濱口竜介 Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/濱口竜介/ Fri, 02 Feb 2024 07:30:49 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 濱口竜介 Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/濱口竜介/ 32 32 石橋英子の音楽と濱口竜介の映像によるライブ「GIFT」が京都と東京で開催 https://tokion.jp/2024/02/02/gift-eiko-ishibashi-x-ryusuke-hamaguchi/ Fri, 02 Feb 2024 08:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=223386 「GIFT」では濱口竜介の映像とともに石橋英子による即興ライブ演奏が行われる。京都公演は2月24日に、東京公演は3月19日に行われる。

The post 石橋英子の音楽と濱口竜介の映像によるライブ「GIFT」が京都と東京で開催 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>

石橋英子の音楽と濱口竜介の映像によるライブ「GIFT」が京都と東京で開催される。京都公演は2月24日にロームシアター京都で、東京公演は3月19日に PARCO劇場で、行われる。

本公演のきっかけは石橋から濱口への映像制作のオファーたった。『ドライブ・マイ・カー』で意気投合した2人は試行錯誤のやりとりをかさね、濱口は「従来の制作手法でまずは1つの映画を完成させ、そこから依頼されたライブパフォーマンス用映像を生み出す」ことを決断。そうしてこのプロジェクト「GIFT」の為のサイレント映像が完成した。

自由に、まるでセッションのように作られた本作は、やがて本人達の想像をも超えた景色へとたどり着いた。主従の無い音楽と映像と物語の超越した関係が生み出す特殊な時間の体験。石橋は「演奏をするたびに発見があり新鮮」と語る。「GIFT」では石橋による即興ライブ演奏が、濱口による映像に干渉を及ぼし、常に「1回きり」の映像音楽体験が生まれる。

石橋英子
石橋英子は⽇本を拠点に活動する音楽家。Drag City、Black Truffle、Editions Mego、felicity などからアルバムをリリース。2020年1⽉、シドニーの美術館 Art Gallery of New South Walesでの展覧会「Japan Supernatural」の展示の為の音楽を制作。2021年、映画『ドライブ・マイ・カー』の音楽を担当。World Soundtrack Awards の Discovery of the year と Asian Film Awardsの音楽賞を受賞。2022年よりNTSのレジデントに加わる。2023年、濱口竜介監督と再びタッグを組み「悪は存在しない」の音楽とライブパフォーマンスの為のサイレント映画『GIFT』の音楽を制作、国内外でツアーを行なっている

濱口竜介
2008年、東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作『PASSION』が国内外の映画祭で高い評価を得る。その後も 317分の長編映画『ハッピーアワー』(2015)が多くの国際映画祭で主要賞を受賞、『偶然と想像』(2021)でベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)、『ドライブ・マイ・カー』(2021)で第 74回カンヌ国際映画祭脚本賞など4冠、第94回アカデミー賞国際長編映画賞を受賞。地域やジャンルをまたいだ精力的な活動を続けている。

■『GIFT』 Eiko Ishibashi × Ryusuke Hamaguchi 
京都公演 
日程:2024年2月24日時間:16:15開場 / 17:00開演
プログラム:『GIFT』ライブ公演、石橋英子×濱口竜介トークショー
会場:ロームシアター京都 ノースホール
料金:(自由席)¥4,500
イープラス最速先着先行:2024年年2月2日17:00〜12⽇15:00
イープラス最終先着先行:2024年2月14⽇12:00〜24⽇15:00
https://eplus.jp/gift-2024/

東京公演
日程:2024年3⽉19⽇
時間:18:00 開場 / 19:00開演
プログラム:『GIFT』ライブ公演、石橋英子×濱口竜介トークショー
※濱口竜介はオンラインでのトークショー参加となります。会場:PARCO劇場(渋谷PARCO 8F)
料金:(全席指定)¥4,500
一般発売⽇:2024年2⽉17⽇
イープラス https://eplus.jp/gift-2024/
チケットぴあ https://w.pia.jp/t/gift-2024/
ローソンチケット https://l-tike.com/gift-2024/

The post 石橋英子の音楽と濱口竜介の映像によるライブ「GIFT」が京都と東京で開催 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
映画『ドライブ・マイ・カー』の凱旋トークイベントが6月10日に開催 濱口監督などが制作秘話を語る https://tokion.jp/2022/06/03/drive-my-car-talk-event/ Fri, 03 Jun 2022 03:30:00 +0000 https://tokion.jp/?p=121506 代官⼭の蔦屋書店で実施。会場参加(定員50人)だけでなく、オンラインでも参加することができる。

The post 映画『ドライブ・マイ・カー』の凱旋トークイベントが6月10日に開催 濱口監督などが制作秘話を語る appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>

東京・代官⼭の蔦屋書店は、映画『ドライブ・マイ・カー』のアカデミー国際長編映画賞受賞を記念した凱旋トークイベントが6月10日に開催する。場所は代官⼭ 蔦屋書店 3号館 2階 SHARE LOUNGE。イベントは19時開始で、会場参加(定員50人)だけでなく、オンラインでも参加することができる。参加費は会場が¥2,200、オンラインが¥ 550となっている。

イベントには監督の濱口竜介のほか、プロデューサーの山本晃久、制作プロダクションの代表の久保田修が登壇し、制作に関わる秘話や裏話、3月に行われたアカデミー賞授賞式での体験なども含めたトークを展開していく予定だ。

The post 映画『ドライブ・マイ・カー』の凱旋トークイベントが6月10日に開催 濱口監督などが制作秘話を語る appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
映画『ドライブ・マイ・カー』、その滑らかさが隠すもの https://tokion.jp/2022/03/27/the-film-drive-my-car/ Sun, 27 Mar 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=105324 批評家・伏見瞬による映画『ドライブ・マイ・カー』のコラム。本作が持つ滑らかさとそこに隠されているものについて。

The post 映画『ドライブ・マイ・カー』、その滑らかさが隠すもの appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
3月28日(日本時間)に発表される第94回アカデミー賞。濱口竜介監督による映画『ドライブ・マイ・カー』は作品賞や監督賞、脚色賞、国際長編映画賞の4部門でノミネートされていて、受賞できるかで注目を集めている。発表を前に本作について、批評家の伏見瞬にコラムを依頼した。

※文中には映画のストーリーに関する記述が含まれます。

濱口竜介が監督した映画『ドライブ・マイ・カー』が、2021年カンヌ映画祭の脚本賞を獲得し、2022年のアカデミー賞4部門にノミネートされた。アカデミー作品賞へのノミネートは、日本人監督作で初のことである。濱口は優れて野心的な映画を作り続けている作家であり、本作が広く世界に受け入れられたことは、まずもって歓迎すべきことだ。しかし私はむしろ、『ドライブ・マイ・カー』に覚えた違和感を、ここでは強調したいと思う。大きな評価を得ているからこそ、1つの声として、違和感を書き留めておきたい。

本作は、男性が自分の弱さを認め、受け入れることを主題にした映画だと考えられている。 映画の中で発される言葉を借りれば、「正しく傷つく」ための映画。 物語としては、西島秀俊演じる演出家・家福(かふく)が、『ワーニャ伯父さん』上演への向き合いと三浦透子演じるドライバー・みさきとの接触を通して、亡き妻への複雑な感情と自分の弱さを認めるという筋書きを持つ。車の座席位置の変化やタバコを吸うシーンの反復によって、2人の精神的距離の変化が演出されてもいる。しかし本当に、『ドライブ・マイ・カー』は主人公が弱さを曝け出し、他人との距離を変えていく映画なのだろうか。むしろ、人間同士が抱える軋轢を、隠蔽している映画なのではないか。

『ドライブ・マイ・カー』が持つ滑らかさ

隠蔽の内実を言葉に換える前に、本作が何かを隠せるほどの豊かさを獲得していることをまず述べるべきだろう。『ドライブ・マイ・カー』という映画全体から伝わってくる質感を一言で表すなら、それはスムースさ、滑らかさだ。主に撮影と音響によって、滑らかさは形成される。四宮秀俊によって撮影される、上方から車を映したロングショットの繰り返し。中央高速道路や広島の国道を進んでいく真っ赤なサーブ900を、四宮は実に滑らかにフレームに収めていく。あるいは石橋英子が作曲し、ジム・オルークや山本達久といったバンドメンバーと共に演奏したサウンドトラック。石橋達は、バート・バカラックとシカゴ音響派の中間のような(あるいはプエンテ・セレステやアンドレス・ベエウサエルトなどのアルゼンチンのコンテンポラリー・フォルクローレを想起させる)愁いと体温を帯びた音楽を、ブラシで叩くドラムやウッドベース、ピアノやアコースティックギターを駆使して滑らかに伝える。映画開始から40分ほど経過したタイミングで挟まるオープニング・クレジットでは、車の撮影と音楽の響きが重なる。そこに浮かび上がるのは、暑くもなく寒くもなく風も強くない秋晴れの日のように、ありふれているようで実はとても貴重な心地よさだ。さらに、整音を担当した野村みきは、伊豆田廉明が録音した俳優の声や周囲の具体音と、石橋英子による音楽を自然に溶け合わせている。作品内の重要なモチーフである、カセットテープに録音された『ワーニャ伯父さん』の朗読も、しなやかに響く。映画全体が、肌をそっと撫でる細い指のごとき、途方もない滑らかさを有している。

脚本にも、滑らかさがある。前述の通り『ドライブ・マイ・カー』は、チェーホフ『ワーニャ伯父さん』の舞台の稽古とともに進行していく。舞台が上演されるまでの過程と、家福が喪失感に向き合う過程が同時進行するのも、観客に物語を滑らかに伝える工夫だ。『ワーニャ伯父さん』をはじめとするチェーホフの戯曲は欧米で古典として知られており、日本の演劇界でも上映機会は多い。『ワーニャ伯父さん』の、後悔を抱えて自暴自棄になる中年男性ワーニャを、不器量であるがゆえに世俗的な幸せに恵まれない姪のソーニャが支えるという関係性は、映画内の家福とみさきの関係に反映している。文脈が与えられていることで、『ドライブ・マイ・カー』の物語はグッと飲み込みやすくなる。特に、日本の風土を知らない(例えば、本作の舞台である東京・広島・北海道の地理的・文化的距離感を掴めない)海外の観客にとっては、大きな助けとなるだろう。本作が179分という比較的長尺のランニングタイムを持ち、豪華な映像や重厚な音楽や派手なアクションを使ったスペクタクルを欠いているにも関わらず観ている間に退屈を感じないのも、撮影・音響・脚本に通底する滑らかさが一因にある。

思えば、2020年アカデミー作品賞の『パラサイト』も、2021年作品賞の『ノマドランド』も、映像と音とストーリーが滑らかに連携する映画だった。作風は異なるが(例えば撮影の点では、『パラサイト』は奥行きを強調した撮り方、『ノマドランド』は横長の景色と人物のアップを特徴としている)、時間を忘れるほどの滑らかさは共有している。アジア系の監督という点も、両作と『ドライブ・マイ・カー』の共通点である。滑らかな時間感覚とアジア系監督を昨今のアカデミー賞の傾向だと考えるのなら、『ドライブ・マイ・カー』がアカデミー作品賞にノミネートされたのも道理に思える。

滑らかさに隠されたもの

本作の滑らかさは、映画の伝統を考えても、観客との関係を考えても、賞レースに紐づいた興行の成功を考えても、美点だと言えるだろう。しかし、上質な絹のごとき滑らかさは、映画内に含まれるヒリヒリした人間関係やゴツゴツした自我意識を覆い隠している。『PASSION』にせよ『親密さ』にせよ『ハッピーアワー』にせよ『寝ても覚めても』にせよ、濱口竜介の監督作品には、人間同士のバランスが崩れて、押しとどめていた感情が溢れ出すような瞬間があった。『寝ても覚めても』では、登場人物の1人が出たチェーホフ劇の映像を観ることをきっかけに、仲睦まじく会話していた4人の男女が突如喧嘩腰でぶつかり合うシーンがある。そこには、人間関係の重心が突如変化するような、目に見えない動きが感じられた[1]。アントン・チェーホフ自身も、人間関係が強い軋みを伴いながら変化する様を言葉にする小説家・劇作家だった。それに比べると『ドライブ・マイ・カー』は、人間同士が相互変容を遂げるようなダイナミズムを欠いている。

[1] 三浦哲哉は著書『『ハッピーアワー』論』(羽鳥書店、2018年)の中で「重心」というキーワードを用いているが、濱口竜介の映画全体において、「重心」の変化は大きな効果を持っている。

とはいえ『ドライブ・マイ・カー』でも、岡田将生演じる若き俳優・高槻が車の中で家福と会話する正面からの切り返しのシーンなどには、人間関係が突如変貌するような不気味さが漂っており、実に濱口映画的な気まずい気配を漂わせている。ただ、ここで無視できないのは、ドライバーのみさきが蚊帳の外に置かれていることだ。高槻と家福は亡き家福の妻・音をめぐる緊迫した会話を繰り広げているのだが、みさきは気まずい会話を無言で受け入れている。家福にしても、「彼女なら大丈夫だ」と、みさきを会話内に入ってこないものとして扱っている。今までの濱口映画では、3人以上の複数の人間が1つの場に居合わせれば、そこに全体のバランスが崩れる変化があった。しかし、三浦透子演じるみさきは、人間関係に立ち入らない人物であり続ける。家福との最初の会話でも、韓国人夫婦との食卓でも、みさきは空気のひりつきを柔らかく吸収する。そして、家福が弱さを見せ始めると、みさきは釣り合いを保つように自分の過去を語り出す。みさきは、家福をどんな形であれ受け止めてくれる、クッションの役割を果たしている。彼女のクッション的柔軟性に、家福は慰めを見出す。つまり、本作において家福は弱さを受け入れるなどといった変化を遂げているのではなく、みさきという便利な優しさに甘えているだけではないのか。映画の最初から終わりまで家福という人物は、女性を都合の良いファンタジーとしてしか見ていないのではないか。みさきの故郷である雪山で家福がみさきと抱き合うシーンには、家福にとっての都合の良さが感じ取れる。そこでの抱擁は、互いの精神が呼応したものには見えない。雪山の景色を斜めに横切る鳥の偶然的な姿が美しいだけに余計に、都合良さが際立ってしまう。

そもそも、家福の妻・音が性行為の後に物語を語り出すという設定にも、女性へのファンタジーが滲み出ている。このような指摘をすると、村上春樹の原作に原因があると考える人もいるかもしれない。確かに村上の小説は、兼ねてから女性への幻想が強いと批判されてきたが、本作の脚本のうすら寒さは原作者のせいではない。音という人物の性格造形は、「ドライブ・マイ・カー」という短編小説に出てくる、不貞を繰り返し、やがて病気で亡くなってしまう妻と、「シェエラザード」という短編小説に出てくる、何らかの理由で外に出られない男の世話をして、性行為の後に物語を語り出す見ず知らずの女とを、脚本家達が合成させてできたものだ。不貞をして裏切る美しい妻にも、セックスと物語がセットになった素性を知らない女にも、違和感は感じない。しかし、妻がセックスの後に物語を語り出すという設定には、違和感が付随する。20年以上の歳月を共にした身近な女性に遠い神秘性を見ている、映画内の錯誤的なファンタジーに、うすら寒さを覚える。

映画が撮影と編集を観る芸術形式だとするならば、脚本や人物造形の違和感なんか無視してしまってもいいじゃないかという意見もあるだろう。本稿に対して、物語にばかり気を取られていて映画の本質を無視していると、考える人もいるかもしれない。だが、この映画の場合、映画自体の演出が物語の流れと密接に絡まっており、物語を簡単に無視することはできない。

家福による『ワーニャ伯父さん』の稽古は独特だが、濱口の映画についていくらかの知識を有する者にとっては、馴染みのあるものだ。家福は、戯曲のテクストを、感情を排してただただ正確に読むことを俳優達に要求する。何度も何度も、繰り返し読む。「本読み」と呼ばれる一連の作業は、濱口が『ハッピーアワー』以降実際に導入したと語っている方法と同じだ。つまり、フィクション内の家福の演出は、実際の濱口の演出と重なっている。

映画の中で、「本読み」は演技の相手の言葉をより深く聞き、より深く反応するための手段として語られている。だとすれば、「本読み」による演出は、共に演じる相手との関わりが重要になってくる。稽古の終盤で、ワーニャ役の高槻がある事件を起こすことで劇に参加できなくなる。俳優同士の関係性に多くを負っている家福の演出において、1人の俳優がいなくなることは、全体の関係性が大幅に崩れることを意味する。別の俳優が入って立て直すのは容易ではない。映画を観ている誰もが予想するように、代わりにワーニャを演じるのは自身が俳優でもある家福だ。演出家として稽古にかかわったとはいえ、その後の稽古は大きな困難を迎えるはずだ。だが、『ドライブ・マイ・カー』において、高槻が退場したあとの稽古は一切描かれない。かわりに描かれるのは、家福とみさきがみさきの故郷まで車で行く、広島〜北海道間の移動行程だ。ワーニャ=家福の再生を映し出すことが、劇の困難な立て直しの代わりになる。しかし、先程も述べた通りこのシーンは、家福がみさきという精神的クッションにもたれるところで終わりを迎える。家福が涙を流してみさきと抱き合うシーンには、人間の相互的な影響を感じ取れず、家福の一方的な解決に思える。個人的な精神の危機を救うために他人にもたれかかること自体が、責められるべきだと言っているわけではない。本作における、人間の相互的な作用に賭ける演劇の制作過程と、家福の個人的なドラマは重なり合っていないではないかと言いたいのだ。家福の物語は『ワーニャ伯父さん』から乖離しており、劇の上演が蔑ろになっている感覚すら残る。

故に、映画の山場となる上演シーンには空疎さが持続し、家福の演技もどこか芝居じみている。声を張り上げる西島秀俊の姿から、変化は掬い取れない。舞台裏で机に腕をついて息を乱すショットも、妻の死の直後に家福が演じたワーニャの姿と重なって見えてしまう。濱口自身の言葉を借りれば、そこに「はらわた」から響く声が感じ取れないのだ[2]。演劇自体が古風で味気ない新劇のように見えるし、今までの「本読み」は何だったのかという気分に苛まれる。確かに、最後のソーニャの長台詞を韓国手話で語るパク・ユリムは素晴らしい(特に息をパッと吹く動作は本当に素晴らしい)が、彼女はオーディションでも公園での立ち稽古でも力強い姿を見せていた。つまるところ、最後の劇の本番のシーンに、役者達の相互変容は掴めない。パク・ユリムの手話を前にして涙を浮かべる、西島秀俊の姿を映すのみだ。だから『ワーニャ伯父さん』の上演も、みさき同様に、家福の慰めとして使われている感が否めない。それは結局のところ、家福が他者を他者として受け入れて「正しく傷つく」ことが、最後まで為されていない事実を意味するのではないか。本作が映し出すのは、家福の「変わらなさ」だ。そして、本稿の前半で指摘した『ドライブ・マイ・カー』の滑らかさは、「変わらなさ」を隠蔽するための機能を見事に果たしている。

[2] 濱口竜介、野原位、高橋知由『カメラの前で演じること 映画「ハッピーアワー」テキスト集成』左右社、2015年、p53

他の監督の映画であれば、「変わらなさ」の隠蔽も、それほど気にならなかったかもしれない。「ちょっと都合のいいストーリーだけど、映画として良いところはたくさんあるな」で済んだかもしれない。先述した「滑らかな」場面以外にも、本作には素晴らしいシーンがいくつも存在する。フレームギリギリに収まったサーブ900に少しずつカメラが接近していくショットや、広島国際会議場前の噴水(祈りの泉)が吹き上がる3回のショットなど、感嘆を覚えた場面を挙げればキリがない。それで十分じゃないかと思うかもしれない。だが、濱口竜介の映画は、隠蔽されているものを晒し出すことで生まれる変化、あるいは変化の兆しを捉えることに重心を置いていたはずだ。変えられない痛みや醜さは、痛みや醜さのまま映そうとしていたはずだ。それが濱口の信念、いや、信仰だと私は感じていた。だからこそ、本作における都合の良い独りよがりを、やり過ごすことができない。断片を取り出せば本当に優れた作品だと思うからこそ、全体の流れから感じ取った違和感を無視できない。

もしかしたら、私は濱口の過去から見出した幻想を、濱口の現在に押し付けているだけなのだろうか。そうかもしれない。だとしても、今までの濱口作品と『ドライブ・マイ・カー』が根本の部分で異なること、そしてそれによって強く違和感を抱いたことは、指摘しておきたかった。大勢に受け入れられる作品であればこそ、作品から受けた傷をやり過ごすべきではない。なにか大切なものが、『ドライブ・マイ・カー』の中では隠され、排除されている。私はどうしてもそう感じてしまう。そのことに、「正しく傷つく」必要がある。

The post 映画『ドライブ・マイ・カー』、その滑らかさが隠すもの appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
映画『偶然と想像』濱口竜介監督インタビュー 実在世界とフィクションの境界と、「聞く」と「開く」の往還からあらわれるもの https://tokion.jp/2021/12/17/ryusuke-hamaguchi/ Fri, 17 Dec 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=83129 カンヌで日本映画史上初の脚本賞を受賞するなど、世界的評価を高め続ける映画監督・濱口竜介。12月から全国公開が始まった最新作『偶然と想像』の制作哲学に迫る。

The post 映画『偶然と想像』濱口竜介監督インタビュー 実在世界とフィクションの境界と、「聞く」と「開く」の往還からあらわれるもの appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
世界三大映画祭においてもその存在感を確固たるものとし、国際的な評価を高め続ける映画監督・濱口竜介。カンヌ映画祭にて日本映画史上初の脚本賞受賞作に輝いた『ドライブ・マイ・カー』に続き、第71回ベルリン国際映画祭・銀熊賞受賞作『偶然と想像』がこの12月から日本全国で順次公開となる。濱口初の短編集作品となる今作は、親友である2人の女性の軽快な恋愛トークから幕を開ける「魔法(よりもっと不確か)」(出演:古川琴音 他)、作家・大学教授と教え子の研究室での会話を基軸とする「扉は開けたままで」(出演 : 渋川清彦 他)、高校の同窓会のために帰郷した女性に訪れる20年ぶりの再会を描いた「もう一度」(出演:占部房子 他)の3編の物語からなる。シチュエーションはさまざまながら、そこに通底し観る者を惹き込むのはタイトルに冠された「偶然」であり、それは「想像」と表裏一体のものであるのだと、濱口は述べる。今作はどのように紡ぎあげられたのか、その背景にある制作哲学を探る。

※文中に一部作品の構成・内容に触れる箇所があります。

短編を撮ることで生まれる映画制作の好循環

──『ハッピーアワー』(317分/2015年)や『ドライブ・マイ・カー』(179分/2021年)など、長尺の長編作品で知られる濱口監督ですが、濱口さんにとって短編というのはどういった存在ですか?

濱口:製作者としては、長編と同じくらい重要なものと考えています。というのも、長編は単純に物量として非常にコストがかかりますから、時間も気力も使います。一方で、短編は始めるのがより簡単な分、負えるリスクも大きくなるというか、チャレンジしたいことに挑戦しやすくなります。それは次の長編の準備にもなりますし、逆に前に撮ったものの復習みたいな役割を果たす場合もあります。実際に、『ハッピーアワー』と次の長編『寝ても覚めても』(2018年)を作る間に、『天国はまだ遠い』(2016年)という短編を撮ったのですが、このことがすごく良かったんです。今回始動した短編のプロジェクトは、その好循環のサイクルを自分の映画作りの中でちゃんと確立できないかという試みでもあります。

──今回は、久しぶりの完全オリジナル脚本という点もファンとしては期待が膨らみます。短編を7本作るという企画段階で共通のテーマを「偶然」に決めたそうですが、実際の脚本はどのように書かれたのでしょうか?

濱口:基本的にはごく普通で、まずあらすじみたいなものがあって、次はそのあらすじを「箱書き」といって、「こんなことがあって、こんなことがある」というふうに場所ごとに分割していくんですけど、今回はその場所ごとのシーンがとても長いので、その中でもいろいろなうねりがありました。その箱の中(場所)のシーンをダイアローグで書いていく過程はけっこう行き当たりばったりというか、探り探り書いていく感じですね。そして、その「箱」で起こるべきことが「起きた」と思ったら、次の場所に行きます。

『偶然と想像』予告編

──濱口さんの脚本では、現実では思っていても言わないようなことを、あるキャラクターに敢えて言わせて、関係性に変化が起きるという展開が必ずあると思います。今回も、第1話でいうと、古川琴音さん演じる芽衣子がある男性のところに行った時のやり取りがまさにそうです。

濱口:箱書きの時点で想定しているところとしては、アンリアルなところに行きたいというか、「いやいや、そんなことないだろ?」というようなことを、「でも、あるかもな」と思わせるところまで最終的には持っていきたい。そのためにはある程度リアリティも大事になってきますから、例えば、芽衣子というキャラクターがめちゃくちゃで、一見、常識外れな人物に思われるかもしれないけど、芽衣子は単にめちゃくちゃやればいいというわけではなくて、彼女には彼女なりの行動原理があるんだろうなという想定のもとに書いていきます。

──それが実際に「あり」になるかどうかは、役者さんとの本読みで探っていくのですか?

濱口:そうですね。正直自分では、「これで大丈夫かな?」って思いながら書いているところもあります(笑)。やっぱり生身の役者さんがいることは大きくて、フィクションを現実に落とし込んでいくプロセスとして、最近自分は「本読み」(※)をしているんだな、ということに自覚的になってきました。この短編3作は、『ドライブ・マイ・カー』を撮影する前だったということもあって、『ハッピーアワー』から取り組んできた本読みというものがどの程度機能するのか、その精度を上げていこうという意図もあってやっていました。

※(注) 濱口監督がリハーサルで重要視している本読みは、ジャン・ルノワールが晩年に採用したと伝えられる“イタリア式本読み”に着想を得たもので、一切ニュアンスや感情を込めずに台詞を読み、俳優から「自動的に言葉が出てくる」まで繰り返すという方法。その際に俳優から違和感などが出たら適宜台詞を変更していくが、リハーサルで読みを完成させるのではなく、撮影が始まっても随時調整を重ねていくという。今回は、1話について1週間から10日ほどかけて、ひたすら俳優たちと脚本を読み合わせた。

─個人的には、芽衣子の言動は全然ありというか、理解できるものでした。でもそれは、その前の10分近いタクシーのシーンでのつぐみとの自然な会話があるからこそ、信じられたのかもしれません。

濱口:そうなんです。ああいう親友同士のガールズトークのようなすごく自然なものがまずあって、その現実を1つ捲るとフィクション的な状況が待ってるという構造にしています。でもその表面と心の奥底の矛盾というのは、意外と誰しもが現実で抱えているものなのではないかという気がしなくはない。そして、フィクションというのは、何がしかそこに訴えかけていくものなのではないかという気がしています。

──脚本段階では、第1話は「噂の男」というタイトルだったそうですが、最終的なタイトル「魔法(よりもっと不確か)」は、抽象度が増して数段魅力的に響きますね。

濱口:これは結果的に芽衣子が言う台詞から採用しました。撮りながら、やっぱりこれがこの話のパンチラインだなと(笑)。

──最初はつぐみから発せられた「魔法」の意味を、芽衣子がだんだん反転させていくところが素晴らしいです。

濱口:ありがとうございます。芽衣子というキャラクターは本当に難しい役だったと思いますが、普通の女子みたいなところから、恐ろしいなこの人というところまで、古川さんが見事に演じてくれました。

──第1話の最後には、観客をあっと驚かせる、撮り方の「魔法」とも言うべき仕掛けもあります。

濱口:あそこはカットを割ってしまったらよくあるシーンになってしまうので、見ている観客の感覚としてより曖昧さが強くなるような方法として採用しました。考えればすぐ分かるちょっとしたことなんですが、楽しんでもらえると嬉しいです。

実在する世界とフィクションの境界面にあるもの

──第2話「扉は開けたままで」では渋川清彦さんが大学教授・作家を演じられています。これまでの渋川さんであまり拝見したことのないような役柄でした。

濱口:渋川さんとご一緒するのはこれで4回目だと思いますが、基本的にはちょっと乱暴者な役が映える方なんですよね。でも4回目となるとちょっと違う役も振りたいという気持ちもあったのと、自分も渋川さんもいろいろ時間を重ねてきて、今だったらこういう役も説得力をもってやれるんじゃないだろうかと思ってお願いしました。でもこの役も、やっぱり渋川さんの人間的な魅力というか、核の部分みたいなものがあるからこそ成立する役だったと思います。

──第3話「もう一度」の占部房子さんと河井青葉さんも、これまでに度々お仕事をされていますが、渋川さん含めて、3人とも今回のような本読みをされたのは初めてだったのではないでしょうか?

濱口:そうですね。「濱ちゃん、今はこんなことやってるんだ」と言いながらも(笑)、楽しんでくれたと思います。通常の現場では、呼ばれて、「こういう役で、この衣装で」となって、本番になったら「ここでこういう台詞を言ってください」というふうに始まることが往々にしてあるので、役者さんにとっても、リハーサルに時間をかけられるということ自体が貴重といいますか、これは今回どの役者さんも言ってくださったことですけど、1つの役にこれだけ時間をかけて接するというのは、あまりない機会ということでした。

──短編集のテーマを「偶然」に決めたのと同じように、製作の面では「時間をかけて撮る」ことを大きなテーマとして掲げられたそうですね。

濱口:はい。(初の商業映画であった)『寝ても覚めても』を監督してみて、みんなこんな短い時間で撮ってるのかと驚いたんです。プロデューサーには「これでもかなり確保したんですよ」と言われましたが(苦笑)、こんなにも早く物事が進んでいくのかと。もちろん、たくさんスタッフがいるのでシステマティックに進んでも撮ることができるという面はあるんですが、その前の『ハッピーアワー』は2年ぐらいかけて作っていたりするので、時間感覚が全然違ってきて、自分がこの環境でずっと良いものを作り続けるのはなかなか大変じゃないかと思ったんです。『ハッピーアワー』はかなりインディペンデントな制作体制でしたが、そういう現場を手放すのは自分にとって良くないなという危惧があったので、この短編の企画も、『ハッピーアワー』のプロデューサーである高田(聡)さんに脚本を送ったことから始まりました。

──今回3話をまとめた短編集のタイトルは『偶然と想像』となっています。当初からあった「偶然」という共通のテーマに加えて、「想像」という言葉はいつ出てきたものでしょうか?

濱口:おっしゃるように、まず「偶然」というテーマがありました。この3話の脚本を書き上げて、おそらく第2話を撮り終えた頃に、これは、想像力というのも共通のテーマになっているなと気づいたんです。偶然と同じように想像力にもいくつか種類があって、例えば第1話のように、ある偶然があって、「ああだったら、こうだったら」と考える想像力がありますよね。それとは別に、もっと精度の高いフィクションを構築するタイプの想像力というのがあって、そのことが3話に共通するなと思ったので「想像」という言葉を入れました。「偶然」と「想像」は、考えれば考える程つながっている気がするというか……。

──それはどのようなつながりですか?

濱口:まだしっかりと言語化できているわけではないですが、1つ言えるのは、実在する世界とフィクションの境界面みたいなところに、「偶然」も「想像」もあるのではないかということです。想像というのは、ないから想像するという側面がありますが、偶然の方は、稀な、ほとんどあり得ないことなんだけど確かにあることなんですよね。つまり、偶然はその境界面の「ある」側の方に、想像は「ない」側の方にあって、その現実とフィクションを取り違えさせる、あるいは超えていくために、この2つは表裏一体の役目を果たしているんじゃないかと考えているところです。

聞くことと開くことがもたらす奇跡の交感

──『ハッピーアワー』以降、ここ何作かの濱口さんは、自分を開いていくということ、もしくは傷なり痛みを分かち合うことで他者とつながるということを、一貫して描かれていると思います。

濱口:そうですね。

──実際、自分を他者へ開くということは、ある種の賭けといってもいい行為だと思いますが、今回は、第2話で提示されたその真のテーマが、第3話でより具体的な形となって結実します。興味深いのは、第3話で起こる奇跡のような交感が、作中のキャラクターである夏子とあやが、自分とは別の人物を「演じる」ことを通して生じることです。

濱口:やっぱりある種の欲望や欲求というか、「こうでありたい」と思うことが、すべての核にはなっていると思うんですね。欲しいものがあるからないものを想像する、あるいはそれを手に入れたいからウソをつくとか。そういうことを含めて想像の役割だと思いますが、本当に欲しいものを現実のものにする時に、やっぱり自ら飛び込んでいく必要がある。そして、その飛び込んでいく対象というのは、ある種の偶然によって現れるんだと思います。ルーティンで構成されている自分の人生に訪れる、本当はこちら側の人生に開かれていきたいと思っているその偶然にうまく飛び乗れるか、自分を投げ出せるかということ。

──そうなった時に、今度は「聞く」ということが出てきますよね。

濱口:「聞く」ということは、演じる上でものすごくキーになることです。彼女たちは相手のことを聞くから演じることができるとも言えるわけですよね。例えばあやが夏子に「あなたは幸せなの?」と尋ねる時、あやは聞き役として他人を演じています。でも、あやはその聞くことを通じて、夏子が想像している、自分とは別の存在と混じり合っていくようなところがある。聞くことによって相手を引き出すことができるし、その引き出したものに応じて、その人自身も変わっていけるというんでしょうか。聞くことは対応するということなので、自分自身が開かれていくことにもつながるんだと思います。

──自分だけワーって開いたと思っても、それは一方通行でまったく違うものですからね。

濱口:実際、現実の中で見知らぬ他者が互い開き合うということはなかなか起こらないじゃないですか。でも、聞く側にまわることで、その可能性がものすごく上げられるということなのではないでしょうか。そして、聞きながらその相手が開く瞬間を待つことができたら、いつでもつながれる、とまでは言えないけれど、つながり得る。「聞く」ことはよりよくつながるための数少ない方法の1つだと思います。

──観客は、その聞くことと開くことの往復運動を、たぶんスクリーンを通して追体験するんですね。だからこそ、いくつもの企みとユーモアにも満ちたこの『偶然と想像』という作品が、最後にいたって大きな感動をもたらすのだと思います。

濱口:ありがとうございます。そのような映画になっているとしたら嬉しいです。

映画『偶然と想像』


『偶然と想像』
12月17日よりBunkamuraル・シネマほか全国ロードショー

■監督・脚本:濱口竜介
■ 出演:古川琴音 中島歩 玄理 渋川清彦 森郁月 甲斐翔真 占部房子 河井青葉
■配給:Incline

公式サイト:https://guzen-sozo.incline.life/

濱口竜介

濱口竜介
1978年神奈川県生まれ。2008年、東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作『PASSION』がサン・セバスチャン国際映画祭や東京フィルメックスに出品され話題を呼ぶ。その後は日韓共同制作『THE DEPTHS』(2010年)、東日本大震災の被害を受けた人々の「語り」をとらえた『なみのおと』『なみのこえ』、東北地方の民話の記録『うたうひと』(2011〜2013/共同監督:酒井耕)、4時間を超える虚構と現実が交錯する意欲作『親密さ』(2012)などを監督。2015年、映像ワークショップに参加した演技経験のない4人の女性を主演に起用した5時間17分の長編『ハッピーアワー』が、ロカルノ、ナント、シンガポールほか国際映画祭で主要賞を受賞。商業映画デビュー作『寝ても覚めても』(2018年)がカンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出され、共同脚本を手掛けた黒沢清監督作『スパイの妻〈劇場版〉』(2020年)ではヴェネチア国際映画祭銀獅子賞に輝く。本作『偶然と想像』は第71回ベルリン国際映画祭にて銀熊賞(審査員グランプリ)受賞。一足先に劇場公開された『ドライブ・マイ・カー』(2021年)では、第74回カンヌ国際映画祭にて脚本賞に加え、国際映画批評家連盟賞、AFCAE賞、エキュメニカル審査員賞も同時受賞。今、世界から最も注目される映画作家の1人として躍進を続けている。

Photography Kentaro Oshio

The post 映画『偶然と想像』濱口竜介監督インタビュー 実在世界とフィクションの境界と、「聞く」と「開く」の往還からあらわれるもの appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>