羽佐田瑶子, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/yoko-hasada/ Wed, 28 Feb 2024 08:59:50 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 羽佐田瑶子, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/yoko-hasada/ 32 32 映画『すべての夜を思いだす』で清原惟監督が描く「不在の存在」——「失われてしまったと思うものも存在している」 https://tokion.jp/2024/02/28/interview-yui-kiyohara/ Wed, 28 Feb 2024 03:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225438 映画『すべての夜を思いだす』の清原惟監督へのインタビュー。本作で描きたかったことについて話を聞いた。

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清原惟
1992年生まれ。映画監督、映像作家。武蔵野美術大学映像学科卒業、東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻監督領域修了。修了制作『わたしたちの家』がベルリン国際映画祭に正式出品、上海国際映画祭で最優秀新人監督賞を受賞。『すべての夜を思いだす』もベルリン国際映画祭に正式出品され、ほか世界各国の国際映画祭に招待される。昨年秋には北米で劇場公開された。最新作として、愛知芸術文化センターオリジナル映像作品『A Window of Memories』がある。ほかにも土地や人々の記憶についてリサーチを元にした映像作品の制作をしている。
X:@kiyoshikoyui
Instagram:@kiyoharayui

父親を失った少女と記憶を失った女性、2人の物語が一軒の家の中で交錯するデビュー長編作品『わたしたちの家』でPFFアワード2017グランプリ、第68回ベルリン国際映画祭フォーラム部門に正式出品されたことで話題の映画監督、清原惟。5年ぶりの最新長編作品『すべての夜を思いだす』は、東京の郊外・多摩ニュータウンを舞台に、世代の異なる3人の女性の記憶や変化が小さく呼応する、ある一日の物語。本作も第73回ベルリン国際映画祭フォーラム部門に正式出品されたほか、世界各国の映画祭に出品された。

彼女の作品は、構造が美しい。独立しつつもお互いが影響し合うような関係で人々が存在し、映像、音など映画を構成するものが優しく、時に不穏に響き合う。また、舞台となる場所も、現存するのにそうは見えない摩訶不思議さがあり、想像を掻き立ててくれる。前作とはまた異なる世界観をつくりあげた清原監督に、幼少期の記憶をたどりながら多摩ニュータウンや本作で描きたかったことについて話を聞いた。

幼少期に過ごした「多摩ニュータウン」の記憶

——前作『わたしたちの家』は家が舞台だったこともあり、内向きな印象がありましたが、本作『すべての夜を思いだす』は他者や社会など外の存在と私が交錯し、前作とはまた違う温かさや余白を感じました。それは、撮影監督・飯岡幸子さんのカメラワークによるところもあると思うのですが、例えば冒頭、カメラが人を追いかけるのではなく左右に振れて、人々の表情を映すようにやり取りをとらえる。そこで画面の外で思わぬことが起きていると気がつき、ハッとさせられました。左端にいらした変なおじさんの映り込み、大好きでした。

清原惟(以下、清原):あのおじさん、よかったですよね。

——撮影を気にせず、ラジオ体操のような、不思議なポーズを取られていましたよね。

清原:あの方はキャストではなく、たまたまそこに居た人で、最初は普通に座っていただけだったんですけど、何度か撮影を重ねていたら、いつの間にかあのポーズになっていました(笑)。

——映画だとスクリーンに映ったことがすべてだと思いがちですが、私達の世界にもスクリーンの外にもいくつもの世界が広がっていて、人間が生きていて、そういう広い視点になれる素晴らしい冒頭でした。

清原:ありがとうございます、嬉しいです。

——「多摩ニュータウン」を舞台に選ばれた理由は?

清原:私が幼稚園くらいのころまで住んでいた街で、いつか映画に撮りたいと思っていました。コロナ禍で、私自身も家の周りをよく散歩していたのですが、そこで外に出たい気持ちが大きくなったのかもしれません。ある時、ふと思い出したように多摩ニュータウンを久しぶりに訪れてみたら、当時の記憶がぶわっと蘇ってきて。長い距離を歩きながら、この街全体を1つの空間のように撮りたいと思ったんです。

——どんな思い出がある街ですか?

清原:公園がたくさんある場所なんですね。団地と団地の間に必ず公園があって、名前の付いていない小さな公園も無数にありました。小さな頃は、いろんな公園を巡って遊んでいたことを懐かしく思い出しました。毎日冒険みたいで楽しかったけれど、一方でなんとなく“寂しかったこと”も覚えていて。ネガティブだけではない感情なのですが、公園の風景と寂しかった記憶は多摩ニュータウンの原風景としてあります。

——寂しさを感じたのは、どうしてでしょうか。

清原:はっきり覚えていないのですが、とてつもなく広い面積に対して人が少ない印象がありました。友達もいたけれど家族以外と頻繁な交流があったわけではなく、その日公園で会った友人と遊ぶ。年代によってはコミュニティが強固だったようですが、次第に解けていって、私自身は決まったところに属せていない感覚がありました。それが、寂しさに結びついたのかもしれません。

「死」が意図的に排除されたような街であえてそれを撮ろうと思った

——公式インタビューにある「多摩ニュータウンは基本的に生活に必要な機能がほぼすべて揃った形で開発されているのですが、実は火葬場やセレモニーホールのような『死』をあつかう場所は都市計画に含まれていない」というコメントが非常に印象的でした。それは、歩きながら気づかれたのですか。

清原:知らないところはないくらい多摩ニュータウンをたくさん歩いたのですが、その時に計画的に開発された区画とそうではない区画にはっきり違いがあることを知りました。本来なら、街と街は地続きに溶け合っているのに、ニュータウンは他と景色が全く違う。明確に境界線が引かれているんです。区画外に出ると急に神社が現れて、その階段をくだるとセレモニーホールが見えたりして「死」が都市計画から排除されていると感じました。そうした場所で、あえて死にまつわることを撮ろうと思ったんです。

——映画の中にも区画外の場所は登場しますか?

清原:多摩ニュータウンは多摩ニュータウン通りと南多摩尾根幹線道路という2つの大きな道に囲われるように建設されています。なので、街を出る時は必ず大きな道路を通らなきゃいけない。夏(見上愛)は隣町の写真屋を訪れるために、南多摩尾根幹線道路を走っていきます。

——登場する女性3人は、それぞれに「死」や「喪失」といった影を落としていますが、対称的なシーンとして「踊る」シーンが素晴らしかったのですが、なぜ入れたのでしょうか。

清原:まさに、踊りは生きていることを実感できる行為の1つだと思っています。「死」に対抗する手段としての踊りというものを、考えたりすることがあります。人工的なあの街で、人間が生きることの生々しさみたいなものを映したいと思った時に、「踊る」行為そのものを映したいと思いました。

——踊りのジャンルもユニークでしたよね。コンテンポラリーダンスのような。

清原:夏が踊っていたのは、ヒップホップをベースにした踊りです。ヒップホップを取り入れたのは、ストリートで始まり人々を魅了してきた踊りだからです。たった1人でも、道で踊ることで誰かの心を動かすことがあるかもしれないし、踊っている人がこの街にいることで風景が明らかに変わって見えるということもあるのではないかと思いました。

音楽が映画の感情みたいなものを増大させる装置にならないように

——早苗(大場みなみ)が遭遇する記憶がおぼつかないおじいさんの足取りが、なんとなく死に向かって歩いていくような寂しさを漂わせていたのですが、そうした時に差し込まれる踊りのエネルギー、同時に音楽にも気持ちが高ぶりました。全編を通して音楽も素晴らしかったです。

清原:ありがとうございます。音楽はジョンのサンとASUNAさんにお願いしていて、私も好きなダンスシーンの音楽はESVさんが作ってくださった曲なんです。

——音楽に関してはどのようなやり取りがあったのでしょうか?

清原:基本的には音楽家の方々に脚本を読んだ上で任せるかたちでつくっていただきました。私が伝えていたのは、音楽が映画の感情みたいなものを増大させる装置にならないでほしい、ということ。

冒頭で登場するジョンのサンが劇伴をつくってくれたのですが、彼等がつくる音楽も1つの登場人物として映したかったので、映画に登場してもらいました。彼等の音楽が、今も街の何処かで鳴り響いているようなイメージで映画が進むといいなと思い、そうしたイメージも伝えました。

——街自体も人が住んでいるとは思えないような静けさがありましたよね。

清原:車が走る道と人が歩く道が分離されているエリアなので、都会ほど人間の生活音が聞こえてこない場所かもしれません。車の音が聞こえない代わりに、虫や風といった自然の音がよく聞こえる場所です。

——そういった静かな音にも集中できるくらい、あまり台詞の多い映画ではなかったと思うのですが「わかりやすさ」みたいなことは、どのくらい意識されて撮っていましたか?

清原:基本的には、一生懸命伝えようとしています。自分の中ではこれくらいなら伝わる、と思って作っているのですが、どうでしょう(笑)。その塩梅は難しいですよね。ただ、伝わらなくてもいいや、とは一切思っていないです。

前作『わたしたちの家』が、意図的だったわけではないのですが結果的にたくさんの謎を生み出してしまいました。それは「わかりやすさ」とは違うベクトルかもしれないのですが……謎があると人は答えを欲するんだと気がついて、その答え合わせのようなことは私自身興味を持てないんです。なので、今作は答えを求められるような謎みたいなものはつくらないように、とは心がけていました。

——伏線回収という言葉があるように、謎を見つけて意味を見出すことを求める流れがありますよね。もちろん、そうした物語のおもしろさもわかりますが、想像する楽しさや豊かさを映画に求めたいという思いもあります。

清原:説明台詞によって額面通りに受け取られてしまうと、それ以外の可能性がすべて消えてしまうような気がしていて、これくらいの台詞になっているのかもしれません。いろんな可能性を秘めながら映画を観たい、という個人的な考えもあると思います。

不在の存在を確かめるように描く

——映画を拝見して、物語において「不在」を意識的に撮られたのではないかと想像しました。ハローワークでぶち当たるアイデンティティの不在、親しい人の不在、ままならない態度の彼を横に見る幼少期のビデオから誰かに愛されていた事実の不在、のようなことを想像したのですがいかが思われますか。

清原:なるほど、そういう視点は新鮮です。私は、どちらかといえば「既に失われてしまったと思うものも存在している」という感覚でこの作品をつくったと思います。不在とも捉えられるのだけれど、見方によっては失われていない。例えばおじいさんがかつて住んでいた家は空き家で、そこにあった思い出も何もかも消えてしまったかのように感じるけれど「記憶」として残り続けていると思うんです。つまり、「不在の存在」のようなことを意識して撮っていました。ビデオテープも、忘れていた過去の記憶が存在しているというイメージでしたが、おっしゃっていただいたような捉え方もあるなと思いました。

——見方によって、全然違うものですね。

清原:私も普段は失ってしまったことに気がついて、落ち込んでしまうことはよくあります。そういう感覚は当然持っているけれど、この映画をつくる時は「失っていないと思いたい」という感覚でした。

——「失っていないと思いたい」と思うようなできごとがあったのでしょうか?

清原:たびたびそう思うのですが、今思い出したのは、私の家の近くに友達が住んでいたことがあって、すごく近かったのでしょっちゅう会っていたんですね。帰り際にちょっとだけ話したり、物を受け渡したり、まるで自分の家の離れのようなふしぎな距離感だったのですが、友達が引っ越してしまって。駅までの道に友達の家があり、がらんどうになった家の前を通るたびに「友達はもういない」と不在を確認していました。それが、最初は寂して、楽しかった思い出がすべてなくなってしまったような感じがしました。

でもあるとき、ふと、友達の家で遊んだ日のことや会話が蘇ってきて「あの時間はなくなったわけじゃなくて、今もここにある」と思えたんですね。家の中に時間が残っているような感覚を覚えて。

——時間が経つと、物事が多面的に見える瞬間がおとずれますよね。

清原:私は時間が決して直線ではないと思っていて、直線だと失うという感覚を持つけれど、時間は複数に点在しているかもしれない。年齢や時計に合わせて、ふだんは自分自身も一直線に進んでいるけれど、ときどき時間の複数性を感じて、見え方がガラリと変わります。

——その感覚はこの映画とつながりますね。3人それぞれの時間が過去・現在・未来と一直線ではなくて複数に点在していて、それぞれの時間や記憶を行ったり来たりしていたのかもしれないと思いました。撮影をしながら、幼い頃に抱いていた街に対する印象は変わっていきましたか?

清原:だいぶ変わったと思います。幼い頃の記憶なので、多摩ニュータウンは思い出の中の一部であり、外部の人間の視点しか持っていませんでした。映画を撮るにあたって、昔から住んでいる方々にインタビューをして、私が知らなかったかつての街の景色を教えていただいたんですね。そうした目線で街を歩き直すと、見え方や印象はずいぶんと変わりました。

——印象的なエピソードはありましたか?

清原:コミュニティが非常に強固だった、というお話ですね。特に1970、80年代は似たような家庭環境の方々が住んでいて、お母さん達は都心に通勤する旦那さんを見送ったあと、近所の子ども達と公園で遊ばせながら母同士でおしゃべりをして、何かあった時に助け合っていたそうです。共同保育のような、みんなで子どもを育てる意識があったと聞きました。

あとは、地域の課題を解決するために女性達で集まって話し合っていたと聞きました。例えば、当時はごみの分別ルールがなく、社会全体でリサイクルが課題になっていたそうです。そうした社会の動きを自分ごとにとらえて、リサイクルのルールを女性達で定めて街に働きかけたそう。街に対して具体的にコミットして、地域を変えていった歴史にはおどろきました。

——登場する3人が決して絶望的ではなく迷いながらも生きていく光のようなものを纏っていて、それは女性達が強く生きた土壌のある“ここ”だから交錯するのだと、今の話を聞いて思いました。

清原:かつての女性達のように、声を上げて具体的なアクションを起こすことも大事ですが、今の時代はそこまでできないこともあるかもしれない。それでも、踊ったり、自分なりにできることが誰かを動かしている可能性もあるのかなと思います。

Photography Mikako Kozai(L MANAGEMENT)

■『すべての夜を思いだす』

■『すべての夜を思いだす』
第26回PFFスカラシップ作品
3月2日からユーロスペースほか全国順次公開 
出演:兵藤公美、大場みなみ、見上愛、内田紅甘、遊屋慎太郎、 奥野匡、能島瑞穂、川隅奈保子、中澤敦子、佐藤駿、滝口悠生、高山玲子、橋本和加子、山田海人、小池波
脚本・監督:清原惟
製作:矢内 廣、堀 義貴、佐藤直樹 
プロデューサー:天野真弓 
ラインプロデューサー:仙田麻子 
撮影:飯岡幸子
照明:秋山恵二郎
音響:黄 永昌
美術:井上心平
編集:山崎梓 
音楽:ジョンのサン&ASUNA 
ダンス音楽:mado&supertotes, ESV 
振付:坂藤加菜
写真:黑田菜月 
メインタイトルロゴデザイン:石塚俊
制作担当:田中佐知彦 半田雅也 
衣裳:田口慧
ヘアメイク:大宅理絵 
助監督:登り山智志
製作:PFF パートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人 PFF 
制作プロダクション:エリセカンパニー
配給:一般社団法人 PFF 
©2022 PFF パートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人 PFF

■『清原惟監督作品「すべての夜を思いだす」オリジナル・サウンドトラック』

■『清原惟監督作品「すべての夜を思いだす」オリジナル・サウンドトラック』
アーティスト:ジョンのサン、ASUNA、mado & supertotoes、ESV 
企画番号:WEATHER 85 / HEADZ 262
価格(CD):¥2,530
発売日:2024年3月8日 ※3月2日からユーロスペースにて先行発売予定
フォーマット:CD / Digital
http://faderbyheadz.com/release/headz262.html

■映画『すべての夜を思いだす』公開記念コンサート
日程:2024年3月17日
出演:ジョンのサン & ASUNA、ESV
会場:パルテノン多摩オープンスタジオ
https://www.parthenon.or.jp/access/
時間:開場 13:00 / 開演 13:30
料金:予約 ¥2,500 / 当日 ¥2,800
http://faderbyheadz.com/release/headz262.html
https://twitter.com/HEADZ_INFO/status/1760575623926607965

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自分に嘘をつかない——『彼方のうた』杉田協士監督が映画づくりで考えていること https://tokion.jp/2024/01/06/interview-kyoshi-sugita/ Sat, 06 Jan 2024 03:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=221452 新作映画『彼方のうた』の杉田協士監督へのインタビュー。本作はいかにしてつくられたのか。

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杉田協士

杉田協士
映画監督。東京都出身。過去作に『ひとつの歌』(2011)、『ひかりの歌』(2017)がある。東直子の短歌1首を原作とした『春原さんのうた』(2021)が第32回マルセイユ国際映画祭にてグランプリを含む3冠、第36回高崎映画祭では最優秀監督賞を受賞。今作が長編4作目となる。
X:@kyoshisugita

「何も語らないことが、すべてを語ることにつながるのだと、本作に教えられた」と映画『彼方のうた』にコメントを寄せた、原田マハ。静かなスクリーンは心情の機微をたしかにとらえ、その作品世界にグッと引き込まれる。第80回ヴェネチア国際映画祭ヴェニス・デイズ部門の公式出品を皮切りに、ウィーン、マンハイム=ハイデルベルク、釜山と世界各地の国際映画祭に出品され、ついに1月5日から日本での上映が始まった。

本作の監督を務めるのは、前作『春原さんのうた』で第32回マルセイユ国際映画祭にてグランプリを含む3冠を受賞した杉田協士監督。助けを必要としている見知らない人に声をかける主人公・春(小川あん)を中心に、中村優子、眞島秀和など名優がその悲しみと喪失に寄り添う。これまで短歌を原作とすることが多かった杉田監督の、12年ぶりのオリジナル長編を軸に映画づくりのこと、生活と映画関係性など話をうかがった。

※本記事内には一部、作品の内容に触れる記述がございます。展開には触れておりませんが、映画を観ていただいた後にも読み返していただくと、作品世界をより楽しんでいただけると思います。

ラストの春の表情を映すために『彼方のうた』を作った

——本作はどのような思いから生まれた作品なのでしょうか?

杉田協士(以下、杉田):私はこれだけ前作から間を空けずに映画を製作することがなかったのですが、前作の『春原さんのうた』で世界各地の映画祭を回っている間に、次回作について興味を示してくれる人たちにたくさん出会えたことがまず大きかったです。そんなところに『春原さんのうた』を気に入ってくれたプロデューサーの方からお誘いをいただき、一緒に映画を作ることになりました。

——周りの期待もあったんですね。

杉田:もちろん映画製作に気持ちを持っていくためには、自分のモチベーションをまず高めなければと思い、今回はわかりやすい“目標”を持つことにしました。せっかく作るなら世界三大映画祭(カンヌ、ベルリン、ヴェネツィア)を目指そうと。期待してくれている周りの人達が、気をつかって言葉にしないようなことを、自分から言っていくことにしたんです。目指しますと(笑)。

——そうしたモチベーションの違いが影響していたのか、『春原さんのうた』とロケーションも雰囲気も似通っているけれど、これまでの監督作品と全然違う種類の映画、という印象を受けました。

杉田:その印象は当たっているかもしれません。特に前作とは登場する人も場所も共通する部分が多いので、一見似ていると思われるかもしれませんが、今回の映画でやろうとしたことは別の種類のことだったと思います。

——それは、脚本の執筆など製作の初期段階から、これまでと違うことをやろうとする意識があったのでしょうか?

杉田:そうですね……お話ししながら思い出したことですが、『春原さんのうた』の時は、その場所で生まれていく時間の重なりをじっくりと見つめ続けるという意識を持っていました。今回の『彼方のうた』は、ラストの主人公・春の表情、あの一瞬を写すために作っていたと思います。到達点をはっきり想定していたという点で、それまでの映画とは違いました。作品の長さが84分と今までで一番短い理由もそこにあると思います。

SF的感覚

——映画を拝見して思ったのが、「杉田監督の映画はSFだ」ということです。以前インタビューで、杉田監督は幼少期にジョン・カーペンター監督やスティーヴン・スピルバーグ監督の映画がお好きだったというエピソードを聞き、本作とそのエピソードが私のなかでつながった感覚がありました。

杉田:劇場用パンフレットに、私が映画美学校在籍時の恩師である映画監督の筒井武文さんに私の作品論を寄稿いただいたのですが、まさに私の映画のSF性と言いますか、作品には一度も登場していないはずの宇宙人について書かれていました(笑)。

——監督は、どう思われましたか?

杉田:何かを見抜かれたようで気恥ずかしくなりました。私が筒井さんの文章を読んで思い出したのが、映画美学校を出た頃のことでした。一通りのカリキュラムを終えたところで、私に足りないのは自分自身でカメラを構えて人にレンズを向けることだと気づきました。それで、脚本と監督を務めた修了作品の完成試写を終えた日に、その足で姫路まで移動し、地元の中高生達がひと夏かけて野外劇を作るというワークショップをドキュメンタリーとして撮影することにしたんです。

そのワークショップは、大学時代の恩師の劇作家・如月小春さんが長く講師を務めていたもので、亡くなられたあとも弟子や地元の有志の方々の協力によって続いていました。私はそこで演劇を作っている人たちを必死になって撮っていましたが、同時に心のどこかで、もう会うことも叶わなくなった如月さんの姿も追い求めていました。撮れないはずのものを撮ろうとしていたんです。その日々のことをまず思い出しました。

——それがSF的な感覚につながっていったのですか?

杉田:突飛に聞こえるかもしれませんが、そうです。そのワークショップの会場が安藤忠雄さんによる設計の「兵庫県立こどもの館」という施設で、山や湖といった自然物と、コンクリートという無機質な素材の建造物が一体になっている、言ってしまえば宇宙的な場所だったのも影響していると思います。ある日、子どもたちが施設の中で稽古している様子を外から窓ガラス越しに撮っていたのですが、私の背景にある山の木々が風に揺れている様子が窓に反射して、人々の動きと木々の揺れが重なった時に、これかもしれない、と腑に落ちる感覚がありました。いま自分は目の前にあるものを撮っているけれど、果たしてそれすらも本当だろうかと。そこに写っているものが何なのかを判断できるのはもはや自分ではないかもしれない。例えばいつか人類が滅んだ後、別の生命体がこの星にやってきてこの映像を見るようなことがあったら、その時に初めてわかるくらいのことをやっているのかもしれない。それ以来、私が映画をつくっている時にはその意識が根底のどこかにあります。私がこんな変な話を大真面目にしてるのは筒井さんと、質問してくれた羽佐田さんのせいです(笑)。

眞島秀和の覚悟

——そういう気持ちが、絶対的なある一瞬を映そうとするのかもしれないと思いました。本作であれば、「キノコヤ」の窓辺に春と剛(眞島秀和)が座り、互いの記憶をたどるシーンがとても美しかったです。

杉田:あのシーンは、あらためて眞島秀和さんという俳優のすごみを感じました。少ないセリフの中で、その言葉には収まらないたくさんのことを伝える必要のある難しい演技が必要なシーンだったと思いますが、眞島さんは何度テイクを重ねても、ブレのない高い質の演技を維持し続けてくれたんです。小川さんは、あのシーンで春が抱えている複雑な感情を、溢れる手前の状態に保つことを維持してくれて、テイク毎にその時だけの演技を見せてくれる。その眞島さんと小川さんの演技のバランスを見極めながら、一番いい状態で記録することが監督の役割として必要なことでした。

——具体的にはどのように調整を試みるのでしょうか?

杉田:できることは少なくて、本当にちょっとしたことなんですが、例えばそのための最良のカット割りと撮影順を決めることだったりします。私はよくカット割りを事前に決めずに撮影するのですが、テストで2人の芝居を見た時に、あるタイミングまでは引きで撮り、あとはそれぞれの表情にグッと寄ることにして、寄りのカットの撮影の順番としては小川さんから先にいくと決めました。シンプルなことですが、そういう現実的な判断や調整が大切になります。そのうちに陽がいい感じに暮れ、どんどん現場が静かになっていき──どこまで光が持つだろうかと考えながらも、現場の集中力が非常に高くなっていったのを覚えています。

——眞島さんが杉田映画にピッタリとハマっていて、普段のお芝居の印象とまた違った魅力を感じました。

杉田:眞島さんを初めて観たのは、主演作の李相日監督『青〜chong〜』(1999)でした。感銘を受けて、映画学校の修了作品への出演をオファーしたら出てくださって。その後撮影した『河の恋人』(2006)にもワンシーンだけ出演いただいて、いつか自分が商業映画を作る時が来たら、またお願いしたいと思っていました。それで今作は、雪子役の中村優子さんもそうですが、出演していただくために眞島さんと中村さんに当て書きした脚本を用意してからオファーすることにしました。眞島さんは舞台のツアー中だったのですが、なんとかその合間の1週間を私達の撮影のために空けてくださったんです。

——撮影に入るにあたって、事前の打ち合わせなどもされたのですか?

杉田:そこは、私のいつも通りのやり方でもあるのですが、特に打ち合わせなどはしませんでした。印象的なのが、剛の自宅でのシーン。脚本にはなかった物語上の説明の補助になりそうなセリフを足すかどうかを迷っていた時に、「杉田映画はそんなセリフ言わなくていいでしょ」と眞島さんが提案してくださって。きっと私達を和ませるために、すごく軽い調子で(笑)。この現場でおそらく最も俳優として説明的なセリフを言ってきた方が、率先して私の映画のことを考えて意見してくれてうれしかったです。

——杉田監督の作品に向かう覚悟を感じますね。

杉田:剛が生花店に入っていくシーンがあるのですが、ドアを開けて「すいません」と言った時も驚きました。眞島さんのあまり耳にしたことのないテンションの「すいません」を聞いて、この映画のためにすごく考えてきてくださったんだなと思いました。あのなんでもないシーンが好きなんです。

嘘をぜったいにごまかしてはいけない

——杉田監督の作品は、なにをどこまで決めているのか、観ていて気になります。今作で印象的だったのが“視線”のやりとり。ラスト、いつもと違う春さんを感じ取る雪子(中村優子)の視線が印象的です。

杉田:あのシーンは映画の要で、そこに向けて撮影を進めていたようなものでした。撮影最終日だったので、私にできることは少なくて。その日までの積み重ねの中で、最後に小川さんと中村さんが見せてくれるものを最良の形で記録することに集中していました。

撮影の飯岡幸子さんが構えるカメラの位置がキーになったと思います。それまでは主に春にフォーカスを合わせていく撮影が続いていて、ラストシーンもカメラは春を中心に最初はとらえていました。ですが、2人の演技を見つめていくうちに、ああ違う、ここは中村さんが演じる雪子の方が中心なのだと気づいたんです。それを伝えると飯岡さんもすぐに察してくれて、そうだね、それがいいねと。あるカットの撮影の途中でプランを変更しているので、同じカットでも春の視線を追っているテイクと雪子の視線にフォーカスを当てているテイクの両方が残りました。編集の大川景子さんとも事前の打ち合わせはしないのですが、そんな現場の事情を知らない大川さんは、雪子の視線を追ったテイクを中心につなぎながら、さらに春の視線をとらえたテイクもいい塩梅で織り交ぜてくれて、初めて見た時に思わず拍手を送りました。

——答えを見つけるのは、非常に感覚的なものですよね。

杉田:その時にならないとわからないので怖さもあるのですが、怖さを絶対にごまかしてはいけないと思っています。撮影初日から、常に「本当か?」と自分を疑う。今回は、今までにないくらい事前にカット割りを考えることもあったのですが、それも常に疑うことが必要でした。

一番気づいてよかったのが、ファーストシーンのことでした。撮影スケジュールが半ばを過ぎたくらいから薄々感じていたことが、先ほど話した最終日のシーンを撮っている時に確信に変わったんです。いまあるファーストシーンの手前に、もうひとつのシーンがあるはずという感覚でした。脚本に書かれていたシーンをすべて撮り終えた後に、番号としては「1」より手前の「シーン0」をさらに撮影することに決めました。予備としてみなさんのスケジュールをおさえていた1日を使って、20年以上前にプライベートで訪れたことのある、私にとって大事な場所に向かいました。映画を作っている間には、心が折れそうになることもあるのですが、あの日に飯岡さんが構えるカメラの横で春の横顔を見つめている時に、「これはきっと映画になる」と最後の手応えを得られたんです。仕上げの期間もずっとその時の手応えが気持ちを支えてくれました。

——どういう時に心が折れそうになるのですか?

杉田:……自分が嘘をついてしまいそうな時でしょうか。例えばそれを映画らしく作ることはできるけれど、本心からそれを映画だと思えていなかったら、嘘をつくことになります。教育現場で映画制作を志している若い人達にもよく話すのですが、誰よりも自分自身がいいと思える状態の映画にすることを目指した方がいいです。嘘をついたらすぐに自分にはバレるから、実は最初の厳しい観客は自分自身なんです。今回はこれまでよりも撮影と仕上げのスケジュールがタイトだったので、迷うことに使える時間が少なく、そういう点で苦労しました。時間が少ない分、嘘をついてしまいそうなタイミングが来るのが、それまでより多かったと思います。

——セリフが少ないのも、嘘をつかない意識からですか?

杉田:セリフが少ないとよく言われるのですが、本当はそこまで少ないとは思ってないんです(笑)。基準はいつも自分の心で、自分の「本当」を目指すとたまたまこのラインになってしまうだけです。一度、劇作家の松井周さんに「“本当”のラインがバグってますよね」と言われたことがあります(笑)。観客としては、会話劇も含めて、登場人物がすごくしゃべる映画を見るのは好きなので、自分で作るとどうしてこうなるのか不思議です。

生活と映画、その関係性について思うこと

——劇中でも過去作の映像が使用されていた濱口竜介監督が、インタビューで「友人と喫茶店で話していた時、ここにカメラを置いたら映画になる、という気づきが映画を撮る出発点にある」と仰っていました。まさに、杉田監督の作品も生活の大事な一瞬を撮られていると思います。生活と映画、その関係性について、監督が思うことをお伺いしたいです。

杉田:私も以前から、カメラを持ち込まなくてもそこに映画はある、という感覚があります。たまたま、誰かがカメラを置くことで形として残るけれど、撮らなくても満足していることもあります。

本作ですと、ピアノを弾いているシーンはあの場に立ち会えただけで満足だと思うところがありました。映画作りだからカメラを置くけれど、あの空間に居られただけで本当は充分で。

——出演されている方は実際に杉田監督の映画ワークショップを受講されていた一般の方だと伺いました。

杉田:そうですね。私自身があの美術館で講師をしてきたワークショップの時間を、今作の一部として組み込んでいます。私が書いた脚本をベースに受講生のみなさんが受講生役を演じてくれているので、フィクションとドキュメンタリーが混じり合ったようなパートになっています。あそこは、受講生が自分の記憶に残っている過去の小さな出来事を自分の手で映画化するというシーンです。たまたまその美術館の講堂にはグランドピアノがあったので、せっかくだからそれを使ったシーンにすると決めて、かつてはピアニストだったと聞いたことのある、受講生のひとりの五十嵐まりこさんに出演のお願いをしました。そうして撮り終えた後に、その場にいた別の受講生の方が、「五十嵐さん、20年もピアノを辞めていて、絶対に鍵盤を触らなかったんですよ」と教えてくれたんです。「その五十嵐さんがピアノ弾いてるでしょ、しかもすごく良くって、わたし嬉しくって」と涙ぐんでいたんです。……すみません。この話をすると、私も涙が出てきてしまうのですが。

——そうだったんですね……。事情を知らずに杉田監督は五十嵐さんにピアノを弾くシーンをお願いして。

杉田:はい。私の図々しいお願いをどうして受け入れてくれたかはわからないですが、ご自身にはいろいろ思うことがあったのかもしれないです。あと、五十嵐さんがピアノを弾く姿を、架空の自分の記憶としてビデオカメラで撮影する役をお願いした別の受講生の方にも、ピアノとのご縁があったと本番直前に知りました。私が「念のために訊きますが、誰か近しい人がピアノを弾くのを、隣に座って聴いてた思い出なんてないですよね?」と尋ねたら、パートナーの方と出会った頃に、ピアノが置いてあるレストランでそういう出来事があったと言うんです。

そこで、元々は祖母との思い出を映画化しているという架空の設定を考えていたのですが、パートナーとのかつての思い出ということにして、ご自身の記憶と重ねながら演じてもらうことにしました。そうしたら、急に立ち方も、ビデオカメラの構え方から発声に至るまで、見違えるくらい変わったんです。何よりたのしそうに演じてくださって。そういう時間に立ち会えて本当にありがたかったです。もう映画として撮影しなくてもいいんじゃないかと思えるくらいの幸せな時間でした。ただ、私が映画をつくることにしなかったら起きなかったことでもあるので、責任を持ってしっかりと残さなくちゃという気持ちにもなりました。たまに自分が何のために何をしているのか、わからなくなる時があります。

——最後に、杉田監督は観た人に「こう感じてほしい」と期待して映画を作ることはありますか?

杉田:観てくれる方がどのように感じるかまでは、私はコントロールしたいと思うことがないですし、実際にできないことだとも思います。そうかと言って、「自由に解釈してほしい」という態度で映画を作ることも失礼だと思っています。自分の作品に関しての解釈や意図を持ちながら作りつつ、その上で観てくれる方の中でその作品が完成するという感覚を持っています。

Photography Mikako Kozai(L MANAGEMENT)

『彼方のうた』 1月5日からポレポレ東中野、渋谷シネクイント、池袋シネマ・ロサほか全国順次公開

■『彼方のうた』
1月5日からポレポレ東中野、渋谷シネクイント、池袋シネマ・ロサほか全国順次公開

出演:小川あん、中村優子、眞島秀和ほか
脚本・監督:杉田協士
撮影:飯岡幸子
編集:大川景子
プロデューサー:川村岬、槻舘南菜子、髭野純、杉田協士
制作プロダクション・配給:イハフィルムズ
製作:ねこじゃらし
2023年製作/84分/G/日本
https://kanatanouta.com

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連載「時の音」vol.22  小説家・川上未映子が『黄色い家』で描いた、「どうやって生きていきたいのか」という問い https://tokion.jp/2023/07/19/tokinooto-vol22-mieko-kawakami/ Wed, 19 Jul 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=197247 小説家・川上未映子インタビュー。『黄色い家』に込めた想い、そして小説家の役割とは。

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その時々だからこそ生まれ、同時に時代を超えて愛される価値観がある。本連載「時の音」では、そんな価値観を発信する人達に今までの活動を振り返りつつ、未来を見据えて話をしてもらう。

川上未映子
大阪府生まれ。2008年『乳と卵』で芥川龍之介賞、2009年、詩集『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』で中原中也賞、2010年『ヘヴン』で芸術選奨文部科学大臣新人賞および紫式部文学賞、2013年、詩集『水瓶』で高見順賞、同年『愛の夢とか』で谷崎潤一郎賞、2016年『あこがれ』で渡辺淳一文学賞、2019年『夏物語』で毎日出版文化賞を受賞。他の著書に『春のこわいもの』など。『夏物語』は40カ国以上で刊行が進み、『ヘヴン』の英訳は2022年ブッカー国際賞の最終候補に選出された。2023年2月、『すべて真夜中の恋人たち』が「全米批評家協会賞」最終候補にノミネート。
Twitter:@mieko_kawakami
https://www.mieko.jp/books

今回は2月に長編小説『黄色い家』(中央公論新社)を出版した小説家の川上未映子が登場する。「ブッカー賞」の翻訳書部門「ブッカー国際賞」の最終候補に『ヘヴン』が、全米批評家協会賞の最終候補に『すべて真夜中の恋人たち』がノミネートされるなど、近年では海外でも人気が高まっている。

『黄色い家』では15歳の伊藤花が、スナックで働く母の友人・黄美子と出会い、数年間ともに暮らした20歳過ぎまでの歳月を描く。居場所のなかった花が翻弄される、金と家。同年代2人も含めた疑似家族生活の変容。新聞連載時から話題を集め、発売から時間が経った今も書店で平積みされている。今の時代ともリンクする『黄色い家』に込めた想い、そして小説家の役割とは。

「ここが頑張り時」というタイミングを見極めて、踏ん張れたらいい

——『黄色い家』は発売からしばらく経ちましたが、どのような反響が印象に残っていらっしゃいますか?

川上未映子(以下、川上):印象的な感想をたくさんいただきましたが、主人公の伊藤花に思い入れを持って、「最後まで見届けたい」という気持ちの方が多くて、嬉しかったですね。

——個人的な感想をお伝えすると、私は青春小説としてこの一冊を読みました。思えば、社会が規定する“キラキラとした青春“にどうにか自分の青春も重ねようと、記憶を加工していたところがあります。本を読みながら、どんどんホログラムシールが剥がされて思ったのは、いい意味で自分の10代を特別視しないでありたいということ。演出していた自分の10代と向き合いたいと思えたのは、大きな発見でした。

川上:嬉しいです、ありがとうございます。

——他のインタビューで「私の青春期である90年代に興味があった」と仰っていました。書かれてみて、ご自身にとっての90年代はどのような存在だったと感じられましたか?

川上:私自身の90年代はずっと働きっぱなしで、特になにもありませんでした。おもしろいのは、住んでいる場所もカルチャーも違うのに、その時代の“空気”みたいなものは漏れ伝わってくるんですよね。北新地のホステスにも岡崎京子さんや小沢健二さんの作品は流れてくる。たとえ目に入れたくなくても、その時代を一色に染めてしまうのが流行の力であって、暴力的でもあるし、誰も選べません。特に90年代は、オウムや阪神・淡路大震災といったトピックスや若者を象徴するユースカルチャーがあるので、違う毎日を生きていても共通の思い出がある、というのが不思議です。

——小説の中にも、女子高生をとりまくカルチャーとして援助交際やルーズソックス、たまごっちなどが出てきます。

川上:当時から25年ほど経ち、その時に積み残したもののエッセンスをようやく検証できる時期に入ったのではないかな、と思います。ノスタルジーの方向で青春時代を振り返って書くのではなく、今を考えるために90年代と向き合う方法もあるのではないかと思いました。

実際に、オウムと対をなすように、統一教会の問題が再検証されようとしています。20年以上前にあったものが、もう一度地表に出てくるような現象がこれからも続くはずで、90年代と今をつなげて書いた感覚が近いです。

——勝手ながら、ご自身の青春時代も重ねながら書かれたのかと思っていました。

川上:私は大阪でしたので、また雰囲気が違いますね。ああ、でも、クリスチャン・ラッセンを買っている人はまわりにけっこういましたね(笑)。ただ、時代検証や、社会問題を考えるために小説を書いたわけではなくて、人間のどうしようもなさ、めんどくささ、いじらしさ、エネルギーみたいなさまざまなものを目撃して書きつけたい、という気持ちが書く動機としてあったんだと思います。

誰にも、誰かのことを、幸せか不幸かは、決められないじゃないですか。というか、決めちゃいけない。貧困やヤングケアラーについては社会の構造的な問題なので今すぐにでも変革が必要だけれど、とらえられない今を必死に生きて、与えられたものの中から自分で選んだ人生を生きている人をジャッジすることは、誰もできないと思います。花のような人はこの世界にたくさんいますよね。受験勉強をしている学生、スタートアップで資金調達に苦戦している人、どんな状況でも「自分がやらなきゃ」と頑張っちゃう人……。主体性をもつのは大事ですけれど、それも場面によって変わりますよね。なんであれ、すべての状況で使える便利な言葉、というのは、ないのだと思います。

——声が上がっていないだけで、花さんのような人はたくさんいるのかもしれません。

川上:そうですね。物を書いたり読んだりする人だけじゃないし、みんな違う場所で生きていますものね。いい雰囲気とともに広まっている言葉にたいしてもちょっと距離をとれるといいですよね。ありのままでいい、自分を愛しましょう——そういう言葉に救われることもあるけれど、真面目な人ほど真に受けて、ありのままでいられないことに苦しんでしまいます。ずっと全力でなくても、「ここが頑張り時」というタイミングがあるので、そこで、自分なりに踏ん張れたらいいと思う。

——花は、全力で突き進むタイプでしたよね。

川上:ね、責任感が強くて、頑張り屋さんで。でも、花は若いから。若い時はみんなそんな感じなのかもしれません。年を重ねたら、みんな相応になっていくから、あまり心配いらないと思います。だから、青春小説だって読んでくれる人がいるのが、とても嬉しいですね。

「どうやって生きていきたいのか?」何歳になっても問い続ける

——黄美子が、個人的に惹かれるキャラクターでした。彼女らしさを特別に感じたのが、冷蔵庫を食べものでパンパンに詰めて花の元を離れるシーン。何気ないシーンから、彼女の温かさを感じました。今回、プロットを作らずに「カラオケで出たキーで歌う」みたいなスタンスで書いたと拝見しましたが、人物設定も決めなかったのでしょうか?

川上:これまでは、わりと細かく人物設定を決めてから書いていたのですが、今回はあまり考えませんでした。無責任に指が動くままに、なんてことはないけれど、1章から13章までのタイトルだけを決めて、あとは探り探り書いていきました。黄美子はもっと、花と共謀して悪事に手を染めるだろうと思っていましたが、いつまでたっても、あまり話してくれなかったですね。

——これまでと違う書き方になったのは意識的だったのでしょうか?

川上:新聞連載だったので必然的な変化ではありましたが、ある程度構想はありながらも、その時で会った人が聞かせてくれた話、経験、目撃したものを書いていくような感覚でした。

——社会的に必要/不要というジャッジが存在するようになり、歳を重ねると、社会にとって用済みになるのではないかという不安を感じることがあります。黄美子さんのように「それでも私はここにいる」と居場所を見定めて、立っていたいと思いました。

川上:ね、わからないことだらけですよね。健康に生きられたらいいけれど、自分では選べません。体力も知能もすべて、40歳を超えると後は下がっていくだけで、生きることは、基本的にどんどんつらくなること。それはみんなそうです。人生は撤退戦だと、生まれた時から決まっている。でも、それを味わうのが人生でもあって、「どうやって生きていきたいのか?」自分の人生を端っこに寄せずに、真ん中に置いて問い続けている人はいつまでも元気だなと思います。長生きはしたいと思いますか?

——健康は意識するようになりましたが、長生きはそこまでしたいとは思わないですね。長生きするのも大変そうですし。

川上:そうか。若い人はわりとそう答えるような気がします。多くの小説の主人公は、大金を手に入れたら潔く使うけれど、花は蓄財の鬼となる。それは、自己責任の世界で保証も福祉もない世の中に期待をしていないから、未曾有の事態に向けて充分に準備しているんだと思います。

「どうやって生きていきたいのか」考えるのが大事だと話しましたが、理想はあっても、お金がなかったら困るのも事実ですよね。自分らしさよりも明日のシフトが大事だし、ありのままや自分を愛することが、どれだけ贅沢な話なのかっていう矛盾も思います。

小説家の役割

——『すべて真夜中の恋人たち』英訳版が全米批評家協会賞「小説部門」の最終候補に選出。『ヘヴン』の英訳は2022年ブッカー国際賞の最終候補に選出され、『夏物語』は40ヵ国以上で翻訳刊行が進むなど海外からも大きな注目を集められています。海外の読者の反響を、どのように感じていらっしゃいますか?

川上:翻訳文学を読もうと思うのは、まず批評家や書評家達なんですよね。でも私はストリートで生まれ育った感覚があるので、そこに届くのが何よりも嬉しいと感じました。本が広まるにつれて、若い人達がたくさん動画や画像を送ってくれてね。日本文化を知るために読んでるんじゃなくって、ただおもしろい小説を読んでくれてるってフェーズが来ていることを実感して、それがすごく嬉しかったです。

——学問や日本文学の研究のためではなく、市井の人々が個人的な興味から読んでくれるフェーズ。

川上:10代の子が、本と一緒に自撮りをしてくれた投稿を見た時は感動しました。限られたお小遣いを握りしめてこの本を買ってくれたんだと思うだけで胸が詰まりますよね。素朴だけれど、とても力強い。本当に涙を流して読んでくれている反応を間近にすることができた時に、初めて「読まれた」と思いました。

——「小説は世直しではない」と仰っていましたが、ご自身の作品が誰かに影響を及ぼす瞬間もたびたび経験されていると思います。川上さんの中で、小説家としての役割や提示したいことを、どのように考えていらっしゃいますか?

川上:小説家を含めたアーティストというのは、半分以上は自己実現でやっているはず。自分の仕事に関して言えば、特にそうです。「読んで救われました」と言ってもらえることはあるけれど、わたしの書くことで、ものすごく傷ついている人もいます。自分に都合のよい感想だけをみるのは、フェアじゃない気がする。

——傷つけているかもしれない、という事実とはどのように対峙されているのでしょうか?

川上:難しいところですよね。でも、広告とは違って、見たくなくても目に入ってくることはなく、能動的に読まないと共有されないものでもありますよね。読まない自由が読者にはあるので、そう思うと少し気は楽になります。ただ、どうしたって人を傷つけてしまう、その上でどうするか。誰も傷つけない、誰一人として置いていかない方法があればいいのだけれど、「誰も不幸にしない」という視点から考え始めるのは、難しいのではないかと思います。たった1つの正解に行きつくものではないので、「傷つけてしまう」、その前提でどうしていくかを、探りながら考え尽くすしかないと、今の私は思います。

Photography Takahiro Otsuji
Hair & Makeup Mieko Yoshioka

『黄色い家』著者:川上未映子

■『黄色い家』
著者:川上未映子

十七歳の夏、「黄色い家」に集った少女たちの危険な共同生活は、ある女性の死をきっかけに瓦解し……。人はなぜ罪を犯すのか。世界が注目する作家が初めて挑む、圧巻のクライム・サスペンス。

ページ数:608ページ
定価:¥2090
https://www.chuko.co.jp/special/kiiroiie/

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『ぬいしゃべ』を通して「対話」を考える 監督・金子由里奈 × 原作・大前粟生 対談—後編 https://tokion.jp/2023/04/11/yurina-kaneko-x-ao-ohmae-vol2/ Tue, 11 Apr 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=179003 映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』ついて、監督・金子由里奈と原作・大前粟生の対談。後編は「対話」について。

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金子由里奈監督(左)と原作を担当した小説家の大前粟生(右)

金子由里奈(かねこ・ゆりな)
映画監督。1995年東京都生まれ立命館大学映像学部卒。⼤学映画部に所属中から多くの映像作品を制作。2018年、山戸結希監督プロデュース企画『21世紀の女の子』で唯一の公募枠に選ばれ、『projection』を監督。翌年には自主映画「散歩する植物」がぴあフィルムフェスティバル2019に入選。 その後、ムージックラボ2019に参加、『眠る虫』でグランプリ受賞、自ら配給・宣伝も務めた。 チェンマイのヤンキーというユニットで⾳楽活動も行なっている。
Twitter:@okomebroccoli
Instagram:@okomebroccoli

大前粟生(おおまえ・あお)
小説家。1992年兵庫県生まれ。著書に『回転草』『私と鰐と妹の部屋』『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』『おもろい以外いらんねん』『きみだからさびしい』『死んでいる私と、私みたいな人たちの声』などがある。
Twitter:@okomeinusame

大前粟生による小説『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』が、『21世紀の女の子』、『眠る虫』などで注目される新鋭・金子由里奈監督によって映画化された。ぬいぐるみとしゃべる人達を描いた本作のテーマの1つである、対話。話すことは誰かを傷つけてしまう可能性があり、その暴力性を前に口をつむぐのではなく、「もっと話すこと」を選ぼうとする彼らの姿に自分達が重なる。後編では「対話」という軸で、2人に話を伺った。

話をしたり聞いたりするだけで人は少しずつ楽になるのでは

——映画を拝見しながら、「対話」について考えを巡らせました。七森のセリフにもありましたが、話して誰かを傷つけてしまうのは怖いけれど、話さないと相手のことにも自分のことにも気づけない。日常にある「対話」を多面的に考えるきっかけになりました。

金子由里奈(以下、金子):「ぬいぐるみとしゃべるサークル」というのが画期的ですよね。モノローグとも独り言とも違う、中間にある“吐露”みたいなものがぬいぐるみにしゃべることによって生まれている。そういう場所は現実にも必要ではないかな、と思いました。

大前粟生(以下、大前):そもそも原作は、話をしたり話を聞いたりするだけで人は少しずつ楽になるのではないか、と思いながら書いたものでした。本当は、1人1人に合ったカウンセラーと出会えて、話をしたり聞いたりすることが常態化すればいいけれど、なかなか難しい。なので、自分の言葉を受け取ってくれる存在がいてくれたらいいなと思って、ぬいぐるみを相手にしたんです。

——この映画を拝見してから、何人かに「ぬいぐるみとしゃべったことはある?」と聞いたんです。そうしたら、意外としゃべっている人がいて、驚きました。

大前:意外といますよね。

金子:私も思いました。しゃべっていなくても、ぬいぐるみと共生している人が意外といるんだな、と。ぬいしゃべに取り組んでいた影響で敏感になっていたのかもしれませんが、新宿駅を歩いていたら胸ポケットからぬいぐるみを出している人や、抱えている人を見かけたんです。それは、ちょっと嬉しくなりました。

——私はしゃべったことがなかったので、家でやってみたんです。そうしたら結構難しくて。

金子:私もやってみたんですけど、難しいですよね。返事や相づちが返ってこない感じが気持ちいいけれど、その前提に慣れてくると、言葉がうまく出てこなくなったりして。コツをつかむのが難しかったです。

大前:いざしゃべろうと思うと構えてしまうというか、漫談みたいになってしまいますよね。

金子:そうなんですよ(笑)。独り言なんて家の中でよくしているのに、ぬいぐるみとしゃべろうとするとパフォーマンスのようになって、周囲を意識してしまう。でも、こうやって同じことをする人が集まっていると、安心してしゃべれるんだろうなと思いました。隣の部屋から薄く声が聞こえてくる、そんなイメージで。

大前:(うなずく)

金子:小説の中に出てくる表現で、「イヤホンから聞こえてくる言葉未満の音」っていう表現がすごく好きでした。微妙にニュアンスが違うのに、思っていることや考えていることを言葉にしようとすると枠にはめられてしまう側面もあるじゃないですか。

——思いと言葉がうまく一致していなくて、その“形”に違和感を感じることはよくありますよね。

金子:「形もない声」が存在していいんだな、と。その声がかすかに聞こえてくるけれど放っておくやさしさもあって、「ぬいサー」はすごくいい空間だなと思いました。

「ぬいぐるみによってしゃべる内容って違うの?」というセリフがあるように、ぬいぐるみによってしゃべりたいこと、リズム、パフォーマンスが変わってくるのもおもしろかったです。

大前:キャストさんも、ぬいぐるみによってしゃべりたいことが変わっていましたか?

金子:変わるみたいでした。「今はこの子としゃべりたい」というのがあったり。撮影を始める前に、部室にあった600体くらいからどの子としゃべりたいか選んでもらうようにしていました。

他人の存在をうなずきあって、確かめあって、想像するというのが「対話」ではないか

——映画でも小説でも「わかる」「だけど」など頻繁に相槌が打たれていて、スムーズではない会話というのが印象的でした。そこに、対話というものに関してお2人の考えがあるのではないかと思ったのですが、いかがでしょうか?

大前:そうですね……会話によって何かを解決する必要性はそんなにないと思っていて、誰かとないしは独り言でも、話すことで思い悩む時間が大事ではないかと思っています。

「弱さ」の吐露、「強さ」の吐露……そうした、カギカッコ付きの世間からの評価やレッテルみたいなものを、「だけど」「けれど」と幾度も反転しながら会話を重ねて、外していく。そうすると「強さ」も「弱さ」もカオスに混在した場所、みたいなものを作れたらいいなと思います。

——大前さんの小説は明確な答えを提示するのではなく、あたりまえとされる言葉をあらゆる角度から見ることで、わからなさとわかりたい気持ちが幾度も往復する感覚があります。

大前:僕にとって小説という表現方法は、映画やドラマに比べて起承転結にそこまでしばられなくていいものです。金子さんが「記号的」と仰っていましたけど、まさに映画は全部伏線になることがありますが、小説は物語を行ったり来たり、揺らし続けられる。だから、答えがない話や評価から外れた話を延々とできるんだと思います。なんというか……わかりやすさの中に、わからなさを混ぜやすいんです。

——映像は目の前に示されてしまうので、力強くて揺らがないものになりがちですが、特に大前さんの小説は迷いや揺らぎといったものが包括されていますよね。

金子:それが、しんどくても読めちゃう理由かもしれないです。

——読めてしまうんですけど、その後の内省がすごく長いですよね。

金子:内省が終わらないですよね。ただ、内省した上で思ったのは……この映画は、何かを解決することはしていないんです。起承転結が起こる前の、対話を大切にしたいと思って作りました。

例えば、性暴力やハラスメントの問題などでも、何かの「証拠」よりも、被害者や加害者、それを取り巻く人々の「語り」を大事にしたい。もちろん現実的には証拠も必要ですが、それだけではなくて……。「語り」や「語り」以前の想いも大切だと思いますし、それをゆっくり時間をかけて見つめられる社会であってほしいです。

なので、「あー」とか「えっと」などフィラーと呼ばれるものを演出によって削ぐことはしませんでした。

——言葉を確かめながら対話をする。

金子:リズミカルな会話を避けていたんです。役者さんが知らないタイミングで水を出して、ちょっと会話のリズムをずらしたり気持ちよく会話できなかったりする状況を作りました。

それは、なんだろう……私は言葉を疑っているというか。自分自身がスムーズな会話が苦手なぶん、日常の会話の速度についていけないこともあるんです。他者の存在をうなずきあって、確かめあって、想像するというのが「対話」の始まりだと思います。自分自身もそんな姿勢を取りたいと思っていて、演出する上で考慮しました。

——人と対峙すると良いことを言おうとしちゃうのかもしれません。名言っぽいものよりも、もっと、つまずきながらでも懸命に会話するほうが伝わるのかもしれない。

金子:ほとばしる感じでもいいと思うんです。それこそ、主演の細田さんと初めてお会いした時、私は「ほとばしり」しか発揮していませんでした(笑)。「どうか、どうか、お願い」という気持ちを言葉ではなく全身で表現して。

次はあなたが話す番ですよ、と観客に手渡す

——金子監督のように、相手に一歩踏み込むのが、対話における難しさだと感じています。麦戸ちゃんが、「いろいろあったんだよ」とはぐらかす七森に向かって「私はナナくんの話が聞きたい」と目を見るシーンがとても好きなのですが、あの踏み込み方は理想だと思いつつ、2人は対話における距離のとり方をどう考えていますか?

金子:麦戸ちゃんのセリフは、自分から傷つく宣言をしたんだと思います。七森はしゃべることの暴力性を自覚していたので、対する麦戸ちゃんも「私はあなたの言葉で傷つきます、それは構わないから話してほしい」と“ファイティングポーズ”をとるような。

——「しゃべろう!」というファイティングポーズ。

金子:ただ自分のことになると、気を遣われるよりも土足で踏み込んでもらったほうがいい時期とそうでない時期があります……距離のとり方って難しいですね。どうやって確認するんでしょう。

大前:僕は、そんなに人としゃべらないので、ものすごく距離を取っています(笑)。ただ、相槌を打つばかりですね。必要に迫られて大人数の飲み会に行っても、周囲の人間の距離の取り方ばかり傍観しています。

金子:私は人としゃべる時に身振り手振りが多いです。もしかしたら、無意識に人と距離を取っているのかもしれないです。心理的な距離が近づきすぎると、「ああー」って手を伸ばしてフィジカルな距離を取り、同時に心理的な距離も近くなりすぎないようにしているのかも。

——こと恋愛になると、距離感がおかしくなりますよね。恋愛要素では、小説と映画では別の展開を迎えます。小説の終着点として大事なシーンをあえて変えたのは、どのような意図だったのでしょうか?

金子:文章で読むと想像でやわらかく昇華できるものが、映像にするとより記号的になってしまいます。七森は男性で、麦戸ちゃんと白城という女性2人がいて、三角関係のような構図に集約されてしまう可能性も。きっと名前のない特別な関係性なのに、そのニュアンスがうまく伝わりづらいなと思いました。

——なるほど。

金子:小説の帰着も素敵でしたが、そこまでの「しゃべる」「聞く」という要素が映画で一番重要だと思いました。なので、そこにクライマックスを持ってきたかったっていうのがあります。

大前:実写の人間が言葉にすると、その言葉に収束してしまいそうですよね。

金子:この作品も映画的な起承転結を作るのではなく、対話がずっと続いて、「次はあなたが話す番ですよ」と観客にバトンを手渡すような、そういう終わらない対話みたいなものが生み出せたらいいなと願っています。

Photography Mikako Kozai(L MANAGEMENT)

『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』

■『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』
4月14日から全国公開
出演:細田佳央太、駒井蓮、新谷ゆづみ、細川岳、真魚、上大迫祐希、若杉凩、ほか
原作:大前粟生「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」(河出書房新社)
監督:金子由里奈
脚本:金子鈴幸、金子由里奈
撮影:平見優子 
録音:五十嵐猛吏 
音楽:ジョンのサン
プロデューサー:髭野純 
ラインプロデューサー:田中佐知彦
製作・配給:イハフィルムズ
(2022|109 分|16:9|ステレオ|カラー|日本)
https://nuishabe-movie.com

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映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』に込めた想い 監督・金子由里奈 × 原作・大前粟生 対談—前編 https://tokion.jp/2023/04/10/yurina-kaneko-x-ao-ohmae-vol1/ Mon, 10 Apr 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=178997 映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』について、監督・金子由里奈と原作・大前粟生の対談。前編では、2人の出会いから映画化への思い、本を通じて感じた「自分自身の加害性」について話を聞いた。

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金子由里奈監督(左)と原作を担当した小説家の大前粟生(右)

金子由里奈(かねこ・ゆりな)
映画監督。1995年東京都生まれ立命館大学映像学部卒。⼤学映画部に所属中から多くの映像作品を制作。2018年、山戸結希監督プロデュース企画『21世紀の女の子』で唯一の公募枠に選ばれ、『projection』を監督。翌年には自主映画「散歩する植物」がぴあフィルムフェスティバル2019に入選。 その後、ムージックラボ2019に参加、『眠る虫』でグランプリ受賞、自ら配給・宣伝も務めた。 チェンマイのヤンキーというユニットで⾳楽活動も行なっている。
Twitter:@okomebroccoli
Instagram:@okomebroccoli

大前粟生(おおまえ・あお)
小説家。1992年兵庫県生まれ。著書に『回転草』『私と鰐と妹の部屋』『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』『おもろい以外いらんねん』『きみだからさびしい』『死んでいる私と、私みたいな人たちの声』などがある。
Twitter:@okomeinusame

4月14日から全国公開される映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』。大前粟生による同名小説を映画化したもので、『21世紀の女の子』や『眠る虫』で注目を集めた金子由里奈が監督を務めた。題名の通り、舞台は京都にある大学の「ぬいぐるみとしゃべるサークル」、通称「ぬいサー」。心の内にある誰にも言えない気持ちをぬいぐるみに打ち明けることで保っている彼等・彼女等のもとに、新1年生の七森(細田佳央太)と麦戸(駒井蓮)、白城(新谷ゆづみ)が入ってくる。性差別やジェンダーバイアス、いわゆる”男らしさ“”女らしさ“で測られてしまう世の中を心苦しく思う七森と麦戸、2人と心を通わせる白城。そこには社会に感じる生き辛さのさまざまがあぶり出され、まるで映画と対話するように自分に問いかけられる。彼等は言う、「もっと話さなきゃいけなかったのかな」。

京都の街を散歩しながら、幾度も対話を重ねてきた金子と大前、2人の話を、たっぷり前後編でお届けする。前編では、2人の出会いから映画化への思い、本を通じて感じた「自分自身の加害性」について話を聞いた。

京都を散歩しながら築いてきたもの。金子と大前との出会い

——金子監督が初号試写で「小説の読後感を大事に、映画を作った」と仰っていましたが、まさにその通りでした。自分の加害性や他者との対話の距離感など登場人物達の葛藤が自分自身と重なり、鑑賞後も延々と映画と対話をしているような感覚になる、素晴らしい映画でした。

金子由里奈(以下、金子):ありがとうございます。

——お2人はもともと交流があったのでしょうか?

金子:前作の『眠る虫』を京都で上映した際に大前さんが来てくださったのが、初めましてでした。共通の知り合いの方が、私に「好きだと思うよ」と大前さんの小説を貸してくださったんです。普段私が考えていることが小説で言語化されていて、あまりの衝撃と喜びで、一度お会いしたいと上映にお誘いしました。

大前粟生(以下、大前):2人とも以前は京都に住んでいたので、それから時々、一緒に京都を散歩するようになりました。

金子:そこら辺の木を指して「あれは『ハイロー(HiGH&LOW)』の日向と村山に見えますね」とか、そんな会話をしていました。

——映画の舞台も京都の立命館大学でした。

金子:出身校ということもあって、物語を構想する上で部室の感じをイメージしやすかったんです。実際に部室でずっと寝ている人がいましたし。関西の大学だと地方出身者も多いので、雑多でいい具合に知らんぷりしながら暮らしている感じを映画でも表現できたらいいなと思っていました。

——『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(以下、『ぬいしゃべ』)の映画化は、どのような経緯でスタートされたのでしょうか?

金子:『眠る虫』を上映してから、何人かのプロデューサーさんが声をかけてくださいました。それで、映画化したい原作として『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』をいろんな人に提案したのですが、商業的な理由で難色を示されることが多かったです。「センシティブなテーマはちょっと……」と言われてしまうこともあって。

——そうですか……これだけ多様性やLGBTQ+が話題になっているにもかかわらず、製作の現場ではそういう声もあるのですね。

金子:なので、この作品が映画化して上映が始まることは、結構な奇跡だと感じています。

私自身はなんの偏見もなく、むしろ親近感のある物語としてこの小説を読みましたが、「繊細すぎる」と毛嫌いされてしまうこともあると知りました。なので、髭野さん(プロデューサー)が原作に共鳴してくださったことはありがたかったです。

——映画化するには、もっとわかりやすさみたいなものが求められるということですか?

金子:そうなんだと思います。この映画はわかりやすい成長譚でもなければ、簡潔に希望が描かれてるわけでもないし。

大前:話を交わして終わり、ですからね。

金子:言ってしまえばそうですね(笑)。ただ、私はそれが重要だと思っています。多くの人にとって新しい映画体験になったらいいなと思っています。

あたたかさと不穏なものが同居している

——大前さんは、映画を観られていかがでしたか?

大前:率直に、おもしろかったです。話の展開は原作者として知ってしまっているけれど、小説の展開ではない部分を映画として楽しむことができました。

『眠る虫』を観た時にも思ったのですが、金子さんの作品はあたたかさと不穏さが同居している感じがある。それを『ぬいしゃべ』にも感じました。例えば、ぬいぐるみを洗うシーン。ぬいぐるみを洗うという状況を想像すると、手つきも含めて微笑ましさもあるけれど、金子さんが撮るぬいぐるみが湯船に沈んでいく光景はすごく不気味で、僕は好きでした。

金子:(深呼吸)ありがとうございます。嬉しいです。

私自身、実際にぬいぐるみを洗ったことがあるんですね。「ラザロ」という、これからも人生を共にするだろうと確信している大事なぬいぐるみで、古道具屋で買ったので汚かったんです。洗ってみたら、洗う前はふわふわで柔らかかったのに、水につけると石の塊のように重くて硬い物体になることを皮膚感覚で捉えました。それは、なんていうんだろう……ただ、水を含んで重くなっているというより、ぬいぐるみの持つアンビバレントな意味を感じました。そこでの驚きや実感をシーンに入れたくて、ひとりで黙々と洗ったり、みんなで洗って段々と重たくなっていくぬいぐるみを一緒に運んだりするシーンを入れたんです。

——ぬいぐるみに対する接し方があたたかくて、擬人化しているのかなと感じました。

金子:そういう部分はありました。後半で七森がぬいぐるみを洗うシーンは、七森自身が感じているどうしようもない加害性みたいなものをぬいぐるみが代わりに洗い流してくれる意味を込めています。

——個人的な記憶として、大学受験に失敗した時にすごく苦しくて、部屋の棚に置いていたぬいぐるみを全部伏せたことを思い出しました。すべて見られてしまっているようで、「もう見ないで!」と顔を隠したんです。

金子:その気持ちはすごくわかります。存在するだけで視線を感じるものって、いくつかありますよね。私にとって大前さんの本は、見られているような存在感がありました。「あなたはこの社会で真面目にやれていますか?」と問われるんです。その本があるだけで立ち返れるというか、自分にとっての指標になっています。

大前:本自体がそうなってくれていたんですか?

金子:はい。全部の本がそういうわけではなくて、『ぬいしゃべ』は特別でした。なので、映画でも「映画に見られている」という感覚を表現したいと思っていました。そうしたら、カット割りを考えている時に自然と「ぬいぐるみ視点は〜」と言葉が出てきたんですね。映画制作において人間以外の視点を描くことを大切にしているし。実際にぬいぐるみの頭にカメラがついているものをカメラマンの平見優子さんが作ってくださったんです。そのぬいぐるみは「スタッフさん」と呼ばれていました。

大前:なるほど。だから、ぬいぐるみが彼等を見守っている、それこそ見ている感じが映画の中にずっとありました。

小説を読んだことで、自分自身の加害性と真剣に向き合うことになった

——金子監督にとって大前さんの作品は大切なものであると同時に、対峙するには根気が必要な作品だったのではないかと思います。それでも、この作品を映画化しようと思われた想いの部分を伺いたいです。

金子:そうですね……小説を初めて読んだ時に、ずっとモヤモヤしていた自分自身の加害性について、言語化された感覚になりました。思い返せば、その苦しさを見ないフリしてきたんですね。『ぬいしゃべ』はそういう、向き合うのが辛くて苦しいことを書いているのに、文体が柔らかいのでサッと読めてしまう。

——わかります。

金子:全部読み終えた時に、急に「あれ……あれ?」と戸惑いが隠せないままいろんな感情が湧いてきて、自分自身の加害性と真剣に向き合うきっかけになりました。「そうだ、ひと言しゃべるだけでも人を傷つけてしまう可能性があるよな」とか。その体験に衝撃を受けたことは大きかったです。

——七森が、麦戸ちゃんが感じている女性差別に傷ついたり、自分自身も男性として女性を傷つける可能性があることに心苦しくなったり、1つ1つの行動がさまざまな視点から語られるので、必然的に「やさしさとは?」という問いにぶつかりますよね。一方で、些細ともいわれる行動を映像として映し出すのは、難しかったのではないかと思います。

金子:私は映画を撮る上で、これまで商業映画から取りこぼされてきた人、モノ、景色を撮りたいと思っています。『ぬいしゃべ』にはそういうものがたくさん登場する。もし、これが他の誰かの手によって商業映画として撮られる時、「ぬいぐるみ」というモチーフも相まって、ポップに収まる可能性もあるなと思ったんです。

おこがましい話ですが、この小説の深度や戸惑いを私だったら取りこぼさないで作品にできる気がすると思っていました。どうなるかわからないけれど、この作品は取り乱している私が映画にしなきゃいけない予感があったんです。

大前:めちゃくちゃ嬉しいです。正直な話、僕よりも『ぬいしゃべ』という作品のことを理解してくれていたので、僕は遠くから見守っていました。

——脚本のやりとりはどのくらいされたのですか?

金子:大前さんには事前にプロットを見ていただいて、一度方向性をすり合わせてからは、こちらに任せてくださいました。

大前:プロットの段階で信頼できるなと思いましたし、僕の作品というより、金子監督の作品を見せてもらっている感じがありました。

どんなに繊細でやさしくても、人を傷つける可能性がある

——小説が映像になると、また違った感覚を受け取ると思うのですが、映画を観ている中で驚いたり印象的だったシーンはありますか?

大前:小説の登場人物が実在する、というのは不思議な感覚でした。「ぬいぐるみとしゃべる」というのは小説では違和感がなくても、映画で実写の人間たちがぬいぐるみとしゃべるのは想像ができなくて、どんな表現になるのか楽しみでした。舞台だったら、少しは想像できるんですけど。

金子:そうですよね。

大前:ですが、それぞれが持っていた要素を内在しながら実在していて、新鮮な視点でそれぞれのキャラクターを見ることができました。

——登場人物の設定で伺いたかったのが、小説と映画では七森の印象が少し違いました。小説では周囲に合わせて愛想笑いをしたり言葉を伏せたり、もう少しおびえた感じがあったのですが、映画では大事なタイミングで自分の意見をきちんと相手に伝える意志を感じました。例えば、同級生から「童貞?」とからかわれた時、「どうでもよくない?」と意見を伝える。ただ、小説と映画で七森の乖離はなく、彼の根底にあるものを映画では抽出されたのかなと思いました。

金子:そうですね……話がずれるかもしれないのですが、七森はすごく繊細で考えすぎてしまうからこそ、反射的なアクションで人を傷つけてしまうことがあると思いました。例えば、恋愛に参加できない自分に悩んでいたのに、白城に告白して付き合う。「彼女ができた」ことに一時的に本人は喜んでいたけれど、白城を自分の都合に巻き込んでいるようにも受け取れました。

後半で、自分のために告白をしたことを省みるシーンがあります。どんなに繊細でやさしくても人を傷つけてしまう。その部分を無視したくなかったですし、「傷つけるかもしれない」と怯えながらもそれでも対話をするという姿を、七森を通じて描こうと思っていました。

——傷つけるかもしれないけれど対話をする。そういうアクションをとる人物としての七森。

金子:なので、弱さの中にあるたくましさ、みたいな部分が垣間見えるようにセリフを調整したところはあります。

白城という存在については、お2人はどう見ていますか? 厳しい人なのか、現実的な人なのか。

大前:僕は、一番やさしい人だと思っています。ぬいサーのような傷つきやすい人たちとも心を通わせて、介入しようとしてくれている。傍から見ても、ぬいサーはユートピアっぽいところがあり、現実社会で生きていくには“あまい”ところもあると思います。そういう厳しさと難しさをわかっていながら、彼等と付き合うことを選択した白城の見守る視線というのは、あたたかいなと思います。

金子:私も、映画の撮影を通して白城はとってもやさしい人だと思いました。ただ、七森や麦戸ちゃんに比べて白城のやさしさはわかりやすいものではない。彼女は「引き受けるやさしさ」を持っている人だと思います。白城から出てくる言葉は強かったり平易に聞こえたりするけれど、実は本人の中でものすごくたくさんの言葉が溢れていると思うんです。そのバランスは絶妙だし、白城の人との関わり方を尊敬しています。

——白城の最後の言葉は、素晴らしいですよね。

金子:私もあのセリフが大好きで、小説を読んでいる時もびっくりしました。その驚きを映画でも絶対にやりたいと思っていました。

後編へ続く

Photography Mikako Kozai(L MANAGEMENT)

『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』

■『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』
4月14日から全国公開
出演:細田佳央太、駒井蓮、新谷ゆづみ、細川岳、真魚、上大迫祐希、若杉凩、ほか
原作:大前粟生「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」(河出書房新社)
監督:金子由里奈
脚本:金子鈴幸、金子由里奈
撮影:平見優子 
録音:五十嵐猛吏 
音楽:ジョンのサン
プロデューサー:髭野純 
ラインプロデューサー:田中佐知彦
製作・配給:イハフィルムズ
(2022|109 分|16:9|ステレオ|カラー|日本)
https://nuishabe-movie.com

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『恋せぬふたり』脚本家・吉田恵里香インタビュー 「知って、気づいて、直す」ことが世の中の理解につながるのではないか https://tokion.jp/2022/05/13/interview-erika-yoshida/ Fri, 13 May 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=116338 ドラマ『恋せぬふたり』の脚本を担当した吉田恵里香に、小説版の発売に合わせて話を聞いた。

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岸井ゆきのと高橋一生がダブル主演をつとめ、話題を集めたよるドラ『恋せぬふたり』(2022年1〜3月放送、NHK総合)。他者に恋愛感情を抱いたり、性的に惹かれたりしない「アロマンティック・アセクシュアル」というセクシャリティを自認する2人を主人公にしたセンシティブなテーマながら、その丁寧な心理描写でドラマはギャラクシー賞(第59回テレビ部門特別賞、2022年3月度月間賞)を受賞。脚本家の吉田恵里香はテレビ界唯一の脚本賞である第40回向田邦子賞を受賞した。

そんな、『恋せぬふたり』の小説版がNHK出版から発売された。脚本家の吉田さん自身が書き下ろし、ドラマではあまり描かれなかった高橋(高橋一生)の心情や、2人を取り巻く登場人物それぞれの内面が深く掘り下げられ、新たなシーンも加筆。物語をより多角的に楽しめるものになっている。今回は吉田に、ドラマ・小説と長い時間を過ごした『恋せぬふたり』を通じて、「アロマンティック・アセクシュアル」に対する学びや自身の変化について話を伺った。

当事者だからこそ抱える葛藤や社会への苦しさを物語にすることを第一に書く

——まずは向田邦子賞、ギャラクシー賞の受賞、おめでとうございます。ドラマの反響をどのように感じていましたか?

吉田恵里香(以下、吉田):放送開始前は、スタッフさん達と「全否定される可能性もある」と恐れていたところがありました。なので、好意的な意見を多く耳にして、嬉しかったですね。役者さん達に助けられた部分もおおいにあったんですけど、「アロマンティック・アセクシュアル」(以下、「アロマ・アセク」)というテーマで評価をいただけたことは、挑戦して良かったと感じました。

——「アロマ/アセク」の当事者からの反応はありましたか?

吉田:考証の方から「こんなアロマ・アセクはいない、という声がなくて良かった」という話を聞いて、安心しました。NHKの掲示板に当事者の方が書き込みしてくださって。その方はカミングアウトをしていない方で、お母さまがこのドラマを見てくださったそうなんです。そうしたら、お母さまの空気感が何となく変わったと。そんな風に、当事者の方が少しでも生きやすくなっていたらいいなと思います。

——これまでドラマで描かれてこなかった「アロマ・アセク」をテーマに書くことは、不安もあったと思います。もともと、このテーマを題材にドラマを書きたいと思われていたんですよね?

吉田:「アロマ・アセク」という言葉を知ってから、ドラマにできたらと思い、何度か企画書を出したことはありました。私の企画内容がイマイチだったせいもあるんですが、そもそも言葉の説明から難しくて、なかなか受け入れてもらえなかったですね。

——念願かなってのドラマ化だったんですね。テーマを扱う上で気をつけられたことは?

吉田:一番大切にしたのは、当事者のみなさんを傷つけないようにすること。ドラマの登場人物として「アロマ・アセク」を描くと、一歩間違えればネタっぽく感じられたり、ドラマを盛り上げるための“道具”に見えたりしてしまいます。それだけは絶対に避けたかったので、登場人物がアロマ・アセクである必然性がわかるように書くことを意識しました。

——必然性、ですか。

吉田:万人が抱えている悩みや息苦しさにつながる内容もありますが、当事者だからこそ抱える葛藤や社会への苦しさを物語にすることを第一に書きました。そのために、アロマ・アセクを自認する3人の方に考証に入っていただき、当事者ならではの視点を細かく指摘いただきました。また、ドラマの製作に入る前に私は10人くらい、プロデューサーさんはもっと多くの当事者の方にお会いして、いろいろとお話を聞きしました。

このドラマをきっかけに、初めて「アロマ・アセク」という言葉を知る方も多いと思います。もしかすると、この作品の印象が彼ら・彼女らのイメージを作ってしまう可能性もある。なので、当事者が誤解を受けて困るような状況や嫌な気持ちにならないように、全員が最大限の努力をしました。

——セリフの1つひとつも、すごくリアルでした。妹のみのりが姉の咲子(岸井ゆきの)にかける「恋愛に悩まなくていいからお姉ちゃんは楽でいいね」という発言を聞いた時は、相当ショックを受けました。

吉田:大事なセリフの多くは、当事者の方々が実際に言われて傷ついた言葉ばかりです。私も「そんなひどいこと言う人いるの?」とショックでしたが、事実なんですよね。思い出したのは、学生時代に友人と「早くおばあちゃんになって、恋愛から解放されたいよね」と話していたこと。何気ない会話ですが、もし、その場にアロマ・アセクの方がいたら傷つけている可能性があって。その、傷つけるつもりはなくても傷つけている、状況が日常的にあることは書きたいと思っていました。

傷ついている人達に標準を合わせて、書く

——当事者の方々とのやりとりを通じて、「アロマ・アセク」に対して気づいたことは?

吉田:取材をしている中で言われたのが「吉田さんが会えるのは、自分自身のセクシャリティを話せる人だけ」と。世の中には、話題にしたくない当事者もいて、この取材がすべてだと思わないでほしいと最初に言われました。

仰る通りで、性にはグラデーションがある。それはきっと、どんなセクシャリティにも同じことが言えます。接触の加減だけじゃなく、考え方そのものにも違いがある。例えば、作中に登場する「早く運命の人に出会えるといいね」というセリフ。私は、この言葉がどれくらい当事者を傷つけるのか深い部分で理解したかったので、お会いした方々全員にどう思うか聞きました。そうすると、半数は「絶対に傷つく」と断定したけれど、あと半数は同意されていて。それは、自分のセクシャリティが10年後変わっている可能性を踏まえて、「運命の人に出会うかもしれない」と仰っていました。今回に関しては、苦しんでいる人達に標準を合わせようと決めていたので前者の視点で書きましたが、どこか「必ず傷つくもの」と決めつけてしまっていた自分を恥じました。改めて当事者の方々にお会いして、性のグラデーションを理解できました。

——主人公2人も、同じアロマ・アセクでも随分と性的嗜好が違いましたもんね。

吉田:そこは意識しました。2人というケースしか書けないことは難しかったんですけど、なるべくアロマ・アセクのグラデーションを表現できるように。ただ、考証の方に言われたことが言葉として理解できても頭で理解できないこともあり、第1話から第3話までは筆が止まってしまうこともありました。日々勉強を重ねて、だんだんと理解して、後半はスムーズに書けたかなと思います。

——考証の方と何度もやりとりされた、思い出深いシーンは?

吉田:第2話の、咲子の実家に行くシーンですね。高橋と咲子が手をつなぐ・つながない、のやりとりをするのですが、最初は「無理をしながら手をつなぐ」というシーンにしていました。我慢が続いた高橋を見て、咲子が「普通って何?」と怒るシーンにつなげたくて。この作品が、当初はラブコメの“あるある”を示しながら「あるあるが苦しい人もいる」ことを伝える想定だったこともありました。ですが、考証の方々に「そもそも手をつなげないのでは」と言われてしまって。話の流れとキャラクターとして難しいこと。そのあんばいを何度も話し合った結果、努力はするけれど手はつなげない、というシーンに落ち着きました。結果的には、高橋の息苦しさを伝えるために必要な描写だったと思います。

——小説では、無邪気に駆け寄ってきた姪っ子が、高橋の手を握って戸惑うシーンがありました。こういうのも辛いのか、と納得して。

吉田:ドラマでは尺の関係でカットされたシーンです。子どもとの接し方にも苦しみを抱く方は多いので、必ず書きたいと思っていました。

——小説版には、ドラマでカットされてしまったシーンやセリフが多く登場していました。「小説はドラマと違う難しさがあった」とコメントされていましたが、具体的には?

吉田:ドラマは良くも悪くも“行間”のような、視聴者に考えを委ねる部分があります。その余白が良い方向に働いたドラマなんですが、小説だとその余白を言葉にしなきゃいけない。高橋が咲子に「家族になってほしい」と言われた時、家に訪れる人が増えた時、どう思っていたのか。センシティブな内容が多いですし、セクシャリティにまつわる誤解が生まれないか不安で、気をつけて書きました。

——小説を通じて、人物像を深く理解できました。特に無口な高橋の考えを知ることができたこと、ラストシーンの回想や彼にとって祖母の存在の大きさなど、気づきも多かったです。

吉田:物事の多面性を書きたいんです。一見完璧に見える高橋も、実は祖母の言葉や過去の恋人に縛られて、自分で自分に呪いをかけている。その部分を際立たせるために、小説では祖母の存在を色濃く書きました。

——ドラマよりも丁寧に書かれたシーンは?

吉田:全体的に、千鶴(咲子の親友)に対する描写を増やしました。登場シーンが少ないので、咲子が変わっていく上でどれだけ重要な人物なのか伝えきれていない。千鶴以外も、カズくん(松岡一、咲子の同僚)やみのり、咲子の母などサブキャラクターにまつわるシーンを加筆して、より血の通った人物にできたらと思いました。

——カズくんやみのりは、いわゆるマジョリティ側の人間。彼らのエピソードはどのように追記していったのですか?

吉田:カズくんに関しては、変わっていくことができる、気遣いのできる人間であることを強調して書きました。咲子を心配するシーンや、高橋との距離を縮めていく過程などを書き足して。

みのりはシスヘテロで、子どもがいて、マイホームがある。いわゆる“普通”とされる人生を歩んできた人が、踏み外してしまった時の葛藤を丁寧に書きたいと思いました。やっぱり外れることへの恐怖は大きいし、無理してでも普通に戻るべきか彼女は葛藤します。でも、彼女には帰れる場所があるんですよね。だったら別に、彼女が思う“普通”にとらわれなくて良いし、姉妹じゃなくても誰かと支え合って乗り越えることができるかもしれない。そういうことを語れる存在にしようと思いました。

——最初みのりは、理解のない失礼な人物に見えていましたが次第に変わっていきますよね。

吉田:基本的な考え方は変わっていないけれど、姉と口論した後に「言いすぎたわ」と言えるようになっていくなど、小さな変化を重ねていきます。カズくんのように、自らアロマ・アセクの本を読んで理解する人って多くはないかもしれませんが、みのりくらいの歩幅で理解を示す人が増えたら、世の中は良くなるんじゃないかと思っています。

「自分の幸せは自分で決めていい。誰にも文句を言われるものではない」

——たびたび登場する「普通」「恋愛がすべてじゃない」という言葉について、吉田さんの考えを伺えますか? 

吉田:ドラマのテーマとして、「自分の幸せは自分で決めていい。誰にも文句を言われるものではない」を目指しました。「恋愛」は幸せの象徴として語られがちですが、そうじゃない人もいる。「恋愛がすべてじゃない」ということは絶対に言いたかったんです。

みんなが軽々しく使っている「普通」という言葉も、万能な言葉ではない。少なくとも、今の世の中ではそうです。社会の理解が進んで、LGBTQの方だけでなく世の中に溢れるマイノリティの方、すべての人に当てはまる「普通」がある世の中になったら使えるかもしれないけれど、今はこの言葉に暴力性があります。言葉の違和感に気付いてもらいたいと思って、使いました。

——何気なく使っている言葉でも、傷つく可能性がある。ドラマを見ながら「よくあるシーンだな」と思っている時点で、自分の私生活に溢れる暴力性を感じ、冷静に考えを整理できました。

吉田:高橋が両親と仲が悪く、セクシャリティもマイノリティであることを、他者が「不幸だ」と決めつけるシーンがあります。それは絶対に許せなくて。悪意なく言葉を発していたとしても、気をつける意識を持ってほしいです。

わからないなら「?」のままで、考え続ければいいと思う

——問題提起という意味で、「家族のあり方」についても言及されていました。例えば、第1話で咲子が高橋と共同生活を提案する際、「一緒に住みましょう」ではなく「家族になりましょう」とあえて「家族」という単語を使われています。

吉田:家族は、大きなテーマの1つでした。みんなが思う「家族」というあり方は正解ではなく、人は恋愛感情抜きでも特別な関係になれるかもしれない、ということを書きたかった。なので、違和感があるくらい「家族」という単語を意識的に使いました。

——「家族(仮)」という考え方が素晴らしかったです。考証のなかけんさんも、別のインタビューで「(仮)という考え方に救われた」と仰っていました。

吉田:セクシャリティは流動するものなので、自分の中では変えていい。わからないなら「?」のままで、考え続ければいいと思うんです。それは、家族も恋愛も同じこと。1回決めたことを曲げちゃいけない空気感がありますよね。高橋と咲子も家族になることに固執した時期もあったけれど、(仮)という道を選んだ。一度進んでみて、ダメならもう一度考えたり目標を変えたりしても、当事者がベストだと思うならそれでいいと思うんです。他者が意見することだけは、受け入れられないけれど。

——そこから、「自分の幸せは自分で決めていい。誰にも文句を言われるものではない」という言葉に行き着くんですね。

吉田:このドラマは、アロマ・アセクという用語を紹介するだけのものでも、恋愛を否定する趣旨でもない。自己選択した幸せを受け入れてくれる社会になることが、アロマ・アセクの人をはじめ、全てのセクシャリティの人にとって大事なことだと思います。この作品を通じて、言葉を覚えてもらったり、理解したり、知らない人に「恋人いるの?」と聞くことが人によっては暴力につながることがわかってほしい。結婚や恋愛について簡単に聞いてくる親世代の人達も、考えるきっかけになったら嬉しいです。

——最後に、ドラマ・小説を経て、ご自身の変化を伺えますか。

吉田:無意識に、傷つけたり配慮がないことを書いてしまったりしたことがありました。考証の方に指摘いただいて学びながら何度も直して、小説を書く時もドラマでは説明不足だった描写を反省して、書き直しました。この、「知って、気づいて、直す」ことが世の中の理解や生きやすさにつながるのではないかと思っています。

——ドラマを見て、自分も誰かを傷つけたかもしれないと思い、どう反省したらいいのかと不安になりました。

吉田:間違いを認めないことは良くないけれど、間違いに気づけたことは素晴らしいですよね。誰もあなたを責めていないし、怒っていない。学校でも教えてくれないことで、知るチャンスがないんですよ。なので、悪気のない言葉を発しないようにこれから気をつけていけばいいし、気づけたあなたは最高だと、私は伝えたいです。

吉田恵里香

吉田恵里香
脚本家・作家。1987年生まれ。代表作にTVドラマ『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』『花のち晴れ~花男 Next Season~』、映画『ヒロイン失格』『センセイ君主』などがある。小説『脳漿炸裂ガール』シリーズは累計発行部数60万部を突破するなど、映画、テレビドラマ、アニメ、舞台、小説等、ジャンルを問わず多岐にわたる執筆活動を展開している。
https://www.queen-b.jp/posts/2362876?categoryIds=611894
Twitter:@yorikoko

『恋せぬふたり』

■『恋せぬふたり』

「恋愛や性的な話を振られてもよくわからない。でも愛想笑いをしていれば大丈夫……」。
咲子は、そんなもやもやとした気持ちを家族や友人、同僚に理解されないまま、恋愛や結婚を促され続け、居心地の悪さを感じていた。そんなある日、「アロマンティック・アセクシュアル」というセクシュアリティを自認する男性・高橋と出会い、驚くと同時にどこか救われた気持ちになる。誰にも恋愛感情を抱かず、性的にも惹かれない2人が、自分達なりの生き方を模索すべく始めた共同生活は、家族、同僚、元彼、ご近所と周囲に波紋をひろげていく。その生活の先にある、それぞれの「幸せ」のあり方とは!?

著者:吉田恵里香
発売日:2022年4月28日
出版社:NHK出版
価格:¥1,760
判型:四六判
ページ数:312ページ
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000057232022.html

Photography Mayumi Hosokura

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映画監督・杉田協士 × 詩人・高橋久美子 対談後編 「見過ごされがちな日常にある豊かな時間を描く」 https://tokion.jp/2022/01/14/kyoshi-sugita-x-kumiko-takahashi-part2/ Fri, 14 Jan 2022 10:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=90745 短歌を原作とした映画『春原さんのうた』の杉田協士監督と詩人の高橋久美子による対談。前後編の後編では、『春原さんのうた』の撮影方法や2人が愛する詩や短歌の魅力について語ってもらった。

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第32回マルセイユ国際映画祭のインターナショナルコンペティション部門にてグランプリ、俳優賞、観客賞の3冠を受賞するなど、各国の映画祭で高い評価を得ている杉田協士監督の最新作『春原さんのうた』は、歌人・東直子の短歌が原作。今回、杉田監督と、詩人として活躍する高橋久美子との対談をお届けする。

前編では2人の出会いから『春原さんのうた』や映画と短歌の共通点について語ってもらったが、後編では『春原さんのうた』の撮影方法や2人が愛する詩や短歌の魅力について話を聞いた。

※一部、作品の内容に触れる記述があります。展開には触れていませんが、映画を観ていただいた後にも読み返していただくと、作品世界をより楽しんでいただけると思います。

心に留まった人の生活を、見守るように撮っている

──お二人の共通点を自分なりに考えた時に、余白を大事にする姿勢ではないかと思いました。そしてお話を聞きながら、お二人の作品に余白を感じるのは、自然を自然なまま切り取ることを大切に、日常をつぶさに見つめていらっしゃるからだと感じました。

高橋久美子(以下、高橋):そうかもしれませんね。人が好きなので、よく見てしまうんですよ。今日も、聖蹟桜ヶ丘の駅に着いて、駅の周辺のベンチに座っている方やクリスマスプレゼントを抱えている子ども(取材は12月24日)など、じっと見てしまって。そこだけを切り取っても、その人自身の歩んできた人生の奥行きを感じますよね。なんか、無意識の姿っていいんですよね。発表会でステージに立っている姿よりも、舞台袖で待機している姿にグッとくるみたいな。

杉田協士(以下、杉田):わかります。『ひかりの歌』を撮影している時に覚えた感覚で、もしかしたら私は街でたまたま見かけて心に留まった人を、フィクションの力を借りて追いかけて、その人の生活をしばらく見させてもらうように撮っているのかなと思いました。それに気付いたのが、編集の大川景子さんとのやりとり。ある作品を仕上げている時に、できあがったものを見させてもらったら何か違う気がして、今のようなことを伝えたんです。そうしたら、「ああわかった」と言ってすぐに編集し直してくれて、それがすごく良くて。もしかしたら最初は、お客さんが主人公の謎を読み解けるようにつないでくれたのかもしれないんですが、私はたぶん、謎は謎のままにしておきたかったんです。

高橋:だから、「見守る」感じを受け取ったのかもしれません。観る人にいろんなことを委ねていて、監督も観客も見守るようにその物語に一緒に入っていくような感じがありますよね。

杉田:撮影もその姿勢だから、自分もその時にならないと、どんなシーンになるのかわからないんです。高橋さんが好きだと言ってくれた道案内のシーンは、たどり着いた2人の目線の先に目当ての建物があるんですね。普通ならそちらを背景に記念の写真を撮るはずだけど、現場でそうはならなかった。彼女は建物が写らない道路を背景に、沙知にカメラを手渡したので、自然と沙知もそちらに向きました。そこで私も、ああ、ここに来た自分を撮ってもらうんだなって思えて。

高橋:それがリアルだなと思いました。時々ありますよね、カメラを向けるのを忘れているというか。ただその場にいた空気を収めておきたいだけなんですよね。でも、それがその場での判断だったとは。

杉田:大体のシーンがそうです。

──それは、演者さんを信頼しているからできることですよね。

杉田:一方的ですけど、信頼していますね。自分でキャスティングもするので、この方はきっと受けとめてくれると思う人を呼んでいます。それぞれの人物像や、どうして道に迷ってまであそこに来たのかは説明していなくても、くみ取ってくれてるんです。

高橋:細かいディテールは描かないけれど、杉田さんの中であるんですか?

杉田:あるんですけど、聞かれたら言うくらいです。沙知がフェリーに乗るシーンで、こちらが思っていたのとは違う理由がありそうな顔になっていると感じた時は自分から話しました。だけど、「こういう顔をしてください」というディテールの話ではなく、沙知がどういう状況にいるのか前後の物語を説明する感じです。そうすると、スッとわかってくれて、はっきりと変わりました。

詩や映画の創作は、自分を整えるために必要な行為

──杉田監督は、「その人自身の生活を追いかけるように撮る」とおっしゃっていました。高橋さんは詩をどんな風に作られていますか?

高橋:そうですね……まだ見つかっていないことを見つける感じですかね。すごくいい瞬間があったとして、だけどみんなが見過ごしてしまっていることってよくあるんですね。私も無意識で急いでいると気付かない時もあるんですけど、タイミングが合って、たまたま発見したり感動したりした時に「誰かに教えたいな」と思いながら書きます。発表するつもりもないんだけれど必要に迫られて書くというか、自分が整っていく感じがしますし、きっと誰かもそう思ってくれているんじゃないかなって。

杉田:その感覚わかります。『春原さんのうた』は2020年に撮ったのですが、自分を整えるのに必要な映画だったと思うんです。周りの大切な人達もコロナの影響で放っておいてしまうと危うい部分もあったように感じて。それが何になるかわからないけれど、今この映画を作っておくのは“きっといいこと”だと。

高橋:作っていると絡まっていた何かがほどけていきますよね。後から作品を見返すとおもしろくて、その当時の瞬間がギュッと閉じ込められていて、一点から当時の私が全部見えてくるんです。

──日記やエッセイなど長文ではなく、短い言葉でまとめることの魅力はどう思われますか?

高橋:なんやろう……やっぱり、美しいからじゃないでしょうか。日記にもその人のセンスみたいなものは表れるけれど、報告的ですよね。だけど詩は余白の部分がたくさんあって、一瞬が輝いてるというか……うまく答えられないけれど。

杉田:私は高橋さんを前にすると、どうしてもみかんの木のことを考えてしまって。みかんの木は見た瞬間の説得力があるじゃないですか。日記やエッセイと詩や短歌の違いは、そこにあるのかなって。短い言葉に説得力がある。

高橋:そうですね。みかんの木みたいに、詩も短歌もあたりまえにそこに存在していて、その一言で納得させるものがある気がします。

──お2人が初めて感動した短歌や詩を教えていただけますか?

杉田:初めて買った短歌集は穂村弘さんの『シンジケート』でした。20歳の時。私は大島弓子さんが大好きで、帯を書いていらしたんですよ。大島さん推薦の歌集なら高くても買おうと、買ったお店の様子まで全部覚えています。その中の一つの短歌が好きで、頑張って言ってみますね……「体温計くわえて窓に額つけ『ゆひら』とさわぐ雪のことかよ」。

高橋:はあー、素敵な短歌ですね。杉田さんっぽいというか。

杉田:今思い出したんですけど、今回の映画を観たいろんな方から「窓の話」をしてもらうんですね。ある方には、「杉田の映画はいつも『窓』だ」って。確かにほとんどの映画に窓が絡んでくるんですけど、よく考えたらこの短歌も「窓」ですね。無意識に、窓というものに惹かれているのかもしれない。

高橋:窓って、のぞき込むじゃないですか。自分自身や人の生活、意識をのぞき込んでいる感じがあって、それは短歌や詩、杉田さんの映画にも感じます。

杉田:スティーヴン・スピルバーグ監督の映画が好きなんですけど、彼の映画は一番大事なシーンに必ず窓やガラスが登場するんですよ。例えば『E.T.』で、エリオットとE.T.がお別れのあいさつをする時もガラス越し。ガラスを避けて回り込むこともできるのに、あえてガラス越しなんですよね。鼻息でガラスが曇っていたりして。

高橋:エリオットにとって、ガラスは必要だったんでしょうね。私が初めて読んだ詩集は、中学生の時に読んだ金子みすゞさんの童謡詩集です。めっちゃかっこいいと思ったんですよね。生まれるずっと前に作られたものなのに、感覚が今もなおさえていて。詩は難しいものだと思っていたけれど、平易な言葉で世界をひっくり返すことができるんだと感動したことを覚えています。例えば、お魚がいっぱい漁れて浜では大賑わいしているけれど、海の底では魚達が弔いをしているだろう、という詩があって。その人の視点次第で世界をいかようにも捉えられるし、詩を書いてみたいと思えたのはみすゞさんの影響が大きいです。

杉田:高橋さんの作品も何気ない日常の中で、視点が変わる気がします。高橋さんの視点で見つめると、気付いてなかったことにハッとするんですよね。

高橋:杉田さんが、登場人物の1人の時間を想像したように、何事も想像力だと思うんです。明るい人だって、落ち込むこともある。無意識な部分を昇華させてあげることができるのが、映画や詩ですよね。

杉田:作品を作っていると、自然と自分の無意識も表れるじゃないですか。それって結構恥ずかしいことなんだけれど、諦めるしかないなと思いながら作っています。

高橋:癖みたいなものですもんね。自分の机を飛び越えて、世の中に作品を出すというのは自分を晒すことなんだと私も思います。歌詞の時は、歌や声という窓を隔てて相手に届くのだけれど、詩だと丸裸な感じ。2010年に詩の展覧会をした時に親戚一同がやってきたんですよ。本当に恥ずかしくて(笑)。だから、詩集が発売されても内緒にしています。

「ここまで見守れたら十分」というタイミングで映画を終える

──『春原さんのうた』は、第32回マルセイユ国際映画祭インターナショナルコンペティション部門にて日本映画初となるグランプリのほか俳優賞、観客賞の3冠に輝くなど国境を越えて、多くの人が感動されています。それには、どのような気付きがありましたか?

杉田:前作『ひかりの歌』は、「光」をテーマにした短歌コンテストの受賞作を映画にしたものなので、作者に対するプレゼント的な気持ちで作っていました。今回は、自分や周りの人に「必要かもしれない」と思いながら作ったので、正直海外まで遠くに目を向けてなかったんですよね。だけど、今自分が必要とするものを作ったら、たまたま多くの人にとっても必要だったんだなと感じました。

高橋:人に会うことの幸せ、みたいなものがここ2年漂っているじゃないですか。だから、世界中が求めていたし、必要だったんだなと思います。

杉田:この映画を観ることで、身近な人と離れてしまった記憶を引き寄せて、会えない人との時間をどう過ごすかということを考えてくださるんですよね。だから、おもしろいくらいに世界のどこに行っても受け取る感想が同じなんです。「自分にも覚えがある」「ほっとした」「ありがとう」ってよく言われて。NYの映画祭では司会の人が話しながら泣いてしまって、それを翻訳する通訳さんもうるっとしていて、ありがたかったです。

──今回の映画にも通ずるテーマだと思うのですが、喪失から回復していく、というのは今の人々が歩いている過程なのかもしれないですね。自分では気付いていないけれど、数十年後に振り返ったらそうだと気付くのかもしれない。そんな中で、食事のシーンが印象に残りました。それは喪失から回復するためには食べることが必要だ、と認識したのですがいかがでしょうか。

杉田:無意識だった部分もありますが、どこかで人間は食べないと生きていけない、と思っているところはあります。どんな状況であれ、沙知は食べられるし水も飲めている。本能的に欲する機能が働いていれば、次の日も来るよっていうのは思っていました。生きることへの希望、みたいな言葉は一旦置いておいても、食べられているのならギリギリ大丈夫だと思ったんです。でも、指摘を受けたのは、1人のシーンだとほとんど食べていないんですね。唯一食べていたのが、どら焼きで。

高橋:それは思いました。誰かといるとお腹いっぱいでもまだ食べちゃう、みたいなことがありますけど、1人だと夕飯を食べてなかったってことありますもんね。言葉にはしないけれど、それくらいギリギリだったのかなと思いました。

──『春原さんのうた』は台詞も少なく、沙知がどういう状況に置かれているのか、何に悲しんでいるのか、全く説明がないまま見る人に解釈が委ねられています。最近の映画には、わかりやすい説明を求められることもあると思いますが、説明的でないのは意図的なのでしょうか?

杉田:自分なりには全力で説明しているんです。だけど、それが言葉ではなくて、「映している」という感じですね。

高橋:音楽も少ないですよね。暗がりの中で洗濯物を取り込んでいるシーンとか、無音の中でカーテンが風になびいていて。音を入れると感情が引っ張られてしまうんだけれど、ないことで、自分の心だけで感じて見られるんだと。それも、意図して引き算をしているんだと思っていました。

杉田:引き算というより、このスクリーンができるだけ満ちればいいな、と思って作っています。それを邪魔しないように映るものを調整するくらいですね。唯一悩んだのは、沙知がアパートから帰ってきてポストに立ち寄り、階段を上がるシーン。テストでは転居先不明の葉書を手に持ってる姿が一瞬だけ映ったんですけど、本番では映る直前のところでかばんにしまい終えちゃったんです。ただでさえポストも映していないから、なんのことかお客さんはわからないかもと思って。だけど、沙知の動きは全部本当だし、演じた荒木さんはその都度自然な状態を選んでくれています。それを信じられたし、一番大事なものは撮れたと思えたので結局1テイク目を使いました。

高橋:それ聞きたかったんです。監督はどれだけを、どんな風に決めているんだろうなと。それはきっと、これまで観られてきた映画や自身の感覚によるものなんでしょうけど、絶妙なあんばいで決められているんだなと思いました。あの、道案内をしながら歩いていくシーンの尺も、どれくらい自分の中で時間を決めているんですか?

杉田:自分の中で、ここまで見たら十分、と思えたらカットをかけます。映画はどこかで終わらなければいけないから、そのタイミングは私もよく考えるんですけど、「登場人物をここまで見守れたら大丈夫」と思えたタイミングで映画も終えるようにしています。十分お邪魔させてもらったし、見ていいのはここまで、という感じですかね。

高橋:なるほど。「見守る」っていいですね。なんか……私は、雪さんの視点で映画を見ていたのかもしれないです。ケーキを食べているシーンも、すごい引きで撮っていたじゃないですか。あれも、雪さんの視点で見ているような感じがしました。

杉田:雪が一体どんな存在なのか、彼女を映せるのだろうかと悩むこともありました。だけど、1つだけルールがあって、別れた後は二度と同じフレームで沙知と雪を映さないようにしたこと。それは、この先も二度と彼女達は会えないことがわかっていたからです。それぞれであり続けたことで、高橋さんのような解釈で彼女はスクリーンの中に映ったのかもしれないですね。

杉田協士
1977年、東京都生まれ。映画監督。2011年に長編映画『ひとつの歌』が東京国際映画祭に出品され、2012年に劇場デビュー。長編第2作『ひかりの歌』が2017年の東京国際映画祭、2018年の全州国際映画祭に出品され、2019年に劇場公開。各主要紙や映画誌「キネマ旬報」において高評価を得たことなどで口コミも広まり、全国各地での劇場公開を果たす。他、小説『河の恋人』『ひとつの歌』を発表(文芸誌「すばる」に掲載)、歌人の枡野浩一による第4歌集『歌 ロングロングショートソングロング』(雷鳥社)に写真家として参加するなど、幅広く活動をつづける
Twitter:@kyoshisugita

高橋久美子
1982年、愛媛県生まれ。詩人・作家・作詞家。チャットモンチーでの音楽活動を経て、2012年より文筆家に。詩、エッセイ、小説、絵本の執筆、翻訳、さまざまなアーティストへの歌詞提供など精力的に活動。主な著書に、詩画集『今夜凶暴だからわたし』(ちいさいミシマ社)、小説集『ぐるり』(筑摩書房)、エッセイ『旅を栖とす』(KADOKAWA)、『いっぴき』(ちくま文庫)など。近著に『その農地、私が買います』(ミシマ社)。現在、長野県上田市で詩と絵の展覧会「ヒトノユメ2021」を開催中(〜5/8)
公式HP:んふふのふ http://takahashikumiko.com
Twitter:@kumikon_drum

映画『春原さんのうた』

『春原さんのうた』
前作『ひかりの歌』が口コミなどの評判により全国各地での公開へとつながった杉田協士監督の長編第3作。歌人の東直子による第一歌集『春原さんのリコーダー』の表題歌を杉田協士監督が映画化し、撮影を飯岡幸子(『うたうひと』『ひかりの歌』『偶然と想像』)、照明を秋山恵二郎(『花束みたいな恋をした』『きみの鳥はうたえる』)、音響を黄永昌(『不気味なものの肌に触れる』『VIDEOPHOBIA』)が務める。第32回マルセイユ国際映画祭 インターナショナル・コンペティション部門にて日本映画初となるグランプリのほか俳優賞、観客賞の3冠に輝いた。ポレポレ東中野では1月8日の上映初日から3日間、計6公演とも満員御礼になるなど注目も高い。上映劇場はオフィシャルホームページで要確認
https://haruharasannouta.com

Photography Mikako Kozai(L MANAGEMENT)

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映画監督・杉田協士 × 詩人・高橋久美子 対談前編 『春原さんのうた』で映す“人生が見えてくる一瞬” https://tokion.jp/2022/01/12/kyoshi-sugita-x-kumiko-takahashi-part1/ Wed, 12 Jan 2022 10:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=90232 短歌を原作とした映画『春原さんのうた』の杉田協士監督と詩人の高橋久美子による対談。前後編の前編では、2人の出会いから『春原さんのうた』や映画と短歌の共通点について。

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第32回マルセイユ国際映画祭のインターナショナルコンペティション部門にてグランプリ、俳優賞、観客賞の3冠を受賞するなど、各国の映画祭で高い評価を得ている杉田協士監督の最新作『春原さんのうた』。歌人・東直子の短歌を原作に、パートナーを失い、喪失感を抱えた女性が日々ささやかな暮らしを続ける姿を見つめる。

杉田監督は、前作『ひかりの歌』でも短歌を原作に映画化するなど、一瞬を切り取る詩歌と映画を重ねて、自身の創作を紡ぐ。詩人・作家の高橋久美子も、そうした一瞬を見つめ、作品を生み出している。親交がある2人は、互いの創作に惹かれ、共通点を見出しているのではないだろうか。本作について、詩歌の魅力を前後編でお届けする。

前編では2人の出会いから『春原さんのうた』や映画と短歌の共通点について語ってもらった。

※一部、作品の内容に触れる記述があります。展開には触れていませんが、映画を観ていただいた後にも読み返していただくと、作品世界をより楽しんでいただけると思います。

「無意識を意識する」創作の感覚が近い2人が、共鳴したこと

──お二人が出会ったきっかけは?

杉田協士(以下、杉田):長編1作目『ひとつの歌』(2011年)の公開に向けて、配給のboidとフリーペーパーを作ったんです。その中で映画レビューを書いていただくコーナーがあって、第1回は出演者でもある歌人の枡野浩一さんにお願いをしました。それで枡野さんのお店に遊びに行った時に、たまたま棚にあった高橋久美子さんの詩集を読んだら、ものすごく素敵で。私はいつもそうなんですが、直感で「いい」と思ったら突き進んでしまうタイプなので、高橋さんに書いてもらいたくて、面識もない中でご連絡したのが始まりです。

高橋久美子(以下、高橋):杉田さんおすすめの下北沢のカレー屋さんでお会いしましたね。

杉田:そうでしたね。その時の文章は高橋さんのエッセイ集『いっぴき』にも「魂の歌を聞いた」というタイトルで収載されています。とても素敵な文章なんです。そこから、映画の公開に合わせたトークショーに出ていただいたり、2作目の『ひかりの歌』ではパンフレットで対談をしたり、今日は約1年ぶりにお会いしますね。

高橋:初めて連絡をいただいた時は、お会いしたことがなかったし、過去の作品も知らないし、私で書けるかなって不安があったんです。だけど、映画を観て、ぜひ書きたいと思いました。すごくポエジーというんですかね、私が詩を書く時の感覚と近いものを監督に感じて、しびれた記憶があります。

──『春原さんのうた』は観てみて、いかがでしたか?

高橋:しばらく、後を引く感じがありました。作品との関係がぷつっと終わってしまうのではなくて、自分の生活の中に映画が染み込んでいく感覚になるというのか。観た後も映画のシーンを思い出すことが度々あって、「自分もそこにおったなあ」と思いました。例えば主人公が友達とケーキを食べるシーンとか、自分も横に並んで一緒に座っているような感覚になったんですよ。

大好きなシーンが、道に迷っていた女性と主人公の沙知が、目的地に向かって道をずっと歩いていくところ。通常の映画だと、あの尺の1/3くらいで切られてしまいそうなところを、長いこと撮っていましたよね。

杉田:そうですね。

高橋:あれは、必要なんですよね。彼女達が歩いていけるだろうか、どこに向かっていくのだろうか、それは全編を通して友達や親戚のような気持ちで、後ろからずっと見守っている感覚がありました。

杉田:現場にいる私達のたたずまいも、きっと「見守っている感じ」になっているかもしれません。自分で書いた脚本だし、キャスティングも自らするんですけど、登場人物たちの中にお邪魔させてもらっている感覚がずっとあって。なので、撮影中は端っこに座って、ことの成り行きを見ている感じでしたね。

その人に似合う1人の時間を思って、脚本を当て書きする

高橋:自然なものを自然に描くってすごく難しいと思うんです。だから、『春原さんのうた』で無意識を意識させられる感じに、グッと来たのかなと。それは、俳優さん達が演じているように見えない、というのも大きいのかなと思っています。その人自身が、そのまんま出ているんじゃないかと思うくらい自然体だったじゃないですか。脚本にされる際に、俳優のパーソナルな部分も投影されるんですか?

杉田:出演者が決まってから脚本を書くので、当て書きといえばそうなります。だけど、役とは少しずつ性格が違うんですよ。特に沙知を演じた荒木知佳さんは、もっと動的な人。沙知は物静かで大人しそうだけれど、荒木さんは動物っぽいです。ただ、普段の自分そのものではなかったとしても、潜在的なその人自身が役に生きているのかもしれません。

高橋:人前にいる自分と、潜在的な自分は違いますしね。明るい自分ももちろん私だけど、家に帰って1人で湯船に浸かってぽけーっとしている自分も私で、後者を映されたのかもしれないと思いました。

杉田:確かに、その人の1人の時間は知らないけれど、そういう時間が「似合うだろうな」と思って書いているかもしれないです。見たい居住まいというか。例えば沙知のお風呂シーンなんかは、予定になかったんですよ。だけど、荒木さんとちょっと話したいことがあって電話をすると、100%お風呂場にいる(笑)。本人に聞くと、暇さえあればお風呂に入っていると言うんです。だから、大好きなお風呂のシーンを撮るのはどうですかと聞いたら「ぜひ」と返事があったので撮りました。撮っていたら、そのまま寝てしまってびっくりしましたけど。

高橋:そんなことあるんですね(笑)。沙知を見守る叔父さん役の金子岳憲さんは長いお付き合いだと思うので、パーソナルな部分が色濃く出るものですか? すごく優しくて素敵な叔父さんで、大好きでした。

杉田:あの優しさは、本人とどこか通ずると思います。彼がいると現場が和むんですよ。沙知の自宅で撮影する時も、私が遅れてアパートに向かっていると、部屋の中から笑い声が聞こえてくる。それは彼が現場を和ませているんだろうなと思って。全員が家族みたいな感じになっていました。

──映画の撮影現場というのは、スケジュールも厳しく決められていて、ピリッとした雰囲気の現場も多いように思うのですが、杉田監督の場合は違うんですね。

杉田:映画の撮影現場、という感じとは結構遠い気がします(笑)。日常の延長、というんですかね。大体私は10時半くらいに現場に入って、みんなのおしゃべりがなんとなく終わったらワンシーン撮って、頃合いでお昼を食べて、午後にもうワンシーン撮れたら十分。日が暮れたら帰る、という感じです。

高橋:何テイクも撮り直すことはないんですか?

杉田:叔母さんと叔父さんが沙知の家にやってきて、叔母さんが押し入れに隠れるシーンはなかなかOKになりませんでした。リコーダーも吹かなきゃいけないし、どら焼きも食べるし、2ページくらいの長いシーンで、私も結構難しいシーンだなと覚悟していたんです。1日置きに撮影スケジュールを組んでいたので、撮りきれないものは翌日に回すことにしました。最後に、みんなもいよいよ疲れてきて、芝居とかもよくわからなくなった頃のテイクがOKになりました。

高橋:あのシーンも、大好きでした。どら焼きで例えると、沙知が餡子(あんこ)なら、叔父さんと叔母さんという皮が彼女を包んでくれているようで。あとは、沙知が水を飲むシーンも良かったです。半分は部屋の観葉植物にあげて、もう半分を自分で飲む。植物が生きるのと同じように、自分に水を与えている感じがしました。そうやっていろんなことを想像していくと、すごく詩的な映画だし、短歌から生まれたということがわかりますよね。短歌って、瞬間を切り取るじゃないですか。

杉田:そうですね、長い人生の数秒を切り取って歌にしますよね。

高橋:この映画には「瞬間こそ永遠なり」というのが詰まっていますよね。その一瞬一瞬を大事にしながら、私もどら焼きの餡子になったり皮になったり、はたまた水を半分飲むように、誰かに守られたり守ったりしながら生きていきたい、という気持ちになりました。

短歌の前後に描かれた人生を見つけて、あぶり出していくように撮る

──本作は、東直子さんの第一歌集『春原さんのリコーダー』(ちくま文庫)の表題歌「転居先不明の判を⾒つめつつ春原さんの吹くリコーダー」が原作です。短歌を映画にする際に、どのように物語を組み立てていかれるのでしょうか?

杉田:「瞬間こそ永遠なり」という話で思ったのが、人それぞれに人生があって、どこを切り取っても説得力があると思うんです。例えば喫茶店でお茶を飲んでいても、ただ歩いているだけでも、その人自身がその一瞬に表れる。だから、四六時中人生を追わなくても、人生の数秒を見るだけでもその人自身が伝わってくる気がします。

高橋:数秒に全部ある、みたいな感覚ですよね。

杉田:そうですね。映画も短歌に似ていて、長い人生の数秒を切り取ってつなげるもの。時間が短歌よりも長いだけだと思っています。なので、1つの短歌から妄想を広げていくというよりも、短歌の前後にある人生を私なりに見つけて、あぶり出していく感覚が一番近いかもしれません。そこにあるんだけど、自分達には見えていない時間を浮かび上がらせる作業というのか。

高橋:それは、創作とはまた違う感覚ですね。翻訳に近い気がします。

杉田:歳をとったせいかもしれないんですけど、わざわざ作り出さなくても“ある”という感覚になってきました。それを撮らなくてもいいんだけれど、自分達がせっかく居るなら一応撮っておいてもいいんじゃないか、くらいの気持ちでカメラを向ける。撮影の飯岡幸子さんも同じ感覚で、「どこにカメラを置いても映るから大丈夫」と言う人なんですね。カメラ位置に厳格ではなくて、その場をただ大事にしてくれて、その中でも最良の場所はどこだろうと選んでくれます。

──光の取り方や構図が芸術的な印象があったので、緻密に決め込んでいらっしゃるのだと思っていました。

杉田:よく、そう言ってくださるんですが、全然作り込んでないです。現場を見たら、拍子抜けされるかもしれない(笑)。撮影序盤で、沙知が勤めるカフェ(キノコヤ)の2階で、書道のパフォーマンスをするシーンを撮ったんです。撮影するには狭いスペースだし、まだスタッフも含めてこれがどんな映画になるのかもわかっていない状況だったので、「この場面は一体なんだろう?」みたいな空気が漂っていて。撮影中も目の前ですごいことが起きていることはわかったけど、カメラにはどう映ったんだろうって思っていました。飯岡さんに聞いたら「何かは撮れた」と(笑)。何かが撮れたなら大丈夫だと思って、そのシーンは終えました。そんなことの繰り返しです。

──決めすぎない方が面白いものが撮れる、という感覚もあるのでしょうか?

杉田:決めてしまうと映す対象を縛ってしまう、というのは思っています。カメラが開発された当時の心境を詳しくはわかりませんが、目の前のものを「残したい」という欲求が最初にあって、それで生まれたのがカメラだと思うんです。だから映画の現場でも、本来はこれを映したい、が先にあって、その後にカメラが置かれるのがいいはずです。でも、その順番が逆になってることはよくあります。カメラを先に置いて、そのフレームに合わせて出演者に30センチ動いてもらうとか、当たり前に起きたりします。それに対して、私は「待って、待って」となってしまうんですよ。

高橋:不自然になってしまいそうですね。

杉田:そうなんです。30センチずらしたら崩れませんか? と思う。私が何も言わないで、俳優たちがその役として無意識に選び取った距離に、そこにいる人達や場所の関係が表れてるはずで、それを映したい。カメラを優先して位置関係をずらしてしまうと、自然と選び取ったものがなくなってしまって、俳優が「誰でもない役」になってしまう気がします。

高橋:なるほど……みかんの木、みたいですね。

杉田:ん?(笑)。

高橋:説明が必要でしたね(笑)。私の家は自然農法でみかんを育てていますが、みかんの木って、枝を一本切ってしまうと均衡が崩れるんです。木は、自分達で光が取れるように上手に成長しているから、人の手が入る必要はほとんどない。自然を自然なまま受け入れて、彼らの塩梅を信じて作っていく感じが映画と似ているなあと思って。

杉田:なるほど、それは似ていると思います。

高橋:自然であることを大事にしているから、映画として別物にするのではなくて、自分の人生の延長にこの映画があるんだと思いました。

後編に続く

杉田協士
1977年、東京都生まれ。映画監督。2011年に長編映画『ひとつの歌』が東京国際映画祭に出品され、2012年に劇場デビュー。長編第2作『ひかりの歌』が2017年の東京国際映画祭、2018年の全州国際映画祭に出品され、2019年に劇場公開。各主要紙や映画誌「キネマ旬報」において高評価を得たことなどで口コミも広まり、全国各地での劇場公開を果たす。他、小説『河の恋人』『ひとつの歌』を発表(文芸誌「すばる」に掲載)、歌人の枡野浩一による第4歌集『歌 ロングロングショートソングロング』(雷鳥社)に写真家として参加するなど、幅広く活動をつづける
Twitter:@kyoshisugita

高橋久美子
1982年、愛媛県生まれ。詩人・作家・作詞家。チャットモンチーでの音楽活動を経て、2012年より文筆家に。詩、エッセイ、小説、絵本の執筆、翻訳、さまざまなアーティストへの歌詞提供など精力的に活動。主な著書に、詩画集『今夜凶暴だからわたし』(ちいさいミシマ社)、小説集『ぐるり』(筑摩書房)、エッセイ『旅を栖とす』(KADOKAWA)、『いっぴき』(ちくま文庫)など。近著に『その農地、私が買います』(ミシマ社)。現在、長野県上田市で詩と絵の展覧会「ヒトノユメ2021」を開催中(〜5/8)
公式HP:んふふのふ http://takahashikumiko.com
Twitter:@kumikon_drum

映画『春原さんのうた』

『春原さんのうた』
前作『ひかりの歌』が口コミなどの評判により全国各地での公開へとつながった杉田協士監督の長編第3作。歌人の東直子による第一歌集『春原さんのリコーダー』の表題歌を杉田協士監督が映画化し、撮影を飯岡幸子(『うたうひと』『ひかりの歌』『偶然と想像』)、照明を秋山恵二郎(『花束みたいな恋をした』『きみの鳥はうたえる』)、音響を黄永昌(『不気味なものの肌に触れる』『VIDEOPHOBIA』)が務める。第32回マルセイユ国際映画祭 インターナショナル・コンペティション部門にて日本映画初となるグランプリのほか俳優賞、観客賞の3冠に輝いた。ポレポレ東中野では1月8日の上映初日から3日間、計6公演とも満員御礼になるなど注目も高い。上映劇場はオフィシャルホームページで要確認
https://haruharasannouta.com

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直木賞作家・佐藤究が考える小説の役割と「知る」ことの大きな価値 https://tokion.jp/2021/12/21/kiwamu-sato-tezcatlipoca/ Tue, 21 Dec 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=83995 第165回直木賞および第34回山本周五郎賞をダブル受賞した話題作『テスカトリポカ』の小説家・佐藤究が語る物語の組み立てや小説の役割について。

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第165回直木賞および第34回山本周五郎賞をダブル受賞した話題作、小説家・佐藤究(さとう・きわむ)の『テスカトリポカ』。メキシコ・アステカ、ジャカルタ、川崎と海を越えて交錯する悪夢のような犯罪──生々しい悪と暴力の描写によって、どこか遠い世界の物語には思えず、しばらくの間その作品世界に呑み込まれてしまうだろう。日常では隠されてしまうことの多い「暴力」、メディアにおけるコンプライアンスとのあんばいも難しく思うが、緻密に練られた構想で、生き生きと書き切る。3年もの歳月をかけられた作品の物語の組み立て方や佐藤が考える小説の役割について話を聞いた。

暴力や悪を書くけれど、同時に暴力を解除しなければならない

——『テスカトリポカ』はメキシコの麻薬密売人バルミロが、潜伏先のジャカルタで日本人臓器ブローカーと出会い、川崎に住む土方コシモらを巻き込み心臓売買の組織を作り上げていきます。佐藤さんが物語を立ち上げる順序としては、テーマが先にあったのでしょうか?

佐藤究(以下、佐藤):僕のようなエンタメ作家の場合は、編集者からオーダーをもらうことが多いです。ものすごく具体的にテーマが設定されているわけではないですが、ぼんやりと方向性は決まっていて。今回は担当の編集さんから「ジャンルとしてはクライムフィクション。善悪を超越した、存亡をかけた争いを書いてほしい」とオーダーがありました。

——犯罪を題材にした物語は多くありますが、その中でも“存亡をかけた争い”ですか。

佐藤:そうなんですよ。だから、「刑事 vs 犯人」というのは違う。なぜなら、刑事は司法という体制の中にいるので、犯人側は存亡がかかっていても刑事側はそういう意味では追い詰められていないんです。権力の一部としての仕事ですから。じゃあ対立構造をどうしたらいいのかと考えた時に、いくつかイメージが浮かびました。まず、怪獣映画。ゴジラとかキングギドラは「善vs悪」ではくくれない、存亡をかけた争いをしていますよね。次に浮かんだのは、個人的にクライムフィクションでベストだと思っているコーマック・マッカーシーの小説『血と暴力の国』のイメージでした。これは映画『ノーカントリー』の原作なんですが、そこでは登場人物達が、ある種の哲学的な次元でぶつかり合っています。そして、その背景に麻薬戦争がある。

つまり“存亡をかけた争い”とは、言ってしまえば戦争のことなんです。だから当初は、編集者のオーダーを振り切って戦争小説にしようかとも思ったんですが、エンターテインメントの強度としては“圧倒的なホラー感”も捨てがたい。そう考えながら、フィルムアート社や洋泉社のホラー映画についてのムックを読み込んでいるうちに、“戦争映画とホラー映画は別物”という見方を得たんですよ。映画の話ですが、小説もほとんど同じですから。戦争映画は悲惨さの表現やメッセージが重要であって、恐怖そのものを追求するホラー映画とは異なります。ようするに、テーマを戦争に寄せると社会的なメッセージ性を内包しなくてはならず、それは編集者のオーダーとはかなりずれが生じると判断しました。“すごかった。存亡をかけた争いだった”という読者の読後感にたどり着くのが、僕と編集者の唯一共通するゴールでしたから。それでいろいろ考えて、「ホラー vs 戦争」ではどうだろう、と構想しはじめたんです。

『テスカトリポカ』の主人公コシモは、ホラーの位置付けなんですよ。暴力性を秘めた得体の知れない存在。それに対して麻薬密売人のバルミロ・カサソラは、文字通り麻薬戦争の渦中にいる。「レザーフェイス vs 元特殊部隊」のようなイメージで、この両者が一対一で激突したらどうなるだろうと思って。これって、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画『プレデター』以降、あんまり見かけない設定だと思うんです。僕は警察小説の書き手でもないし、ホラーのスペシャリストでもない。だったら他の作品と同じことをしてもたぶんおもしろくないですし、めずらしい設定に挑むしかないだろうと思いつつ、少しずつ路線を固めていきました。

——題材となった「臓器売買」は現実でもこの世界で行われている事実を知り、衝撃を受けました。

佐藤:『レッドマーケット 人体部品産業の真実』(スコット・カーニー著)というノンフィクションを読んだ時に、僕もショックを受けました。人体のパーツに値段がついて、それらが社会的弱者から吸い上げられてマーケットを構成するという構造に、資本主義の行き着く極北の闇がありましたね。麻薬に代表されるブラックマーケットだけでなく、そのレッドマーケットも視野に入れて、先ほどの「ホラー vs 戦争」のイメージで作品を構築することを考えたんですが、しかしそれでは「悪 vs 悪」、つまり鏡像同士がやり合っているだけで、結局出口がどこにもない。ということで、また考え抜く日々が始まりました。

2018年に堀之内出版の『資本主義リアリズム』(マーク・フィッシャー著)という、後期資本主義のダークサイドを考察する本を読んだのですが、そこで批評家マイク・デイビスによる小説家ジェイムズ・エルロイの作品への痛烈な批判が引用されていて、驚いたんです。「その真っ暗闇のなかには、影をおとす光さえなく、そして悪というものは犯罪科学の常套句と化してしまう」「もはや怒りも感じず、興味すら持てないほどの、腐敗=汚職の過剰飽和だ」といった言葉が引用してあって。エルロイはある種、神格化された存在ですし、僕もファンの1人なのですが、エンターテインメントも時代に応じて変化していかなければならない、と考えさせられました。僕らの世代がエルロイを真似してもしょうがない。映画も小説も、観客にカタルシスをもたらすためだけに暴力を描けばよかった時代とは、異なる状況に置かれていますよね。

今回の僕の役割は、暴力を描きながら、同時に暴力を解除する鍵を探すことかなと思いはじめました。それもメッセージ性に寄りすぎない形で、あくまでエンターテインメントとしてです。人間がどのようにして血と暴力の国を作ってきたのか、その深層に肉迫できれば、おのずと暴力を解除する鍵も見つかるんじゃないかと。それで、古代アステカの人身供犠と、資本主義リアリズムの内包する“利益のためなら犠牲をいとわない”という原理が、深いところでつながっていくように物語を書いていきました。

——舞台は海を越え、歴史や時間も横断します。ボリュームのある物語ですが、緻密に練られているので気持ちよく読める。その構想の力と臨場感に圧倒されたのですが、これだけ複雑な物語の構想はどのように組み立てられたのでしょうか?

佐藤:『テスカトリポカ』を書く時に、自作のノート、僕はゲシュタルトブックと呼んでいるんですが、これを毎回作るようにしています。ゲシュタルトとは“形態”のことですね。

——これは、すごい熱量とボリュームですね……。このゲシュタルトブックは小説を書く上でどんな役割のものなんですか?

佐藤:僕は基本的には最初にプロットを作らないんです。物語の方向性を編集者さんと話し合ったのち、いろんな資料を読み込んで、必要な情報やイメージを探します。それらのページをコピーして切り取って大判ノートに貼り付けるんですが、1つのテーマだけでページを埋めたりはしないので、そこがスクラップブックとは異なります。ページ上段がメキシコ麻薬戦争の資料だとすると、下段は古代アステカ神話の資料だったりするんですね。そのコラージュが延々と続いていく。コラージュとはシュルレアリスムから生まれた無意識を揺さぶる絵画の手法ですが、僕はゲシュタルトブックを作りながら、物語の土台となる認識の“形態”を自分の内側に作っていきます。大事なことは、どの作家さんも同じだと思いますが、必ず複数の本や資料から情報を拾うこと。1冊だけだと限られた知識しか入ってこないので、例えば“ナイフ”のことなら現代のナイフと古代に使われていたナイフの知識を別々の本から得て並べることで、いろんな視点が見えてくる。こういう他視点で眺める習慣を積んでおくと、情報化社会を生きる上でのセルフ・ディフェンスにもなります。何が言いたいかというと、多様な読書こそが自分を守ってくれる、ということなんですが。

——小説だけでなく、写真、漫画やイラストなどさまざまな分野から情報を得られているんですね。

佐藤:今回はメキシコも重要な舞台だったので、現地のスラングに関する記事を切り貼りしたり、ホラー漫画の印象的なシーンを貼り付けて、ひたすら眺めたりしました。作品に臨場感や説得力を持たせるための、いわば自分自身の意識を加工していく作業です。

——場所、というのは佐藤さんにとってどれくらい重要なものですか? 過去作品も含めて、フィクションだけどリアリティを持って物語の世界に引き込まれるのは、場所に対するこだわりがそうさせているのではないかと思いました。

佐藤:物語と、ほぼイコールの要素ですよね。ストーリーにとって正解の場所が見つかれば全部ハマる。当初は僕の地元である福岡を舞台にというオーダーだったんですけど、東アジアに近すぎて、うまくラテンアメリカと交錯しなくて。感覚の話になってしまうんですが、この作品で求めていた風と違ったんですよね。吹いている風の感じです。それに川崎なら太平洋を挟んでラテンアメリカと向き合っていますし、想定しているシーンを街に重ねた時に違和感がなかった。移民の方々のコミュニティもあって、ところどころ大陸的なカオスがある。川崎のおかげで、物語が生命力を得たと思います。あと、骨折して入院した時のリハビリ療法士さんが川崎出身で、いろんな話を聞けたことも大きかったです(笑)。

ジャーナリスティックとフィクションが溶け込み、生き物のような物語を構築する

——血や暴力を解除するために、現代の人々は見ないようにしたり話さないようにしたり、「隠す」方向で解除している“風”を装っているのではないかと、小説を読んで考えさせられました。私は小説の舞台である川崎出身です。幼い頃は子ども1人では歩けないような街で、その記憶から逃れるように川崎を出てからは一切地元に帰りませんでした。無視していたら、別の世界で生きられると思って。しかし、磯部涼さんの『ルポ川崎』や本作をきっかけに、知ることの必要性を感じました。日常の中で暴力が隠されている現状を佐藤さんはどう思われますか?

佐藤:1つ言い添えておくと、ロサンゼルスや新宿歌舞伎町がフィクションで描かれる時と同じで、川崎の描写にはもちろんフィクションの面がありますよ(笑)。とはいえ、本を書くこと、読むことは、「知る」ことにつながると思っています。僕達は調べながら物事を知っていき、文章化する。その本を読んで、また誰かが知っていくわけです。『コカイン ゼロゼロゼロ』というロベルト・サヴィアーノの本があります。彼は自分の著作をルポでもフィクションでもなく、ノンフィクションノヴェルと位置付けているんですが、その著書の中に「これから知るだろうことは、決して自分の気分をよくすることはないと腹をくくること」と書いてあるんですね。

例えば、『テスカトリポカ』の舞台の1つであるメキシコのナルコ(麻薬密売人)のことを調べていくと、彼らの行使する暴力は、日本人からするともう次元の違う暴力なんですよ。あまりにも絶望的で、こんな気分の悪くなる話を追い求めることに何か意味があるのかと僕自身腹が立ってきて、やめようかとも思いました。だけど、その怒りこそが大事なんじゃないかと。

知ることは力になるんですよ。麻薬犯罪や臓器売買、児童虐待といった諸問題を、たとえ物語という形でも視野の片隅に入れておけば、違う視点で世界を見られるようになる。麻薬はどこからやって来て、支払われたお金はどう流れているのか、麻薬戦争の悲惨さを知れば、その道に踏み出さない人だっているはずです。

何も知らなければ、怒りすら生まれてこない。自分の目を覆い隠して、なかったことにしてしまうのは違う。僕の場合、書く時は「届けたい」「伝えたい」という思いよりも、「橋を渡った向こう岸の景色を見られる状態を作り出すこと」を念頭に置いています。物語という橋を渡るのは、皆さんそれぞれの自由です。

——ノンフィクションではなく、フィクションというジャンルでそうした役割を全うされる上で、気をつけられていることはありますか?

佐藤:こういうタイプの犯罪小説には2つの側面があって、ジャーナリスティックな要素と、創作の要素が組み合わさっています。いわばアクチュアルとフィクショナルの二面性ですね。ただ、この作品は基本的にエンターテインメントであって、ジャーナリスティックな面、つまりメッセージ性が強すぎると、本を買った人は退屈に感じてしまう。

かといって、フィクションの面を強調し過ぎると、ふざけているようで悪趣味に感じられますよね。僕の役割としては、物語の臨場感を味わう中で、現実に起きている問題も認識してもらえるというバランスを確立することです。『テスカトリポカ』を読まれた方に、メキシコや麻薬犯罪のニュース映像を見ると、物語のワンシーンや登場人物が思い浮かぶとよく言われるのですが、フィクションは臨場感という強い作用をもたらしてくれるので、そういうことが起こります。ジャーナリストやルポライターの視点と創作の視点、アクチュアルとフィクショナルの両輪が噛み合った時、まるで“生き物”のように物語が動いて、機能する。そのためにはゲシュタルトブックが必要なんですよね。

——確かに、佐藤さんの本を読んでいると、イメージが明確になるくらい描写が細かくて、相当リサーチされていると感じました。

佐藤:フィクションって、エフェクト(効果)の積み重ねなんですよね。正確な説明を10行書くよりも、そのシーンが思い浮かべられる文章を1行書ける方が正解。なので、描写する時は善悪の判断は考えすぎずに、まず物語にとって必要な効果を選んで書いていきます。問題点はあとで自分や編集者で削りますし、校閲からも指摘が入りますから。僕の場合、書いたものは必ずプリントアウトして読み直します。そうして赤字を入れて、またプリントアウトして、今回は400字詰め原稿用紙に換算すると6000枚は超えたと思いますよ。版元から紙のゲラが来る前に、1人で徹底的にやるんです。パソコンの画面上だけでなく、紙という物体に印字された文字を読むことも、僕の場合は不可欠な工程ですね。

——最近はエフェクトにも規制がかかって、物語はなるべく単純でわかりやすい方に寄せるような、一定のルールがあると感じます。そうして、知りたいことも隠されてしまっているのではないかと。

佐藤:それはあるかもしれません。ある大先輩の作家に「昨今はなるべくレイヤーの少ない、すっきりした小説が好まれる傾向にあるようですが、その傾向に反旗を翻してますね」と言っていただいたこともあります。資本主義が要求する単純化は、画一化に繋がり、いわば差異の喪失に至りますよね。例えば、YouTube動画制作に関わっているある若者に聞いたんですが、これからYouTubeはTwitterくらいのものになるだろうと。みんながアカウントを持ち、1つの動画にそれほど価値がなくなるだろうと言っていました。まあ、すでに飽和状態には来ているように見えますが。写真がそうでしたよね。かつては暗室を使える人だけの特別なものだったけど、今やデジタルの空間で画像が大量に浮遊する新しい形になっている。ただ、そんな風にして映像や物語も次のステージに移行した時、単純化、画一化への反動から別の新しい表現が生まれるかもしれません。

弱い人達が「居る」、ひどい出来事が「ある」と知ることに重きを置いて、書く

——善悪を考えすぎずに、ということですが、世の中のポリティカル・コレクトネス(以下、ポリコレ)への意識は高まっています。小説に関するポリコレを、佐藤さんはどう考えていらっしゃいますか?

佐藤:善悪を考えすぎずに、というのはあくまで物語を構成する作業においてだけのことですよ(笑)。ご質問についてですが、おっしゃられた世の中というものをどう捉えるかにもよりますが、小説に関して言えば、例えば三島由紀夫が活躍していた時代ほど、小説はコンテンツとしての波及力を持っていませんから、騒がれるような事態そのものがあまりないですね。逆に小説で騒ぎが起これば大したもんですよ。ただ、仕事として現実の人間が関わる業界について言うなら、もちろんいろいろと考えています。ハラスメントのような問題は一掃する必要がありますし、作家でも編集者でも、誤った古い慣習に固執することは許されない時代です。

話をポリコレに戻すと、僕のような書き手の場合、政治的なオピニオン(意見)の発信は最優先の仕事ではないと思っています。単純に政治的ではない言語活動を選んだ身としては、オピニオンの論争ではなく、認識のゲシュタルトをめぐってフィクションを書くことが、自分の役割かなと思います。

——佐藤さんの作品には、世間からはみ出た人や目をそらされるような人々が登場しますが、それは意識されてのことですか?

佐藤:まず僕自身がはみ出し者だと思っているんですが(笑)。よかったら村田らむさんに受けたインタビューをお読みになってみてください(笑)。だからといって僕が、今おっしゃったような方々の意見を代弁しよう、とにかく弱い人達の目線に立とうと特別に意識して書いているわけじゃないです。それは傲慢なことですし、緊急的な支援が必要な場合もあるはずですが、こちらが思い描く展開を相手が欲しているかどうかは、よくよく考えなくてはなりません。例えば、低身長症の人達が試合をする小人プロレスがありますけど、彼らのプロレスへの思いは強いです。僕もプロレスラーになりたかったくらいにプロレスが好きなのでわかる。ところが過去に善意のクレームによって、結果的に彼らの磨き上げたバンプ(受け身)やロープワークをリング上で見せられなくなって、衰退していきました。現在ではまた盛り上げようとがんばっている方々がおられます。

僕は、いろんな人達が「居る」、いろんな現象が「ある」というこの世界のことを書いているんです。ただ、もうこういうことをインタビューで答えるのもむず痒いので、映画監督のデイヴィッド・リンチみたいに「作品が答えだ」と言い切ってしまいたいところですが、そこまで偉くないので(笑)。

——『テスカトリポカ』を経ての次回作が楽しみです。もうすでに、構想は練り始めていらっしゃるんですか?

佐藤:出版社からのオーダーがたくさん来ていて、わけがわからなくなってますね。その中からどれを書こうか考えているところです……ということにしておいてください(笑)。やっぱり生活の保障、安心を得るためだけに仕事を増やすことはしたくないんです。それなら小説家ではない仕事を選んだ方がいいだろうし、僕が読者だったら、段取りの悪い、人生設計もできないような、わけのわからない奴が思い切って書いた小説を読みたいと思うんですよ。数をたくさん書くよりも、たとえ少ない作品でも皆さんの記憶に残れたらいいと思いますね。

佐藤究(さとう・きわむ)
1977年、福岡県生まれ。2004年、佐藤憲胤名義の『サージウスの死神』が第47回群像新人文学賞優秀作となり、同作でデビュー。2016年『QJKJQ』で第62回江戸川乱歩賞を受賞。2018年、『Ank: a mirroring ape』で第20回大藪春彦賞、第39回吉川英治文学新人賞を受賞。2021年、『テスカトリポカ』で第34回山本周五郎賞受賞、第165回直木三十五賞受賞。
Twitter:@sato_q_book

佐藤究『テスカトリポカ』

■テスカトリポカ
著者:佐藤究
出版社:KADOKAWA
発売日:2021年2月19日
定価:¥2,310
https://kadobun.jp/special/tezcatlipoca/

Photography Mayumi Hosokura

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演出家・土井裕泰 × 文筆家・燃え殻 消費されない混沌とした物語への挑戦 https://tokion.jp/2021/09/21/nobuhiro-doi-x-moegara/ Tue, 21 Sep 2021 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=61842 成田凌、黒木華が出演する朗読劇「湯布院奇行」の演出・土井裕泰と原作・燃え殻による対談。

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成田凌、黒木華が出演し、コムアイが坂本慎太郎の楽曲を劇中で披露するという朗読劇「湯布院奇行」が9月28、29、30日の3日間、新国立劇場で上演される(29日19時公演はライブ配信あり、10月6日23時59分までアーカイブ視聴可能)。原作を『ボクらはみんな大人になれなかった』の文筆家・燃え殻が書き下ろし、『シリーズ・江戸川乱歩短編集』(NHK)の佐藤佐吉が脚本を担当。さらに映画『花束みたいな恋をした』を手掛けた土井裕泰が初めて舞台の演出を行うことでも注目を集めている。

物語の舞台は、湯布院。主人公となる小説家“僕”(成田凌)を、謎の美女達(黒木華)が翻弄し、現実と夢想の狭間の世界へと導いていく──。日常の延長にある、リアルな世界を丁寧に描く印象が強い燃え殻と土井裕泰。そんな彼らが新たに挑戦するのは、作風と「真逆」と言っても過言ではない、奇妙で幻想的な世界だ。一言では言い表せない物語を、この今に手掛ける理由や企画のきっかけとは。プロデューサーの佐井大紀も交えながら話を伺った。

「このままどこか、遠くへ逃げてしまいたい」という逃避への夢

──どのようなきっかけで、土井さんと燃え殻さんはご一緒することになったのでしょうか。

燃え殻:プロデューサーであるTBSの佐井大紀さんが企画して、今回のメンバーを集めてくれました。僕は、土井さんの手掛けたドラマをいくつも見てきて、いつかお会いしたいと思っていたので嬉しかったです。

土井裕泰(以下、土井):僕も、燃え殻さんの作品を拝読していたので、ぜひお会いしたいと思っていました。

──初めて「湯布院奇行」の原作を読まれた時の感想は?

燃え殻:聞くのが怖いですね(笑)。

土井:これまで書かれてきた小説やエッセイとは趣が全く違う、リアリズムでなく幻想の世界を書かれたことが意外で、でもそれがとてもおもしろかったんです。主人公の「僕」は燃え殻さんの小説に出てきそうな屈託をかかえた登場人物なんですけどね。その現実と虚構の狭間にある感じが不思議で、僕自身未だに読み解けているのかわからない、解釈の幅が広い作品だと思いました。

──燃え殻さんはどのような思いで、この物語を書かれたのでしょうか?

燃え殻:正直なところ、行く当てもなく書いた原稿で、そういうことが僕は初めてでした。これまではお題を頂いたり、書く場所が決まっていたり、ある程度枠が設けられた上で書いていました。なので、初めてこんなに自由に書いた気がします。

土井:当てもなく、とはいえ、動機みたいなものはあったんですか?

燃え殻:長いサラリーマン生活の中で、常々思っていたことを吐き出すように書いた気がします。それは「仕事先とは逆方向の電車に乗りたい」、「このまま仕事を放り出して、どこかに行ってしまいたい」という逃避への憧れで。

土井:ああ、その気持ちはわかりますね。

燃え殻:僕はもともと、テレビ局に美術セットを納品する仕事をしていました。生放送や報道番組も多かったので、特に時間厳守の世界。1本でも電車に乗り遅れたら大変なことになります。20年以上そういう生活を送ってきて、まさにこの世界観のような「逃避への夢」を蓄積してきたんでしょうね。もしかしたら、これまでで一番書きたかったことを書いてしまったのでは、と思いました。

土井:僕も、同じ業界で何十年も仕事をしているので、その「逃避への夢」というのはよくわかります。逃げる、という選択肢は選べないとわかっているのだけれど、いつも心のどこかで「ああ、何処かに行ってしまいたい……」と思いますよね。

燃え殻:わかります。だけど、肝が据わってないので逃げることはできないんです(笑)。一度だけ、タイのバンコクからプーケットへの乗り換えを間違えてしまって、急遽バンコクに1日だけ滞在しなきゃいけなくなったんです。誰も僕のことを知らないし、仕事を急かされることもない。まるで黄泉の国に迷い込んだようで、魂が解放される気持ちになりました。結局数日後にはきちんと仕事に戻るんですけど、あのまま消えていたら今頃どうなっていたんだろうと思います。その夢のような出来事を身体が記憶していて、今回の作品になりました。「何処かに行ってしまいたい」というのは、誰しもが持っている夢だと思います。

土井:僕もドラマの撮影に入ると、4ヵ月くらい身体を拘束されます。疲れてくると、「温泉に行きたい」と言うようになるんですけど、まさにイメージするのは湯布院なんです。でも実は、行ったことがないんですね。僕にとって湯布院は、「逃避の夢」の象徴。この話をもらった時、もしかしたら取材旅行と称して初めて湯布院に行けるかもしれないという、よこしまな気持ちがありました(笑)。だけど、原作を読んだら、これは現実の湯布院を体感しないままのほうがいいかもしれないと思いました。僕の中にある、「願望としての湯布院」のままこの作品に向き合ったほうが、ふさわしい気がしたんです。

燃え殻:湯布院は、何かから解放される象徴であって欲しいですよね。秘湯のような、この世とあの世の境がそこにあるような気がします。

答えがわからなくても、余韻がいつまでも残る物語にしたい

──原作を通常の演劇ではなく、朗読劇にされることは挑戦だったと想像します。なぜ、朗読劇にされたのでしょうか?

土井:僕も、この物語を朗読劇にできるのだろうか、と思いました。佐井くんが発案したんですよね。

佐井大紀(以下、佐井):燃え殻さんから最初にいただいたのは、冒頭の数ページだけでした。でも、その数行だけでこれまで書かれてきたものとは違う妖艶な魅力を感じて、燃え殻さんの文体を活かした形にしたいと思い、朗読劇に決めました。

土井:原作は、江戸川乱歩の小説やつげ義春の漫画のような肌触りがあるんですよね。現実と虚構の境目、迷宮に迷い込んでいくような独特な感覚。少年時代にそうした作品に触れることが好きで、見てはいけない世界を覗き見するようなドキドキ感がありました。なので、観た人それぞれの中で世界ができあがっていく朗読劇というアプローチはアリだなと思いました。

──今回、土井さんは初めての舞台演出になります。土井さんに朗読劇を依頼された理由をお伺いできますか?

佐井:『花束みたいな恋をした』や『罪の声』など土井さんが手掛ける作品は、半径2メートルの中に世界の真理がある、と感じます。それは、燃え殻さんの作品にも通ずることで。僕の中では、2人の世界の見え方が共通していると思っているのでお願いしました。

土井:僕は、最初に話をもらった時にほぼ二つ返事で引き受けたんです。それは、燃え殻さんの書き下ろし小説に興味があったことと、50代後半に差しかかって、逆に新しいことに挑戦してみたい気持ちが湧いてきたからです。つねに自分をアップデートしていたいというか。30年以上同じ仕事をしているからこそ、余計にそう思うんです。なので、普段の流れとは違う、自分の世界が広がる可能性がある話をもらえることは素直に嬉しいです。

ただ、僕は映像をずっとやってきた人間なので、物語を読むと癖で、人間が立ち上がったり近づいたり、頭の中で動き出してしまうんです。でも、朗読劇の場合は成田さんも黒木さんも動かない。観た人の想像の中で人間が動いたり場所が見えてきたりすることが大事なんですよね。空間の使い方も含めて、観客のイマジネーションをどう刺激するかが今回の大きなテーマです。

──物語としても、1回読んだだけでは内容を理解することが難しい、非常に難解な作品になっているので演出も難しいのではないでしょうか。

土井:難しいですね。だけど、極論すれば話がすべて理解できなくてもいいのではないかと思っています。僕達は普段、起承転結がはっきりとした、答えのわかりやすい物語を求められることが多いんです。だけど、たまには、物語の全容はつかみきれなくても、その余韻がいつまでも続いて、成田凌や黒木華の声や言葉が生活のふとした瞬間に反芻されるような作品があってもいいんじゃないかと思うんです。そういう意味で、普段のドラマではできないことをやれている楽しさと難しさ、両方同時に味わっています。

燃え殻:僕も近しいことを思いました。僕は、どちらかといえばわかりやすさや、キャッチーなコピーを意識して書いてしまうところがあって、そのおかげで『ボクたちはみんな大人になれなかった』が普段小説を読まないような人にも届いたり、手に取りやすい週刊誌でのエッセイ連載が始まったりしました。非常におこがましいことは承知の上で、恐らく土井さんも僕も、誰一人お客さんを置いていかないぞ、という心掛けで物語を作っていると思うんです。疲れた時に、ふとテレビをつけて土井さんのドラマが流れていると、どんな状態でも見られるじゃないですか。そこに、誰も置いていかない意識を感じて。ただ、似たものを作ってきた2人が、あえて真逆なことをやってみるというのはおもしろいですよね。

一言では言い表せない物語のおもしろさ

──どちらかと言えば、現実世界を丁寧に描かれてきたお2人が、真逆の「幻想の世界」を描くとは思ってもいませんでした。まるで、逃避するように、この作品に向かわれたのかなと想像しました。

燃え殻:逃避するような気持ちで、この作品を書いたことは確かですね。土井さんと僕の作品をよく知ってくれている方はきっと、恋愛物語をやるのかな、と想像があったと思うんです。だけど、2人して全く違うことをやるなんて、普通の会議だったらこの企画は通らないですよ。

土井:僕達は、極端にいえば1分で説明できる、1行で解説できることを求められるような世界にいますもんね。でもこの作品は話せば話すほど、自分でも迷宮に入っていくようなおもしろさがあって。そういう作品を、成田さんや黒木さんなど第一線で活躍する俳優さんと一緒にやることを許されている事実が不思議で良いですよね。

──キャストはどのように決められたのでしょうか?

佐井:成田さんは、非常に共感性の高いスターだと感じています。僕はショーケン(萩原健一)さんと重ねていて、チンピラもエリートもどんな役柄も演じられるけれど、すべて成田さんの個性が垣間見えて人間らしさがある。幻想的な世界の話でも、うまく現実に引き寄せてくれる俳優さんだと思います。

土井:黒木さんとはこれまで、『重版出来!』や『凪のお暇』など何度かご一緒してきました。今回は、忍と片桐という複数の役を演じ分けてもらわなければいけない、しかも実在する人物なのかどうかもわからない難しい役柄ですが、黒木さんなら全面的に信頼してお任せできるなと思いました。

燃え殻:こんなに理想的なメンバーが集まるとは思っていませんでしたし、僕は混沌とした物語を書いたつもりでしたけど、脚本や演出でその数倍混沌とさせてきてびっくりしました(笑)。

全員:(笑)。

土井:最終的な脚本は、燃え殻さんの原作とは違う結末になりました。果たしてこれで良かったのか、別の終わり方があるんじゃないのか、きっと舞台が終わっても答えが出ないと思います。それくらい、燃え殻さんのテキストはいくらでも解釈できるようになっています。

僕の作品をよく見てくれている人達から、「泣ける?」って聞かれるんですよ(笑)。ああ、僕の作品はそういうエモーショナルな感動を求められているんだと感じました。この作品が泣けるかどうかはわからないですが、それとは全く違うベクトルで「泣ける」かもしれないとちょっと思っています。

──全く違うベクトルというのは?

土井:先ほど燃え殻さんもおっしゃっていた、この物語のベースは「このまま何処かへ行ってしまいたい」という気持ち。それは、息苦しさです。今、私達が皆一様に感じている息苦しさ。常にマスクをつけて、ちょっとした咳払いも注目を浴びて、混雑した電車で喋っている人を見ると、なんだかとても悪いことをしている人達に見えてしまう。

そしてポケットの中ではスマートフォンが常に新着のメールや情報を知らせ続ける。そういう息苦しさの只中に僕達はいるので、いま主人公を支配しているストレスには共感できると思います。終盤に、主人公が幼少期から抱えていたものを吐露するシーンがあるのですが、僕自身最初に原作を読んだ時から胸に迫るものがありましたね。

半径2メートルの細部をどれだけ目を凝らして描けるか

──息苦しさと対峙する物語の描き方が、現実世界ではなく幻想世界の形を成していることがおもしろいですね。これまでと真逆の物語にチャレンジされて視界が開けた部分もあると思うのですが、あらためてこれから挑戦してみたい物語をお伺いできますでしょうか。

燃え殻:そうですね……これまでは、日常を過ごしながらふとしたことで過去にフラッシュバックして、現在に戻ってくる、という物語をよく書いていました。今、想像以上に混沌とした世の中になっていて、過去や正しさばかり追いかけてもしょうがないと思うようになりました。もっと、世の中に対して唾を吐いてでも言いたい切実な言葉を書きたいです。

土井:切実さをとらえる、というのは僕も大事にしています。だから、半径2メートルの細部をどれだけ目を凝らして描けるか、というのは自分がやりたいこと。こういう時代だからこそ、そこに1人ひとりの切実なものがある気がしています。特別な人の特別な話よりも、普通の人の日常の細部から見えてくる悩みだったり喜びだったりを描きたい、というのはベースにありますね。そこさえ変わらなければ、コメディだろうがサスペンスだろうが、ジャンルは決めずに作りたいです。

燃え殻:今は、以前のような日常が贅沢になりましたよね。誰かと触れ合ったり、飲み歩いて人と出会ったり、以前の日常をどうしたって思い出してしまう。だんだん生活が変わってきて、自然とお店に入れば手を消毒するし、人混みでは喋らないし、あっという間に人は慣れてしまうものだと思いました。代わりに、いろんな感覚を失っている気がするんです。懐かしむ、とは違う感覚で、贅沢な日常を振り返りたいです。

土井:あと、この年になって、同じ題材でも今の年齢だから描けることが増えてきたと感じます。もちろん、描けなくなったこともあるんでしょうけど、今の自分はこの物語をどう見るのか、と自分で自分をおもしろがって物語を作るようになりました。

──例えば、土井さんの近作で20代のカップルを題材にした『花束みたいな恋をした』がありました。年齢差があろうと、そこには今の自分だからこそ描けるものがある、ということでしょうか。

土井:そうですね。それを明確に感じたのは、『オレンジデイズ』に関わった時です。当時40歳で、7歳の子どもがいました。それまでの作品は自分の恋愛や過去の体験を投影して作ることが多かったんですけど、『オレンジデイズ』はごく自然に、自分ではなく子どもの未来を投影して作っていました。気づいたら、物語の主人公達は僕より子どものほうが年齢が近くなっていたんですよね。ああ、そうやって自然に自分の視点も変化していって、作るものも変化していくんだなあと感じたんです。

考えてみたら30代は『青い鳥』や『魔女の条件』など大人っぽい作品が多かったのに、50代になってからのほうが『ビリギャル』や『花束みたいな恋をした』など若者が主人公の作品が多くなりましたから、キャリアとしておもしろいですよね(笑)。きっと、同世代の監督が演出したら全く違う作品になっていたと思いますし、あの時の、僕の視点だから描けたことがあるはず。作品にとって何が正解かはわかりませんが、今の自分だから見えているものに興味を持って、作り続けたいですね。

──目下、舞台稽古中とのことですが、朗読劇をどのように楽しんでもらいたいでしょうか。

燃え殻:このカオス感って、ものづくりをしている人達からすると久しぶりだと思うんですよ。「よくわからないけどおもしろそう」って僕は好きで、高校生の時オールナイトの文芸坐に行く自分を思い出しました。見に来てくれた方々と、共犯関係を結ぶような気持ちになれそうです。

土井:答えが単純化されているほど安心するんでしょうけど、今回は僕自身もわからないし、観客の方々と一緒に体験する気持ちです。物語を消費するために見るのではなく、体験したことがいつまでも残る作品になればといいと思っています。

左:土井裕泰(どい・のぶひろ)
1964年生まれ。広島県広島市出身。早稲田大学政治経済学部卒業後TBSに入社。コンテンツ制作局ドラマ制作部所属の演出家。テレビドラマでは『愛していると言ってくれ』、『ビューティフルライフ』、『GOOD LUCK!!』、『逃げるは恥だが役に立つ』、『カルテット』など話題作を数多く演出。また、映画監督として『いま、会いにゆきます』、『ハナミズキ』、『ビリギャル』、『罪の声』、『花束みたいな恋をした』など多くのヒット作を手掛ける。

右:燃え殻(もえがら)
1973年生まれ。小説家、エッセイスト、テレビ美術制作会社企画。WEBで配信された初の小説は連載中から大きな話題となり、2017年刊行のデビュー作『ボクたちはみんな大人になれなかった』はベストセラーに。同作は2021年秋、Netflixで森山未來主演により映画化、全世界に配信予定。エッセイでも好評を博し、著書に『すべて忘れてしまうから』『夢に迷って、タクシーを呼んだ』『相談の森』がある。Twitter:@Pirate_Radio_

■朗読劇「湯布院奇行」 
会場:新国立劇場・中劇場
公演日:2021年9月28日19時、9月29日14時/19時、9月30日14時(全4公演)
チケットはこちら https://l-tike.com/play/mevent/?mid=594509
※9月29日19時の公演のみライブ配信有、10月6日23時59分までアーカイブ視聴が可能
配信視聴券はこちら https://l-tike.com/play/mevent/?mid=604162
原作:燃え殻
脚本:佐藤佐吉
演出:土井裕泰
出演:成田凌(僕)、黒木華(謎の美女)、コムアイ(歌唱)
https://www.yufuinkikou.com


Photography Takahiro Otsuji(go relax E more)

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