角田貴広, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/takahiro-sumita/ Wed, 22 Dec 2021 11:07:21 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.2 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 角田貴広, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/takahiro-sumita/ 32 32 アート連載「境界のかたち」Vol.4 「VABF」ウェブ・ディレクター萩原俊矢が考える、ポストコロナにおけるアート表現のオルタナティブ性 https://tokion.jp/2021/04/12/vabf-web-director-shunya-hagiwara/ Mon, 12 Apr 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=26266 ポストコロナにおけるアートを識者達の言葉から紐解く本連載。第4回は昨年開催されたVABFのウェブディレクターを務めた、萩原俊矢が登場。

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ビジネスからサイエンスに至るまで、アートの必要性を説くシチュエーションが激増している。コロナ禍で見える世界は変わらないものの、人々の心情が変容していく中で、その心はアートに対してどう反応するのか。ギャラリストやアーティスト、コレクターらが、ポストコロナにおけるアートを対象として、次代に現れるイメージを考察する。

第4回は昨年11月にバーチャル空間で実施されたアートブックフェア「VIRTUAL ART BOOK FAIR(VABF)」のウェブ・ディレクションを担当した萩原俊矢が登場。年に一度アートブックの祭典として2009年から開催されてきた「TOKYO ART BOOK FAIR(TABF)」は昨年、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡⼤防⽌の観点から東京都現代美術館での開催を見送り、新しい試みとしてバーチャル空間での開催を実現した。

「POST」「Utrecht」「twelvebooks」らをはじめとするアート専門のショップ、レーベルが約230組参加した今回の「VABF」において、萩原は何を意識し、どのようにウェブサイトを作り上げたのか。また、これまで多くのウェブディレクションを手掛けてきた経験から、ポストコロナ時代の表現の1つとなるであろうデジタルメディアにどんな可能性を見ているのだろうか。

どうしたら来場者が「VABF」でディグりたくなるだろう?

――まずは、昨年開催された「VABF」の設計について伺いたいと思います。「TABF」の会場をデジタルで再現したということですが、UX設計において意識した点を教えてください。

萩原俊矢(以下、萩原):「VABF」ではたくさんの関係者と協業をしていて、僕はウェブディレクターとして全体の取りまとめを担当しました。3D空間でやりたいというのは「TABF」メンバーからの発案なんです。むしろ、これまでウェブ制作を専門でやってきた僕としては、Web 3Dは大変だぞと(笑)。ウェブの導線をどうすれば使いやすいかという観点では僕はプロですが、3Dのサイトを作るというのはもはや空間設計だと思ったので、デザイナーの田中義久さんにご紹介いただいて、ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展にも参加している建築家の砂山(太一)さん、木内(俊克)さんにもご参加いただきました。

3Dを用いた情報表現はどうしてもゲームに近くなります。フォートナイトというゲームの世界でトラビス・スコットや米津玄師氏がライヴをやったのは有名ですが、コロナ禍でこういったゲームを始めたお客さんも多いと思うので、そのクオリティで勝負しても勝てないだろうと感じました。だから、「VABFはゲームではない」、ということはすごく意識しました。その上で、デジタル空間では重力すらもプログラミングしなきゃいけないので、「そもそも重力いるんだっけ?」「会場って建物である必要ある?」みたいな話を時間のない中で繰り返して、何を作るべきかをゼロからみんなで考えました。

また、ブックフェアで大事なことって、「偶然発見する楽しみ」だと思うんです。自分自身の興味としても「ディグる」という行為が気になっていたので、どうすればお客さんがこの会場でディグってくれるか、をすごく考えました。今の時代、情報は向こうからやって来るので、なかなか人々は能動的にディグらないですし、スマホサイトなんて気軽に閉じちゃえますから。

――今回のVABFでは閲覧環境としてGoogle Chormeブラウザを推奨されていましたが、あれは意図的ですか。

萩原:痛いところですね(笑)。基本的にグラフィックデザイナーはデザインをする際にまず用紙サイズを決めてデザインを始めるわけですが、ウェブは完成して見る瞬間にサイズやスペックが決まります。それがおもしろさでもあるのですが、そんな環境で Web3Dをやろうとすると、かなり最適化しなければいけない。しかも、スマホって負荷がかかるとすぐ落ちちゃうんですよ。今回もスマートフォンで閲覧するユーザがたくさんいるという前提があったので、最後までちゃんと動くわからなくてドキドキしました。3DパートのエンジニアのAMAGIさんがかなり工夫をしてくださって、最終的にはほとんどの環境で閲覧できるようにできましたが、やっぱりある程度はお客さんの閲覧環境を限定できるとありがたいですね。

――「TABF」をデジタル・プラットフォームにしたことで、良かった点はなんですか?

萩原:やっぱり、会場にわざわざ行かなくて良くなったことは大きいですね。開催を決めた当時はコロナの第2波が来るんじゃないかという深刻な雰囲気もあって、自宅で楽しめるコンテンツを求めている方も多かったので、バーチャルでも遊びに行けるんだという前向きなコメントをたくさんいただきました。また、今回はオランダにフィーチャーした企画がありましたが、オランダにいる友達がサイトを見たと連絡をくれたのも、バーチャルならではだったなと思います。

――一方で、バーチャルにすることで消えてしまったものは?

萩原:人々が一堂に会する熱量であったり、清澄白河まで行く道中で知り合いに会ったり、本をたくさん買ってカバンが重たくなる感覚、出店者がどんな表情をしているかなど、バーチャルではできないことがたくさんありました。ウェブというのは、基本的に誰かがアップロードしたものしか存在しないので、間違ったもの、変なものは上がらないんですよね。あらためて、そういう情報こそ大事だよなということを痛感しました。

デジタルの課題は演出を感じさせない“エラー”

――道を歩いていて石ころに目がいくような、エラーというか、偶発的に得られる情報ってどうしてもフィジカルの方が強いですよね。

萩原:まさに、そうなんです。今回の会場でも出店者がブースの中で自由に本をレイアウトできるとか、余白があって気配が漏れ出るような構造を意識はしたんですが、偶発性には限度がある。「石ころ」は「道端」というプラットフォーム上に存在しているコンテンツで、道路や都市という空間がない限りは存在できない。「つぶやき」というコンテンツがTwitterなくして存在しないように、石ころは現実にしか存在できない。

岸政彦さんが『断片的なものの社会学』という本の冒頭で石ころの話を書いています。路上に転がっている無数の石ころのうちどれでもいいからひとつ拾い上げる、と、「その瞬間」にこの広い世界で「その石」と出会えた偶然に強烈に感動するというような話です。それをウェブ用語に置き換えると「“エンゲージメント”の状態」だと思うんです。ウェブ業界では「いいね」したり、リンクを「クリック」したりする行為を「エンゲージメント」と言ったりします。コンテンツとユーザが結びついた状態のことですね。たしかに、ウェブ上でも、誰かが投稿したなんてことのない写真を気に入って何度も見てしまうような、運命的な“エンゲージメント”は存在するもので、こうした感動をどうしたらデザインできるのだろうかと思います。まったくおこがましい話なのかもしれませんが。

あと、石ころはそのものを家に持ち帰ることができますが、気に入ったウェブ上の写真をキャプチャしてjpegとして保存したり、プリントアウトして部屋に貼ったときに、その写真とユーザはエンゲージされていると言えるのか、ということをちょうど昨日考えていました(笑)。

――もし実空間と仮想空間の両方で同じ展示をしたとして、それらははたして「同じ」ものになるのでしょうか。

萩原:最近VRゴーグルの「Oculus Quest 2」を買ったんですけど、目の前すべてがバーチャル空間になると、かなり現実っぽいなということを感じます。卓球をやっても、現実の体験に感じます。これをマウスとカーソルでやってももどかしいだけですからね。ただ、例えば、「絵の具で描かれた絵画作品を見る」というような行為は、VRでは限界があると思います。作品のマチエールやオブジェクトそのものを見ることはできないので。一方で作品がインスタレーションやパフォーマンスであれば、それはバーチャル空間でも成り立つものだと思います。小泉明郎さんの「縛られたプロメテウス」というVR演劇作品があるんですが、非常にユニークな VR の使い方を試みられています。今後もいろんなジャンルの方がVRや仮装空間を用いた展示をやると思うのですが、そういったバーチャルな世界では、重力すらもあらかじめプログラミングすることになるので、「作品」と「環境」の違いや、そもそも何を持って「展覧会」と呼ぶのかとか、その境界線はどんどん曖昧になっていくと思います。

――現実の展覧会では時間によって光の入り方が変わって作品の見え方も変わりますよね。

萩原:確かに、自然照明に近い環境にあるギャラリーだと、時間帯によって作品の感じ方は違います。これを仮想空間でやろうとすると、光量などをすべてプログラムで記述する必要があって、いちいち「仕立てる感じ」になってしまうんです。全部が演出っぽくなってしまうのは、ある意味でデジタルの課題ですよね。

新しいカウンターはデジタル作品をNFTで売るようなアートと経済の両立

――以前「ルイス・バラガンの家」をデジタル上に再現している人がいたのですが、どうしても本物とは違うものになっていました。

萩原:ジェームズ・タレルの作品とかもおもしろくなさそうですよね。いや、むしろタレルが演出とわりきってそんな作品を作ったら楽しいか(笑)。でも実空間の作品がもつ「ありがたさ」みたいなものは失われそうですね。今回の「VABF」では、ラファエル・ローゼンダールがバーチャルな公園内に彫刻作品を大規模に展示したのですが、彼も「いつか実際の公園でこれをやりたい」と言っていて。やっぱりバーチャルだから攻められるところと、リアルの「ありがたさ」みたいなものはお互いあるよなあ、と思いました。

――そうした話を聞くと、デジタルとリアルという場所において、やる側も見る側も自由を求めていて、オルタナティブでやっているという印象があります。アートにおいてオルタナティブな場を探る動きは今後も活発になっていくと思いますか?

萩原:リアルでしかできないことはたくさんあるので、これまでの制度が簡単に崩れることはないでしょう。今はまだ「仕方なく」オンライン飲み会をしていると思いますが、「むしろオンライン飲みのほうが楽しいよね」という感覚が広まると、さらにオルタナティブな動きは活発になるでしょうね。最近は友人と「Among Us」というゲーム・プラットフォームでゲームをしながら飲んだりもしてるのですが、それはそれで楽しいんです。そんなふうに、オルタナティブな場は活発にはなると思いますが、Kindleが出てきたから紙の本がすべてなくなるかというとそうでないように、全部がデジタルに置き換わることはないと思います。その比率は変わるかもしれないですが。

――デジタルとリアルという点では、ウェブ上から「ダウンロード」できる本のみを取り扱う「TRANS BOOKS DOWNLOADs」を昨年の12月に武蔵小山の「same gallery」で開催されました。

萩原:「TRANS BOOKS」の主旨は、本をデジタルやアナログを超えたメディア、表現を考えるきっかけを提供してくれるプラットフォームであると捉え、本を題目にこれからのメディアの在り方について探求することにあります。「本」といっても電子書籍やオーディオブックなどいろんな形があって、コンテンツが同じだとしても、その見せ方や形態はいろいろとあります。だから、VRで本と呼べる体験はなにかとか、ツイートをまとめただけでも本になりえるのかとか、どこまでが「本」と呼べるのかといったことを考えてきました。

そんな中で、コロナによっていろんな人がインターネットにやってきた。これまでリアルな世界で行われていたことをどうにかしてオンライン化しようとする「アップロード」の流れがやってきたんです。先ほどの飲み会もそうだけど、もしかすると、このアップロードという行為によって、もともとの大事な部分が失われてるんじゃないかと考えました。だったら、そのこぼれ落ちたものを探るために、反対にある「ダウンロード」をテーマにして、データを手元やスマホに落として体験する「本」を提案するプロジェクトを企てました。

データ化された「本」を見ていて気付いたのは、立ち読みができないということ。ちょっと読もうとしても、データを複製してしまったら、それは立ち読みではなくて、もはや本物と変わらない。立ち読みって、簡単には複製できない紙の本だからこそできる行為なんだと気付いたんです。そこで、データを立ち読みできる会場として「same gallery」を使わせてもらって、展示をしました。参加作家の皆さんに「ダウンロードするとは何か」ということを考えてもらった作品を会場で立ち読みできるようにして、気に入ったらデータを買ってもらうという流れを作りました。

――今後もアートフェアやフィジカルなイベントを大体的に開催できるまではしばらく時間がかかりそうです。最後に、デジタル化が当たり前に進んでいく中で、萩原さんが感じる新たなカウンター的な動き、挑戦したいことはありますか?

萩原:これは展望ではないんですが、NFT(Non Fungible Token:非代替性トークン)が流行ってますよね。あるデジタルデータの所有者を証明するような技術のことで、例えば、世界最初のツイートがNFTで数億円で売買されるようなことがあったり、アート作品をNFTで売るギャラリーも出てきて、ある種のバブルみたいになっています。僕自身はそれほど期待しているわけではないのですが、経済との両立ができるようになると、この流れは活発になるのかなと感じています。

個人的な話だと、ポリコレなどの話題もありますが、最近のソーシャルメディアに限界がきているように感じています。それらは基本的にはユーザの感情を外部に漏れ出させて成り立っているメディアだと思うんです。情報発信を誰にでもオープンにしたという良い面もたくさんあるけど、根底には嫉妬や焦燥感がある。だから、自分の感情を外に出さなくてよいメディアを作ってみたいなと思っています。静かに情報楽しむ体験というか、プロダクトというか、そういうことに挑戦したいという気持ちがあります。

萩原俊矢
1984年生まれ。ウェブデザイナー。2012年にセミトランスペアレント・デザインを経て独立。ウェブデザインやネットアート分野を中心に活動する。2020年には「VABF」のウェブディレクションや東京都写真美術館で開催された「エキソニモUN-DEAD-LINK展」のインターネット会場を担当したほか、「twelvebooks」や「skwat」などのウェブも数多く手掛ける。文化庁メディア芸術祭新人賞や東京TDC RGB賞などを受賞。

Edit Jun Ashizawa(TOKION)

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SNSで“なにか”を失う前に -後編- 「繋がること」と「切断すること」が秘めたる可能性 https://tokion.jp/2020/08/15/before-we-lose-something-part-2/ Sat, 15 Aug 2020 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=3033 SNSを通じた個人の主義・主張の応酬。実態が伴わないSNS社会への違和感に対処する方法を考察する。

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SNSという場所において、大きな実態のないものに対する個人の主義・主張の応酬が顕著になってきた。炎上を恐れる企業やブランドと、誰もが知的であろうとするが故の息苦しさ。ここ最近感じるこうした状況に対する違和感について、前編では例を挙げ述べた。こうした違和感の正体を探ることは容易ではない。でも、その違和感に対処する方法はあるのかもしれない。後編では、その方法について考える。

つながることが目的のSNSを閉じてみる

1つ目は「閉じる」ことだ。つながることが目的のSNSを閉じればいい。といっても、単純にスマホからアプリをアンインストールするとかそういうことではない。自らのコミュニティを限定し、ある程度のところで“切断”するということ。

とくにSNSを中心に洋服などを販売してきた“D2C”と呼ばれるジャンルのブランドではこの思考が根強い。顧客とブランドが直接つながり、コミュニケーションが取れるからこそ、それ以外の経路は遮断してもかまわない。八方美人である必要がないということだ。「foufou」というファッションブランドを作ったマール・コウサカは「ファッションブランドの本質は秘密を交換するような関係性にある。顧客とブランドは付かず離れずな距離感がベストだから、想像以上に認知が広がってしまうことを意図的に避けるようにSNSを閉じさせる」と教えてくれた。

確かに、最近では、有料記事やメルマガ、購入者限定サイトなどの“閉じた”コミュニティが勢力を伸ばしつつある。メンバーを限定することで、アイデンティティを可視化し、信頼関係をもって対話できる環境を作るという流れだ。ブランドにとっては当然その方が細やかなコミュニケーションが取れる。意図的に同調や共感を避け、顔の見える範囲へ場所を制限することで、自らの足場を固めていくということ。

ホテルホテルプロデューサーの龍崎翔子は、ある取材で「どのように世の中の空気感を掴むのか」という質問に対して「人の方を向くのではなくて、自分の前だけを見て進むことで、同じ方向を向いている方々とどんどんつながっていく。社会とのつながりを強めるためには、圧倒的な内省が必要」と語っていた。“無知礼賛”時代をもはや“置いていく”ようなこの軽快な回答に納得した。

分断をつなぐ「メディア」の役割

もう一つの可能性が「つなげる」というもの。顔の見えない者同士の分断をつなぐという考え方である。哲学者の鷲田清一は著書「濃霧の中の方向感覚」の中で、「家族、地域社会、会社、労働組合。小さな個人と巨大な社会システムとのあいだで、いわばその蝶番として、あるいはクッションとして、機能してきたそういう中間集団の紐帯が、この国でも、まるで乾いたスポンジのように空洞化してきた」と、現代の分断を危惧している。

また、「ひとはじぶんたちの暮らしを細部まで管理し、一つに糾合しようという、『翼賛』的な権力による『統合の過剰』を警戒した。ところが、現代の権勢が腐心しているのは、その逆、人びとを一つにまとめさせない『分断の深化』(齋藤純一)である」とも語っている。彼は同著のあとがきに「対話の可能性」と言う文章を添えている。消失した「中間」を「対話」によってつなげられるのかもしれない。

最近、ファッションECに精通したECエバンジェリストの川添隆との会話で「提案型・共感型の時代を経て、無知礼賛が続くSNSに主戦場を移されたアパレルブランドは、今後どのように戦っていくべきなのか」という質問をした。その回答の1つが「対話型のブランド」だった。「ブランドと消費者が対話によってお互いを知り、ともに育っていくような関係が理想なのかもしれない」ということ。前述のD2C的ビジネスの根源にも、“必要な対話”だけが存在しているような気がする。

こうした「対話」の中核をなすのが本来「メディア」というものだ。「メディア」の語源は「ミディアム(=中間)」。「メディア」といっても、旧来の新聞やテレビだけを指すのではない。何かと何かをつなぐ中間的ポジションとして対話を仲介する可能性はどんなものにでもある。前述のブランドもメディアで、空間や人もメディアになりうる。

言語と“わかりあえなさ”を知る

日本語には「共話」という独特のコミュニケーション方法がある。これは日本語教育学者の水谷信子が提唱した概念で、「A:昨日のテレビさ」「B:面白かったよね」というように、不完全ながら両者が行間を推測しながら会話を続けるというものだ。日本語においては、中間体(=メディア)なくしても、コミュニケーションが可能となる。そこになんらかのメディアが介するのなら、さらに両者が“わかりあう”ことは難しくないはずだ。

言語というものを例に出すと「メディア」的なものは捉えやすいかもしれない。例えば、外国語を知らないまま外国へ行くと、当然会話も標識もメニューも何もわからない。しかし、1週間も現地にいればトイレの標識くらいは感覚で覚えることになる。その場合「わからない」という前提で“相手側”の領域にいるのだから、理解できないこと・伝えられないことを怒ったりはしないはず。むしろ、わかりあえた瞬間には喜びさえする。これは自らが「メディア」となって、知らない言語と自らの知る言語をつないでいるのである。

翻訳家をしている友人は「そもそも同じ言語でも受け取り方は人それぞれなのに、同じ言語なら同じ価値観だと思うこと自体が間違っている」と答えた。翻訳という手段で異なる言語をつなぐ人からすれば「言語が違うことにビビりすぎだし、言語が同じであるということを過信しすぎている」という。

プロローグのようなエピローグ

現代のSNSを中心とする“無知礼賛”の社会に対して感じる違和感と、それを回避できる可能性を持ついくつかの概念を書き連ねた。違和感の正体すら言語化できていないし、解決策自体もなんの役にも立たないものかもしれないが、そもそも自分自身がこうしたことを考える過程を通して、数多くの対話を重ねたことだけは確かだ。その対象は人だったり本だったりニュースだったりするが、そもそもこうした過程自体が自分自身にとっては“分断をつなぐ”作業だったように思う。

このまとまりのない文章が「間違っている」とか「バカバカしい」とか「インテリぶってる」などと感じる人もいるかもしれないが、これらの考察を通じて誰かが自らの「対話」について考えるきっかけとなるのであれば、とても嬉しい。特にいろいろなものがオンラインに置き換わろうと躍起になっている新型コロナショック以後、この違和感は顕著になっている。だから今、それぞれが考えるというプロセスを見直すことには意味があるはずだ。僕らが何かを失ってしまう前に。

Picture Provided Takahiro Sumita

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SNSで“なにか”を失う前に -前編- 「わからない」が許容されない世の中に生まれた違和感 https://tokion.jp/2020/08/12/before-we-lose-something-part-1/ Wed, 12 Aug 2020 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=3022 多様性の時代に誰もが差別化に躍起になっている。この時代背景が生み出したSNS上の“違和感”は今後どうなるのか?

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SNSなどを介したオンラインコミュニケーションが老若男女を問わず生活に浸透し、人々の距離はさらに近く、フラットなものとなった。ただそれは、全世界がおしなべてつながったのではなくて、「小さな村」のようなものが増えただけのこと。これまでとは異なる次元ではあるものの、SNSという閉ざされた「村」の中で、さらに趣味や嗜好に準じた意図的な小集落が点在しているような状態と言える。

SNSという場所においては、昔から意見の主張・対立・けなし合いのようなことが日常茶飯事に起こるわけであるが、特に最近はそれが顕著に見えてきた。とりわけ目立つのは、個人と個人の意見のぶつかり合いではなくて、もっと大きな実態のないものに対する個人の主義・主張である。

正義は暴力だ

#検察庁法改正に抗議します」というハッシュタグが500万以上集まったことは記憶に新しいが、その後もハッシュタグを使って何かに抗議をするような流れが急増している。確かに前述のハッシュタグは世論として政治を動かした。これは極めて重要なことだ。人々は自宅から、無責任に政治に介入できることとなった。

しかし、次第に、こうした状況に違和感を感じるようになった。このトレンドはほんとうに「大衆の反逆」なのだろうか。自分達で権利を消費しているように感じてしまう。

同じような事象は日々起きている。アイドルが政治を語るなと声高に叫んだり、キャンペーンが炎上してブランドがすぐに企画を撤回したり、アーティストの作品がパロディーだと謝罪させたり、SNSにおける個人となんらかの軋轢は日に日に増えている。ブランドや企業からすれば炎上は避けたいので、誰にも嫌われないよう、ビクビクしながらキャンペーンを打っているような観さえある。

人々は自らの正義のため、見知らぬ他人に意見を申し立てる。もちろん、抗議活動が盛んになること自体はとてもいいことだが、あらゆる直感的な主張に共感を集めて権利を振りかざすべきなのだろうか。とあるアーティストへのインタビューで「正義は暴力だ」という言葉を聞いて、ひどく納得した。愛と理解を欠いた正義を振りかざすだけになると、それはとても恐ろしいことである。

作者の真意をわざわざ語らせるべきなのか?

フランスの哲学者・サルトルによる「嘔吐」で、主人公ロカンタンは、これまでなんとも思わなかった周囲の人間の存在に強烈な違和感を感じ、吐き気を催すようになる。なぜ人は何者かになろうとするのか。ただ存在しているということにすぎないのに、そもそも生まれてきた意味など必要なのだろうかと思い巡らす。ここでいう「吐き気」は、自分が感じている「違和感」そのものだ。

もう1つ。「エヴェンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」でシンジに首を絞められるアスカが「気持ち悪い」とつぶやくラストシーン。「僕なんて必要ないんだ」と言い続けてきたシンジが「ここにいてもいいんだね」ということを悟り、祝福された後である。自己実現の快楽を知った主人公に対する、アスカなりの抵抗だと受け取った。存在の本質探求を是とすることに対する違和感にも、とても親近感を感じる。

現実に話を戻すと、昨年末にコスメブランド「SHIRO」のリブランディングが話題になった。ブランドリニューアルに合わせたロゴの刷新に対して、SNS上でネガティブな声が相次いだ。しかし、今井浩恵社長は、これは世界展開を視野に入れたブランド強化のための一環で、「リニューアルした昨年9月以降、毎月前年同月比170%前後で推移」した(※今年3月時点)と語った。

こうした情報はSNSでは知りえなかった。というか、調べなかった、という方が近いのかもしれない。われわれは情報を恣意的に取捨選択し、そこに対してただ意見を述べていただけなのかもしれないと、ハッとした。一方で、わざわざそこまで語らせるべきなのか、という思いもある。今年ローソンのプライベート・ブランドがビジュアルを大幅に刷新した際にも、SNSで批判的なコメントが噴出した。ここでもデザインを担当したnendoの佐藤オオキがリブランディングの経緯をメディアで語ることとなった。

消費者の意見を取り入れることは大切だが、どれも責任者が価値観の異なる大衆の面前に引きずり出されているような憐憫さを感じる事案だ。背景など関係なく“好き勝手”に文句を言う消費者が増えている気がしてならない。

焦るが故の「反・反知性主義」的な態度

「反知性主義」という概念がある。これについてはたくさんの著書があり、トム・ニコルズによる「専門知は、もういらないのか」という本で初めてその概念に触れた。そこでは、SNS台頭以後の「無知礼賛」文化に警鐘を鳴らしていた。人々は「専門家を技術者として頼っているだけだ。専門家と一般の人々の対話ではなく、確立された知識を、必要なときに、自分の欲しい分だけ、手軽かつ便利に使っているにすぎない」という。

確かに現代はこうした状況に陥っている。世の中がフラットになるということは、すべての情報がタダになるというわけでは決してないはずだ。にもかかわらず、情報をフラットに盲目的に扱い、正義の名の下で議論を交わしている。その裏にはわれわれが知り得ないもっとたくさんの過程や情報がある。それ抜きの議論はもはや議論ではない。

一方で、SNSという場所では、誰もがむしろ「知性的であろうとしている」ように見受けられる。「反知性主義と向き合う」をテーマにした2015年2月発行の「現代思想」に、社会学者の酒井隆史が「現代日本の『反・反知性主義』?」というテキストを寄せていた。そこでは「インターネットこそ、この現代の『知性』の過剰の鮮明にみえる場」とした上で、「極端にいえば、むしろどこにも知識人しかいなくて、誰もが賢くあることを競い合っているというのが現代日本の風景であるようにも思えてくる」と述べていた。

昨今の状況はこの通りで、知的であろうとする無数のアカウントがまともであろうとするが故の自己弁護のために主張を繰り広げているような気がしてならない。誰もが真面目になりすぎている。言い換えれば、誰もが「失敗できない雰囲気」に縛られているのかもしれない。

そこには「わからない」「知らない」とは言えない雰囲気がある。間違ったことや不確かなことも同様に排除される傾向が強い。哲学者の東浩紀は「対談集」における國分功一郎との対話の中で「『わたしは暴力を体験した』と言っても、『エビデンスは?』という話になってしまう。エビデンス信仰は、そのように弱者の抑圧としても使われている」と言っている。

つまり、誰もが、わからないことが許容されない世の中において、取り残されないように焦っているのだろう。ブランドや企業も同じ。国民的なトレンドが生まれづらくなり、多様性の時代と言われて久しいが、その中で誰もが差別化に躍起になっている。存在意義を、ストーリーを探している。こうした時代背景が生み出したSNS上の“違和感”は今後一体どうなるのだろうか。

Picture Provided Takahiro Sumita

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