広瀬豊 Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/広瀬豊/ Wed, 29 Jun 2022 07:59:22 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.2 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 広瀬豊 Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/広瀬豊/ 32 32 「ジャパンビエント」の傑作はいかにして誕生したか——広瀬豊、インタビュー -後編-アンビエントとも環境音楽とも異なる「自然=畏怖」の響き https://tokion.jp/2022/06/28/interview-yutaka-hirose-vol2/ Tue, 28 Jun 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=128374 日本アンビエント史に燦然と輝く名盤『Nova』から36年ぶりの新作アルバム『Nostalghia』をリリースしたサウンド・デザイナー、広瀬豊にインタビューを実施。後編はブライアン・イーノや新作に横たわる「怖さ」、日本独自のアンビエント観について。

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「ジャパンビエント」の傑作はいかにして誕生したか——広瀬豊、インタビュー -後編-アンビエントとも環境音楽とも異なる「自然=畏怖」の響き

1978年にブライアン・イーノが提唱した「アンビエント・ミュージック」は、特定の空間における環境的独自性を際立たせるアンビエンス(雰囲気)としての音楽というコンセプトを当初は打ち出していた。他方で現在、アンビエント・ミュージックと言えばミニマルで穏やかなサウンドの音楽ジャンルを指す名称として、エレクトロニカからBGMや環境音楽まで含む総称として曖昧に流通している。つまりイーノの音楽からコンセプトが抜け落ちて音のイメージだけが継承されているとも言えるが、テン年代を通じたアンビエント再評価の流れがもたらした功罪相半ばする結果の一つは、公共施設や居住空間などの音のデザインを目指して制作された環境音楽を、アンビエント・ミュージックの1種として再解釈し、実用性から離れて音盤上で楽しむことを可能にした点にあるだろう。日本の環境音楽の価値もそのようにして再発見されているところがあるように思う。

このたび完成したサウンド・デザイナーの広瀬豊による36年ぶりのセカンド・アルバム『Nostalghia』も、同様の流れで新たに価値が見出されたのだと言うことはできる。ただしその限りではない。第一に、もともと公共の施設で流すために1987~91年に制作された音源を、制作者である広瀬自身がアルバムとして「音楽化」したということ。この意味で『Nostalghia』はあくまでも現代の音楽として新たにデザインされている。そして第二に、アルバムそれ自体は特定の空間で流すための音ではないにせよ、収録された各楽曲それぞれが1つの空間として提示されていること——それはアンビエント・ミュージックと呼ぶには奥行きが広く、あまりに不穏な響きでもある。

もともとCD7枚分以上もあったという未発表音源から、本盤を監修した不思議音楽館の井上立人、およびアーティストの角田俊也とともに広瀬が選曲し、ミュージシャンの宇波拓がマスタリングを施すことで『Nostalghia』は日の目を見ることとなった。その内容はアンビエント・ミュージックどころか、日本の環境音楽とも異質に聴こえる。前後編に分けてお届けするインタビューの後編では、ブライアン・イーノやサウンド・プロセス・デザインの話から、『Nostalghia』の「怖さ」、さらに「ジャパンビエント」なる造語まで話を訊いた。

前編はこちら

変化するブライアン・イーノのイメージ

——ブライアン・イーノの音楽と出会ったのはどのタイミングでしたか?

広瀬豊(以下、広瀬):イーノのことを知ったのはちょうど中学に入学してすぐの頃でした。当初はロキシー・ミュージック時代や初期のヴォーカル・アルバムを聴いていて、グラム・ロックやプログレッシヴ・ロックのイメージが強かった。むしろそっちのイメージがデフォルトだったので、『Ambient 1: Music for Airports』(1978年)を初めて聴いた時は戸惑いましたね。『Discreet Music』(1975年)の国内盤は1980年代になってから出たので、最初にイーノのアンビエント的な作品を聴いたのは『Music for Airports』だったんですよ。

僕の中でイーノのイメージが覆ったのは『Ambient 4: On Land』(1982年)でした。「これはやられた」と思ったんです。『Music for Airports』と違って『On Land』には音に生命力があるんですね。ジョン・ハッセルをはじめ何人かミュージシャンが客演していて、その中で作り出す音がまるで地球創生期の響きのようにも感じられて、もはや戸惑いを超えて「すごいな」と衝撃を受けました。

——イーノがアンビエント・ミュージックを提唱する以前、そうした穏やかなサウンドの音楽はどのように捉えていましたか?

広瀬:アンビエント・ミュージックという言葉はないにしても、わりと近いサウンドの音楽はありました。例えばテリー・ライリーの『In C』(1968年)やマイク・オールドフィールドの『Tubular Bells』(1973年)、スティーヴ・ライヒの『Drumming / Music For Mallet Instruments, Voices And Organ / Six Pianos』(1974年)など、いわゆるミニマル・ミュージックの作品。ライリーは1960年代からテープループを用いていましたから、イーノが『Discreet Music』を出した時、手法だけを取り出すならそれほど目新しくもなかった。けれどそこにイーノがアンビエント・ミュージックという、それまでとは異なる新しい個性を打ち出していったということですよね。

ただ、僕としてはアンビエント・シリーズよりも〈オブスキュア〉シリーズの方に興味がありました。例えばギャヴィン・ブライアーズの『The Sinking Of The Titanic』(1975年)での弦楽器の使い方や音響的な部分からは非常に大きな影響を受けています。〈オブスキュア〉シリーズにはあくまでも実験音楽を普及させるというコンセプトがあって、イーノはプロデューサーの立場で現代音楽や実験音楽の作曲家を表に出していた。その経験で得たものがアンビエント・シリーズへと変化していったんじゃないかという気もします。

サウンド・プロセス・デザイン周辺での活動

——広瀬さんは1983年、不慮の事故で亡くなる直前の芦川聡さんと知り合い、彼が設立したばかりのサウンド・プロセス・デザインにご自身のテープを持ち込まれました。

広瀬:芦川さんが企画したハロルド・バッドの来日コンサート(1983年)に行ったんです。それがきっかけで芦川さんと知り合うことになりました。ハロルド・バッドの音楽はそれ以前からレコードでは聴いていたんですけど、初めて生で聴いて「ああ、こういう音があるのか」と興味を抱いて、芦川さんのレコードも聴くようになった。その後、芦川さんにお会いする時に何か手土産があったほうがいいだろうと思い、自分のテープを持っていきました。

——広瀬さんにとって芦川さんの音楽の魅力はどのようなところにありましたか?

広瀬:やっぱり点と間で音楽が構成されているところですね。芦川さんの『Still Way』(1982年)はハープやピアノ、ヴィブラフォンなどの器楽的要素を使って点を作っていく。それはイーノのアンビエント・ミュージックとは大きく違うところだとも思います。

——その後、1986年の『Nova』リリースを経て、広瀬さんはサウンド・プロセス・デザインで科学館や博物館など様々な施設の空間で流すための音楽を制作していきます。当時の反響はいかがでしたか?

広瀬:あくまでも館内音として作っていたので、僕に直接返ってくるような反響は全くありませんでした。淡々と仕事としてこなしていましたからね。

——音を空間に提示するというと、1990年代以降はサウンド・アートという言い方も定着していきます。そうした動向はどのように捉えていましたか?

広瀬:1990年代以降は音を制作すること自体をやめてしまっていたので、世の中の流れに乗ってもいなければ聴いてもいませんでした。東京を離れたこともありますけど、情報を遮断していたんです。

『Nostalghia』における「自然=畏怖」の響き

広瀬豊『Nostalghia』
広瀬豊『Nostalghia』
広瀬豊『Nostalghia』トレーラー音源

——サウンド・インスタレーションのように展示するという方法もありますが、今回、なぜ『Nostalghia』をCDとLPというフォーマットで新たにリリースされたのでしょうか?

広瀬:2019年に〈WRWTFWW〉から『Nova』のリイシュー盤を出させていただいて、その後にいろいろな方から「テープが残っているのであればアルバムとしてリリースしませんか?」と言われて。自分の年齢のことも考えると、いつ死ぬかわからないですし、この際20代後半の作品をアルバムとして出してしまおうと思ったんです。もちろん当時のままというわけにはいかないので、ある程度は加工/編集も加えて、今の自分の感覚も入れています。特にマスタリングの時にかなりこだわったことであの音が出来上がりました。

——マスタリングは宇波拓さんですよね。

広瀬:そうです。実は何回かマスタリングを変えていて、もっと過激なものや静かなものもありました。けれどあまり過激にすると金属音が強くてキツいので、宇波さんと角田俊也さんと話し合いながら今回の形に仕上げていきました。

——近年、ニューエイジのリバイバルもありアンビエント・ミュージックに改めて注目が集まるようになりました。その流れの中で日本の環境音楽が海外で再発見され、国内にも逆輸入されています。サウンドスケープのための環境音楽がアンビエントとして再解釈されているとも言えますが、もともと空間のために制作された広瀬さんの音楽がそのように「アンビエント・ミュージックとして聴かれる」ということについてはどう感じていますか?

広瀬:あくまでも僕自身は空間音楽のアルバムとして出しているんです。LPなら9曲を9つの空間として提示している。それに『Nostalghia』はいわゆるアンビエント・ミュージックのような穏やかでゆったりした音楽でもなくて、キツい音もあればイヤな金属音もあり、ドロドロした部分もある。そもそも空間というもの、自然というものには穏やかさや優しさだけではなくて、怖さがあると思うんですよ。むしろ穏やかな部分は少なくて畏怖するようなもので溢れている。このアルバムからもそうした感覚を聴き取っていただけたらいいなと。

——いわば自然の響きというのは鳥の声や水の音といった表面的な自然音ではなく、たとえば『Nostalghia』で言えば不穏なドローンの方にあると?

広瀬:そうです。そこは意識した音作りになっています。『Nova』の頃は僕も試行錯誤の段階で、プロデューサーから自然音を入れて欲しいという指示もあったので、それに応えながら制作していました。けれども『Nostalghia』はそうではない。1曲目の「Seasons」で『Nova』を清算して次の段階に入っていく作品なんです。今改めて思うと、そこにあるのは自然に対する畏怖の念で、例えば神社が自然の怖さを祀って鎮めるようなことを音で表現していこうと考えていたかもしれません。

「ジャパンビエント」というカテゴリーについて

——今回、井上立人さんのライナーノーツでは「ジャパンビエント」という造語が使われています。こうした言葉についてはどう感じていますか?

広瀬:おもしろい言葉だと思っています。ジャパノイズがあるならジャパンビエントがあってもいいし、海外の方にも説明しやすいですよね。いくら僕が空間音楽だと主張したところで聴く人達はアンビエントと受け取るかもしれないし、どうしたってどこかでカテゴライズされてしまいますから。

——海外にはジャパンビエントに日本的なものを求めるリスナーも多いと思います。広瀬さんや芦川さん、吉村弘さんなど、日本の環境音楽、あるいはジャパンビエントに通底するものがあると感じることはありますか?

広瀬:例えば日本の四季に対する考え方、移ろいゆく湿度感や空気感が刷り込まれていて、それを海外の方が聴いた時に日本的な感覚として読み取ることはあるのかもしれないです。西洋の楽器や音楽理論を使っていても音色の微妙な雰囲気に日本的な感覚が表れているというような。とはいえ僕の場合は『Nova』にせよ『Nostalghia』にせよ、日本的なものを意識して制作していたわけではないです。ですが、結果的にいつの間にか日本的なものが滲み出てしまっているということなのかもしれません。

広瀬豊
サウンド・デザイナー。1961年生まれ、山梨県甲府市出身。1986年にミサワホーム総合研究所サウンドデザイン室が企画した「サウンドスケープ」シリーズから、アルバム『Nova』をリリース。同年に、芦川聡が設立した株式会社サウンド・プロセス・デザインに参画し、文化施設や商業施設などで流れるサウンドの制作を手掛ける。2019年にスイスのレーベル〈We Release Whatever The Fuck We Want〉から未発表音源を加えて『Nova』がリイシューされ、世界的に話題を呼んだ。2022年5月に36年ぶりとなるセカンドアルバム『Nostalghia』をリリース。7月1日に〈We Release Whatever The Fuck We Want〉からサードアルバム『Trace: Sound Design Works 1986​-​1989』がリリース決定。

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「ジャパンビエント」の傑作はいかにして誕生したか——広瀬豊、インタビュー -前編- 記譜から即興へ、またはフリー・ジャズの構造と現代音楽 https://tokion.jp/2022/06/10/interview-yutaka-hirose-vol1/ Fri, 10 Jun 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=122757 日本アンビエント史に燦然と輝く名盤『Nova』から36年ぶりの新作アルバム『Nostalghia』をリリースしたサウンド・デザイナー、広瀬豊にインタビューを実施。前編はバックグラウンドにある即興演奏~フリー・ジャズと新作の制作プロセスについて。

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広瀬豊、インタビュー -前編-

第62回グラミー賞にノミネートされたコンピレーション・アルバム『Kankyo Ongaku: Japanese Ambient, Environmental & New Age Music 1980-1990』(2019年)が象徴するように、近年、1980年代の日本の環境音楽にあらためて注目が集まっている。そうした中でもひときわ異彩を放つのが、1983年に30歳で夭折した芦川聡の存在だろう。現代音楽やマリー・シェーファーのサウンドスケープ理論などを吸収しながら独自の「風景としての音楽」を提唱した彼は、単に穏やかで控えめなサウンドの音楽を手掛けたのではなく、生活空間で実用化し得る音のデザインも企図し、82年に自社を設立。翌83年、株式会社サウンド・プロセス・デザインを立ち上げた直後に悲劇が訪れた。だが芦川の没後も同社の活動は田中宗隆が引き継ぎ、文化施設や商業施設、交通機関などの音のデザインを手掛けていく。そしてそこで活動したサウンド・デザイナーの1人が広瀬豊だった。

広瀬は1986年、ミサワホーム総合研究所サウンドデザイン室が企画した「サウンドスケープ」シリーズから、唯一の音楽アルバム『Nova』をリリースしていた。長らく廃盤状態が続いていたものの、アンビエント再評価の機運も手伝い、2019年にスイスのレーベル〈We Release Whatever The Fuck We Want〉から未発表音源を加えて復刻。高田みどり『Through The Looking Glass』(1983年)や吉村弘『Music For Nine Post Cards』(1982年)等々と並ぶ重要作の再発は大きな話題を呼んだ。そしてこのたび、そのような広瀬による実に36年ぶりとなるセカンド・アルバム『Nostalghia』が完成したのである。

7曲収録のCDと9曲収録の2枚組LPでアルバム化された『Nostalghia』には、『Nova』発表後の活動、すなわち1987年から91年にかけて空間の音のデザインのために制作された音源を元に、新たに編集し直したサウンドが収録されている。その意味では貴重なアーカイヴであると同時に全く新しい音楽作品であるとも言える。前後編に分けてお届けするインタビューの前編では、『Nova』以降の制作手法の変化、その背景にあるフリー・インプロヴィゼーションやフリー・ジャズの体験などについて話を伺った。

記譜された音楽から即興演奏を用いた制作へ

広瀬豊『Nostalghia』
広瀬豊『Nostalghia』
広瀬豊『Nostalghia』トレーラー音源

——今作『Nostalghia』に収録された音源は、1986年の『Nova』リリース後、87~91年にレコーディングされています。当時はどのような狙いがあったのでしょうか?

広瀬豊(以下、広瀬):もともとは立体音響のための作品として制作しました。音楽的なものはすべてやめて、空間で音を構成していこうと思ったんです。『Nostalghia』は左右2チャンネルの音楽としてアルバム化していますけど、当時はミックスしていない状態で8チャンネルぐらいあって、それらバラバラの音源を博物館や科学館の空間でランダムに流して音を構成していました。特定の施設の中で流すための、恒に変化する音として制作したんですね。だから当時はステレオで聴く音楽とは全く考えていなかったです。あくまでも記録として、後になってから2チャンネルにミックスしておいただけで。

——ミサワホームの環境音楽シリーズ「サウンドスケープ」の一環として出された『Nova』にも空間で流すための音楽というコンセプトがありましたが、そこからどのような変化がありましたか?

広瀬:『Nova』の時は譜面を用いて制作しながらパソコンで1つひとつ打ち込みをしていました。その後のミックスの段階で自然音と混ぜて空間構成していくことを考えていたんですが、『Nostalghia』では譜面やパソコンの打ち込みは使わず、インプロで音を配置していったんです。例えば即興的に奏でたメロディやフレーズをいくつも録音し、それぞれの音の塊を「群」として捉え、そこから使用する「群」を持ってきて継ぎ接ぎするように構成していきました。

——なぜ、そういったアプローチに変化したのでしょう?

広瀬:もともと即興的な音楽が好きだったというのもありますが、パソコンの打ち込みで作るとものすごく時間がかかってしまうんですね。人生が終わってしまうんじゃないかと思うぐらい(笑)。だったらとにかく自分の手で弾いてしまって、そこからセレクトして組み合わせていったほうが早いんじゃないかと考えるようになったんです。それに、そのほうが音作りの自由度がすごく増すんですよ。譜面に書いて決めてしまうのではなく、まずは音を出して、この音色とあの音色を合わせたらどうなるだろうとか、片方にはAというエフェクトをかけてもう片方にはBというエフェクトをかけて、それらを組み合わせて少しズラすと変な音色ができるとか、そういったことを自由に試しながら作っていったアルバムなんです。

それと『Nostalghia』では、とにかくメロディをどこかに追いやって、音響的なものに変えていきたいという志向がありました。メロディがあると聴く人はそれに囚われてしまうじゃないですか。なのでいかに音を塊として空から俯瞰するような形で提示できるのか、もしくは音の中に聴く人が入り込めるような形にできるか、そういった音響への志向が強くありました。

——即興演奏で制作することは、そうしたおもしろい音色を生み出すという点でもメリットがあったのでしょうか?

広瀬:そうです。僕の場合はまず低音で下敷きを作って、そこに倍音をどんどん積み重ねていって、最終的に高音を入れていくという組み合わせで作っていました。そうしたことを考えると、音色をいかに作るか、その音色によって自分がどう弾くかが重要で。自分の演奏は音色に引っ張られていく、言い換えると音色が演奏をリードしていくんですよ。それをパソコンの打ち込みでやるとなると、まず譜面に書かなければいけないので、そういった音色のおもしろさがなかなか出てこないんですよね。それよりも器楽的な要素が前面に出てしまう。シンセを使っても楽器っぽくなってしまうんです。そうではないやり方で制作したいと思って即興演奏に取り組んでいました。

デレク・ベイリーの音色に魅了された10代

——先ほど「もともと即興的な音楽が好きだった」と仰っていましたが、具体的にはどのようなミュージシャンや作品が好きでしたか?

広瀬:やっぱり〈インカス〉レーベルの作品、デレク・ベイリーやエヴァン・パーカー、トリスタン・ホンジンガーあたりは好きでよく聴いていました。それとアンソニー・ブラクストンも好きですね。10代の時にベイリーの『Lot 74 – Solo Improvisations』(1974年)を聴いて、『MMD計画(田中泯、ミルフォード・グレイヴス、デレク・ベイリー)』での来日公演(1981年)にも行ったんです。

ベイリーのライヴは非常におもしろかったですね。「こういったハーモニクスの使い方があるのか」と感銘を受けて、すごく楽しめました。初めて聴いた時から拒絶することなく素直に入り込めたんです。その後に来日したエヴァン・パーカーの日本青年館での公演(1982年)も素晴らしくて、循環呼吸奏法を交えた無伴奏のサックス・ソロを「気持ちいいなあ」と思いながら延々と聴いていました。お客さんは全然入っていなかったですけど(笑)。

——ベイリーの音楽にアンビエント的なものを感じたことはありましたか?

広瀬:やっぱり音色が魅力的で、点と点を絡める彼のアプローチは別にアナーキーな感じはしなくて、むしろ僕の中ではアンビエントっぽい感じがしています。僕はどちらかというといわゆるアンビエント・ミュージックはあまり聴いていなかったんです。高校生の頃から〈ECM〉の作品を聴き始めて、そのあとはフリー・ジャズに興味を抱くようになっていったので。

——〈ECM〉は1969年に設立されて、当初はベイリーをはじめ尖った作品も多かったですが、70年代を通じて耽美的なレーベル・サウンドを確立していきました。どの時期の作品が好きでしたか?

広瀬:ベイリーとデイヴ・ホランドのデュオ(『Improvisations for Cello and Guitar』1971年)やブラクストンが参加したチック・コリアのサークル(『Paris Concert』1971年)も好きでしたけど、〈ECM〉だと実はエバーハルト・ウェーバーやスティーヴ・キューンが非常に好きで。音色も魅力的ですし、単純に音楽的にきれいだったから聴いていたところもあります。

〈ECM〉の作品の多くは盛り上がりが少ないので、空間的に捉えることもできるんです。空気の流れのように聴くことができるというか、感情を入れ込まずに音として楽しめるんですよね。「ここが聴きどころですよ」という決めつけがないので、いろいろな聴き方ができる可能性があって。〈ECM〉の作品を通じて音の聴き方の自由度はかなり変わりましたね。

制作時にはフリー・ジャズの構造も意識した

——角田俊也さんのライナーノーツによれば『Nostalghia』の制作では「フリー・ジャズの構造を意識した」とのことですが、具体的にはどのような構造だったのでしょうか?

広瀬:一番わかりやすく表れているのは1曲目の「Seasons」です。あの曲はほとんどフリー・ジャズ方式と言いますか、いわば即興演奏の塊なんですね。いろいろな細かい要素を散りばめて、変化していないようなのに最初と最後では全く異なっているという構造になっていて。例えばアルバート・アイラーの『New York Eye and Ear Control』(1966年)とかドン・チェリーのいくつかのアルバムとか、そのあたりの構造をものすごく意識して制作しました。

それと実は即興音楽以上に好きなのが現代音楽で、ヤニス・クセナキスやカールハインツ・シュトックハウゼンをよく聴くんですけど、シュトックハウゼンの「群作法」という技法があるんです。トータル・セリエリズムで管理する構成単位を個々の音ではなくて「群」、つまり音の塊に適用して、それをいくつも用意して散りばめながら変化させていくというような技法です。そうしたアプローチやフリー・ジャズの構造を意識したことなどについて、角田さんと話しました。

——フリー・ジャズといえば、広瀬さんは以前、高校時代に富樫雅彦さんのアルバムが好きでよく聴いていたと仰っていましたよね。

広瀬:そうです。たしか『スイングジャーナル』を読んでいた時に、洋モノだけでなくたまには日本のジャズも聴いてみようと思って、最初に手に取ったのがたまたま富樫さんのアルバムでした。そしたら大当たりで。『Spiritual Nature』(1975年)や『Guild For Human Music』(1976年)、『Essence』(1977年)あたりをよく聴いていました。富樫さんの音楽は響きが東洋的というか日本的なんですよね。それが気になったのと、ドラムやパーカッションがまるで水滴のようにポコポコと鳴っている持続感もものすごく気持ちよくてハマってしまいました。

——日本のフリー・ジャズと言えば、他にも山下洋輔さんや高柳昌行さんなどもいますが、そのあたりはいかがでしたか?

広瀬:山下洋輔さんは聴いていました。けれど当時は高柳昌行さんまでは辿り着かなかったです。僕が聴いた限りではラジオから流れてくることもなかった。たまたま出会うことができた音楽を聴いていました。

——1980年代になると、菊地雅章さんや鈴木良雄さん、清水靖晃さんのように、ジャズの文脈からアンビエント的なサウンドに取り組むミュージシャンも出てきましたが、そのあたりはいかがでしょうか?

広瀬:当時は知りませんでした。出会うきっかけがなかったんですね。

広瀬豊
サウンド・デザイナー。1961年生まれ、山梨県甲府市出身。1986年にミサワホーム総合研究所サウンドデザイン室が企画した「サウンドスケープ」シリーズから、アルバム『Nova』をリリース。同年に、芦川聡が設立した株式会社サウンド・プロセス・デザインに参画し、文化施設や商業施設などで流れるサウンドの制作を手掛ける。2019年にスイスのレーベル〈We Release Whatever The Fuck We Want〉から未発表音源を加えて『Nova』がリイシューされ、世界的に話題を呼んだ。2022年5月に36年ぶりとなるセカンドアルバム『Nostalghia』をリリース。7月1日に〈We Release Whatever The Fuck We Want〉からサードアルバム『Trace: Sound Design Works 1986-1989』がリリース決定。

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