞をアレンジしていましたが、僕等ミュージシャンは演奏にアレンジを加えます。即興性によってパフォーマンスがより味わい深いものになる。良い意味で僕等の曲は未完成だから、発展性があるし、自分がBCNRでの演奏を楽しめているポイントはそこにあると思います。

——「フジロック」で披露した曲はすべて新曲でしたが、中でもオーディエンスの反応が良かったのはどの曲でしたか?

チャーリー:セットの1曲目の「Up Song」ですね。フェスのために全曲書き下ろしたもので歌詞もシンプルだから、オーディエンスも一緒に歌いやすいし、展開も早く、インパクトがある。ステージの幕開けにふさわしい曲。

タイラー:一緒に歌って盛りあがって一体になれます。「Up Song」という曲名はまだ仮のもので、リリースされる時には違うタイトルになるかもしれない。実は、ソロでこの曲を演奏する時はムードが180度違って、胸が張り裂けてしまいそうな、涙が流れてしまいそうな曲調なんです。

ロックダウン中に企画した無観客ライヴ

——今年の6月にYOUTUBEで公開されたクイーンエリザベスホールでのライヴ(2021年3月7日に実施)は長尺のものでしたが、スリリングな展開であっという間でした。ライヴ構成は場所などでフレキシブルに変えていますか?

チャーリー:ロックダウンの最中で、あのライヴはかなり特殊なものでした。デビューアルバムをリリースした直後で、すでにセカンドアルバムに取り掛かっている時期だったんです。普通にライヴができる状況ではなかったので、プロモーションのための特別な企画でしたね。サウスバンク・センターはとても人気があり、オーディエンスの収容数も桁違い。

タイラー:BCNRではこの規模の会場でチケットをソールドアウトにするのは不可能だったと思う。あのタイミングだったからこそ実現できました。

チャーリー:観客がいないホールで演奏することも初めてで、あの場所で演奏ができたのはとても良い経験になりました。

——バックグラウンドの映像とリンクしていたのも良かったですね。

タイラー:あれはバート・プライスによるもので、彼は私達のアートワークを手掛けてくれています。

チャーリー:ロックダウンで長い間会っていなかった友人達と何かクリエイティブなことができたのがすごく嬉しかった。

——メンバーの出身地は?

チャーリー:ケンブリッジシャーですね。

——ロンドンでメンバーが集まった?

タイラー:ジョージア(・エレリー)がコーンウォールからロンドンに移り住んできて、私達と音楽大学で出会い、ルーク(・マーク)とメイ(・カーショウ)も同じ音楽学校に通っていたがきっかけで知り合いました。16歳からルークと私はバンドを組み、ずっと一緒で、そこにチャーリー、アイザックが入り、他の人が抜けて……数年かけてBCNRができていきましたね。

——大学を卒業して生活は変わりましたか?

タイラー:マンチェスターに4年住んでいたので、メンバーと同じロンドンに住んで、音楽活動に専念できるのが嬉しいです。

——チャーリーはロンドンに進学したんですよね。

チャーリー:そう、ギリシャやローマなど古代の歴史を専攻していました。

タイラー:チャーリーは本当、賢い子なの(笑)。

——その経験は音楽に影響ありました? 

チャーリー:高いお金を払って勉強したので、良い影響がないと困りますね(笑)。でも、実際はあまり影響していないかも。音楽学校には興味がなく、大学で勉強できたことはすごく楽しかった。それに、今はこうやって、家賃のことなどを気にせずバンドで生計を立てられていますしね。

——日本だとバンドだけで生活できる人なんて一握りです。

タイラー:金銭的にはぎりぎりのラインだけど、私達はすごく恵まれていると思います。

3度目の正直となる、USツアーへ

——ツアーの移動中は何をして過ごしていますか?

タイラー:移動中は大体「数独」。集中してやるととても心が落ち着きます。スマホとかじゃなくて、本に鉛筆というクラシックなスタイルが好きなんだけど、家に忘れてきちゃうから空港で買ったりして、家の本棚に20冊くらいたまってる(笑)。

チャーリー:超典型的ですが、スマホで音楽を聴いたり、スクリーンで映画を観たりしています。日本のアーティストも聴いていますよ。最近では高木正勝がお気に入り。ピアノだけのシンプルな構成ながら圧倒的に美しいです。

タイラー:旅のBGMにぴったりね。

——タイラーさんの最近聴いている音楽も教えてください。

タイラー:以前から聴いていたけど、ケンドリック・ラマーに最新作ではまって、作品全部聴き直したりしていました。

——秋にはアメリカで初めてのツアーが待ち構えてますね。

チャーリー:そう、やっと実現する。

タイラー:2回キャンセルになったから、次が3度目の正直。

——ツアーの移動距離は日本と比べ物にならないですね。

タイラー:本当に。だいたいは長距離移動ですよね。アメリカは広過ぎて、ちょっと恐怖を感じるレベル。でも今回のツアーは私達だけじゃなくて、ブラック・ミディや仲の良いバンドも一緒なので、楽しい旅になりそう。

——修学旅行みたいですね。退屈する暇がない。

チャーリー:まさに。アメリカでツアーするチャンスがあることはすごくラッキーなことだから、感謝の気持ちを忘れずにいたいですね。

タイラー:不安に襲われたり、不平不満がある時には、立ち止まって自分の置かれている状況を冷静に見つめます。「今、こうしていられるのはとてもラッキー」だと、現状や周りの環境に感謝することができるから。友達と一緒に、好きな音楽でお金を稼ぎ、生活できているこの環境にね。

——ステージの上でナーバスになることは?

タイラー:少し。でも、その緊張感がすごく大切だったりもします。

——「フジロック」のステージではどうでしたか? ステージの上で横になっている姿はリラックスして見えました。

タイラー:メイのソロの曲では、彼女にフォーカスするという意図もありましたが、とにかく暑くて、疲れていたから体力を回復させていたのかもしれない(笑)。

アイザックとの強い友情の絆

——アイザックさん脱退後に、ライヴやバンドメンバー同士のバランスをとるところで苦労したことはありますか?

タイラー:バンド以前に私達はとても仲の良い友人であり、友情の絆は強くて揺るがない。今でも日常でつるんでいるので、苦労したところはあまりなかった。

チャーリー:ツアー中はロンドンを離れているので、お互いの時間の使い方に変化があり、以前のようには会えていないです。でもアイザックやメンバー同士の関係には特に大きな変化はなかったと思います。

——新作のアイデアはどんな時に浮かびますか?ツアー中?

タイラー:どんな状況でも音楽を書き続けているので、アイデアや曲のドラフトみたいなものは浮かんできます。でも、ツアー中はそれをまとめたり、形にするのは難しい。リハーサルスタジオにみんなで集まって形にするので、限られた時間の中で新作を生み出すことにストレスを感じることもある。ツアー中に曲作りできるようになるのは、バンドにとって大きな課題ですね。

——あなた達の拠点である、サウスロンドンの街の雰囲気がサウンドに反映されることってありますか?

チャーリー:メンバーの誰もサウスロンドン出身ではないから、影響って言われるようなものは特に思い当たらない。でもウィンドミルという場所(パブのようなライヴハウス)には思い入れがあります。若い世代にたくさんのチャンスを与えてくれる、ユースカルチャーが育つ場所。そのウィンドミルを巣立って、僕等はより大きなステージでやれるようになりました。

タイラー:私達にとってウィンドミルは特別な場所で、今でも訪れます。

——日本ではまだ多くの人がマスクを着用し、消毒を欠かさないのが日常ですが、イギリスはどうですか?

タイラー: すごく狭い空間で、マスクもせず密集してますが、カルチャーや価値観の違いだから、それぞれの在り方があって良いと思いますね。

——日本はまだまだライヴなどにも制限があるので、ロンドンがうらやましくもありますね。あなた達が来日できたことも一大事件というか(笑)。

タイラー:私達にとっても超一大事よ!

——タイラーさんはお父さん(アンダーワールドのカール・ハイド)と何度か来日経験があるんですよね。

タイラー:今までに3回。10月に父はまた日本に来るって言ってました。

——前回来た時と比べて東京の印象は変わりました? 

タイラー:雰囲気などはあまり変わってないように感じましたね。私は前に行った場所を再び訪れるのが好きで、なじみの場所があると「戻って来れた」って感じるし、愛着が持てます。昨日の夜、苗場から東京に戻ってきた時にも「ああ、ここに戻って来れたんだ」って。

——チャーリーも以前日本に?

チャーリー:2015年にボーイスカウトでね。

——ボーイスカウト!?

チャーリー: そう(笑)。13歳だったので、ボーイスカウトの中では最年長。活動自体にはあまり興味なかったのですが、旅行に引かれて。

——日本のどこに行きましたか?

チャーリー:東京で4日間過ごし、広島に10日間。そこから青森に移動して、ホストファミリーの家に滞在しました。ボーイスカウトで日本に来るよりも、ミュージシャンとして今回来れたことのほうが断然かっこいいけど、あれも良い思い出ですね(笑)。

——新作が出たらまた日本に戻ってくる可能性はありますか?野外じゃない場所でも観たいですね。

タイラー:オファーがあれば絶対来ます! 父と同じタイミングで来日できたら最高ですね。

アイザックへの敬意がBCNRをさらに前進させる

——前作はアイザックのお母さんの友人サイモンによる絵をアートワークとして使用していましたね。作品のビジュアルなどは具体的に誰が決めているんですか?

タイラー:みんなでアイデアを持ち寄っています。それぞれのアイデアに対して、考えを深め、話し合います。今、インスタのフィードにあるアートワークはローズマリーというアーティストのもので、彼女も私達の友達のひとりでしたが、ノスタルジアを感じさせる彼女の作品が私達の音楽に共通していました。

——人数が多いので、アイデアなどをまとめるのは大変そうですね。

チャーリー:アイデアが常に飛び交っている状態であれば、行き詰まらずにすむ。それに、それぞれ違った角度、音楽のバックグラウンドやセンスを持つことを互いに理解しているので、実際はすごくスムーズに物事を決められるんです。友人という関係性が前提にあり、僕達は対立することを好まない。1人でも異議があるなら、その意見に従い試してみる。それがうまくいかなければ、他の策をトライしたり、今やっていることを改善できるようなアイデアがあれば、どう改善できるのか説明してもらい、みんなで試します。

タイラー:それがうまくいかなかったら、他の選択肢を選びますね。それって公平。私達はとてもシンプルで民主的なんです。「メンバーのエゴが原因で公平性が保てない」という話をバンドをやってる友人から聞いたりしますが、エゴのぶつかり合いみたいなことは私達のバンドでは発生しません。個人でのつながり、友人としてのつながりを大切にしているからです。

——メンバー同士の価値観が似ていることもあるかもしれないですね。

チャーリー:まさにそうですね。素晴らしい音楽をつくりたい、そのゴールや価値観が共通していると思います。

——最後に、アイザックさんの脱退を機に世界中で高い評価を得たファースト、セカンドアルバムの曲をやらないというのは大きな決断だったと思いますが、戸惑いや葛藤はありませんでしたか?

チャーリー: 曲の解釈は無常なもので、完成形というものはないです。曲のどのパートもメンバーそれぞれが培ってきた集大成というか。

タイラー:演奏しない理由はとても単純です。私達はみんな、彼が書いた歌詞と曲に対して、敬意を払いたいという気持ちがあるからなんです。もちろん、どれも大好きな曲で、強い思い入れがありますし、アイザックは演奏していいと言ってくれていますが、まだそのタイミングではない。いつかは乗り越え、演奏できる時期が来るかもしれませんが、今の私達はとにかく前進し、進化し続けていきたいと思っています。

ブラック・カントリー・ニュー・ロード(Black Country, New Road)

ブラック・カントリー・ニュー・ロード(Black Country, New Road)
イギリス・ロンドンを拠点に活動する6人組バンド。2018年に結成。2022年1月31日にメイン・ボーカルで作詞を担当してきたアイザック・ウッドが脱退。現在はタイラー・ハイド、ルイス・エヴァンス、ジョージア・エレリー、メイ・カーショウ、チャーリー・ウェイン、ルーク・マークの6人で構成。2021年にリリースしたデビューアルバム『For the First Time』で全英チャート初登場4位を獲得し、マーキュリー賞にもノミネートされた。2022年2月にはセカンドアルバム『Ants From Up There』を発表している。
https://blackcountrynewroad.com
Twitter:@BCNRband
Instagram:@blackcountrynewroad
https://www.youtube.com/channel/UCLTa27Tr5QqHx9G53H8jdFQ

Photography Yuki Aizawa
Edit Nana Takeuchi

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「誰もが共有する経験、記憶みたいなものを取り入れたい」 「シナ スイエン」有本ゆみこが生み出す刺繍と服の力 https://tokion.jp/2022/08/24/interview-sina-suien-yumio-arimoto/ Wed, 24 Aug 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=140168 独自の生地使いと刺繍によってオーダーメイドの衣服を作る「シナ スイエン」。舞城王太郎らとともに作り上げた「刺繍百花子」や着用者の声からその魅力に迫る。

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2009年からブランドをスタートし、オーダーメイドでの服作りや展覧会、アーティストの衣装制作、マンガ執筆、作詞などさまざまな領域で多彩な才能を発揮する「シナ スイエン(SINA SUIEN)」の有本ゆみこ。デザイン、素材選び、縫製、手刺繍のすべてを1人で手掛け、空想と現実を行き来するような衣服を生み出している。服はチェックや花柄、幻想的な色のヴィンテージのデッドストック生地を中心に組み合わせており、何より目を引くのが全アイテムに施した刺繍だ。モチーフは花や鳥、猫、カブトムシなどの動植物が多く、鮮やかな色で一見かわいらしい印象を受けるが、じっくり観察していくと何か異形のものに見えてくる瞬間があり、強い生命力が宿っているようにも感じられる。

「刺繍百花子(ししゅうひゃくはなこ)」と題して昨年12月に東京・浅草橋のCPK ギャラリーで開催された発表会は、小説家の舞城王太郎が脚本・演出を手掛け、「シナ スイエン」の衣装をまとった俳優、歌手、シェフやモデル達が詩を朗読し、写真家の佐内正史がそのパフォーマンスを撮影してスクリーンに投影するという実験的なもので、それぞれのエネルギーが交錯するスペクタクルな体験を生み出した。また今年2月には東京・六本木のANB Tokyoにおいて、「刺繍百花子」を振り返るべく、有本と実際にショーを見た漫画家の小林エリカとの対談も行われた。今回、有本に創作活動に対する思いを聞いた。

インスピレーション源は着用者との対話

——ブランドのコンセプトとして、「着用者の心身と周りの空間、衣服の構造、素材が経てきた時間までも巻き込んだ総合的な衣服づくり」を掲げていますが、有本さんはどのような思いをこめて服を作っていますか?

有本ゆみこ(以下、有本):ありふれているような服は誰でも作れるので、自分が服を作るとしたらどういうものかなと考えた時に、時間を超え、服という存在を超えるようなものができたらいいなと思って。試行錯誤しながら作り続けています。

——「刺繍百花子」はファッションショーとしては異色の新作発表会でしたね。

有本:総合芸術的な、それぞれの中の解釈でどんどん広がり、全体が連鎖していく。そういう立体的な空間自体が作品になり得ないかと思って。ただのファッションショーではなく、インスタレーションという表現が近いのかもしれませんが、形容できないような時間、空間を作りたい。そういうものを定期的に「シナ スイエン」の世界観として提示したいと考えています。

——いわゆるキャットウォークみたいなものではなく、演出が加わった舞台のような形式にしたことで、観客自身の心情がより揺れ動かされるというか。

有本:そうですね。観客それぞれの中で芽生えた感情がどんどん独り歩きするような感じでしょうか。単純なものよりも、わかりにくい複雑なものを受け止めた時のほうがその感情も育っていくのではないでしょうか。

——より考えるきっかけになりますよね。

有本:答えがあるのか、ないのかはどうでもよくて。みんなそれぞれが自分でわからない、なんだろう? と考える時間を持つきっかけになればいいなと思っています。

——服作りにおいては、刺繍を施し、オーダーメイドで1着ずつ作っている。そういう服作りにおいて手仕事の重要さはどのように考えていらっしゃいますか?

有本:手仕事をすることで、服にあたたかみ、人間味が生まれます。誰もが共有する経験、記憶みたいなものがあると思っているので、そういったものを服に取り入れたいと思っています。

——「刺繍百花子」で発表した服は出演者ごとに合わせて作っていたと思うのですが、刺繍のインスピレーション源はあったりするんですしょうか?

有本:さまざまなものがきっかけやインスピレーションを与えてくれます。着用者の人柄やキャラクター、発する言葉や印象などです。

——会話の中で生まれてくるのでしょうか?

有本:その割合はかなり大きいと思います。

——どんな服にするのか、そのイメージは会話の割と早い段階から見えてきますか? それともじっくり話した結果、見えてくるのでしょうか?

有本:相手によるかもしれないですね。その人の反応を見て細かく提案する場合や、提案がないまま進む場合もあれば、向こうからどうなっていますか? というふうに問われる場合もあります。その対話が、相手とのセッションというか、一緒に作っていくプロセスの一部です。

ズレをも楽しんだ協業と、再認識した服の力

——舞城王太郎さんと一緒にやろうというきっかけはなんだったのでしょうか? もともとお知り合いだったのですか?

有本:いや、全然つてはなくて。舞城さんの作品のファンで、ずっと彼の作品を拝読していました。ただそれだけです。

——どうやってアプローチしたんですか?

有本:写真家の佐内(正史)さんが一緒に本を出されていたので、一度、佐内さんのほうから舞城さんに聞いていただきました。

——一緒にやることになってから、どのようなプロセスでショーを組み立てていったんですか?

有本:プロセスとしては、昨年に定期的にお会いして打ち合わせを重ね、方向性などを報告し、共有していきました。衣服制作と、演出・脚本に関しては別々に進行して、最後にガッチャンと合わせるような感じでした。

——最後に合わせる段階でズレみたいなものは生じなかったんですか?

有本:特にはなかったです。でも、最初からズレはあって、結果すべてがズレているみたいな。

——そのズレが1つのおもしろさというか。

有本:そうだと思います。

——実際に衣装を纏ったキャストをショーで見た時に、どんな気持ちになりましたか?

有本:今回は、本当に憧れの人達と一緒に作っていったものだったので、かなり萎縮していましたが、だからこそ、負けてはいけない、彼らのすごい作品に飲み込まれてはいけないと必死になって取り組みました。ただただ心配で、本番までずっとバックステージにいました。前日のリハーサルでも、出演者の練習する声が聞こえてきて、その声が不安げで弱々しく感じて。でも、当日、衣装を着て、メイクした時にはもう全然違う声で、力強く、かっこよくなっていて。その役になりきっている声が聞こえた時に、服がもつ特別なパワーを感じられた瞬間でした。

——その練習風景や過程を追っていたら、作り手としてはハラハラするかもしれないです。

有本:でも、それにすごく心が動かされ、感動しました。

——また、「刺繍百花子」を振り返る対談相手に小林エリカさんを選んだ理由をお伺いできますでしょうか?

有本:彼女の作品は以前からずっと拝読していたんですけれども、作品から使命感みたいなものが感じられて。その強い意思が、繰り返し表現されるたびに鮮明になり、強靭になっていくところに影響を受けました。顔見知りではあったんですけれども、2人でしっかり話すのは初めてなのでとても嬉しかったです。

——この2年は、ファッションに対する思いとかって、作る方達だけじゃなくて、着る人達の意識も変わったと思います。有本さん自身はこの数年でファッションに対して変わった部分とかってありましたか?

有本:決意が強まったというか。自覚してサバイブしていこうという気持ちになりました。

——力が宿った服を着ることで、より強くサバイブしていくような。

有本:はい。服の力が助けになると信じて、そういうものをつくり続けていきたいと思いました。


今年2月の対談の中で小林は、「『シナ スイエン』の刺繍や柄って素敵だし、一見かわいいんだけど、でも何か圧倒的な力があって、ちょっと怖さすら秘めているところを、あのショーが思い出させてくれた」と振り返った。さらには、有本の服作りには占いに近いものがあると指摘。「1人ひとりの好きなものや人生、その人が持つ良さを有本さんが汲み取って、それが服という形になって目の前に現れる、みたいな。しかも、その服を身に着けることで、どこか新しい世界に導いてもらえそうな気さえします」と魅力を語った。

さらに、トークショーに来場していた「刺繍百花子」出演者の女優の松林うららは、「有本さんは(目に見えないはずの何かが)見えているんじゃないかなと思いました。『どういう服が着たいですか?』と聞かれて好きなものとかを伝えていたら、『あ、見えてきました』とおっしゃって。いただいたデザイン画には好きなものが詰まっていて、とっても嬉しかったです」と振り返った。実際に有本は「人柄やキャラクター、発する言葉や印象」がインスピレーション源と話しているように、対話を重ねることで、その人本来の姿とまだ見ぬ新しい姿の両方を探りながらデザインしているのかもしれない。

Photography Mitsue Yamamoto

有本ゆみこ
刺繍アーティスト。「シナ スイエン」デザイナー。奈良県生まれ。2009年より「シナ」としてブランドをスタート。2014年の春夏コレクションにて「メルセデス・ベンツファッション・ウィーク東京」に初参加。2015年にブランド名を「シナ スイエン」に改名。展覧会やコレクションの発表、オーダーメイド服や衣装制作を通して、刺繍を中心に、着用者の心身と周りの空間、衣服の構造、素材が経てきた時間まで巻き込んだ総合的な衣服づくりを目指す。また「有本ゆみこ」名義で漫画を書き下ろして発表している。
http://sina1986.com
Twitter:@arimotoyumiko
Instagram:@arimoto_yumiko

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劇作家・根本宗子が向き合った初の小説執筆、そしてコロナ禍での試みや演劇界について思うこと https://tokion.jp/2022/05/03/shuko-nemoto/ Tue, 03 May 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=112764 初の小説『今、出来る、精一杯。』を上梓した根本宗子。その執筆背景や、第一線で活躍してきた彼女が演劇界に対して感じていることなどについて聞いた。

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19歳で劇団・月刊「根本宗子」を旗揚げし、劇作家・演出家そして、一時は俳優としても演劇界に多くの功績を残してきた根本宗子。昨年、LINE NEWSの動画コンテンツ「VISION」で配信されたミュージカルドラマ『20歳の花』が、今年3月に第25回文化庁メディア芸術祭のエンターテインメント部門の新人賞を受賞するなど、常に新しいことに挑戦しながら、演劇界を盛り上げてきた。そんな彼女が次のフィールドとして選んだのが文学界だ。

初となる小説は、月刊「根本宗子」でも過去3度劇場公演を行った代表作『今、出来る、精一杯。』。東京都三鷹市のスーパーマーケット「ママズキッチン」を舞台に繰り広げられる12人の群像劇だ。小説では、登場人物達が一人称で語り、ストーリーが展開していく。舞台ではなく、文字上で一癖も二癖もあるキャラクター達が複雑に絡み合う今作は演劇とはまた違った緊張感、高揚感に包まれている。

初の小説、その執筆背景は?

――『今、出来る、精一杯。』は初めての小説ですね。

根本宗子(以下、根本):今までも何度か小説のオファーをいただいたことはあったのですが、新作を書き下ろすなら、舞台を書きたいという気持ちがあったのでお断りしていました。今作は23歳の時に書いた舞台が原作ですが、2019年の再演を観てくれた小学館の編集の方から届いたメールがとても熱烈な内容で、舞台を小説にするオファーは初だったのもあって、1度会ってみようかなと。

――実際お会いしてどんな印象でしたか?

根本:私の舞台を愛してくれる人って、まさにこんな人! みたいな象徴のような方で(笑)。演劇はお客さんが目の前にいて、リアクションが即座に届くけれど、小説は完成してから読み手の反応が得られるまでにタイムラグがあるじゃないですか。その創作スタイルは自分に合わないと思っていたのですが、読みたいと言ってくれる人が目の前に現れたことで「あ、そうだよな、こういう風に舞台を見て思ってくれている人っているよな」と心が動き、小説をどこに向けて書けばいいかがわかった気がして。

――それが一番の決め手というか。

根本:そうですね。あとは、小説のルールに則って書いてしまうと、自分らしさを残せないので、ある程度書き終わるまでは放っておいてほしいという要望をOKしてくれたのも決め手でした。

――書き始めてすぐにイメージは固まっていきましたか?

根本:イメージ自体あまりしてなかったですね。もともと12人の群像劇だったものをどう小説にしよう? みたいなところは、最初の段階でかなり考えていて。すべてを一人称、語り口調で書いたのは、今まで自分が使ってきた手法ではあるので、この書き方にしようと決めてからの執筆は楽しめました。

――筆が進まなかったこともありましたか?

根本:西岡という登場人物は「嫌な女」の塊みたいな人物なので、それを一人称で書かなきゃいけないのが本当に苦痛で(笑)。そこで2ヵ月くらい原稿が止まってしまったのですが、なんとか完成できました。

――根本さんは演劇もそうですが、人物のディテールの描き方がずば抜けてますよね。日常から人間観察などしてるのでしょうか?

根本:人間観察が好きなんですか? とはよく聞かれますね。でも、実際は観察しようと意識はしていなくて。結果的に覚えてるって感じですね。初演当時、正論を言っているのに蔑ろにされる久須美という登場人物は自分の経験も重ねて書いていましたが、再演ごとに自分も大人になって、理解はしたくないけれど正論を飲み込めない側の事情も見えてきてしまって。2019年に再演した時は俳優のはるかぜちゃん(春名風花)が演じてくれたのですが、その若いエネルギーを借りて役を作っていく感じで。小説の場合は、役者のエネルギーを取り入れることができないからこそ、久須美を一番繊細に書いたかもしれないです。

――『今、出来る、精一杯。』は根本さんの代表作にあげる方も多いですね。

根本:劇団としては7作目にして、初めて満席になったのと、自分の思うように書けたという意味でとても大きな作品です。自分の作品に対して評価が厳しめなタイプですが、これ今読み返してみても12人を鮮やかに書き分けできていたなと。30代でもう1作、こんな作品を生み出せたらいいですね。

――小説のほうは、読了後になんとも言えない気持ちになったのですが、ご自身でも舞台とはやはり印象は違いますか?

根本:2019年に上演した最新作に関しては、観客の方は絶望の中にも希望があるような印象だったはずです。小説に関しては、読み手に委ねているというか、多分その人の置かれている状況によって、ラストを絶望と捉えるか、希望と捉えるかは変わってくると思います。あまりラストをどう描いたか、みたいなことは自分の中で決めてなくて、本当にそれぞれのタイミングで受け取ってほしい。

――愛☆まどんなさんのイラストをカバーに選んだ理由は?

根本:新しい領域に進むために、タッグを組むなら自分がどんな演劇をやってきたのか理解してくれている彼女がいいなと。年を重ねるごとに、彼女の絵も変化しているように感じるし、そういう方とのクリエイションは刺激になるし、とても楽しくて。

――次回作にも期待しています。

根本:機会があれば書きたいですね。今回は舞台を元にしたものだったので、オリジナルもいつか書きたいなとは思いますし。小説を舞台にするという逆ヴァージョンにもチャレンジしてみたいですね。

稽古から本番までオンラインで行ったコロナ禍での試み

――演劇界へコロナのダメージは大きかったと思いますが、実際の現場はどうでしたか?

根本:マスクをしたままの稽古や、舞台期間中にコロナに感染したら公演を飛ばしてしまうかもしれないというプレッシャーなど、負担や制約が増えました。やり方はいろいろですが、演劇界が止まらないよう、お客さんにずっと楽しんでもらえるように上の世代も含め動いていました。『20歳の花』では、演劇への窓口を少しでも広げ、興味をもってもらえるきっかけづくりになってほしいという思いがありました。結果、役者と新しいクリエイションスタイルを試せたのも良かったですね。2020年に本多劇場から配信のためだけに作った 『もっとも大いなる愛へ』では、公演初日までの稽古をすべてZoomでやりました。

――リアルで顔を合わせない稽古って大変そうですね。

根本:Zoom稽古を想定し、会話の内容と、役者の力で見せられるようなもの書きました。とにかく会話の緻密さが出るよう稽古して、動きは美術模型を見せながら説明して。そもそもZoomを使ったこともなかったので、Wi-Fiの通信環境が悪いとか、各自の環境の違いで苦労はありました。その反面、役者の生活を知ることができたことはおもしろくて。距離は離れていても、密にコミュニケーションが取れている感じもありました。もちろん会って稽古したかったですけど。

――次の舞台は配信ですか? リアルでしょうか?

根本:ちょっと特殊な舞台ではありますが、5月にサンリオピューロランドで「たぬきゅんフレンズ、レッツオーディション!〜3人組は波乱万丈〜」をリアルに上演します。主演がキャラクターなので、当たり前なんですけど、人間と同じスピードで動けないことを考慮しながら作っていく必要があって。

――それはそれでかわいいかもしれないですね。

根本:動きがかわいいのが魅力ですしね。そこに着目して本を書くというのは初めてだったのでおもしろかったです。普段よりもかわいらしいトーンのお話で、もちろん子どもをメインには考えていますが、大人にも楽しんでもらえる内容にすることに注力しています。

「女性の演出家がもっと世に出やすいように、土壌を作っておきたい 」

――根本さんが演劇界で10年間活動されてきた中で、女性であることでの苦労はありましたか?

根本:女性で劇作家と演出家を兼任している方はとても少なくて。少ないというか、正直さまざまな観点から残りづらい。単純に男性の割合が多い仕事なので、そういう意味では男性社会だなと感じることはありました。嫌な目に遭ったとか具体的なことがあったわけではないのですが、男の演出家のほうが現場がまとまる、みたいな空気感があったり。圧を出していかないと勝てない場面があるのですが、かといってそんなふうにはなりたくなくて。

――演劇界で1人でやっていこうと思ったら、かなりのガッツが必要になりますね。

根本:関わらないといけない人数が多いし、作品ごとにメンバーが変わりますからね。女性の演出家がもっと世に出やすいように、土壌を作っておきたいとは思うのですが、現実は厳しい。制作やマネジメントは女性の割合が多く、そうなると男性作家と組むパターンがスタンダードになっていて。語弊を恐れず喋りますけど、演劇の制作って基本的に女性のほうが向いている職業だと思うんですよ。実際女性が本当に多いし。で、特に劇団や作家に座付きでつく制作の人ってその作家の描くものにある意味恋している状態くらいじゃないとやれない仕事で。本当にわりを食う役割だし、評価もダイレクトに受けづらいからモチベーションを保つのが難しいと思う。だからこそすばらしい制作の方は本当に尊敬しているし、頭が下がります。女性作家に男性制作の構図だと、わたしが見てきたことの肌感覚で言うと制作がイニシアチブをとりたがってしまって、作家の色が出なくなってしまう。それで潰れてきた女性作家を何人か見てきているのもあって、私自身は男性の制作と組んだことはなくて。一方で女性2人だとよりなめられがちで難しいこともあります。マジで難しい。これしっかり毎回喋りたいんですけどまだわたしもこの問題をひもとけていなくて。30代の課題です。

――この先もその葛藤はつきまといそうですね。

根本:そうですね。でもだいぶそういうことでのイライラや悲しさみたいなのはたまらないようになってきて。耐性がついたというか、成長できたのかもしれません。

根本宗子
1989年生、東京都出身。19歳で月刊「根本宗子」を旗揚げ、以降すべての作品の作・演出を務める。近年の演劇の作品として『愛犬ポリーの死、そして家族の話』(2018年)、『クラッシャー女中』(2019年)、『もっとも大いなる愛へ』(2020年)などがある。本書が初の小説となる。

Photography Ryu Maeda

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活動10周年を迎えたぬいぐるみ作家・片岡メリヤス 理想のフォルムを組み合わせながら生まれる有機的なぬいぐるみ達 https://tokion.jp/2022/02/03/a-stuffed-toy-artist-meriyasu-kataoka/ Thu, 03 Feb 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=89619 独自の表情とふわりとしたフォルムで日本のカワイイ文化を体現するぬいぐるみを作り出すぬいぐるみ作家、片岡メリヤス。活動10周年の軌跡をたどる。

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ふわふわとした触り心地が良いファブリックだけでなく、機械やおもちゃなど異素材と融合した斬新なぬいぐるみで、私達が抱くぬいぐるみの概念を超越する作家の片岡メリヤス。ジャンルを超えた作家とのコラボレーション、ドローイングなど活動は多岐にわたる唯一無二のぬいぐるみ作家で、現在は作家活動10年を記念し「横浜人形の家」で個展を開催中だ。

ぬいぐるみと聞くと、どうしても子どもの玩具的なイメージを抱きがちだが、彼女が生み出すヘンテコなフォルムや、とぼけた表情のぬいぐるみ達を眺めていると、かわいくて癒やされるが、そこからさらに「なにか」が不思議と生まれ、私達を勇気づけ、ワクワクさせてくれる。現在開催中の個展でも「時間や場所だけでは説明できない、ぬいぐるみの心と一緒に存在するもの」というフレーズがあったが、目に見える物体や現象以外に存在する何かとコミュニケーションを試みたり、この世界にあるあらゆるものを、じっくり観察したりすることの大切さを片岡メリヤスの作品は教えてくれる。

「自分の中のいい感じの『もたつき』を起点にかわいいを作り上げていく」

――今まで制作した作品はどのように記録していますか?

片岡メリヤス(以下、メリヤス):大学ノートみたいなシンプルなノートにぬいぐるみ全部の名前と姿を絵に描いて残しています。絵と一緒に名前や価格などを記録していて。デジタルに強くなかったので、最近まではパソコンで納品書を作るってことが無理だったので、そのノートをコピーして、納品書代わりにお店の人に渡したりしてましたね。

――ぬいぐるみにつけられた名前がユニークですね。

メリヤス:出来上がった子を夜ごはんに誘い、ごはんを食べ、ある程度遊んでみたりすると、自然と名前が決まっていきます。なかなか名前が決まらない子もいて、一緒に一晩寝てみたり、生活を共にすると決まります

――ちなみに、ぬいぐるみを作る時は先に絵でイメージを決めたりしますか?

メリヤス:元絵を描くことはないですね。ミシンの前に立って、好きな生地選んで、生地を触りながら、こういう形にしたらかわいいかも? みたいに、想像するところが始まって。最初は胴体のつもりで作ったものが、綿を詰めたら胴体としてはかわいくないと思ったら、このパーツを足にしてみようって、試行錯誤しながら作っています。言葉で表現するのは難しいけれど、自分の中でいい感じの「もたつき」があって。そのもたつきを起点にかわいいを作り上げていく。1mmでもずれるとかわいくなくなるので。

――生地や素材は?

メリヤス:お店に足を運んで、自分好みの材料を買うこともありますが、あえてオンラインで買うこともあります。想像していたものと生地の質感などが違っても、逆にそれがおもしろいなと。想定していなかった生地から、自分の想像を超えるぬいぐるみが生まれる。その思わぬ展開の連続が楽しくて。目のパーツはいろいろと収集していて、街で手芸屋さんを見つけたら絶対チェックしますね。あとは廃業してしまったぬいぐるみ工場が、生地とパーツをくれたことがあって、今はそれを使用した作品が多いです。

――顔のそれぞれのパーツの配置、バランスにメリヤスさんらしさが出てるなと。

メリヤス:一番似合う目はどれかな? みたいに、どのパーツも一通り迷って決めるので、顔を作る作業が一番時間がかかりますね。

――今まで作ったぬいぐるみは何体くらいですか?

メリヤス:約7年分のぬいぐるみを収録した作品集には、2500くらい収録されています。写真を整理していて、その数に自分でもびっくりしました(笑)今のほうが手が込んでるものが多くなってきて、1体あたりにかかる時間は長くなっています。

――そんな数のぬいぐるみを1人で作るのって尋常じゃないですね。 

メリヤス:ぬいぐるみを作ること自体は全く苦じゃなくて、ぬいぐるみを作ってないとストレスがたまるタイプ。むしろ苦手な事務作業とかは誰かにやってもらえたらいいのになと、思うことはありますね。

――作品集にはメリヤスさんが作業するアトリエの写真が掲載されていますね。こちらのアトリエではメリヤスさんだけで作業してるんですか?

メリヤス:ずっと1人で制作しています。今までも弟子を志望する方や、雇ってほしいとか問い合わせをもらったこともありますが、他の人と共同で作ることには全く興味が持てなくて。コラボレーションは、テーマがあって、それをもとにそれぞれ分担しながら制作するので、おもしろいし、刺激があって楽しいですが。

「キャラクターは、シンプルにしていく作業の連続で生まれる」

――現在活動10周年の記念展も開催中ですが、ぬいぐるみを作ろうと思ったきっかけはなんでしたか?

メリヤス:ぬいぐるみ作りはじめた当時はぬいぐるみ作家になろうなんて、1mmも考えていなかったのですが、ぬいぐるみを作って、友達にあげたら、みんな喜んでくれて。そうしている間に、展示会に誘われるようになり、気が付いたら「あれ? ぬいぐるみ作家になっちゃったな」みたいな。

――その当時、他に仕事はしてましたか?

メリヤス:普通にアルバイトしてましたね。でも、ふとこのまま生きててどうなるんだろうと思うこともあって。縫い物が趣味で、ぬいぐるみすごい好きだったりして、すごく自然な流れで今に至っています。活動をスタートさせた当時は、ぬいぐるみを作ってることを誰かに伝えると、微妙なリアクションだったけれど、実際作品の写真を見せたりすると、リアクションが好意的な感じに変わる、その瞬間みたいなのを何度も見てきたので、おもしろいなと。

――制作したぬいぐるみで、思い出に残っているものはありますか?

メリヤス:それぞれにありますね。お客さんが買った子を、連れてきてくれたりするので、そんなに気に留めてなかった子が新しい持ち主にめちゃくちゃかわいがってもらったりしてると、それがすごい強烈に心に来るというか。めっちゃかわいがられてんじゃん! すごくない? みたいな(笑)。誰かのところにいくことで、魅力を見出してもらえる気がします。

――メリヤスさん自身は小さな頃からぬいぐるみが好きだったのでしょうか?

メリヤス:むしろ、ぬいぐるみしか好きじゃなかったかもしれないですね。人形とか他のおもちゃがはやってても、興味が持てなくて。持っていたのは動物とかのモチーフのどこにでも売ってそうな普通のぬいぐるみでした。

――具体的にはどんなふうにぬいぐるみと遊んでましたか?

メリヤス:お喋りするんです。昔から遊び方は変わらず、憑依型で喋るパターンと、自分が監督になって、いろいろキャラクターが登場する人形劇の2パターンですが、昔は監督になるほうが多かったです。今回の展示でも人形劇場を展示しています。

――一緒に遊んできたぬいぐるみの中で、思い出に残っている相棒はいますか?

メリヤス:小学生の時にクリスマスプレゼントにもらったイヌのぬいぐるみが、初めて意思を持って親に買ってもらったぬいぐるみだったはずなのですが、いつの間にかそのイヌのぬいぐるみはいなくなってしまって。当時の詳細は覚えていないので、きっとどこかのタイミングで興味を失ってしまったのかもしれません。幼稚園の頃に遊んでいたキリンのぬいぐるみは、たまたま箱に隠していたので、親に処分されることなく、今も手元に残っています。

――今まで開催してきた展示についても教えてください。

メリヤス:テーマはほとんど自分で決めてますね。やりたいことリストは常にいっぱいで、テーマのアイデアに困ることはないです。このギャラリー、このキュレーターだったら、こいういう展示にしようといった感じで、場所や人でテーマを決めます。

――中目黒のアートギャラリー「VOILLD」で3度目に開催した「Doppelgänger (ドッペルゲンガー)」ではみんなが知るキャラクターをソースに生み出したぬいぐるみ達が印象的でした。どんな基準でキャラクターを選びましたか?

メリヤス:圧倒的に認知度が高いキャラクターで、みんなが知ってるというのが一番大事で。カラーリングだけでそのキャラクターが何なのかわかる。キャラクターにするっていうのは、シンプルにしていく作業の連続で生まれるんだなと。私もぬいぐるみを作る時には要素を減らしていきます。

――サイレントオークションで開催された「A≠B≠C」はどうでしたか?

メリヤス:同じように見えてもよく見ると違う。世界に対して、細かいところまで注意して見てほしいという思いがあり、そこから発案した展示で、形や顔がほぼ同じぬいぐるみを作るのに苦労しました。

「ぬいぐるみって実は喋れて、友達になれるよってことを伝えたい」

――展示以外でメリヤスさんがやりたいことってなんでしょうか?

メリヤス:人形劇は常にやりたいと思ってます。ぬいぐるみって実は喋れて、友達になれるよ! ってことを伝えたくて。それに人形劇を見たことがない人も多いので、見てもらいたいし、生でやることでオーディエンスのリアクションがわかるんです。実際、展示を褒められるよりも、人形劇を褒められるほうが嬉しかったりもする(笑)。

――現在開催中の10周年の展示についても教えてください。

メリヤス:実は、10周年ということにはポイントはおいてなくて、(横浜の)人形の家でやるとしたら、そこで収蔵されている人形をぬいぐるみにする以外、考えられないなって。

――メリヤスさんの作るぬいぐるみの愛らしさというか、その魅力って日本で脈々と続くキャラクター文化と重なる部分があるなと思っていて。

メリヤス:日本のキャラクター文化って、古くは妖怪文化から来てる気がすると思いますね。以前、目白のブックショップ&ギャラリー「ポポタム」で妖怪をテーマに展示したことがあり、妖怪について深掘りする機会がありました。いろいろな現象や風土を妖怪というものにキャラクター化する文化が根付いていて、日本人って想像力が豊かな民族だなと。それにみんな、かわいいものが好きですよね。

――この10年で、メリヤスさんの「かわいい定義」みたいなものには変化がありましたか?

メリヤス:それが全く変わってなくて。ギョロちゃんという子が私の家にいるんですけど、視点とかも定まってなくて、どこ見てるか全然わからない(笑)私の定義って一般的じゃないかもしれないんですけど、めちゃくちゃかわいい。表情を見てても、虚無みたいな。この子は何考えてるの? って想像しちゃう。

――メリヤスさんの好奇心とかクリエイティブなところが刺激されるのかもしれないですね。

メリヤス:まったくもって自分を超えているところに存在していて。

――作り続けて10年、そこを追い求めているというか。

メリヤス:ギョロちゃんを追い求めてるのかな(笑)。

――自分の想像をはるかに超える世界観にひかれてるのかもしれないですね。

メリヤス:自分がわからない領域が好きなのはこれからもずっと変わらないと思います。

――メリヤスさんは「目に見えない何か」みたいなのをフォルム、ぬいぐるみとしてこの世に生み出している感じがします。実在しないけれど、どこかに潜んでそうみたいな。

メリヤス:あるかもしれないですね。思いつく時に「あれ、なんかいる?」って思う。神様のようなものが降りてきた、みたいな。

――継続して生み出し続けてる。環境が変わっても、想像力や姿勢が変わらないってすごい。

メリヤス:全然変わらないですね。たぶんよく寝てるからいいんだと思う(笑)。人って寝ないと駄目になる気がして。ちゃんと寝てさえいれば、やりたいことはずっと継続できるなと。時間がある時は、外に出る用事を作ってなるべく歩くようにしたり。運動、食事、睡眠。基本のことをちゃんとするのが大事かもしれないですね。

――ぬいぐるみって、そばにいてくれるだけで心強いというかパワーがある気がしますね。

メリヤス:すごいセラピー的要素はあるのかもしれない。やっぱりぬいぐるみがいてくれると、安心するという人は多いと思います。

――学生だけじゃなくて、大人になってもカバンとかにぬいぐるみのキーホルダーがついてる人って、街にいると意外と見かけますね。

メリヤス:おじさんとかもリュックにつけてたりしますよね。みんなたぶん本当はぬいぐるみとの生活を我慢してるだけだと思いますね(笑)。ぬいぐるみって、自分の言えないことも言ってくれるし、人と話すのが苦手な人でも、ぬいぐるみを膝に乗せてるだけで安心したりとか、自分のちょっと弱いところを補ってくれるみたいな。精神が強い人には必要ないものなのかもしれないけれど、ちょっと不安な時とか、ぬいぐるみがそばにいてくれるだけで安心する。かわいいルックスなのに、頼りがいがあるなんて本当にすごい。改めてその目に見えない力に気付かされています。

片岡メリヤス
2011年から活動を開始。ぬいぐるみ作品を中心に、動くおもちゃ、光るおもちゃなど、飾るだけではなく遊べて愛のあるぬいぐるみを制作する。 また自ら脚本を書き、出演するオリジナルの人形劇を各地で上演している他、漫画やドローイ ング、木工・粘土などさまざまな作品を手掛ける。 ぬいぐるみ・人形劇共に、異ジャンルのアーティストとのコラボレーションや商業施設の広告への作品提供など幅広く活動している。
Instagram:@kataokameriyasu

■片岡メリヤス10周年記念展「メリヤスの人形の家」
会期:3月13日まで
会場:横浜人形の家2F 多目的室
住所:神奈川県横浜市中区山下町18
時間:9:30~17:00 ※最終受付16:30
休日:毎週月曜日
入場料:大人(高校生以上)¥600、小中学生 ¥300※入館料(大人¥400、小中学生¥200)含む、未就学児は入館および観覧料無料。1月23日まで開催の「ペコちゃんと横浜」、2月5日から開催の「ひな人形展」の観覧には追加料金が必要

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渋谷の泥酔者達のリアルで常軌を逸した姿を記録し続ける『Shibuya Meltdown™』 変化し続ける街、渋谷の人々は未だにメルトダウンし続けているのだろうか? https://tokion.jp/2021/12/10/shibuya-meltdown/ Fri, 10 Dec 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=80921 所かまわず泥酔し、道端や電車、時には自転車に乗りながら意識を失ったように眠る人々。そのありのままの姿を激写し、世界に発信する『Shibuya Meltdown™』とは。

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ここ数年で渋谷PARCOがリニューアルし、スペイン坂上の風景はガラリと変わった。さらには、渋谷ストリーム、渋谷スクランブルスクエア、MIYASHITA PARKなど渋谷駅を取り囲むエリアも大幅に再開発され、2027年まで工事は継続する模様だ。コロナで一時は閑散としていたが、現在は以前のような活気を取り戻しつつある。常にシフトし続ける渋谷の街を、ある特殊な視点で観察するインスタグラム・アカウント『Shibuya Meltdown™』。そこには年齢や性別関係なく、路上や電車の中で泥酔し、意識を失ったように寝る人々の常軌を逸した姿が投稿されている。

“24時間戦えますか?”これはバブル時代、日本のサラリーマンを象徴するキャッチコピーとしてCMに使用され、市民権を得たものだ。30年以上経った今でも、ワークライフバランスが偏り、社畜にならざるをえない現状にペーソスを感じずにはいられないが、互いを干渉し合わず、電車や路上であっても安全なパーソナルスペースを確保できる日本のポジティブな面も見出せる。

投稿スタートから10年が経ち、現在では28万を超えるフォロワー数を獲得し、メルトダウンを引き起こす“ある”ドリンクを模したグッズも人気で、今までとは違ったファン層も獲得している。素性を明かさないという条件の下、謎多き『Shibuya Meltdown™』首謀者にその活動について話を聞く機会を得た。

−−このアカウントをスタートさせたきっかけはなんでしたか?

旅行で日本に長期訪れる中で、日本の酔っ払い達ってすごく独自だなと関心を持つようになって。彼らの存在ってポジティブ、ネガティブどちらの側面も持っているし、観察しがいがあるなと感じました。日本に移住してからは、SNSで彼らのことを発信したら、自分以外の人も興味を持つんじゃないかってアカウントをスタートして。もともとは親しい友人や知り合いがチェックしてくれていたけど、すぐに多くのユーザーがこのアカウントをフォローして、注目してくれるようになりました。

−−最初に投稿した時の東京、渋谷にはどんなイメージを持っていましたか? 渋谷の酔っ払いを初めて見た時、どんな気持ちになりましたか?

ショックというか、目を見張ることはいくつかありましたね。 さっきまで元気だった人が、5分くらいの間に前触れもなく床で爆睡していたり。道端で酔っ払いが寝ていても、通行人達も何事もないようにスルーするし、所持品を盗まれることもない。そんなのって日本だけだと思います。他の国だったらパブリックな場所で無防備な状態でいるだけで、暴力を振るわれたり、強盗にあったりするリスクがある。日本はいかに安全か、彼らの存在が証明してくれてるなと思いますね。

−−自分は日本人なので、この渋谷にいる酔っ払いを見ると恥ずかしい気持ちになるというか、自分もこんな風にならないように気をつけなければと感じるのですが、海外の人から見るとどんな印象なのでしょうか?

さっきの答えと重複しますが、それって日本の路上が他の国と比較できない程安全だってことを証明していると思います。でも、その状況に甘んじて、路上で酔っぱらってよだれをたれ流したり、失禁してグチャグチャになったりするデメリットもありますが…。路上でメルトダウンしている人の一部にはオーバーワークで終電を逃してしまった人もいます。日本の労働環境って長時間労働だったり、社畜文化だったりがまかり通っているけれど、コロナでリモートワーク化が進み、彼らへのしかかる重圧は、少しは軽減したはずです。

−−フォロワーからのリアクションはどんな感じですか? 国内と国外で違いますか??

あまりネガティブな反応はないけれど、このアカウントのコンセプト自体を嫌だと思う人は少なからずいて。今までも日本のテレビ番組などメディアからの取材を受けたこともありますが、そういったところでの取り上げられ方は、誤解を生んでしまうリスクもあります。海外からのリアクションだと、泥酔者を演出したフェイクな写真を送ってくる人もいるけど、それって正直めちゃくちゃダサいです(苦笑)。

−−SHIBUYA MELTDOWNの由来は?

渋谷(SHIBUYA)という街は私自身が旅の途中で滞在するメインの場所で、そこでいろんな経験をし、観察してきました。メルトダウン(MELTDOWN)って言葉は、泥酔して意識を失った人々って誰よりも地球(地面)に近い存在だなと思って。そもそも、メルトダウンはろうそくが熱で溶けることを意味しますが、個人的に炉心溶融(nuclear meltdown:原子炉の燃料棒が過熱によって溶けるという、深刻な事故を指す言葉)というワードが2011年メディアで取り沙汰されていたのもあって、それにちなんだ名前にしようと思って。

−−こうやって泥酔できるのって、ある意味東京や渋谷が平和な街であることを証明していると思います。酔っぱらいに適した街というか、それが許される街っていいなと思うのですが、どうでしょうか?

他の国では、愚かな振る舞いで、何かを主張する酔っ払いが多いから、アルコールに関する厳しいルールや法律を定めて規制する必要があります。その一方で、日本人は主張もしつつ、お互いを尊重するコミュニティ形成ができているので、たとえ酔っぱらっていても、誰かに襲われることなく、安全な環境を確保できるのだと思います。

−−ここ数年で渋谷の風景はガラリと変わりましたし、なによりコロナの影響で泥酔する人を見る機会も一時は激減しましたが、また復活しつつあります。これからの活動も含めて、どんな風なことをアカウントで発信していきたいですか?

オリジナルグッズなどを販売するSHIBUYA MELTDOWNのウェブサイトをスタートして、パンデミックの最中は新規登録者数が低迷していたけれど、レストランやバーが完全に営業再開していないにもかかわらず、今では登録数が急増していますね。オリジナルグッズを制作してSNSで発信することで、多くの層を取り込むだけでなく、同時にメッセージを届けるともできる。これは1案ですが、夜の繁華街で、ボランティアのサポートチームを設置したり、若い人にもウケるウコンドリンクを制作したり、ただSNSを閲覧している人には、私のアイデアが滑稽に映るかもしれないけれど、支援を必要としている人達に何か自分ができることはないかな? と日々考えていますね。

“Shibuya Meltdown™ porfile
渋谷で眠る人々
“What goes up must Meltdown”
Instagram:@shibuyameltdown
Webサイト:https://shibuyameltdown.com

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身近な椅子をキャラクターに 世代を超えて愛されるキャラクターを生み出す 大塚いちおのクリエイション https://tokion.jp/2021/10/07/the-creation-of-ichio-otsuka/ Thu, 07 Oct 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=59740 子ども達だけでなく、親の世代のハートもつかむ、イラストレーター・アートディレクター 大塚いちおが生み出すポップでシュールな世界観にフォーカスする。

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日本の文化を代表するものとしてアニメや漫画、ゲームは欠かせない。マリオやハローキティ、ドラえもんなどは海を越えて世界中から愛される日本発のキャラクターである、地方独自のゆるキャラがランキングを競ったり、コミュ二ケーションツールとして、お気に入りのLINEスタンプで会話を楽しんだり、キャラクター文化に関しては世界の中でずば抜けて発展している。

漫画原作のものもあれば、企業主導のキャラクターなど、メディアや発信元はさまざまだが、子どもの心をつかんで離さないのは教育番組のキャラクター達である。椅子というキャラクターにしては珍しいモチーフから個性豊かで、唯一無二のキャラクターを生み出す大塚いちおはイラストレーターとして書籍や広告など幅広いジャンルで活躍し、アートディレクターとして教育番組『みいつけた!』(NHK Eテレ)のキャラクター・セット・衣装などトータルでデザインを手掛けている。ここ数年はラジオのキャラクター制作など、おもしろい試みを続ける大塚いちおのクリエイションや仕事への姿勢を語ってもらった。

幼い頃、母とバスに乗っていた時に見た、バス停に置いてある椅子に着想

――最初にデザインしたキャラクターはどのキャラクターですか?

大塚いちお(以下、大塚):立体的ないわゆるキャラクターの仕事はNHK Eテレの幼児向け番組『みいつけた!』の主人公コッシーです。ただ僕はイラストレーターとして仕事をスタートしたので、イラストの依頼の中で「これをキャラクター化して使いたいです」っていうのは広告や商品、商業施設などで以前からわりとありましたね。

――椅子をキャラクターにするアイデアはどこから生まれましたか?

大塚:『みいつけた!』という番組を企画している時から関わっていましたが、いよいよキャラクターをどうしようかという会議の時ですね。せっかくの新番組だから、今まで世の中でキャラクターになってないものをキャラクターにしようって話が出ました。誰かが「椅子はどうですか?」ってアイデアを出したんですけど、その場では「それは難しいでしょ〜」みたいな空気だったんですよ(笑)。でも、僕は幼い頃、母とバスに乗って買い物に行った時に、バスから見たバス停に置いてある椅子のことを、ふと思い出したんです。誰かが置いた錆びた椅子やボロボロの椅子のことを思い出して、椅子のアイデアもいいんじゃないかって。当時、僕が車窓からそれを見ながら、「あの椅子、雨の日でも頑張って働いてるなぁ」って勝手に思ってたように、番組を見る子ども達も同じように「あの椅子頑張ってるね」みたいに感情移入するのって、ちょっといい世界だなと思って。

――多種多様な椅子が登場して、1つの世界が生まれてますね。

大塚:番組制作の初期段階から、可能なら椅子達が生活する街みたいなお話を作りたいと思ってました。番組のMCとして、ただキャラクターが出てくるのではなくて、このキャラクターはこういう子なんだよってエピソードやバックグラウンドを見てもらえると、子ども達の親しみ方も深くなって、想像力も広がってくれるかなと思いました。

「いすのまち」で生活する中で時には新たな出会いもあるから、そのたびにいろんなキャラクターも登場し増えていきます。

――そのキャラクターの設定とかは大塚さんが考えてるんでしょうか?

大塚:毎回「いすのまち」のお話を作る制作スタッフが、こんなキャラクターがいたらおもしろいというアイデアや、そのストーリーでどんなキャラクターが必要かというところから新たなキャラクターが生まれ、どんどん広がっていきます。そのアイデアやストーリーを元に、最終的に、「じゃあこんなデザインはどうかな」って僕が絵を描いたりしながら固まっていきます。

――インテリアの中でも椅子って偏愛的な要素が強くて、大塚さんも椅子マニアゆえにコッシーが生まれたのかと勝手に想像してました。

大塚:椅子そのもののデザインはプロダクトとしておもしろいなぁとか、美しいなぁとか思いますが、僕はそこまでマニアじゃなくて(笑)。時々、せっかくだからと思い、椅子としての美しさやアイデアを考えたりもしてましたが、基本的には椅子としてのデザインよりもキャラクター性を優先してデザインするようにしています。例えば、恐竜みたいな長椅子のキャラクターだとしたら、その存在感とか出てきた時の印象とかを優先して。そして最後に、長いリクライニングの雰囲気がきれいなラインだといいなと思って、椅子としてのデザインイメージを伝えたりというくらいです。

――ディテールはどこまで描き込むのでしょうか?

大塚:鉛筆でスケッチを描いて、細かく指示を書き込んだものを造形作家さんに渡します。あまり細かく指示しすぎて、作家さんがただ僕のイメージに近づけるだけになってしまってはおもしろくないので、少しだけ造形作家さんが工夫できる隙間を残したりしています。「いすのまち」のキャラクターはすべて造形作家さんの手作りなので、ちょっとしたニュアンスや素材の感じが加わることで、最初のイメージよりも味のあるキャラクターになります。例えば、マッサージチェアの「モミヤン」ってキャラクターがいて、古い銭湯とかにあるマッサージチェアをイメージしてるんですけど。あの独特な雰囲気に近づけるために使用する生地のイメージを伝えて、加工してもらいました。もうちょっとチープな革の素材がいいとか無理を言って。CGやアニメーションなら表現もある程度自由自在だけど、コマ撮りアニメの場合は実在する物を作ってもらう必要があるので、そのあたりは造形作家さんや制作のスタッフの仕事が重要になります。

――「いすのまちのコッシー」のコマ撮りアニメでは、実際に人形を少しずつ動かすってことですよね?

大塚:そう。顔の表情もそのシーンごとに作るので、何パターンか表情のスケッチを描いたりもします。ですが、実際にその先はキャラクターを動かしてくれる映像の監督やスタッフのイメージもあるので、相談しながら調整してます。

――生み出すのに苦労したキャラクターはいますか?

大塚:いろいろな分野で活躍している方々が椅子のキャラクターとしてゲスト出演してくれる時があるんです。もちろん、その人に似せる必要は必ずしもないんですけど、やっぱりちょっと、親心として本人に似せたくなっちゃいますね。限られた要素で、顔や、髪形とかで少し雰囲気を近づけるんです。番組開始当時「トータスイス」ってトータス松本さんが声を担当するキャラクターの制作の時、トータス松本さんは坊主頭だったんです。でも僕の中ではロン毛でソウルフルなヘアスタイルのトータス松本さんのイメージが強くて、そこはあえてもともともっていたイメージに寄せました。その後少し長めのヘアスタイルに戻った時には、ほっとしましたね。あと、僕は中学生の頃から甲斐バンドの大ファンで。そんな甲斐さんに番組に出てもらえることになって、「スコップさん」ってキャラクターが生まれました。その時もやっぱり甲斐さんっぽさをキャラクターに残したくて、顔の雰囲気など工夫しました。キャラクターとしてのかわいさの中に、本人の雰囲気も残す、そのバランスが難しいですよね。一緒に見てる親やその上の世代も「おっ! なに、この番組は〜!」ってなったら嬉しいなと思ってます。

――椅子以外にもサボテンの「サボさん」が出てきますね。

大塚:番組がレギュラー放送としてスタートする前のパイロット版には「サボさん」はまだいなくて、最初はコッシーとスイちゃんだけでした。その後番組のレギュラー放送が決まり、もっと話が広がるのにもう1人キャラクターが必要だねって話になって。椅子がある空間になじむキャラクターってなんだろうって、みんなで話してて、観葉植物、サボテンとかどうですか? って展開になりました。サボテンならラテン系の陽気なキャラクターなんて、どうでしょう? とかアイデアをだしあって。そんな中「来週までにイメージのスケッチを描いてきてもらえますか?」って感じでデザインがスタートしました。普通もっと時間が欲しいんですけど、この当時は「みいつけた!」という番組が生まれる時でいろんな作業が同時進行で、人生で一番かもっていうくらいかなりそれぞれの作業に集中してました。もしかしたらそのおかげでわりとすんなり生まれたのかもですね。

――キャラクター名はどなたが決めてるのでしょうか?

大塚:基本は脚本家さんとか他のスタッフが決めてます。コッシーの場合は椅子だから「腰掛ける」で「コッシー」でみたいな話をしていたような気がします。

――結構カジュアルな感じですね(笑)。ちなみに、大塚さんがトータルでデザインを監修するようになったのは、この番組が初めてなのでしょうか?

大塚:「みいつけた!」が最初で、もう10年以上続いてます。子どもの時に見ていた番組が、いずれお父さんお母さん世代になり、自分の子どもに「同じ番組を見てたんだよ」って言ってもらえるのが理想。あと数年たったら、そうなるかもしれないのが楽しみです。

ニッポン放送の開局65周年を記念して制作したキャラクター

――最近ではテレビ以外にも、ラジオ放送局のキャラクターなども手掛けていらっしゃいますね。

大塚:2019年にニッポン放送の開局65周年を記念してキャラクターを制作しました。「ラーさん」「ジー子」「オーちゃん」っていうラジオの電波の陰に隠れる3人の「謎の生き物」です。もともとオールナイトニッポンなど僕自身、ラジオリスナーだったので、オファーが来た時はとても嬉しくて。

このキャラクターは、例えばラジオを聴いてるとふと、「あれ? これって僕のことを言ってるのかな?」みたいな不思議な瞬間とか、タイミングよく自分が聴きたい曲がかかったりするじゃないですか。それは実はこのキャラクター達が電波に乗って奇跡を起こしているって想像から生まれました。ラジオってビジュアルがないから、リスナーは想像力を膨らませる。その想像力の中で生きがいがあるキャラクターになってほしい、そんな願いも込められています。

――キャラクターといえば、モグラの「ウェルモ」も愛らしいですね。

大塚:北陸新幹線の上越妙高駅のお出迎えキャラクターですね。金沢行きの北陸新幹線って長野駅を過ぎると、上越方面ってほぼトンネルなんですよ。そのトンネルを意識した動物っていえば、やっぱりモグラかなって思って。田んぼばかりのその場所に駅ができて、1匹のモグラが土の中を掘りながら進んでいたら「なんか大きな音がするぞ」って、地上に出たら自分よりも速い新幹線がビュンって走ってて。なんとなく姿形もちょっと似てるからモグラは「もしや、ライバル!?」みたいに興味を持ち始めます。それまで地下で生活していたモグラが新幹線の駅ができたことをきっかけに地上に出て、いろんな場面や人に出会うってストーリーでこの「ウェルモ」というキャラクターを作りました。なのでカラーリングもちょっとだけ北陸新幹線を意識してます。

――上越市の「DIGMOG COFFEE」でも「ウェルモ」に会えますね。大塚さんが東京に出てきて本格的にイラストレーターを目指した時のお話も聞かせていただきたいです。

大塚:父親が大工で、家に木材とか材料がそろってて、小さい頃から木の切れ端とかをもらって何か作ってみたりしてました。物心つく頃から絵を描くのも好きで、でもいわゆる画家の仕事は現実的には難しいだろうなと思い、そこで興味を持ったのがデザインの仕事でした。その当時は専門学校の学生とかキラキラしていて憧れもあったし、なんとなく東京で就職して、10年くらい働いたら独立してって夢を漠然と思い描いてましたね。

 就活して、すぐに内定ももらってと、とんとん拍子だったんだけれど、本当はもっと絵を描いたりしたかったなって気持ちが急に芽生えてきてしまい、1週間で内定を断っちゃって。その決断に両親も動揺してました(笑)。フリーランスでイラストレーターでやっていくことを両親に説明し、25歳くらいまではスーパーで看板を作るバイトをしながら、独学で絵を描いてました。家賃払ってカツカツな生活だったので、今思えばよくやっていたなって。本当に自分がやっていけるのか? とかみじんにも思わず、絶対できる。今やらないとダメなんだって、きっと何かに取り憑かれていたんですよね(笑)。

――根拠のない自信に突き動かされていたんですね(笑)。

大塚:きっと社会の仕組みがなんとなくわかる年齢になると、それなりに要領もよくなって、絵を描いてもそれが仕事だからってなんか冷めちゃったりして。そういうのはなんとなく嫌だなって思ってました。僕は絵が好きで、それを仕事にしたい。だから何かおもしろいものが作りたいっていう初期衝動がそのままずっと仕事になったら良いなと思ってましたね。

――その当時憧れていたイラストレーターはいましたか? 

大塚:現在はアートディレクターとして活躍しているタナカノリユキさんですね。当時からタナカさんの考え方や、作ってるものがすごい好きで、アトリエに行って絵を見てもらったりはよくしてました。のちにユニクロのCMの企画プレゼンに誘ってもらったり、書籍の仕事を一緒にできた時は嬉しかったですね。当時はいろんな人に会って絵を見てもらったり、直接話ができたらと思って、たくさんの方に会いに行ってました。すでに活躍されている方に実際に作品を見てもらって、具体的なアドバイスをいただいたり、その経験はすごく大きかったです。

――今はイラストとグラフィックデザインの仕事ってどれくらいの割合ですか?

大塚:僕の場合は本当に絵を描くのがスタートで、最初は100%イラストレーターの仕事でした。誰かにイラストを依頼され描く。それはシンプルで楽しかったのですが、同時にその仕事のやり方ではカバーできない分野の仕事へと徐々に広がり始めました。デザインスタッフと一緒に仕事をするようになってからは、僕がアートディレクションを担当し、必要があれば自分でイラストを描いています。アートディレクターとしてはプランとか世界観を考えて、それを外部の方とチームで作る仕事も増えてきてます。僕にとってはプランを考えたり世界観を作ったりというのも、何もないところからイメージを作るという意味では、白い紙にイラストを描くことと同じ感覚なんですけどね。アートディレクションとイラストの仕事、今は半々ぐらいになってきてるかな。

――個人的には『MAGIC!』のように、大塚さんの作品を一挙に楽しめる新しい作品集が出たら嬉しいですね。

大塚:「MAGIC!」は東日本大震災前に出したものだから10年以上前の作品集ですね。ここのところまさに作品集のことを考えていて。この10年でたくさんの仕事も新しいものも作り出したし、そろそろまた形に残したいなぁとは思っています。『MAGIC!』はその当時、自分なりに何かうまくそのエッセンスを全部1冊に詰め込もうと思ったからか、言葉が少なめで。今だったらもう少し肩の力も抜けてきて、作品の制作の過程や思いなんかを、エッセイみたいに入れて作れるのかなと思っています。

――作品集だけでなく、大塚さんの書棚には音楽や映画、写真集などさまざまな本が並んでますが、大塚さんはどんなカルチャーから影響を受けてますか?

大塚:影響を受けた人というか作品が好きでよく見てたのは、デヴィッド・ホックニーですね。ラフに描かれていても、すごく描き込まれていても、カリフォルニアの乾いた空気みたいにサラッとしていて。なんかそういう空気感っていいなと思って。あとは、(ピーター・マックス率いる)プッシュピン・スタジオのサイケな感じとかにも影響を受けてますね。

――大塚さん自身が個人的に好きなキャラクターも教えてください。

大塚:子どもの頃はテレビっ子だったから『仮面ライダー』とか『ドラえもん』が好きで。大人になってからは『シンプソンズ』ですね。キャラクターのデザインや番組自体の雰囲気も大好きで。Tシャツやグッズは今でも見つけると買っちゃいますね。程よい毒とバカバカしさや、旬を意識したゲストとかも良い。モリッシーは勝手にキャラクターに使われていて、怒ってたけど(笑)。

――ベネディクト・カンバーバッチが声優を担当していて、さらには曲も作ったりして、最高だったんですけどね(笑)。最後に、ここ数年でガラリと環境も変わりましたが、この先は大塚さんはどんな風にデザインに関わっていきたいですか?

大塚:最近はコロナの影響で、人に会う機会がぐんと減っていて。だからこそ、すごく人との接点を欲していて。例えば、親交のある店や商品のデザインなどもそうですけど、ローカルでも確実にそれを手にしたり、見たりした誰かが喜んでくれてるっていう仕事をやりたいなと思っています。それが立体でも、平面でも構わなくて。小さなものでも定番になって人に愛される。そんなものをきちんとたくさん生み出していきたいですね。

大塚いちお
1968年新潟県上越市生まれ。イラストレーターとして、広告やパッケージ、出版など数多くの仕事をこなし、  アートディレクターとして、広告や、テレビ番組のキャラクターデザイン・衣装・セット・タイトルロゴなど番組全体のデザインに携わる。 担当番組にNHK Eテレ「みいつけた!」など。Jリーグ川崎フロンターレのファミリーアートディレクターとして、 グッズやイベント関係のデザインを担当し、2015年シーズンユニフォームをデザイン。2018年にNHK 連続テレビ小説「半分、青い。」オープニング映像のイラストを担当。子ども向けのワークショップも多数手がける。 そのジャンルを越えた創作活動は、子供から大人まで幅広い層に支持されており、 イラストからデザイン、空間、キャラクターや衣装、ユニフォームまでこなす 多種多様なクリエーションは業界内でも唯一無二の存在である。東京ADC賞受賞、カンヌライオンズや D&AD awardsなど海外の受賞も多数。東京造形大学特任教授。
http://ichiootsuka.com

Photography Kosuke Matsuki

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属性にとらわれず安全に楽しめることを目指すフェミニズムのためのクラブカルチャーを生み出す 「WAIFU」とは https://tokion.jp/2021/08/11/what-is-waifu/ Wed, 11 Aug 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=42318 新宿二丁目で起きた事件をきっかけにスタートしたパーティー「WAIFU」。チームの一員エリン・マクレディともりたみどりが「WAIFU」の活動を振り返る。

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新宿二丁目で起きたある事件をきっかけに、オーガナイザーが集まりスタートしたパーティー「WAIFU」。人種差別 やトランスジェンダー差別、同性愛差別、セクシュアルハラスメントを禁止するポリシーを掲示し、それに賛同する人 だけが入場できるシステムによって、セーファースペースを確保しながら、アンダーグラウンドなクラブカルチャーを体 感できる国内では唯一無二のパーティーだ。4月10日にはSUPER DOMMUNEで配信イベントを開催し、トランスカル チャーの歴史とクラブカルチャーとのつながり、クラブにおける障がい者のアクセシビリティについてなどさまざまな マイノリティーに焦点を当てたトークの内容が話題となった。

米国で性別変更をしたエリン・マクレディと「婦婦」関係であるもりたみどりは「WAIFU」運営チームの一員であり、 現在は不定期開催の過激な野外レイブパーティー「SLICK」も主催している。根っからのクラバーである彼女達に今までの活動を語ってもらった。

マイノリティー差別をきっかけにスタートした「WAIFU」

――WAIFUのイベントが始まるきっかけになった事件について教えてください。

エリン・マクレディ(以下、エリン):新宿二丁目(以下、二丁目)のあるクラブで友人のドラ・ディアマント(パリのクィア・シーンでアイコン的存在だったDJ)がゲストDJとして出演するパーティーに遊びにおいでよと誘われて、出掛けたんだけど、エントランスで入場を止められてしまって。女性を示す「F」って記載されているパスポートを提示したけれど、インカムで確認したセキュリティーが別の人を呼んで「トランスの方はお断りしています、そういうポリシーなので」の一点張りで。そのもめてるところにドラがやってきて「何やってるの? 入れてあげてよ」って説得して くれたけれど、オーナーとも話がつかなくて。結局、出番の直前だったけれど、彼女はレコードバッグを会場内に取り に戻って「もう出演しないから、さよなら」って帰っちゃった。オーナーは私達に向かって一方的に怒り叫んでいて。次の日の朝にその事件の経緯を伝えたら、みどりも怒りでスーパーサイヤ人みたいだった(笑)。

もりたみどり(以下、みどり):国が発行する身分証明で女性と証明されてるのに。トランスの人々の居場所や出掛けられるパーティーがないことに疑問を抱いたし、こんなクソみたいなポリシーを持つパーティーじゃなくて、自分達でイベントをやろうって動き出した。もともとパーティーを手伝ったりしていたから、知り合いに掛け合って。ゴールデンウィーク前だったから会場はほぼ埋まってて、条件付きだったけれど「青山 蜂」なら開催できるってなって。いざ開催したら、集客も想像以上で、それだけニーズがあったんだと思いう。「青山 蜂」からもレギュラーでやりましょうって話をもらって、風営法に対して(「青山 蜂」は2018年「客を深夜に踊らせた」という理由で風営法で摘発された)何かアクションを起こしたいという気持ちもあった。

――二丁目以外の場所を選んだんですね。

みどり:私みたいにそもそも二丁目に行く必要がない人も、LGBTQ当事者で二丁目に行く人達の中でも、二丁目カルチャー的なディーヴァ系のポップミュージック中心のノリや空間、どこの店に入っても同じ音楽が流れてるあの感じが 苦手なクラバーもたくさんいるし、そういう人をターゲットにしたパーティーやカルチャーを渋谷エリアで作っていきたいねって。私は彼女(エリン)がカミングアウトするまで全然知らなかったけれど、二丁目がLGBTQみんなにとって居心地が良い場所ではなく、ほとんどがゲイのための店で、レズビアンのための店は数%ほど、そのどちらもシスジェンダー中心で、トランスジェンダーやその他のセクシュアルマイノリティー当事者が安心して遊べる場所は実はものすごく少ないなど、パワーバランスが存在するので、そういうものに制限されない場所が理想だった。

エリン:二丁目ではシスジェンダーのゲイがマジョリティ、クィアの中でもトランスジェンダーやノンバイナリー、Aセクシュアルなど数の少ないクィアが特に仲間外れにされている。この事件もマイノリティー差別が要因。クラブには音楽好きが良い音を求めて集まるもの、出会いが一番の目的になってるもの、この2種類が存在していて。ベルリンは音楽に特化したクラブが大半で、ストレートとかクィアとか関係なく、シーンがすごく盛り上がってる。実際、 性自認や性的指向を物理的に判断することはできないはずだから。

――イベント名を「WIFE」だと勘違いしていました。つづりは「WAIFU」なんですね。

みどり:新しいパーティーをやろうって盛り上がった時に、いろんな国籍やバックグラウンドのメンバーが集まって英語だけどローマ字つづりで、両方の文化で通じるワードとして「WAIFU」があがって。「WAIFU」ってハッシュタグで SNSや画像検索してみたらわかると思うんだけど、巨大な胸をもつ女性の萌え絵みたいな、キャラクターがたくさん出てくる。

エリン:アニメや二次元のカルチャーでは自分のお気に入りのキャラクターを「俺の嫁」と言う様に女性を自分の所有 物の様な意味合いで「ワイフ」って呼んだりする文化がある。

――ポルノ要素が強い、過激なイラストが出てきますね。良い意味では使われていない印象です。

みどり:クィアって言葉もかつて蔑称として使われていた言葉を当事者があえて肯定的な文脈で使い返すことでリクレイムしてきたという動きがあったので、それを踏まえて同じように立ち上げメンバーの1人がこの名前を提案した。「WAIFU」はアジア人女性を客体化し、所有物として扱うと言った暴力的な意味じゃない。いつか「WAIFU」で検索したら今とは対照的な強い女性のイメージがたくさん出てくるようになったらおもしろいな、ということで。同時に、私達2人は「婦婦」として同性婚が日本の法律で認められるように活動を続けていて、さまざまな意味を重ねて「WAIFU」にしようって。

エリン:昔のフライヤーや告知画像を振り返ると「WIFE」になってる。

みどり:あれって実はスペルミスで(笑)。1回目のフライヤーには白人女性のヌード写真を素材として使ったことで、 議論を呼んだりもした。


――マイノリティーの世界も複雑ですね。

みどり:こういうのが重なり、大変! とはなったけど、その時々に寄せられたさまざまな意見を聞いて運営メンバーで話し合いながら勉強し、少しずつアップデートしていけたらと思ってる。なので「WAIFU」に関してはフェミニズ ムやLGBTQを理解している人で運営を固めていきたいなと。このロゴもフライヤーも一貫してsuper-KIKIちゃんがデザインしてくれた。彼女は「feministD.I.Yクラフター」という肩書で活動していて。今後、 #WAIFUで検索した際に、強い女性像が表示され、「WAIFU」がアンダーグラウンドカルチャーの中でフェミニズムを象徴する言葉になれば嬉しい。

――クィアについての理解度はなかなか深まらない印象ですね。

エリン:最近読書会を主催することになって、ダナ・ハラウェイの作品を課題本にしようと思った。でも、彼女の本の翻訳版は難しい漢字やカタカナの専門用語がずらりと並んでいて、すごく難解で。これを課題本にしてしまうと誰も来ないんじゃないかって(笑)。

みどり:私はストレートだからこそ、「WAIFU」運営チームの中にいる意味があるなと。「え? それ何? どういうこと? 」って疑問に思ったり、シスストレート目線でいられるから。「WAIFU」にしてもLGBTQにしても社会に定着させていきたい思いはすごく大きい。

エリン:アカデミックに理解している人にしか開かれていないし、バックグラウンドがない人は意見することもできない。マイノリティー内で階級や人種の差別などあるのが現状。ベルリンのパーティーとかはそこらへんの意識が高い。

共通する2人の人生のゴール

――「WAIFU」をスタートして、2人の関係性に変化はありましたか?

エリン:パーティーをスタートした頃と、私の性別移行の時期が重なっているから、その変化を端的に説明するのは難しい。

みどり:それまでは私達2人や家族間の問題だったけど、「WAIFU」をきっかけに社会的な活動をシェアするようになって。

――急激な変化ですよね。

みどり:すごく変わった。「WAIFU」のようにパーティーで差別禁止のステイトメントを掲げることが日本のクィア・ シーンやクラブ・シーンで先駆けみたいになって。最近は若い子達もステイトメントを掲げてイベントをやるようになってくれた。

エリン:トランスジェンダーとしてカミングアウトして、メディアなどにも出て、意見を求められるようになって。その当時のことを振り返ると、間違っていたこともある。それって全く悪いことではないんだけど、日々自分の考え方は変 化している。

みどり:家族の新しい形をテーマにインタビューされることが最近ぐっと増えた。私達はもともと恋愛関係にあったけど、今は一切ない。彼女は彼女で恋人がいて、私は私で恋人がいたりいなかったり。当初の予定では、1月から彼女の恋人も来日して一緒に住むって話になってたんだけど、このコロナでビザ待ちでまだ実現できてない。

エリン:もう1年会えてなくて、すごく疲弊してる。

みどり:何がどう作用して、どんな変化を生んだのかってことはわからないけれど、関係性はすごく変わったと思う。 悪いほうには全く変わってないけど。出会った時と今の関係は全く別物だけど、結局のところ人生におけるゴールはお 互い共通してる。人権を持って幸せに生きたい、そのために何かできることをしたい。これって多分私達だけでなく、みんなに共通しているゴールなんじゃないかな?

――パーティーを運営していて大変だったことは?

みどり:昨年の12月に渋谷のCONTACTでオールナイトのカウントダウンイベントを開催したの。無観客じゃなくて、お客さんを入れるイベントだったから「この時期に何をやってるんだ!」って、「WAIFU」のお客さんの中でもバッシングする人が出てきて。私達は対権力を重要視していて、コロナへの国の対策には不信感や抵抗感がある。なんで夜8時まで? 酒類の提供をやめる理由は?

――納得できない部分が大きいですよね。

みどり:それに加えて、私達は若い世代の人々をすごい大切に思う気持ちも開催の動機だった。10代、20代の1年は貴重だし、コロナだからただひたすらじっとしていましょうって、そんなのメンタルがやられてしまう。今でも日本の若年層の死因の一番は自殺で、コロナや病死はわずか。若い子達のサポートをしたいっていう意味でも、強行突破してイベントを開催した。開催前もあともいろんな意見があったけれど、賛否両論だよね。何が正しいかなんてすぐにわかるはずがないから、自分達で判断するしかない。

エリン:企画を進めた10〜11月頃は少しコロナもおさまっていたから、大丈夫かなって。そこから年末にかけて感染者数が急増して、キャンセルしたほうがいいんじゃないかって話もチーム内で浮上したけれど、DJにもすでに出演をオファーしてるし、私達にはキャンセルする資金なんてなかった。

みどり:資金がないっていうのもあったけど、本当に多くの出演者がギャラの問題以上に、この状況の中で開催することに意味を感じてくれていたし、やっぱりやりたい気持ちが強かった。クラブ側からキャンセルを打診されたら、中止したかもしれないけれど、クラブ側が人を入れたいのであれば、そこにあるカルチャーをサポートしたい気持ちが強かったから。それからいろいろあって、パーティーやイベントをしばらく休んでいたけれど、がんで亡くなったドラの命日に「SUPER DOMMUNE」で追悼イベントを開催した。

アクセシビリティが保証され、アンダーグラウンドな唯一無二の「DOMMUNE」とタッグを組む

みどり:車椅子ユーザーでジャーナリスト兼ファッションライターの徳永啓太君や全盲で「NPO NEW VISION」を設立した松村智也君をトークゲストとして呼び、アクセシビリティとクラブについて語ってもらって。日本でバリアフリーでイベントをやれるのってCONTACTくらいしかない。アンダーグラウンドであればあるほど、設備などが整っていないのが現状で。そういう話をDOMMUNEでテーマにしたら、「パルコって最高じゃんって。エレベーターもあるし、そういう方々が不自由なく使えるユニバーサルトイレもある。パルコでパーティーやればいいんじゃない」って展開になって。 DOMMUNEの宇川直宏さんも「この場所にそんなメリットがあるなんて!」って驚いてたし、後日別のイベントでもこのことに触れて、宇川さんが「身体障害者手帳の提示でDOMMUNEの入場を無料にします」って宣言してくれた。コロナがおさまるまでは難しいけれど、屋上でパーティーもできるし、今後はアクセシビリティも保証されていて、アンダーグラウンドなDOMMUNEと手を組んで新たなプラットフォームを築いていけたらいいな。

エリン:クィアの人達は孤立しやすい傾向にあるけど、痛みを知っている分優しいので、モラルなどを気にして行動できないのは違うかなって。自分達で今の状況を把握して、1人ひとりが責任持って行動してもらうしかない。

――2人がそれぞれ思い描いている未来はありますか?

みどり:毎日のことで精一杯だから先のことを具体的には意識してないけれど、1年に何回かイベントを開催できればいいな。マイノリティーの人達も来れる、条件の良い場所で、アンダーグラウンドの素晴らしい出演者がたくさんのや つ。配信だけじゃなく実際のイベントができればと。

エリン:遠い将来のことは考えてないけど、出張「WAIFU」は実現したい。

みどり:関西には「SLUT WALK OSAKA(リンク)」というイベントがあって、一緒に何かできたらって話をしていて。

エリン:私は来年仕事で1年ベルリンに移住する予定で、ドイツのクィアのフェスとも関係を持たせられたらいいな。今は「WAIFU」以外にも「SLICK」という野外レイブパーティーもスタートさせたから、それぞれの特性を生かし、すみ 分けしながら継続していきたい。「WAIFU」はスローガンを掲げ、制約があることでセーフティーネットになっていて、クィアでソフト。「SLICK」はベルリンのパーティーを意識してクィアでハード。そこでやろうとしてるパフォーマンスは「WAIFU」ではできないの。それを見てトラウマを思い出す危険性が潜んでいるから。「SLICK」は無法地帯。

みどり:「WAIFU」は元から意識を持っている人の集まりで、「SLICK」は意識が低くても、パーティーに来場してもらうことで意識を持ってもらうことに意義がある。「WAIFU」はセーフティーになり過ぎちゃってる側面もあるけれど、そういう場所があることがとても大事。 私達には「SLICK」「WAIFU」どちらも必要で、継続していくためにこれからも試行錯誤していきたい。

エリン・マクレディ
米国オハイオ州生まれ、テキサス州オースティン育ち。テキサス大学大学院修了。 青山学院大学 英米文学科教授・ファッションモデル。言語学者。専門は形式意味論、言語哲学。 オレゴン大学在学中に日本のパンクバンド「BOREDOMS」に魅せられ1994年に早稲田大学への留学を果たす。卒業後 再来日し現妻、みどりと出会い、互いのクラブ好きから意気投合し結婚。大学院修了後、大阪大学の研究員を経て現職 へ。 妻みどりとは「WAIFU」と「SLICK」のイベントの他にみどりとパートナーの3人でアートコレクティブ「MOM」と して現代美術の制作発表も行っている。

もりたみどり
奈良県生まれ。アーティスト・イベントオーガナイザー。クラブができ始めた1990年頃から繊維素材を使ったアーティストとして活動し、クラブなどのデコレー ションを関西中心に手掛ける。1994年から約2年間、青年海外協力隊員としてヨルダンの大学でテキスタイルを指導する傍らパレスチナキャンプなどでボランティア活動を行う。2000年にエリンと結婚、3人の息子がおり最近は若手クリエイターの育成にも力を注いでいる(長男は都内でDJ、アーティストして活躍中)。母となったあとはとりわけ社会問 題に関心を持ち、ここ数年は特に韓日問題など戦後の日本のあり方についての作品を韓国で発表し続けている。

Photography Shimpei Nishioka
Cooperation NEWSANDO

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中毒性のある読書体験を提供する出版レーベル「焚書舎」の危ない魅力 https://tokion.jp/2021/05/13/funsho-sya-hajime-matsushita/ Thu, 13 May 2021 06:00:31 +0000 https://tokion.jp/?p=29178 音楽をベースとし、独自のカリスマ性を持つアーティストの書籍を出版する焚書舎。多様なバッググラウンドをもつメンバーとともに焚書舎を運営する松下源がその実態を語る。

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ラテンの世界を知らない読者も魅了した『YOSHIRO ~世界を驚かせた伝説の日本人ラテン歌手~』。本書はYOSHIRO広石のライヴを焚書舎のメンバーである松下源が訪れたところからふたりの交流がスタートし、レコードのリリースを経て、YOSHIRO広石の壮絶で魅惑的な半生に引かれた松下がインディーズ出版社、焚書舎の仲間とともに作り上げた体験記である。焚書舎がリリースしてきたラインナップを見ると、ナンセンスでアクの強い高木壮太の『荒唐無稽音楽事典』や今や世界から注目を集めているオートモアイの『Endless Beginning』など、一筋縄ではいかない癖の強さがありながら、個性が輝くものばかりだ。その焚書舎という名前にはレイ・ブラッドベリの『華氏451』をほうふつとさせるものがあり、より一層好奇心が刺激される。思い出野郎Aチームのメンバーであり、DJサモハンキンポーとしての活動やMAD LOVE Recordsの運営、さらには焚書舎の主宰等、さまざまな顔を持つ松下源に、謎多き出版レーベルについて語ってもらった。

——レコードレーベルだけでなく、出版レーベルを立ち上げようと思ったきっかけを教えてください。

松下源(以下、松下):実は大手出版社での勤務経験があって。でも、担当していたのは電子書籍の制作や編集だったので、紙の本のノウハウはゼロの状態からのスタートでした。焚書舎を一緒に運営している高木壮太さんはプロデューサー、ミュージシャンで元々家がご近所同士で。壮太さんから本を作りたいと思っているんだけどって相談をもらったのが始まりです。出版社での経験を生かしたいなと思いつつも、一から紙の本を作ったことがなかったので思い悩んでいたところ、手を差し伸べてくれたのが僕が所属しているバンド、思い出野郎Aチームのギターの斎藤録音くんでした。彼は別の出版社の編集として働いていたので、紙の本の知識があって。以前の出版社のつながりで装丁を國枝達也さんにお願いし、2014年に焚書舎の記念すべき1冊目として高木壮太さんの『荒唐無稽音楽事典』を出版しました。

——焚書舎って出版社名は強烈ですよね。

松下:この本を制作している過程で、出版社名を決めなきゃってなった時に壮太さんが「焚書舎ってどう?」ってアイデアを出してくれて。みんなでゲラゲラ笑いながらそれだ!ってなってそのままの名前でいつの間にか続いてる状態ですね。

ちょっと危なくてクールな本を作りたい

——出している本のジャンルもバラバラですよね。オートモアイさんの画集が高木壮太さんの本と並んでるのが個人的にはいいなって。

松下:周りにいるヤバい人の作品を本にしよう、という感じですね。最初に目指したのは究極のトイレ本で、ちょっと危なくてクールな本を作りたいって思いはありました。今後も本を出していこうっていうビジョンは全然なかったんですが、『荒唐無稽音楽事典』が想像以上に話題を集めて売れたので出版社としてのモチベーションも上がって、そんなタイミングでオートモアイさんに会って、この人の描く絵、かなり危険だなと思って。じゃあ、画集も出そう、個展もやろうって。

——オートモアイさんのスピード出世はすごかったですね。

松下:本当ですよね。いろんな大手ブランドとも仕事をしているけれど、作家としての芯は昔から全く変わらないし、エネルギッシュな活動姿勢は本当に尊敬しています。最初は大判で出して、文庫版は最新の作品も追加収録して重版しました。

——そこに『YOSHIRO』が加わったんですね

松下:3、4年前にレコード制作の仕事でYOSHIRO広石さんとは知り合っていて、それをきっかけに家に遊びに行ったり仲良くさせてもらってたんですけど、知れば知るほどこの人やばい人だなって。雑誌『ラティーナ』でのYOSHIROさんの連載を読んで、これは絶対世に残しておくべき内容だと思って、出版の話をオファーしました。元原稿を一から焚書舎のメンバーで読み上げて手直ししつつ、YOSHIROさんが増やしたい箇所を膨らましたりして。制作中にはYOSHIROさんとぶつかることも度々あって、最後のほうはお互い追い詰めあって、ギスギスしてました(笑)。

この本が焚書舎に加わって、設立当初の理念「究極のトイレ本」から少し方向転換し始めましたね。インディー出版のクオリティーの域をはるかに超えたものになったと思います。以前雑誌『BRUTUS』の「危険な読書」って特集に『荒唐無稽音楽事典』が選書されていて、本屋で見つけた時思わずニタニタしましたね。危なくてクールな本を作るっていう根底は変わらないです。オートモアイさんの作品もドラッギーなところがあったり、焚書舎はそういう出版社でありたいって道筋が見えた感じでした。

——松下さんがラテンミュージックに興味を持ったきっかけをおしえてください。

松下:深くのめり込むきっかけを与えてくれたのは、YOSHIROさんでした。それ以前にも、VIDEOTAPEMUSICのバックバンドとしてライヴやレコーディングに参加したりして、そこでサンプリングされてるものや曲調もラテンのものが多くて、日常的にラテンに触れてはいたんですが、『YOSHIRO』を編集している時にずっと本に出てくるラテンのアーティストの音源を片っ端から一日中聞いてて、うわあ、これ沼だなと思って。あと、2018年にYOSHIROさんのキューバツアーに同行してボレロのヤバさに気付きました。さらに深く潜り込んだのはこの本のおかげだと思います。

——元々音楽にハマったきっかけは?

松下:母方のおじさんが、刑務所に入ったり出たりしてるドロップアウトしたアウトローな人で、京都の不良なんですけど、高校の時に、よく改造したアメ車でドライブに連れて行ってくれてて。滋賀の田んぼのあぜ道とかを走っている時にウーファーから爆音で流れてたのがVP RECORDSのコンピの超トロトロのラバーズロックで、重低音の気持ちよさに目覚めて、そこからレゲエやソウルなどに興味は移っていきました。

——聴く側から演奏する側になったのは?

松下:大学のジャズ研究会でジャズのできない人たちが集まって組んでいたバンドが思い出野郎Aチームで、いいバンドだなあと思って最初はお客さんとしてライヴに遊びに行ってたんですが、メンバーが一時失踪していなくなっちゃったんで、ボーカルのマコイチくんに「パーカッションできそうな顔してるからやってみない?」って言われたのが始まりですね。パーカッションはやったことがなかったんですが。

最近は、浜口茂外也さん(日本を代表するパーカッショニスト。元ティン・パン・アレーのメンバー)に顔似てきてない!?って言われることが度々ありますね。

——改めて、いろいろなことをお仕事にされていて、一体何してる人かわからないですよね。

松下:自分でも何してんのかよくわかってないですね(笑)。なかなかバンドだけで生活するのは難しいので、やりたいことを片っ端からやっていくつか収入の柱を作っていたら今の仕事のスタイルになりました。今回のコロナでDJとライブの収入がほぼゼロになったけど、本やレコードのレーベルの仕事があったからなんとかなった。1本に絞ってなくて良かったなって。

——求められていますよね、時代的に。マルチにやってくれみたいな。

松下:自分の中ではいい学校出て、いいところに就職してっていうのはもう幻というか、自分でやっていくしかない状況になってきてますね。やりたくないことはできない性分なので、自分の頭を使ってサヴァイブしていくしか選択肢がないというか。

レーベルも出版社も5、6年続けてようやく認知もされてきたって感じで、技術やノウハウも増えていくし、すぐやめなくてよかったなって最近よく思います。

電子書籍では得られない、紙の本特有の魅力

——今の時代、音楽はサブスクに移行しているイメージがありますが、紙の本を買う層はまだまだ多いですよね。

松下:ほとんど電子書籍は読まないですね。情報の質量も紙の本のほうが圧倒的に多くて、単純に手に取った時に心が踊るじゃないですか。紙に印刷された文字っていうのは、スマホやパソコン、タブレットなどの電子書籍の文字と頭にインプットされる場所が違うと思うんですよ。だからこそ、データ化が進んでも紙の本はなくならないだろうし、作り続けようと思いますね。

本の業界って、取次を通してやらないとなかなか流通が難しくて。今までトライしてもインディーズ出版は門前払いだったんですけど、この4月から流通代行のトランスビューのおかげで間口が広がるのが嬉しいです。トランスビューを利用しているインディー出版社のカタログみたいなものがあるんですけど、有象無象の自費出版社が存在している実態を改めて知って、ようやく同じような人たちを見つけた!って。

——最後にこれからのリリースや刊行予定を教えてください。

松下:焚書舎からはHiraparr Wilsonというすてきな友人のアーティストの画集の刊行を予定しています。MAD LOVE RecordsからはLatin Quarterという横浜のプロデューサーのEPをカセットテープでリリース予定です。お二方とも素晴らしいアーティストなのでチェックしてみてください。

松下源(DJサモハンキンポー)
DJ、ミュージシャン、編集者。MAD LOVE Records主催、焚書舎構成員、思い出野郎Aチームのパーカッショニストという顔を持ちながら、大小問わず数々のパーティーにDJとして出演し、夜の夢を詮索中。

https://funshosha.stores.jp
Twitter @hajimematsushit
Instagram @djsammohungkambo

Photography Mayumi Hosokura
Cooperation du cafe & bookunion Shinjuku

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伝説の日本人ラテン歌手YOSHIRO広石。81歳にして尽きることのないラテンミュージックへの情熱 https://tokion.jp/2021/04/20/latin-singer-yoshiro-hiroishi/ Tue, 20 Apr 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=27865 1964年の東京オリンピックの頃、急速に再興する日本から単身で南米に飛び込み、スターになったラテン歌手YOSHIRO広石の体験記を元に、知る人ぞ知るミュージシャンの素顔に迫る。

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東京オリンピックの開催は未だ光は見えない状況だが、1964年に開催された東京オリンピックは当時、「有色人種」国家における史上初のオリンピックという意義を持ち、アジアやアフリカにおける植民地の独立が相ついだことで、過去最高の出場国数となった歴史に残るものだった。日本の転換期だったこの時代に、ある日本人が南米でラテンミュージック歌手として華々しい活動をしたことが記録に残っている。『YOSHIRO広石 / YOSHIRO~世界を驚かせた伝説の日本人ラテン歌手~』は私達の多くが知らない、日本の伝説の歌手の壮絶かつユニークな軌跡を追った、貴重な体験記だ。思い出野郎AチームのDJサモハンキンポーと齋藤録音、装丁家の國枝達也、音楽プロデューサーの高木壮太等が主宰する焚書舎から出版されたこの本を、著者、YOSHIRO広石に語ってもらった。

死ぬことが美しいことだと信じていた早熟な子供時代

――YOSHIROさんの幼少期の環境から掘り下げていきたいと思います。

YOSHIRO広石(以下、YOSHIRO):僕の家族は、優しくて、かわいがられ過ぎたくらい。自分のセクシュアリティがマイノリティーであることに自分自身が早い段階で気付いていて、そんな僕に好きなことをやらせてくれる両親でしたね。まだ戦争の爪痕が残る昭和20年、小学生だった僕は集団行動が苦手なタイプで、朝礼の時にも校長先生に「坊主ならばいい学生だって証明してください」と言ったり、生意気というか早熟な子どもでした。当時はインターネットもないし、同性愛についての情報も少なくて。図書館で調べたり本を読む中で、自分の存在を悪だと思い込んで、この先どうやって生きればいいのだろうと考えたり、三島由紀夫や芥川龍之介の小説から影響を受け、死ぬことが美しいことだと信じたりしていました。だから、この場所(大分)から離れて遠く遠くへと逃げていきたいなと。

――学生時代から大阪などの都市にも出てましたよね。その軍資金はどうしていたんですか?

YOSHIRO:その当時、家は金銭的に余裕があって、旅費などはお小遣いから捻出したり、その場でお金がなくても親が代わりに送金してくれたり、その当時はお金で困った記憶はないですね。別府から関西汽船に乗りこんで、夜に出港した船が朝には神戸港に着いて、そこから電車で大阪へ向かって。ジャズのレコードがかかっていたり、バンドが生演奏していたり、そういったものは当時ひとまとめにジャズ喫茶と呼ばれていました。東京や大阪にはそういった場所がたくさんあり、一流の人も出入りしていました。勘を働かせて、ふらりと入ったジャズ喫茶にあの朝丘雪路さんがいて、僕はどうしても歌いたいってその店の人に頼み込んだら、子どもだからおもしろがられていたのか、すんなりOKが出て。歌ったら拍手喝采とは言わなくても、優しいお客さんが一応拍手してくれましたよ。きっと朝丘さんも見ていてくれたんじゃないかな。そして、中学1年の時に僕はその道に進もうと心に決めました。親も僕が同性愛者だと気付いていたと思いますし、いろいろあったけど、僕の決意が揺らがないことに理解を示してくれてました。学校に行ってても自分のセクシュアリティがバレてしまったたらどうしよう、そんな強迫観念があって、逃げるように東京へ向かいました。その時には歌の世界に入れる確証はなかったけれど、バレエダンサーにでもなれたらいいなと。

――東京に来てからはどんな生活でしたか?

YOSHIRO:東京に来たのは昭和32年。昭和初期に上海で花形ジャズシンガーだった水島早苗さんのところに入り込んで、まずは歩き方や裏拍などの基礎を学んで。その時はラテンではなくジャズ・シンガーを狙っていました。米軍キャンプのステージに立つ予定だった人が急病で、ピンチヒッターとして歌うチャンスを得てから、米軍キャンプで経験を積むようになって。プラッターズナイトでは、短い期間で5曲プラッターズの曲を覚え、レパートリーもどんどん増えていきましたね。

ワクワク感、運命に導かれ南米へ

――この体験記を読むと、YOSHIROさんって強運の持ち主だなと。そのチャンスをつかみ取るためには度胸も必要だったと思いますが。

YOSHIRO:飛び込まざるを得なかったというか、その音楽の世界に飛び込まないと生きる道がないと信じていましたし。冒険や挑戦することはとてもワクワクするし、そのワクワク感に導かれていたのかなと。もちろん相当な苦労もありましたけど。

――南米に行く前はラテンミュージックへの興味は?

YOSHIRO:実は、ラテンというジャンルも知らなくて。昭和30年、ペレス・プラードの映画で世界的に「セレソ・ローサ」が大ヒットを飛ばし、日本でもマンボが一般的になって三人娘(美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ)もカバーしましてね。でも、日本ではラテンではなく、ポップスというくくりだった。

僕自身はラテン系の軍人も多い米軍キャンプで開催されたラテンナイトで歌ったり、東京キューバンボーイズでも歌えるようになってから、自然とラテン歌手として活動するようになってました。そして、昭和35年にNHKでラテン歌手としてデビューはするんだけど、日本の歌謡曲が苦手で、とにかくその当時の歌謡曲は単純で洒落てなくて、自分には合ってなかった。一応、5年くらい、期待の新人みたいな枠で売り出されていて、他の人は売れていくけど、僕は歌謡曲をやらなかったからか、なかなかヒットを飛ばせなくて。米軍キャンプでの僕のステージは当然全員がアメリカのお客さんで評価はすごく良かった。だったら外国に行った方が早いんじゃないかって。

――ベネズエラの人気テレビ番組に出演するのは何がきっかけでしたか?

YOSHIRO:東京オリンピックの年にコーヒールンバの女王と呼ばれたエディス・サルセードとステージを共にした日、僕が自費でプレスしたプロモーション用のソノシートを彼女に渡したんです。それで翌日、彼女から突然連絡が来て。旧NHKがある内幸町に出向いて話をすると、あなたベネズエラに行く気はないですか?って。もちろん行きたいけど、どうやっていくの!?ってなって(笑)。現地の超人気番組だったラジオカラカスTV「エル・ショー・デ・レニー」のレギュラーだった彼女は来日前に、ベネズエラから売り出せる日本の歌手がいたら連れてきてほしいと頼まれていたと。

これは東京オリンピックの10年後だったら実現しなかったはずです。日本はアメリカに戦争で負けて、復興する国として、反米意識のあるラテンアメリカから注目されていて。それと同時にアメリカも南米も経済が右肩上がりで。いいタイミングだった。

日本を独自解釈したユニークなパフォーマンスでスター歌手に

――本で描かれているYOSHIROさんは随分ぶっ飛んでますよね。

YOSHIRO:普通のことをやっても注目されないだろうと。歌舞伎関係の人に衣装の引き抜きの手ほどきをしてもらったり、下駄でタップダンスやローラースケートなど、いろんな要素を取り入れてパフォーマンスしました。歌で勝負しても現地の歌手にはかなわないし、ただ着物を着て歌っただけじゃ、1日で飽きられる。和の要素を取り入れた派手な衣装で、カメラが追いつけないほど暴れ回りながら踊ることで、視聴者の予想を良い意味で裏切れた。プリンセス天功もアメリカで人気が出たけど、あちらの人が思い描く日本人像を演じることはとても重要だった。扇子をクルクル回していると、落としちゃったりもするんだけど、それで笑いをとってね。

――瞬時に対応できるのがすごいですね。

YOSHIRO:失敗で笑いを巻き起こすこともできたし、何よりも成功話を本に書いたって、読む人はおもしろくないでしょ。人の不幸は蜜の味だし、失敗談がおもしろい。確かに成功はしたけれど、大金を得てもすぐ失ってしまったり、ずっと波乱万丈でした。日本は治安が良くて、安心して歩けますよね。外国だと相手がピストルを持っている可能性もあるし、ディスカッションも加熱し過ぎると危険だなと。

――現地の人達の仕事に対する姿勢の違いは感じましたか?

YOSHIRO:時間に対する概念が決定的に違う。驚くほどにルーズで、1、2時間の遅刻は当たり前。生放送のテレビ番組でさえ、5分くらい平気で遅れたりする。今は違うと思いますが。日本の場合はクラブやキャバレーなどで歌う歌手に対してのリスペクトは感じなくてつらかった。ホステスなど女性が接待で席につくし、ショーがメインではなくオマケみたいな。会社の偉い人や政治家はジャズに興味なんか持たないでしょうしね。プロの歌手にとってはやりづらい環境でした。

――歌手生活の中で回った国々で、特に思い出がある国はどこでしたか?

YOSHIRO:それは時代によって変わっていきますね。一番成功してお金をもらえたのはベネズエラで、今では世界のなかでも一番に破綻した国になってしまいましたが。当時ベネズエラは経済活動の95%を石油に頼っていて。社会主義に切り替えてからは難しくなったと思います。

――日本と南米の行ったり来たりをくり返す中で、日本の変化をどう感じていましたか?

YOSHIRO:日本を一番長く離れていたのは3年間でしたが、街の風景は変わったと思いますね。僕は新宿にいることが多かったけど、渋谷の道玄坂にはキャバレーがあってね。戦後の闇市から、あんなふうに変わるなんて。ただ、歌う場所はすごく少なくなりました。一流のミュージシャン達のギャラも安くなって。カラオケが一世を風靡して、打ち込みのああいう安っぽい音楽が増えましたよね。僕はカラオケに誘われたとしても、行かないです。プロじゃない人の歌を聞いてもおもしろくないし、歌ってもお金もらえるわけでもないですし。それに、悔しいけど、素人のほうがうまかったりしてね(笑)。

――現在の日本のラテンミュージックシーンのリスナーはどれくらいいるんでしょうか?

YOSHIRO:一定数はいるけど、非常に少なくはっきりした数字はわかりません。今はYouTubeやネット配信が主流でCDの売り上げも落ちていますね。そんな中で、DJサモハンキンポー(焚書舎)が7インチレコードをリリースしてくれるのはありがたい。ルパン三世のテーマソングを再レコーディングし、「かもめやかもめ」もリズムや歌い方を僕らしいアレンジを加えたものも近々リリース予定です。それにこの本も本格的に流通するみたいなので、またあの頃のようにワクワクしています。でも、ちょっと辛いのは4月に81歳になるので……。

――81歳!それは凄い

YOSHIRO:リズム感やキレをキープするために、オリンピック選手並に腹筋などのトレーニングが必要なんです。歌に関しては、年齢を重ねると渋さが増して味になりますが。若い時の良さもあるけど、声の限り歌っていてあまりおもしろくないんですよ。僕には海外での生活やショービジネスがあっていたけれど、不運にも熱帯病にかかって闘病生活を強いられる時期もありましたし、アルコール依存症も経験していて大変でした。それは、物心つく頃からゲイだと自覚していたので、自己肯定感が欠けていたからかもしれません。それでも、僕は歌手の道を選んで正解だったなと。ゲイであることで、普通の人だったら生み出せない高揚感や繊細でエロティックなムードを醸し出すことができますから。

YOSHIRO広石
1940年生まれ。日本を代表する国際的なラテン歌手で1965年べネズエラのTV局に招かれたのを機に、北、中南米で高い人気を得る。その後現在まで日本、海外をいったりきたりの活動。現在まで15カ国以上でアルバムが発売されている。1999年文化庁芸術音楽部門優秀賞を受賞。2005年度、キューバより音楽功労賞受賞。

Photography Mayumi Hosokura

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