「10年後はないかもしれない」大友良英、60代半ばで到達したギター&ターンテーブルの自在境 -後編-

大友良英
1959年生まれ。常に同時進行かつインディペンデントに即興演奏やノイズ的な作品からポップスに至るまで多種多様な音楽を作り続け、世界中で活動する。映画音楽家としても100作品以上の音楽を手掛ける。震災後は故郷の福島でプロジェクトFUKUSHIMA!を立ち上げ、現在に至るまで様々な活動を継続している。福島を代表する夏祭り「わらじまつり」改革のディレクターも務める。
https://otomoyoshihide.com

ギターもターンテーブルも今まさに最高のプレイができる——前編のインタビューで大友良英はそのような手応えを語っていた。『Solo Works 1 Guitar and Turntable』(2023年)には、そうしたいわば自在境に到達した彼のインプロヴァイザーとしての姿がありありと収められている。リリース元は昨年スペシャルビッグバンドの『Stone Stone Stone』を出した新レーベルLittle Stone Recordsだ。同レーベルからは今後も大友のソロ・ワークスがリリースされる予定で、『Solo Works 2』はライヴ盤を、『Solo Works 3』ではクリスチャン・マークレーをテーマに構想中だという。

前後編に分けたインタビューの後編では、ほとんど前人未踏だったと言っていい実験的ターンテーブル奏者としての活動を中心に話を訊いた。即興でのコラージュを出発点としつつ、カンフー映画を手本に(!)スピードを追い求め、さらにレコードを使わないエクストリームなターンテーブル演奏からインスタレーションへと繋がっていくなど、その足跡は実にユニークだ。そして多くのリスナーがおそらく意外に感じるかもしれないが、大友は自身について「フリー・インプロヴィゼーションの文脈の人間ではないかもしれない」とも語る——。

クリスチャン・マークレーという衝撃

——後編ではターンテーブルを中心にお伺いできればと思います。ターンテーブル奏者としてのキャリアが本格的にスタートしたのは、高柳昌行さんのもとを離れてからですよね?

大友良英(以下、大友):そうですね。でも実際は高柳さんのところにいた頃から演奏自体はしていました。ライヴは禁止されていたから、人前では数えるぐらいしかやっていなくて、ほとんどは宅録だけれども。だから本格的に演奏活動を始めたという意味では、高柳さんのところを飛び出した後ですね。

——ターンテーブルではないものの、子どもの頃からテープレコーダーを用いた音楽制作はされていたとか。

大友:中学、高校の頃かな、テープレコーダーでコラージュを作ってました。ターンテーブルも最初はコラージュとしてやりたくて、ヒップホップとは全く別の文脈で始めたんです。

——コラージュというのは、いわゆる具体音楽(ミュジーク・コンクレート)のようなものですか?

大友:そう、ピエール・シェフェール的な具体音楽を即興でやりたいと思ってた。でもターンテーブルだけを使うようになったのは、やっぱりクリスチャン・マークレーと出会ってからです。それまではカセットテープやオープンリールテープをターンテーブルと一緒に使っていたけど、クリスチャンを見て「ターンテーブルだけの方がカッコいいな」と思った。それも音楽を聴く前、最初はクリスチャンの写真だけを見たんですよね。

——あの有名な、ターンテーブルをギターのように肩から下げて弾いている「フォノギター」の写真ですか?

大友:いや、それじゃなくて、ターンテーブルを4台並べて演奏してる写真でした。それを見て純粋にカッコいいなと思った。だから想像上のクリスチャン・マークレーみたいなものが僕にとってターンテーブル演奏の1つの出発点になってるんです。音を初めて聴いたのは副島輝人さんのドキュメンタリー映画でした。「メールス・ジャズ・フェスティバル1984」を撮影した8ミリフィルムの映像。その後、ジョン・ゾーンのレコードでもクリスチャンの音を聴いて、やっぱりカッコいいなと魅了されていった。1984、85年頃。その頃はもう完全にターンテーブルだけで演奏するようになっていたかな。

——1986年にクリスチャン・マークレーが初来日した際も観に行かれていますよね?

大友:もちろん。東京公演全部観てる。というか、来日時クリスチャンのアシスタントをやっていましたから。副島輝人さんの企画だったけど、前の年に副島さんから「デヴィッド・モスを日本に呼ぼうと思っていて、もう1人呼ぶ予算があるんだけど、誰がいい?」って相談を受けて。それで「絶対にクリスチャン・マークレーにしてください! オレ、手伝いますから!」って懇願した(笑)。だから僕、手伝いで毎日ずっとくっついて回っていたんだよ。で、やっぱり実際にクリスチャンを観たらかなわないと思いましたね。とにかくカッコよかった。スピード感といい音源のチョイスといい、もうひれ伏すしかないぐらいすごかった。

「即興でコラージュすることが圧倒的に新しかった」

——ターンテーブル演奏には、やはりギター演奏とは異なるおもしろさがありましたか?

大友:そもそも全く別の技術が必要ですからね。ターンテーブル演奏は当時、作曲でコラージュするのとは違って即興でコラージュができるというのが、僕にとっては圧倒的に新しかったかな。録音された素材をその場でどんどんコラージュしていく。当時はまだちゃんとしたサンプラーもなかったから、即興でのコラージュはとにかく新しく見えた。可能性も感じた。その前にやっていたカセットテープのコラージュの先に行ける気がしたというか。

当時、高柳昌行さんがカセットテープのコラージュに取り組んでいて、実はあの機材は僕が作っていたんです。だからそういう種類のコラージュはずっとやっていたけど、スピード感という点で、カセットはどうしても作曲作品みたいになるんですよね。それよりもターンテーブルの方が即興的でカッコよくて。その意味でも人生で最も打ちのめされたのは、やっぱりクリスチャン・マークレーのライヴを観た瞬間かな。

今だから言うけど、高柳さんのところを辞めた大きなきっかけも、クリスチャン・マークレーと出会ったことだと思う。もう、すぐにでもライヴをやりたくて、でも高柳さんのところにいるとライヴをやらせてもらえない。それまでも隠れてやっていたけど、クリスチャンと出会ってからは、もうライヴをやりたいってしかならなくて、それが雑誌に載ってバレちゃって、大喧嘩になったんです。それで高柳さんのもとを飛び出したから、今考えるとクリスチャンがきっかけだよ。

——1980年代にジャズ寄りの現場で実験的ターンテーブル演奏のライヴをすることはとても珍しかったですよね。というより大友さんしかいなかったと思うのですが、周囲のミュージシャンからはどう受け止められていたのでしょうか?

大友:いやー、孤独だったよ。いわゆるジャズの人達の大半は僕のことなんか認めてくれなかったし。ただ、その時におもしろがってくれた人達もいて、それがたとえば広瀬淳二さんや黒田京子さん、加藤英樹や植村昌弘、勝井祐二や菊地成孔だった。広瀬さんや黒田さんは少しだけ先輩で多少は知られていたけど、加藤、植村、勝井、菊地あたりはまだ無名の青年だった。1987年に黒田さんのバンドに参加してからジャズ・ミュージシャン達との付き合いも生まれたけど、当時はジャズがやりたかったわけではないからね。たまたまジャズの現場が最初だっただけで、その後はホッピー神山やレックとやるようになってロックの現場にも行き出して、そしたらロックの方が遥かにオープンだと当時は感じました。とにかくおもしろい音を出したら何でもオッケーみたいな。そうそう、今思い出したけど、ホッピー神山とかレックとロックをやるときはギターも弾いてたな。

だから、やっぱり高柳さんなんですよね。「ロックは高柳さんとは関係ない」という言い訳が僕の中にあったんだと思う。ロックの現場ではノイズ・ギターもやっていたけど、普通にギターを刻むこともあった。ホッピー神山とかレックのバンドだと気楽なんですよ。高柳さんが関係ないから。ジャズの現場に行く時だよね、ギターを持って行けなかったのは。ターンテーブルでライヴをやっていたのも、僕の中では「ギターじゃないからライヴやってもいいでしょ」という言い訳があった(笑)。そのくらい高柳さんの存在が大きくのしかかっていたんだと思います。でも確かに当時ターンテーブルは珍しかったです。ヒップホップ以外ではそもそもターンテーブルを持ち込む人なんかいないし、僕の場合はテクニクスじゃなくて自作のターンテーブルを使ってましたからね。そんな人は日本では誰もいなかった。

カンフー映画で培ったターンテーブルの速度

——本来ターンテーブルは音楽を聴くための装置で、演奏するために作られた楽器ではないですよね。セッションの際にギターのように即座に反応することは難しいと思うのですが。

大友:これは自慢みたいになってしまうけど、ターンテーブルでも割と即座に反応できたんです。だからいろいろなところに呼んでもらえたのだと思う。1年間ぐらいヒカシューのゲスト・メンバーになったこともありました。あれは1990年だったかな。

——ターンテーブルの演奏技術に関しては、ヒップホップを参照することもありましたか?

大友:いや、ヒップホップの影響は全く受けなかった。スクラッチもやらないし。そうではなくて、コラージュをひたすら速くやる感じかな。だから全くの独学ですね。もちろんクリスチャン・マークレーの影響はあるけど、その前からやっているので。ピエール・シェフェールみたいなことをライヴでやりたい、というのが出発点で、その後クリスチャンを知って「これだ!」と思った。

最初はテープレコーダーとかを使っていたけど、ライヴでテープを使う人は、高柳さんもそうだし、ボブ・オスタータグとか、そういう人達の音楽ももちろんチェックしてました。でも当時はテープだと作曲っぽくなる感じがしたのと、ゆっくり変化する感じのものが多くて、やっぱりカットアップみたいに速くしたかったんです。そこにはジョン・ゾーンの音楽の影響も大きかったし、ハイナー・ゲッベルスとアルフレート・ハルトの「Peking-Oper」みたいなコラージュと生演奏のカットアップを自分でやるのには、ターンテーブルはぴったりの楽器だと思ったんです。瞬間的にカットアップできるし、速いビートに合わせて変化させられる。で、独学だったけど、当時はとにかく速くやりたかったので、香港のカンフー映画に合わせてターンテーブル演奏の練習をしてました(笑)。

——速度を求めていたと。

大友:そう。スピード。誰よりも速くなりたかった……なんか阿部薫みたいな言い方になってるけど(笑)。もしかしたら、どこかで高校生の頃に憧れた阿部薫の影響もあるのかもしれません。とにかくスピードを追い求めていました。とにかくクリスチャンの演奏が物凄すぎて、とてもかなわないって思ったんで、どうにか自分流の方法でなんとかしなくちゃって、それで当時は香港のカンフー映画を参考にしてたんです。サモ・ハン・キンポーとかユン・ピョウが出演している映画のVHSビデオを繰り返し観ながら、彼等の動きとぴったり合うようにターンテーブルから音を出す。バカっぽいですよね。いや〜バカだったんです。でも1990年代中頃まではずっとそのやり方で演奏してましたね。今考えるとそういうターンテーブルの使い方が、ギターをU字金具で演奏する技術にも繋がっているのかなと思います。どちらもスピードと強いアクセントを出すためでしたから。

サンプリング・ウイルス計画〜幻のアルバム『Dear Derek』

——1990年代の大友さんは「サンプリング・ウイルス計画」を提唱されていて、1993年に『The Night before the Death of the Sampling Virus(サンプリング・ウイルス死滅前夜)』というアルバムもリリースされています。この計画はターンテーブルによるコラージュの延長線上にある試みだったのでしょうか?

大友:そのアルバムについてはターンテーブル演奏ではなくて、それこそピエール・シェフェールのように、主にテープの切り貼りで作りました。ターンテーブルも使いはしたけど、あくまでも作曲作品。あとはCDのマスタリングの時にデジタルの音声素材を繋げたぐらいで。

「サンプリング・ウイルス計画」をやり始めたのは、「サンプリング」という考え方が当時新しく出てきたというのが大きい。それまでコラージュとしか言えなかったものが「サンプリング」という言い方も出てきたことでコラージュとは異なる音源再利用の可能性を感じたんです。一方で「コンピュータ・ウイルス」なるものも出てきて、著作権の問題も含め、この辺のことをアイデンティティのはっきりしない「ウイルス」をキーワードにして一緒くたにして考えていこうと思ったんです。ただ、コンピュータ・ウイルスといっても、当時はまだ素朴なコンピュータしかないし、今みたいにインターネットで即座に世界中と接続できるようなネットワークもない時代だから、そうした環境下で頭の中だけで考えてやっていたところが大きいかな。

——とはいえ、「サンプリング・ウイルスの種が自分の手を離れて増殖/変化しながら広がっていく」という、他者との関係性の中で音楽を捉える考え方それ自体は、その後のオーケストラの作り方やアジアン・ミーティング・フェスティバルにおける交流の在り方、またはインスタレーションで装置同士が相互に反応し合う状態などに引き継がれていると思います。「サンプリング・ウイルス計画」が「アンサンブルズ」などに名前を変えながら、大友さんの思想としては一貫していると言いますか。

大友:確かに、それは一貫しているのかもしれません。ただ単に個人の創作だけで何かが成立しているのではないという考え方が背景にはあるんだと思います。もっとさまざまな外的な要素が個人の意図とは別に絡み合っているというのを前提にする考え方です。ただ、1990年代は今みたいにネットワーク環境が整備されていたわけではないから、やっぱり脳内ネットワークだったとは思う。

——1990年代にはアナログレコードではなくCDを操作するCDJも登場しましたが、CDJに乗り換えずターンテーブルの演奏を今も続けているのはなぜですか?

大友:最初はすごいハマったんですよ。一時期はCDJだけで作品も作っていて、結局リリースしなかったんだけど、『Dear Derek』というデレク・ベイリーに捧げたアルバムも作ってた。ベイリーの演奏をサンプリングした音素材をCDJでコラージュしたもので、ベイリー本人から許可も取っていたんだけど、出す直前になってやっぱりつまらないと感じて、リリースをやめました。

でもCDJはすぐ飽きてしまったかなあ。CDJだけでなくサンプラーもです。多分サンプリングに飽きたのだと思う。コンピュータやサンプラーがどんどん進歩して、そうするとCDJはすごく不自由なサンプラーでしかないと感じるようになっていった。デジタル・データのサンプリングはどんどん発展して、この先もっと簡単に大容量でできるようになっていくはず……そう考えたらなんでだか興味を失ってしまいました。やっぱりターンテーブルの方が不完全で、かつ自由に演奏しやすいって感じちゃったんです。パッと手に取って針を落としてギャーッと音を出せないと嫌で。デジタルは遅いし、同じ音しか出ないって。ラップトップも少しやったけど、やっぱり遅くて続きませんでした。もちろんその後、そうした機材で、素晴らしいことをやる人達がたくさん出てきたのを見て、自分は完全にオールド・ジェネレーションでアナログ人間なんだなって思いましたが(笑)。

レコードを使わないターンテーブル演奏から展示作品へ

——ギターとの共通点を考えると、大友さんはターンテーブルでもフィードバック・ノイズを発生させるアプローチを取っていますよね。そうした手法は1990年代からすでに試みていたのでしょうか?

大友:やってました。1990年代中頃にはもうフィードバックを使っていたかな。ターンテーブルのフィードバックは、ギターと比べると、よりコントロールができない。そこが逆におもしろかったです。もちろん、続けているとある程度コントロールできるようになってしまうのだけど、だからどんどんINCAPACITANTSのようなノイズ・ミュージックに近づいていったと言える気がする。

——大友さんのターンテーブル演奏には2つの側面があると思います。1つは既存の音楽をサンプリング/コラージュする側面。もう1つは必ずしもレコードを使わずに、ターンテーブルそれ自体の即物的なノイズを発生させる側面です。特に後者のような、レコードを使わないというある種エクストリームなターンテーブル演奏に乗り出したのはなぜですか?

大友:やっぱりマルタン・テトロのライヴを観たのが大きかったかなあ。1997年、ちょうどGround-Zeroで『Consume Red』を作っていて、そろそろカットアップは止めようかなと思っていた時期でした。それ以前からマルタンのことはクリスチャン・マークレーを介して知っていて、アルバムも聴いていたんだけど、彼はもともと美術畑出身で、コラージュをやるターンテーブル奏者だったんですよね。けれど1997年にイタリア・ボローニャのアンジェリカ・フェスティバルで観た時は、サンプラー奏者のディアン・ラブロッスとデュオで、ほとんどレコードを使っていなくて。ターンテーブルのノイズがメインだった。ステージにいるのにほぼ演奏していなくて、ひたすらギュ〜とかノイズを出してるの(笑)。でもそれがカッコよかった。潔さに衝撃を受けたかな。あの時はGround-Zeroのメンバーと観ていたけど、おもしろがっていたのは僕とSachiko Mだけでした。

——翌1998年にはSachiko MさんとのFilamentで最初のアルバムをリリースしています。

大友:そうだね。だから、1回すべてご破算にしてそっちの方向性に行こうと思ったのがあの時期でした。もうコラージュではないな、と。それはマルタンの影響も大きかったと思う。その後すぐにマルタンとはデュオをやるようになったから、ステージ上でお互いにレコードを使わない、コラージュではないターンテーブルの演奏が増えていって、どんどんお互いにいろんな手数を習得していった。すごく相互影響はあったと思う。

——ターンテーブルは自動式の音響装置としても使えますよね。大友さんの最初のインスタレーション作品《without records》(2005年)もポータブル・レコードプレーヤーを使用したものでしたが、それはターンテーブル演奏の延長線上にある試みだったのでしょうか?

大友:そう、最初の《without records》に関してはハッキリとそうでした。レコードを使わないターンテーブルの扱い方というのがそのまま展示に移行していった。だけど重要なのは、その後の『ENSEMBLES』展(2008年)の時に、いろんな人が自作したターンテーブルとも一緒にやるようになっていったことで、個人の創作ではないものがどんどん入ってきた。そこが個人のターンテーブル演奏との大きな違いかな。

「勝手に動くモーターを相手にするか、それとも固定した振動する弦を相手にするか」

——1990年代終わりにコラージュではない方向性へと転換しましたが、その後、再びコラージュ的なアプローチもするようになって、今回の『Solo Works 1 Guitar and Turntable』にもそうしたターンテーブル演奏が収録されています。サンプリング/コラージュに再び取り組むようになったのはなぜでしたか?

大友:率直に、そこまでストイックにならなくても、時々ならいいかなと思いました。それと、昔はコラージュをメインにしていたけど、今はメインでフォーカスしているわけではなくて、レコードに入ってる音を使っているというぐらいなんです。1990年代はコラージュの音が何の意味を持っていて、それがどうカットアップされるか、ということが重要なテーマだったけど、今はレコードに録音された音の質感として扱っている程度。少しだけ意味合いがあるとしたら、実は阿部薫のレコードを使っていることかな。それはギターで「Lonely Woman」を弾くことと似ているのかもしれない。

——今ではギターもターンテーブルも使用されていますが、どちらの方が使いやすいですか?

大友:いや、どっちもどっちだよ。両方とも自分のメイン楽器ですからね。どっちがより使いやすいとかはない。ただ、この音楽だったらギターの方が合うだろうとか、この相手だったらターンテーブルだろうとか、自分で思うことはあるけれど。 例えば坂本龍一さんのピアノと一緒に演奏する時はギターがいいかなとか。実現しなかったけど、最後の頃、坂本さんがギターを弾いて、僕がピアノを弾くのもアリだなと思ったこともありました。

——そういえば、大友さんはピアノ演奏のライヴ盤『Piano Solo』(2013年)もリリースしていますね。

大友:ピアノは自分の中ではギターの延長線上なんです。弦がたくさんあるギターだと思ってる。だからピアノ演奏という感覚ではないんですよね。極端な多弦ギターを扱っているというのが近い。

——大友さんにとってターンテーブルを演奏することのおもしろさは、どのようなところにあると感じていますか?

大友:ターンテーブルは演奏者の意志とは別のものとして、しかも不完全な、いろいろと隙だらけの装置としてあるから、そこがおもしろい。デジタルの装置だと隙がないんですよね。例えばCDだとCDで音を出す以外の使い方がほとんどない。もちろん刀根康尚さんのようにCDに粘着テープを貼って誤作動を起こすということはできるけど、ターンテーブルだといくらでも違う使い方ができる。要するにモーターとマイク(カートリッジ)だからね。

ギターは弦とマイクだけど、ターンテーブルはモーターとマイク。どっちもアンプから増幅された音が出てくるところは共通していて、マイクとアンプである以上はフィードバックも引き起こすことができる。勝手に動くモーターを相手にするか、それとも固定した振動する弦を相手にするかの違いだけとも言える。でも重要なのは、どっちもマイクがあって、アンプから音が出るってことかな。そこが共通しているから、ギターにしてもターンテーブルにしても、やっていると音が似てきちゃうんですよ。

「フリー・インプロヴィゼーションよりもノイズ・ミュージックの文脈に近いかもしれない」

——『Solo Works 1 Guitar and Turntable』は、ライヴ盤ではなくスタジオ盤ということもあり、短いトラックが多数収録されているところが1つの特徴になっています。各トラックには番号が振ってありますが、これはテイク数でしょうか?

大友:そうです。番号をつけてトラックを選ぶやり方は、実はデレク・ベイリーの『Solo Guitar』(1971年)に倣いました。今回、僕の中で唯一意識した他の人のアルバムが『Solo Guitar』かな。あれのA面みたいな感じにしたいと、どこかで思っていたような気がする。そんなに長尺じゃなくて、いろんな即興演奏が収録されているけど、曲ごとにコンセプトが違うわけでもない、みたいな。

——『Solo Guitar』は初めて聴いた人に大きな衝撃をもたらすアルバムだと思うのですが、大友さんとしては、今聴き返しても新鮮に感じることはありますか?

大友:正直に言えば、何十年経っても同じような新鮮さで聴けるわけではないけど、ただ、いつ聴いてもすごいなとは思うんですよね。よくこんなところに行ったな、と。やっぱりズバ抜けている。もちろんデレク・ベイリーは『Solo Guitar』以降も素晴らしいアルバムをたくさん出しているけど、最初のソロ作でいきなりあれを出したわけですから。

——デレク・ベイリーに限らず、フリー・インプロヴィゼーションの録音作品を、例えば1960〜70年代に出すことと、2020年代の今出すことでは、意味も受け取られ方も大きく違うと思うんです。その辺りは大友さんはどのように考えているのでしょうか?

大友:そりゃ、全然違うと思う。だって今フリー・インプロヴィゼーションをやることは、それだけでは冒険でも挑戦でもないからね。どこにでも転がっているありふれたアプローチでしかない。だから今回の『Solo Works 1 Guitar and Turntable』も、そういったどこにでも転がっているものの1つとして作ったところはあります。

——とはいえ、フリー・インプロヴィゼーションというスタイルを録音したかった、というわけでもないですよね?

大友:はい、違います。即興といってもフリー・インプロヴィゼーション以外にもいろいろあって、そういうふうにいろいろあるという大前提の上で作りましたからね。ひょっとしたら僕がやっている音楽はフリー・インプロヴィゼーションの文脈よりも、どちらかというとノイズ・ミュージックの文脈の方に近いかもしれないとも思う時もあります。ヨーロッパのフリー・インプロヴァイザー達と一緒に演奏すると、自分は違う文脈で演奏してるなってよく思います。影響はものすごく受けたし、一緒に演奏するのは本当に楽しいけど、でも、何か違う言語を話しているのかもって。

——フリー・インプロヴィゼーションかノイズ・ミュージックか、そこの文脈の違いというのは、具体的にはどういうことでしょうか?

大友:大きくは前後の音楽史の捉え方の違いなんじゃないかな。うまくは言えないけど、フリー・インプロヴィゼーションの場合は、初期は「即興でなければならない」という考え方があった上で今がある。けれどノイズは「ノイズでなければならない」という思想ではないと思うんです。もうノイズをやった時点でどん詰まりだから、何をやってもいい、としかならない、そんなふうに感じてます。少し抽象的な話になってしまうけど、その上で僕は即興演奏をやっているところがあります。その意味ではとてもパーソナルな音楽なんじゃないかな。10代の頃に阿部薫のライヴやデレク・ベイリーのフリー・インプロヴィゼーションを聴いて衝撃を受け、その後、高柳さんとの出会いがあり、クリスチャン・マークレーやジョン・ゾーンに衝撃を受け、同時にノイズや即興演奏をやる同世代の人達とたくさん出会い、さらには音遊びの会なんかとの活動を経て、半世紀経った人間が作っている極めて個人的な音楽なんだなと思うんです。

■『Otomo Yoshihide Solo Works 1 Guitar and Turntable』
リリース:8月16日
価格:(CD)¥2,000
トラックリスト
1.turntable with a record 8
2.guitar 2
3.guitar 6
4.turntable with a record 1
5.turntable without a record 1
6.guitar 4
7.turntable with a record 10
8.guitar 5
9.guitar 1
10.turntable without a record 4
11.turntable without a record 6
12.turntable with a record 2
13.guitar 7
14.turntable without a record 3
15.turntable with a record 5
16.turntable with a record 9
17.turntable without a record 5
18.guitar 8
19.turntable with a record 3
20.guitar 3
https://otomoyoshihide.bandcamp.com/album/otomo-yoshihide-solo-works-1-guitar-and-turntable-3

■大友良英 PITINN 年末4デイズ8連続公演
会期:12月26〜29日
会場:新宿PIT INN
住所:東京都新宿区新宿2-12-4 アコード新宿 B1
時間:昼の部 14:30(オープン)/ 15:00(スタート)、夜の部 19:00(オープン) / 19:30(スタート)
12月26日(火)昼の部「The Night Before Pandemic in Fukushima!」
大友良英(G)、岩見継吾(B)、林頼我(Ds)
12月26日(火)夜の部「Small Stone Baritone Ensemble」
大友良英(G, Per, 指揮)、江川良子、東涼太、本藤美咲、吉田隆一(Bs, 指揮)、木村仁哉、高岡大祐(Tuba, 指揮)、かわいしのぶ(B, 指揮)、イトケン、小林武文(Ds, Per, 指揮)
12月27日(水)昼の部「Daytime Special」
大友良英(G)、松丸契(Sax)、石若駿(Ds)、小暮香帆(Dance)
12月27日(水)夜の部「The World Without Him (Peter Brötzmann Tribute)」
大友良英(G)、永武幹子(P)、須川崇志(B)、落合康介(B)、本田珠也(Ds)、山崎比呂志(Ds)
12月28日(木)昼の部「細井徳太郎 キュレートセット」
久場雄太(俳優)、荒悠平(ダンス)、細井徳太郎(G, Vo, キュレーション)、君島大空(G, Vo)、高橋佑成(P, Synth)、大友良英(G)
12月28日(木)夜の部「大友良英 ニュージャズアンサンブル」
大友良英(G)、松丸契(Sax)、高橋佑成(P)、上原なな江(Marimba)、水谷浩章(B)、芳垣安洋(Ds)
12月29日(金)昼の部、夜の部「大友良英 スペシャルビッグバンド」
大友良英(G)、江藤直子(P)、近藤達郎(Key)、齋藤寛(Fl)、井上梨江(Cl)、江川良子(Sax)、東涼太(Sax)、佐藤秀徳(Tp)、今込治(Tb)、大口俊輔(Acc)、かわいしのぶ(B)、小林武文(Ds)、イトケン(Ds)、上原なな江(Marimba)、相川瞳(Per)、Sachiko M(Sinewaves)
http://pit-inn.com/newarrivals/0tomo4days/

■ONJQ : Otomo Yoshihide’s New Jazz Quintet EUROPE TOUR 2024
会期:2024年1月26日〜2月11日
1月26日 Sons D’hiver, Paris [FR]
1月27日 Pannonica, Nantes [FR]
1月28日 Autres Mesures, Rennes [FR]
1月30日 AB Club, Bruxelles [BE]
1月31日 Radar, Aarhus [DK]
2月1日 Jazz Club Loco, København [DK]
2月2日 Nasjonal Jazzscene, Oslo [NO]
2月4日 Pardon, To Tu, Warszawa [PL]
2月5日 Pardon, To Tu, Warszawa [PL]
2月6日 NOSPR, Katowice [PL]
2月7日 Divadlo29, Pardubice [CZ]
2月8日 In Situ Art Society, Bonn [DE]
2月9日 Handelsbeurs, Gent [BE]
2月10日 Centro D’Arte, Padova [IT]
2月11日 Area Sismica, Forlì [IT]

Photography Masashi Ura

author:

細田 成嗣

1989年生まれ。ライター、音楽批評。編著に『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(カンパニー社、2021年)、主な論考に「即興音楽の新しい波──触れてみるための、あるいは考えはじめるためのディスク・ガイド」、「来たるべき「非在の音」に向けて──特殊音楽考、アジアン・ミーティング・フェスティバルでの体験から」など。国分寺M'sにて現代の即興音楽をテーマに据えたイベント・シリーズを企画、開催。 Twitter: @HosodaNarushi

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