伏見瞬, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/shun-fushimi/ Fri, 20 Oct 2023 16:02:13 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 伏見瞬, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/shun-fushimi/ 32 32 サンダーキャットが語る「MF DOOMとの絆」から「ベジータ的ユーモア」、そして「ゲーム音楽からの影響」 https://tokion.jp/2023/10/20/interview-thundercat/ Fri, 20 Oct 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=212228 8月に来日したサンダーキャットのインタビュー。彼が影響を受けたアニメやゲーム音楽など、カルチャーにまつわる話を聞いた。

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サンダーキャット(Thundercat)

サンダーキャット(Thundercat)
ベーシスト、ソングライター、音楽プロデューサー。1984年10月19日生まれ。アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス出身。超絶技巧のベースプレイとスイートな歌声、そして奇抜なファッションや底抜けに明るいキャラクターで数多くの音楽ファンを虜にしている。サンダーキャット名義でのソロ活動のほか、フライング・ロータスやケンドリック・ラマー、トラヴィス・スコット、ゴリラズ、故マック・ミラーらの作品にも参加。2022年はレッド・ホット・チリ・ペッパーズのワールドツアーにサポートアクトとして抜擢されたことも話題となった。またアニメやゲームなど、日本のカルチャーに精通していることでも知られる。ジャズ/ヒップホップ/ファンク/AOR/LAビートを軽快かつチャーミングに横断していく表現力は圧巻の一言。
https://theamazingthundercat.com
Instagram:@thundercatmusic
X(旧Twitter):@Thundercat
YouTube:@thundercatmusic

サンダーキャット(Thundercat)のインタビューには、たくさんの友人の話が出てくる。盟友フライング・ロータスはもちろん、子ども時代のオタク仲間、聖歌隊時代の友達、デザイナー、ネイリスト、ケンドリック・ラマー、ドミ & JD ベック、そして惜しまれつつ世を去った仮面のヒップホッパー、MF DOOM。彼はあらゆる出会いの中で、自らのポジションを考えつつ、テクニックとユーモアを磨く。その成熟する姿はまるで、彼が愛する『ドラゴンボール』のベジータのようではないか!?アニメーションやゲーム音楽とサンダーキャットとの繋がりについて聞いた今回のインタビュー。彼は、ソニック・ザ・ヘッジホッグとMF DOOMの大きなネックレスを首からぶら下げて現れた。

——MF DOOMのネックレス、すごくいいですね。

サンダーキャット:いいだろ。これにはストーリーがあるんだ。MF DOOMが亡くなる直前に、フライング・ロータスと一緒に彼と仕事する機会があってね、彼が住んでいたロンドンに会いに行ったんだ。

マッドリブがMF DOOMに僕のことを話してくれたらしくて、彼は僕がエリカ・バドゥと仕事をしていることを知っていて。僕も彼とはコネクションを持ちたかったからね。

——MF DOOMとの仕事は「Lunch Break」ですね。クールな曲です。

サンダーキャット:彼は素晴らしかった! 誰も知らないような音楽をたくさん聴かせてくれて、僕がフライング・ロータスと作っている曲を聴いてくれた。彼とはおかしなくらいとても気があって。彼は僕が着けているジュエリーに興味を持って、いっぱい質問をしてきたよ。

——亡くなったのはつらい出来事でしたね。

サンダーキャット:MF DOOMはハンチョロ(Han Cholo)というLA在住のデザイナーとコラボレーションして、スペシャルなリングを作っていて。彼が亡くなる前、僕との仕事の支払いをどうするか相談を受けたんだけど、僕が「お金なんていいから」って言ったら、じゃあ代わりに、ってことで自分が持っている鋳造の型からリングとネックレスを作って僕に贈ってくれたんだ。でも、残念ながらリングは盗まれちゃったんだよね。

——それは悲しい……。

サンダーキャット:ネックレスは持ってるんだけどね。それは小さいネックレスで、今首からかけてるのは別の物。彼のマスクを作っている人とも友達になって、僕らはメモリアルになにか作りたいという話をした。今つけているマスク型のネックレスを一緒に作ったんだ。ガーネットが入った、オリジナルのネックレスだ。すごく重たいんだ(笑)。でも鍛えてるから大丈夫(笑)。

——(笑)。

サンダーキャット:MF DOOMは、リリシストとしてもプロデューサーとしても本当に優れた人だった。彼の人間性も大好きだった。僕がネックレスを首から下げていると、みんな注目するんだよね。そこで今みたいに思い出を語るから、彼の記憶をいつも身に着けているって感じがするんだ。

——記憶を身に着けている。すごく素敵な話ですね。

サンダーキャット:僕が持っている中で2番目に好きなネックレスだね。1番はこのソニック(笑)。

——ソニック(・ザ・ヘッジホッグ)はずっと好きなキャラクター?

サンダーキャット:そうだね、ソニックは大好きだ。今はマリオが1番だけど(笑)。このソニックのネックレスは僕のために作ってくれたもので、ゲームの『SONIC R』で使われている「Can You Feel the Sunshine」の歌詞が刻んであるんだ。

——『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は観ましたか?

サンダーキャット:まだ観られてないんだ。とても忙しい時期だったからね。今僕はLAに住んでいるんだけど、シアターに行くとソールドアウトで入れなかったりするんだよね。

——すごい人気ですよね。

サンダーキャット:ほんとにビッグな人気だ。でも、そろそろ誰も観てないと思うから、僕が観る時は劇場を独り占めできるといいな(笑)。

——アメリカの批評家には子どもっぽいって批判している人もいるけど、そんなことないですよ!

サンダーキャット:そもそもマリオは子どものためのものじゃないか(笑)。そんなの批判にならないよ。

ベジータ的ユーモア

——あなたのドラゴンボール好きは有名だけど、あなたは以前、孫悟空よりベジータに共感するって語っていましたよね。

サンダーキャット:そうだね。

——あなたには、どこかベジータ的なところがあるんじゃないかなと思うんだ。

サンダーキャット:わかる!  悟空はフライング・ロータスだろ?(笑)。

——そう! あるいはケンドリック・ラマー。

サンダーキャット:ケンドリックは『超ドラゴンボール』に出てくる孫悟飯ビーストだ(笑)。

——あなたの曲にはユーモアがあると思う。

サンダーキャット:その通り。

——「Dragonball Durag」は、恋人に愛を懇願する歌だけど、何度も「俺のドゥーラグ(頭に巻き付ける布のかぶり物)似合ってる?」と聞くじゃないですか?  すごく可笑しいですよね。

サンダーキャット:ははは! そう、ラブソングに見せかけて、実はひどい歌なんだ(笑)。

——そうしたユーモアは意識している?

サンダーキャット:自然に出てくるものだと思う。いろんなものが面白い、笑えるって感じるタイプなんだ。シリアスなものに限っておかしかったりするだろ? それが自然と出てくるなら、無理に抑える必要はないよね。

——「Friend zone」の、「俺はモータルコンバットやりたいから、どっか行ってくんないかな」と歌った後にケンドリック・ラマーの「Bitch don’t kill my vibe」を引用するとこなんか、爆笑してしまいました。

サンダーキャット:笑えるよね! あれ、引用しちゃって大丈夫かなと心配だったんだけど、ケンドリックも笑ってくれたよ。

——あなたのそういうユーモア、私は「ベジータ的」だと思うんですよね。

サンダーキャット:わかる。彼はプライドが高いのに、悟空みたいなすごい奴の前では常に謙虚にならざるをえない。「今イケてる!」と思っている時には、誰も見ていない(笑)。

——そういう体験を積んでるからか、彼は次第に客観的な視点を持つ、優しいキャラクターになっていく。

サンダーキャット:僕の中にも、もう1つの視点が常にあるんだ。言いたいことが、そのまま伝わるとは限らない。僕はそういうハードな経験をたくさんしてきた。だから、何かを言おうとする時、何かを表現する時には、いくつかの視点を常に持っているんだと思う。

ゲーム音楽からの影響

——あなたの音楽自体とても多義的ですよね。そもそも、あなたはスーサイダルテンデーシーズとエリカ・バドゥのベーシストとしてキャリアをスタートしているから、ハードコア・パンクとネオ・ソウルの両方に関わっている。

サンダーキャット:そうだね。

——今のあなたの音楽には、ジャズやヒップホップのグルーブもあるけど、同時にゲーム音楽的な直線性も感じられる。常に遠い音楽のミックスをしているように思えます。

サンダーキャット:子どもの頃から色々な音楽を聴いて育ったんだ。ジャズもゲーム音楽も大好きだった。あと、僕はシンプルなものに色を加えていくのが好きなんだ。マリオだって、最初のテーマ曲は今も使われていて、それがどんどんアレンジの変化で色を変えていってる。僕はそれが面白いと思う。やっぱり音の色合いなんだよ。

——ゲーム音楽はもともとすごいシンプルですよね。

サンダーキャット:1980年代から90年代初期のゲーム音楽は素晴らしいよね。下村陽子のカプコンでの仕事とか、僕は大好きだ。あれだけ限られた素材で、最大限のことをやってのけた。そこに子どもの頃の僕は興味を持ったんだと思う。今のゲーム音楽はリッチになって幅が拡がった。もちろん今も優れたものはあるけど、僕はやっぱり、限定された素材で創作していた頃のゲーム音楽の特異性に惹かれるんだよね。

——あなたの音楽にはYMOの雰囲気も感じるんですけど、それはゲーム音楽を通してなんじゃないかな。ゲーム音楽にはYMOの影響が絶大だから。例えばドラゴンボールの『超(スーパー)武闘伝』というゲームソフトで、ほとんど「ライディーン」そのままみたいな曲が使われていたりします。

サンダーキャット:その曲は知っているよ(笑)。でも、あれだけビッグなアーティストだからね。僕も含め、どこかで影響を受けちゃうんじゃないかな。YMOや坂本龍一も、シンプルな中に複雑な要素を秘めているよね。

——あなたは以前ドラゴンボールを「成熟した作品」と語っていましたよね。どこに成熟したものを感じますか。というのは、日本人にとって『ドラゴンボール』は少年のための作品、成熟する前に見る作品という印象が強くて。その違いが面白いと思ったんです。

サンダーキャット:たぶんアメリカ人にとって、『ドラゴンボール』は暴力的なんだよ。だから子どものものとは思われていない。『ドラゴンボールZ』や『NARUTO』は、アメリカでは暴力的なシーンを編集で切って放送している。僕はそんな必要ないと思うけどね。

——なるほど。子どもが見るものは暴力的であってはいけない。

サンダーキャット:おかしいことに、アメリカで一番売れてるカートゥーンは、結局日本のものなんだ。『呪術廻戦』、『NARUTO』、『ドラゴンボールZ』……。そうしたアニメは変に編集が入ってる。僕は1990年代から『新世紀エヴァンゲリオン』を観ているけど、あれはカルト的なパワーがあるよね。そういう作品にも編集はかけられるけど、オリジナルの生々しさが失われちゃう。

——そうだったんですね。

サンダーキャット:でも、アメリカの大人向けカートゥーンやコミックはもともとめっちゃ暴力的だからね! 暴力的なコミックに影響を受けている僕のことだから、アメリカ人の一般的意見じゃないよ(笑)。僕はクレイジーだから信用しちゃいけない。

——『ドラゴンボール』のアニメーションには、修行のシーンがあります。でもアメリカのスーパーヒーローは、最初からスーパーヒーローですよね。

サンダーキャット:バットマンもアイアンマンも金持ちだからね(笑)。彼ら自身の身体能力は、ただの人間だしね。

——ドラゴンボールにおける「修行して強くなる」過程が、アフリカン・アメリカンの境遇と重なるんじゃないかという話を聞いたことがあります。どう思いますか?

サンダーキャット:確かに、可能性としてはあると思う。ストラグル、闘争や葛藤ってのはアフリカン・アメリカンのコミュニティにとって大事な要素だからね。ヒーロー・コンプレックスという言葉もあるくらいでさ。やっぱり社会から認められていない境遇があるから、日本のアニメーションのトライする姿勢に共感するところはある。

——シンパシーを覚えるんですね。

サンダーキャット:でもわからないな。子どもの頃はただアニメに夢中だった。『ドラゴンボール』が好きな友達にはメキシカンもアジアンもいた。でも、教室では少数派だったね。僕らは人種を問わず、ただ「オタク」だったんだ(笑)。その「オタク」達が、成長して今はお金を稼ぐ立場にいる。そういう奴等は惜しみなく欲しいものに金を使う。だから余計にアニメが流行る(笑)。

——(笑)。

サンダーキャット:あの頃の友達と、「誰も俺らの趣味わかってくれなかったよな?」って話はよくするよ。僕達、日本で売ってる『ドラゴンボール』のカードダスが欲しかったけど、アメリカでは売ってなかった。だから、ネットでがんばって拾った写真を自分達でコピーして、ファイリングしてたよ。それをみんなで回して見てたんだ。「今日はお前が持ってていいけど、明日は俺が持ってくよ」って具合にさ。ファイルを見ながら、一生懸命自分達で勝手にストーリーを作ったりして楽しんでたんだよ。

——まさにゲーム音楽みたいな話ですね! 素材が限られているからクリエイティブになってた。

サンダーキャット:そう。自分達だけで頑張らなきゃいけなかったんだ。

ケヴィン・パーカーとのコラボ

——あなたの最新曲「No More Lies」での、テーム・インパラのケヴィン・パーカーとのコラボレーションはどのような経緯で生まれたんですか?

サンダーキャット:僕は最初のアルバムの頃から、ケヴィンとはずっと一緒にやってみたかったんだ。グラミーの時に会ってるんだけど、酔っ払ってて覚えてないんだよね(笑)。彼にアプローチしたら、「前に会ったよね?」と聞かれたよ(笑)。それで向こうも一緒にやりたいと言ってくれた。実際に会って曲作りをしたけど、楽しかったよ。パズルがはまるみたいにうまくことが運んだんだ。

——あなたとケヴィンは少し声が似てますよね。あなたの囁くような歌声は、黒人のミュージシャンでは特殊なんじゃないかな。

サンダーキャット:子どもの時に教会の聖歌隊で歌ってたんだよね。それに、歌と楽器でヤマハスクールにも通ってたから、歌うこと自体には抵抗なかった。レコーディングにコーラスで参加しているのも、子どもの頃からの友達だ。

——そうだったんですね。

サンダーキャット:レコードやライブで歌うのに慣れてくのには時間がかかったけどね。友達に「お前の声好きじゃない」と言われて落ち込んだり(笑)。でも、僕にとって憧れのプレイヤーはみんな歌ってた。トニー・ウィリアムス、ジョージ・デューク、フランク・ザッパ。ジャコ(パストリアス)ですら歌ってる。トニー・ウィリアムスがアリなら俺もできると言い聞かせてた。あいつの声、ほんとクレイジーなんだもん(笑)これがアリなら自分もできるなと思った。

——あなたのベースはパーカッシブだから、柔らかい声はきれいなコントラストを描いていると思います。

サンダーキャット:昔から僕はテナーだった。高い声も力が入るから、この歌い方が向いてるんだよね。普段の声はディープなんだけどね。地声で歌うとスリップノットみたいになるよ(笑)。

——それも聴きたいです(笑)。

サンダーキャット:すげぇハードになるよ!

——今日持っているスカルのバッグは、「プロスペクティブフロー(Prospective Flow)」とのコラボですよね。彼らとはどのようなつながりがあったの?

サンダーキャット:彼らは日本からLAに来てるよね。知り合う前から買って着ていたんだ。すごく着ててフィットするんだよ。ドミ & JD ベックが最初に知り合って、僕を紹介してくれたんだ。

——そんなつながりが。

サンダーキャット:コラボレーションを始めたのは最近のことなんだけど、もう長く友達だよ。すごくいい連中だし。

——あなたのジュエリーやネイル、それにヘアスタイルはどこかフェミニンなところがあると思います。意識していますか?

サンダーキャット:前も同じような質問を受けたんだよね。「内包している女性性」を指摘されたんだけど、自分ではピンときていないんだ。エリック・ベネイとツアーしたせいかな(笑)。彼のセクシーさに女性性を刺激されたのかもしれない(笑)。実際は、男性性・女性性というより、形や色が好きってだけだな。直感、フィーリングがすべてだよ。

——今日のネイルも素敵ですよね。

サンダーキャット:LAの友人のネイリストにやってもらったんだ。彼女は優れたアーティスト。こんなの彼女にしちゃシンプルなほうだよ。

——あなたの話を伺っていると、いろいろな人の名前が出てきます。他人とのつながりによって自分が成り立っているという感覚が、あなたの言葉や身振りから伝わってきました。最近「ブレインフィーダー」に入った長谷川白紙のことは知ってる?

サンダーキャット:もちろん。新曲も聴いたよ。素晴らしい曲だし、ビデオも素敵だった。エクレティックなサウンドで、「ブレインフィーダー」にふさわしいよね。一度会ってるんだよね。でも酔ってて覚えてないんだ(笑)。また彼に会いたいよ。

Photography Takuroh Toyama

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「増える」と「崩れる」——映画『君たちはどう生きるか』を形成する2つの運動について https://tokion.jp/2023/07/28/review-the-boy-and-the-heron/ Fri, 28 Jul 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=201208 宮﨑駿による10年ぶりの新作映画『君たちはどう生きるか』を批評家の伏見瞬はどう観たのか。

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宮﨑駿監督による10年ぶりの長編映画『君たちはどう生きるか』(製作:スタジオジブリ)が7月14日に公開された。事前の宣伝活動を一切行わないことも話題となり、公開から10日間で観客動員232万人、興行収入36億円を突破し、好調なスタートを切った。一方でネットではさまざまな考察記事がアップされるなど、多様な解釈ができる作品となっている。本作を気鋭の批評家の伏見瞬はどう観たのか。コラムを依頼した。

※記事内には映画のストーリーに関する記述が含まれます。

論評が増える

『君たちはどう生きるか』とは、「増える」と「崩れる」によって形成されたアニメーションである。

宮﨑駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』が公開されると、多くの人があまたの論評を行った(引用を除いて、本論では本作クレジットと同じ「宮﨑駿」名義で記述する)。話題作が発表されると多くの言葉がネット上に飛び交うのはいつものことだが、今作に関しては本当に大量のテクストが溢れ、増幅している。論調の多くは、物語内における「母」をめぐるものか、スタジオジブリ周辺の人間関係や日本アニメの歴史を作中のキャラクターや物語に当てはめて「継承」を語るものに集中した。前者であれば、例えば宇野常寛は本作を「極めて戦後日本的なありふれたマザーコンプレックスの発露という自身の中核にあるものを、まるで批評家の書いた文章のように自己解説するような展開」と評しており(※1)、三宅香帆は「父が不在で、母子密着で、卵たちは生まれてくることができず、そしてつるりとしたインコたちが叫ぶ声がバーチャルに響く、世界」が現代の「吐きそうなくらい的確なメタファー」だと書いている(※2)。後者の立場であれば、ブログ「青春ゾンビ」の著者hiko1985が、”キリコ”というキャラクターに高畑勲と東映アニメーション時代からの盟友・保田道世が重ねられていることを指摘しており(※3)、叶精二は、高畑勲や大塚康生などの「共に歩き続けた先達の遺志」が継承された「漫画映画への回帰」を本作から読み取っている(※4)。複数の物語を作品からくみ出せること自体は、おそらく幸福なことだろう。宮﨑をはじめとするスタジオジブリのスタッフ達が数十年にわたって作品制作を継続し、多くの観客がその作品群を長くに渡って受け取ってきたことの証左なのだから。しかしながら、物語の展開は長編アニメーションにおいて副次的な役割しか持たない。観客の感性を第一に刺激するもの、そして作家達が何より追求しているものは、絵の連なりの運動に他ならないからだ。それがなければ、母の物語も実在人物との照応も安易な記号操作に過ぎず、何の面白さも喚起しない。

(※1)宇野常寛.”『君たちはどう生きるか』と「王様」の問題」”.2023-07-20https://note.com/wakusei2nduno/n/nc1c94c0793fe,(参照2023-07-27)
(※2)三宅香帆.”#君たちはどう生きるか で、宮崎駿は結局、何を描こうとしたのか?【ネタバレあり最速レビュー】”2023-07-15.https://note.com/nyake/n/nc74f29fccca2,(参照2023-07-27)
(※3)hiko1985.”宮崎駿『君たちはどう生きるか』”.青春ゾンビ ポップカルチャーととんかつ.2023-07-17.https://hiko1985.hatenablog.com/entry/2023/07/17/135024.(参照2023-07-27)
(※4)叶精二”『君たちはどう生きるか』作品評 理屈を調節した「漫画映画」への回帰”.シネマカフェ.2023-07-21.https://www.cinemacafe.net/article/2023/07/21/86462.html,(参照2023-07-27)

「増える」が溢れる

『君たちはどう生きるか』の中盤、ジャムは増幅する。本作のヒロインの1人であり、異世界における主人公・眞人の母親の化身であるヒミが、洋風のキッチンルームで眞人にジャムトーストを振る舞うシーン。ヒミはトーストに分厚くバターを塗り、その上に赤いジャムを乗せて眞人に差し出す。眞人はトーストを頬張る。ジャムが溢れ、思い切り口の周りに付着する。おいしい、昔母さんに作ってもらったやつだと独り言をもらす眞人。もう一度、眞人はトーストにかじりつく。するとどうだろう。赤いジャムはトーストからあふれ出し、正面からバストショットで描かれた眞人の顔の目の前に広がる。その物量は、ヒミが最初に塗ったジャムの量を明らかに超えている。ジャムは増える。溢れる。増幅する。

ジャムの増え方と赤の色彩は、本作前半に配置された別のシーンを想起させる。眞人が血を流す場面。転校したての学校の帰り道。同級生に喧嘩をしかけられた眞人は、喧嘩の後で突如自らの右こめかみを拾った石で打つ。空の青と森の緑を背景に、彼のこめかみから濃い赤が流れる。血はすぐに止まず、次のカットでぶわっと溢れ出る。生身の人間であるなら、場合によっては死に至るのではないかと心配になる血の量だ。まるで血液そのものが成長しているようにすら見える。血は増える。溢れる。増幅する。

ジャムと血の赤は、「増える」という運動によって結ばれている。最初に画面に映る時にはさほど多くない物量が、次のカットでは拡がりを伴って溢れ出す。このような増幅の感触、増える運動が、本作には溢れかえっている。

例えば、お屋敷の裏の池で眞人とアオサギがはじめて対峙し、言葉を交わす場面。アオサギが「お待ちしておりますぞ」と好戦的に声を発すると、池の中からナマズのような魚が現れ、次のカットではカエルが大量に出現し、眞人の足下から這い上がって彼の全身を取り囲む。ナマズとカエルは、突然増えるのだ。

あるいは、眞人がアオサギに案内され、異世界に降り立つ場面。風の吹く野原に、金色の門が立っている。門を見上げている眞人に、突如ペリカンの大群が押し寄せる。ペリカンの重みに押され、門が開く。門が開いたことをきっかけに船乗りのキリコ(現実世界ではおばあちゃんの一人)と眞人が出会うわけだが、ここでも、画面上にはペリカンが溢れるという増幅の感触が映し出されている。

今、例に挙げた2つのシーンでは動物の大群が登場するわけだが、増幅の感は動物だけによってもたらされるわけではない。池の場面も門前の場面も、群れが現れる前には風が吹いている。風の強さによって、眞人の灰色めいたシャツがはためき揺れる。この時、シャツの輪郭は不自然なほどに丸いフォルムで膨らむのだ。キリコと眞人が出会った後では、海が膨らみ出す。木船に乗って進む2人の前に、水平線を覆い尽くす巨大な波が現れる。波は高く上がり、船に覆い被さる様が左横から映し出される。風も水も、本作の中では、増えて溢れる現象の一部として描かれている。

そう考えると、現実世界のお屋敷で働いている老女達の集団も、「増える」運動に関与していると思えてくる。眞人の父がお屋敷に持って帰った荷物に蟻のように集まる登場時の老女達の姿は、最初から異様な増幅感を伴っている。5~6人の群れの蠢きが『崖の上のポニョ』における老人ホームのおばあちゃん達を思わせる彼女達(鼻の横にイボを持つ女性が一人いる点も、一人だけ集団から離れて動く人物がいる点も共通している)はしかし、『君たちはどう生きるか』ではもっと異様な印象を与える。その理由は、横から老女達を描くところで明らかになる。彼女達の目が、やたらと飛び出しているのだ。今にもこぼれそうなほどに眼球は肥大している。目の大きな丸みと、集団で蠢きしゃべり散らす運動の掛け合いで、不気味な増幅感の印象がかたちづくられている。

加えて、キリコと共に暮らし、人間の誕生前の姿であると語られる白い生物群「わらわら」も「増える」運動の一部であり、物語後半に登場し、眞人・アオサギ・ヒミと敵対関係に入るインコの大群も同様に「増える」存在だ。本作においては、増えて溢れる運動が前半から終盤に至るまでに溢れかえっているのだ。

こうした「増える」運動は、以前の宮﨑駿監督映画にも度々登場した。『となりのトトロ』の、サツキとメイが植えた木の実がトトロの力で急速に大木に変わっていく場面。『風の谷のナウシカ』の、押し寄せる王蟲の大群。『崖の上のポニョ』における、魚の大群と擬人化された海の増幅。本作序盤で、眞人の父親・ショウイチと彼の会社の社員達は会社で造っている戦闘機コクピットの風防を屋敷に次々と並べていくが、この「増える」運動は、『風立ちぬ』の最後で空飛ぶ零戦の群れの風防が強調されて描かれていたことと地続きにある(時代設定自体、『風立ちぬ』と『君たちはどう生きるか』は連続している)。本作は、宮﨑駿監督作における、「増える」映画の系譜にある。

「崩れる」が伴う

「増える」描写に伴って現れるのが、「崩れる」動きだ。本作中盤の眞人は、キリコが釣ったらしき巨大魚(アンコウのように見える)を、キリコから方法を教わりながら捌いていく。キリコの指示に従って巨大魚の腹に刃物を突き刺すと、まず血が噴き出す。もう一度、眞人は刃を突き立てる。直後、桃色を帯びた内臓が溢れだし、魚の腹からこぼれ落ちる。画面上、内臓は腹の外側に向かって体積を増やしているが、魚本体は崩れている。増幅は、時に崩壊を伴う。

このシーンの後に、もう1つの「崩壊」が待っている。魚のはらわたはわらわらが浮かぶための飼料となるという。夜になるとわらわらの群れは宙に浮かび上がり、丸い物体群は次第に2つの螺旋型を作って上昇していく。DNAのらせん図を思わせるわらわらの群れは、やがて眞人がいた「上の世界」にたどり着いて人間として生まれるとキリコは説明する。そこに、上昇するわらわらをエサとするペリカン達が現れ、わらわらを食べ尽くそうとするが、火の少女・ヒミが現れて花火型の炎を放ち、ペリカンからわらわらを救う。その夜、眞人は野外のトイレの横で死にかけたペリカンに出会う。わらわらしか食べられるものがないペリカン族の悲惨な状況を訴えながら、そのペリカンは落命し崩れる。ここでも、わらわらの群れの浮上に対してペリカンは孤独に崩れるという、動きの対照性が見て取れる。

「崩れる」も、「増える」同様に宮﨑駿監督作を支えてきた運動だ。『天空の城ラピュタ』も『もののけ姫』も『千と千尋の神隠し』も、1つの世界の崩壊が終盤に用意されている。巨神兵もシシガミも、溶けるように崩れていく。『君たちはどう生きるか』でも、「大叔父」が「石」と契約して作り上げた世界が、最終的に地響きと共に崩れる。本作は、「崩れる」映画の系譜にもある。

「崩れる」ことが宮﨑駿監督作の世界に共通する1つの引力だとするなら、『君たちはどう生きるか』におけるいくつかの不可解な場面も素直に受け入れられる。アオサギが石の塔に眞人を誘う場面。塔の中では死んだはずの眞人の母が眠っているが、眞人が触れると母の像は水になって溶け出してしまう。このシーンは脚本上、後の劇中で活かされることなく、観客に不可解な印象を残す。だが母の像の崩壊は、「崩れる」引力に則って描かれる動きであり、そこに疑念の余地はない。

あるいは、インコの大王が塔の上の大叔父に会う直前。木組の階段を上っていった大王は、最上段まで上がり切ると、階段を念入りに叩き割る。追っ手を防ぐための処置なのだろうが、それにしても、4回に分けて叩き割っていくのは余りに念入りだ。そして、追跡していた眞人とアオサギは結局別のルートで大叔父に会えるのだから、叩き割る行為に効果はない。つまりここでも、絵の動きは劇の整合性に従っているのではなく、「崩れる」運動の引力に拠っている。

運動はメタファーに先立つ

ところで、本作の「動き」について批判があったことも、この辺りで付言するべきだろう。冒頭のシーンが眞人の「主観的映像」になっていることと作品の描写全体が「露悪的」に描かれていることを指摘した点で注視に値する下西風澄の論においては、「「動き」の表現は全盛期と比べればはるかに見劣りして」おり、「おそらくは身体の衰えもあり、宮崎駿はもう描けないのだ」と、本作の技術的限界が指摘されている(※5)。たしかに本作に、例えば『紅の豚』のような躍動感は覚えない。異世界の大群の船もヒミが住む家の庭の植物も、『紅の豚』でポルコが幻視した飛行機の群れとジーナの住む家の庭に比べると精彩を欠いているように思える。雲間から光が差す光景も、『紅の豚』の光に比べると濃淡のバリエーションに欠けており、画一的な退屈さは拭えない。『となりのトトロ』における森林や『風立ちぬ』における群衆の描写の細密さも本作からは感じ取れないし、『崖の上のポニョ』におけるぐにゃぐにゃした鉛筆線の魅力もここにはない。この差の理由を「老い」「衰え」の一言で済ます短絡は慎みたいが、差異自体を認めないのも無理がある。(※6)

(※5)下西風澄”宮崎駿の悲しみと問いかけ–『君たちはどう生きるか』”.2023-07-21.https://note.com/kazeto/n/nca1be7cd479c,(2023-07-27参照)
(※6)『続・風の帰る場所』の渋谷陽一によるインタビューにおいて、宮﨑はたびたび若手アニメーターの技量不足を嘆いている。その言葉を信用するなら、『君たちはどう生きるか』における躍動感の減縮の理由は監督の年齢よりも、PCでの作業が常態化した時代の描き手の技量不足に求めるべきだろう。無論、アニメーションの作業に一度も従事したことのない文筆家に、原因や責任と呼ばれるものの所在を追及する能力などはない。宮崎駿(2013)『続・風の帰る場所 映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか』(ロッキングオン)、を参照。

しかしながら本作は、同じ運動を繰り返し描く執拗さにおいて、過去の宮﨑駿監督作品すべてを凌駕している。『となりのトトロ』の木の増幅はワンシーンに限られるし、『風の谷のナウシカ』でも王蟲と腐海の増殖は物語的必然を免れていない。『もののけ姫』も『天空の城ラピュタ』も、「崩壊」は物語に組み込まれている。『崖の上のポニョ』は例外的に海水も魚もポニョの手足も無秩序に「増える」が、逆に津波に襲われた街は「崩れない」。『君たちはどう生きるか』ほど、話の筋に関わらないところも含めて何度も何度も増えて崩れる作品は他にないのだ。その反復の中から、本作だけが生きることを許された律動感覚が生じる。

 「増える」と「崩れる」。本作において私たちが物語より遙かに直接的に受け取っているのは、2つに分類される運動の連続である。そして、アニメーター達が身体を使用して作り出しているのも、物語の構築ではなくて運動の生成なのだ。私達は、ものや生き物が増えたり崩れたりするのを感じ取って、「気持ち悪い」や「怖い」や「ソワソワする」や「ゾクゾクする」を思ったりする。そうした感性の反応は、物語を日本社会の構図にトレースし、作中の人間関係を実在の人物に当てはめようとする思考に先立っている。

だから、作中の終盤、「石」の異世界から抜け出すシーンの描写には必然がある。眞人と継母ナツコと老婆キリコが元の世界に戻ると、ペリカンとセキセイインコが溢れ出す。その後方で、石の塔が完膚なきまでに崩れる。「増える」と「崩れる」が同時に一挙に起こることで、本作は終わることができる。インコの糞にまみれて笑う眞人とナツコの姿は、「増える」と「崩れる」を浴びた私達観客の似姿だ。

「増える」と「崩れる」を、それぞれ「生」と「死」の隠喩だと考えるのは容易い。それも間違ってはいないだろう。しかし、順序を間違えてはならない。本作の魅力は「増える」と「崩れる」によって「生」と「死」を象徴的に描いている点にあるのではない。「生」と「死」の象徴が、運動の蠢きとして目の前で感じ取れることに、本作の魅力は宿っているのだ。「増える」と「崩れる」がなければ、「生」と「死」のメタファーなど俗っぽい人生論でしかない。

増える、崩れる、閉じられる

ここまで捉えたところでようやく、「母」や「継承」について考えることが意味をもつだろう。大叔父が守り、眞人に託そうとした世界は継承されることなく、あっけなく崩れる。その代わりに、眞人と関係を持つ者は次々と増えていく。眞人は生まれの母を「母さん」と呼ぶだけでなく、継母のナツコと途中から「お母さん」と呼ぶ。これは母をどちらかに選んだのではなく、母が増えたのだ。母子の相剋は、「増える」ことによって受容される。そして、最後の一つ手前のカットで、父・ショウイチとナツコは子供と共に玄関で眞人を待つ。当該のカットは、かつて眞人がショウイチとナツコの抱擁を覗き見た時と同じ視点で描かれており、反復によって子が「増える」印象はより強調される。この映画において、「母」と「子」は共に増えている。

増えるのは「母子」だけではない。大叔父との会話で、眞人は自らがつけたこめかみの傷跡を「僕の悪意の証です」と語った。船乗りのキリコには、同じ箇所に傷跡があった。「悪意」も増幅するのだ。同時に、眞人は大叔父との会話で、ヒミもキリコもアオサギも「友達」だと言った。そしてアオサギは、別れの際に眞人に向けてぶっきらぼうに言う。「あばよ、ともだち」。そもそもアオサギは、鳥の顔の下から中年男性の顔が途中から出てくるキャラクターで、顔が「増える」存在だった。2つの顔を持つ彼が「嘘つき」であることは作中のセリフで何度か述べられているが、「嘘つき」のアオサギと眞人は最後に「友達」になるのだ。さらに、ヒミは死んだ母の化身なのだから、眞人は「死」とも友達になっている。眞人は、つまり「悪意」も「嘘」も「死」も友達だと言っている。「友達」は、ひたすら増えるものとして描かれている。

長年守ってきた王国が、受け継がれずに崩れること。「母」と「子」と「悪意」と「嘘」と「死」が、「友達」が増えること。本作の作り手達が本当は何を考えているか、私達は知らない。仮に知っていたとしても、それが作品に反映されているとは限らない。ただ、『君たちはどう生きるか』と題された映画における絵と音の連続は、私達の耳元でこのように囁く。私もお前も、「守る」や「受け継ぐ」より「増える」や「崩れる」に、否応がなく惹かれる生き物なのだと。「増える」ものに善悪の差はなく、すべて「友達」になるのだと。それが正しいことなのか間違ったことなのかは、もちろんこの映画のどこにも語られてはいない。扉は「おわり」も「おしまい」もなく、何も告げずに閉じられる。

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映画『ドライブ・マイ・カー』、その滑らかさが隠すもの https://tokion.jp/2022/03/27/the-film-drive-my-car/ Sun, 27 Mar 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=105324 批評家・伏見瞬による映画『ドライブ・マイ・カー』のコラム。本作が持つ滑らかさとそこに隠されているものについて。

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3月28日(日本時間)に発表される第94回アカデミー賞。濱口竜介監督による映画『ドライブ・マイ・カー』は作品賞や監督賞、脚色賞、国際長編映画賞の4部門でノミネートされていて、受賞できるかで注目を集めている。発表を前に本作について、批評家の伏見瞬にコラムを依頼した。

※文中には映画のストーリーに関する記述が含まれます。

濱口竜介が監督した映画『ドライブ・マイ・カー』が、2021年カンヌ映画祭の脚本賞を獲得し、2022年のアカデミー賞4部門にノミネートされた。アカデミー作品賞へのノミネートは、日本人監督作で初のことである。濱口は優れて野心的な映画を作り続けている作家であり、本作が広く世界に受け入れられたことは、まずもって歓迎すべきことだ。しかし私はむしろ、『ドライブ・マイ・カー』に覚えた違和感を、ここでは強調したいと思う。大きな評価を得ているからこそ、1つの声として、違和感を書き留めておきたい。

本作は、男性が自分の弱さを認め、受け入れることを主題にした映画だと考えられている。 映画の中で発される言葉を借りれば、「正しく傷つく」ための映画。 物語としては、西島秀俊演じる演出家・家福(かふく)が、『ワーニャ伯父さん』上演への向き合いと三浦透子演じるドライバー・みさきとの接触を通して、亡き妻への複雑な感情と自分の弱さを認めるという筋書きを持つ。車の座席位置の変化やタバコを吸うシーンの反復によって、2人の精神的距離の変化が演出されてもいる。しかし本当に、『ドライブ・マイ・カー』は主人公が弱さを曝け出し、他人との距離を変えていく映画なのだろうか。むしろ、人間同士が抱える軋轢を、隠蔽している映画なのではないか。

『ドライブ・マイ・カー』が持つ滑らかさ

隠蔽の内実を言葉に換える前に、本作が何かを隠せるほどの豊かさを獲得していることをまず述べるべきだろう。『ドライブ・マイ・カー』という映画全体から伝わってくる質感を一言で表すなら、それはスムースさ、滑らかさだ。主に撮影と音響によって、滑らかさは形成される。四宮秀俊によって撮影される、上方から車を映したロングショットの繰り返し。中央高速道路や広島の国道を進んでいく真っ赤なサーブ900を、四宮は実に滑らかにフレームに収めていく。あるいは石橋英子が作曲し、ジム・オルークや山本達久といったバンドメンバーと共に演奏したサウンドトラック。石橋達は、バート・バカラックとシカゴ音響派の中間のような(あるいはプエンテ・セレステやアンドレス・ベエウサエルトなどのアルゼンチンのコンテンポラリー・フォルクローレを想起させる)愁いと体温を帯びた音楽を、ブラシで叩くドラムやウッドベース、ピアノやアコースティックギターを駆使して滑らかに伝える。映画開始から40分ほど経過したタイミングで挟まるオープニング・クレジットでは、車の撮影と音楽の響きが重なる。そこに浮かび上がるのは、暑くもなく寒くもなく風も強くない秋晴れの日のように、ありふれているようで実はとても貴重な心地よさだ。さらに、整音を担当した野村みきは、伊豆田廉明が録音した俳優の声や周囲の具体音と、石橋英子による音楽を自然に溶け合わせている。作品内の重要なモチーフである、カセットテープに録音された『ワーニャ伯父さん』の朗読も、しなやかに響く。映画全体が、肌をそっと撫でる細い指のごとき、途方もない滑らかさを有している。

脚本にも、滑らかさがある。前述の通り『ドライブ・マイ・カー』は、チェーホフ『ワーニャ伯父さん』の舞台の稽古とともに進行していく。舞台が上演されるまでの過程と、家福が喪失感に向き合う過程が同時進行するのも、観客に物語を滑らかに伝える工夫だ。『ワーニャ伯父さん』をはじめとするチェーホフの戯曲は欧米で古典として知られており、日本の演劇界でも上映機会は多い。『ワーニャ伯父さん』の、後悔を抱えて自暴自棄になる中年男性ワーニャを、不器量であるがゆえに世俗的な幸せに恵まれない姪のソーニャが支えるという関係性は、映画内の家福とみさきの関係に反映している。文脈が与えられていることで、『ドライブ・マイ・カー』の物語はグッと飲み込みやすくなる。特に、日本の風土を知らない(例えば、本作の舞台である東京・広島・北海道の地理的・文化的距離感を掴めない)海外の観客にとっては、大きな助けとなるだろう。本作が179分という比較的長尺のランニングタイムを持ち、豪華な映像や重厚な音楽や派手なアクションを使ったスペクタクルを欠いているにも関わらず観ている間に退屈を感じないのも、撮影・音響・脚本に通底する滑らかさが一因にある。

思えば、2020年アカデミー作品賞の『パラサイト』も、2021年作品賞の『ノマドランド』も、映像と音とストーリーが滑らかに連携する映画だった。作風は異なるが(例えば撮影の点では、『パラサイト』は奥行きを強調した撮り方、『ノマドランド』は横長の景色と人物のアップを特徴としている)、時間を忘れるほどの滑らかさは共有している。アジア系の監督という点も、両作と『ドライブ・マイ・カー』の共通点である。滑らかな時間感覚とアジア系監督を昨今のアカデミー賞の傾向だと考えるのなら、『ドライブ・マイ・カー』がアカデミー作品賞にノミネートされたのも道理に思える。

滑らかさに隠されたもの

本作の滑らかさは、映画の伝統を考えても、観客との関係を考えても、賞レースに紐づいた興行の成功を考えても、美点だと言えるだろう。しかし、上質な絹のごとき滑らかさは、映画内に含まれるヒリヒリした人間関係やゴツゴツした自我意識を覆い隠している。『PASSION』にせよ『親密さ』にせよ『ハッピーアワー』にせよ『寝ても覚めても』にせよ、濱口竜介の監督作品には、人間同士のバランスが崩れて、押しとどめていた感情が溢れ出すような瞬間があった。『寝ても覚めても』では、登場人物の1人が出たチェーホフ劇の映像を観ることをきっかけに、仲睦まじく会話していた4人の男女が突如喧嘩腰でぶつかり合うシーンがある。そこには、人間関係の重心が突如変化するような、目に見えない動きが感じられた[1]。アントン・チェーホフ自身も、人間関係が強い軋みを伴いながら変化する様を言葉にする小説家・劇作家だった。それに比べると『ドライブ・マイ・カー』は、人間同士が相互変容を遂げるようなダイナミズムを欠いている。

[1] 三浦哲哉は著書『『ハッピーアワー』論』(羽鳥書店、2018年)の中で「重心」というキーワードを用いているが、濱口竜介の映画全体において、「重心」の変化は大きな効果を持っている。

とはいえ『ドライブ・マイ・カー』でも、岡田将生演じる若き俳優・高槻が車の中で家福と会話する正面からの切り返しのシーンなどには、人間関係が突如変貌するような不気味さが漂っており、実に濱口映画的な気まずい気配を漂わせている。ただ、ここで無視できないのは、ドライバーのみさきが蚊帳の外に置かれていることだ。高槻と家福は亡き家福の妻・音をめぐる緊迫した会話を繰り広げているのだが、みさきは気まずい会話を無言で受け入れている。家福にしても、「彼女なら大丈夫だ」と、みさきを会話内に入ってこないものとして扱っている。今までの濱口映画では、3人以上の複数の人間が1つの場に居合わせれば、そこに全体のバランスが崩れる変化があった。しかし、三浦透子演じるみさきは、人間関係に立ち入らない人物であり続ける。家福との最初の会話でも、韓国人夫婦との食卓でも、みさきは空気のひりつきを柔らかく吸収する。そして、家福が弱さを見せ始めると、みさきは釣り合いを保つように自分の過去を語り出す。みさきは、家福をどんな形であれ受け止めてくれる、クッションの役割を果たしている。彼女のクッション的柔軟性に、家福は慰めを見出す。つまり、本作において家福は弱さを受け入れるなどといった変化を遂げているのではなく、みさきという便利な優しさに甘えているだけではないのか。映画の最初から終わりまで家福という人物は、女性を都合の良いファンタジーとしてしか見ていないのではないか。みさきの故郷である雪山で家福がみさきと抱き合うシーンには、家福にとっての都合の良さが感じ取れる。そこでの抱擁は、互いの精神が呼応したものには見えない。雪山の景色を斜めに横切る鳥の偶然的な姿が美しいだけに余計に、都合良さが際立ってしまう。

そもそも、家福の妻・音が性行為の後に物語を語り出すという設定にも、女性へのファンタジーが滲み出ている。このような指摘をすると、村上春樹の原作に原因があると考える人もいるかもしれない。確かに村上の小説は、兼ねてから女性への幻想が強いと批判されてきたが、本作の脚本のうすら寒さは原作者のせいではない。音という人物の性格造形は、「ドライブ・マイ・カー」という短編小説に出てくる、不貞を繰り返し、やがて病気で亡くなってしまう妻と、「シェエラザード」という短編小説に出てくる、何らかの理由で外に出られない男の世話をして、性行為の後に物語を語り出す見ず知らずの女とを、脚本家達が合成させてできたものだ。不貞をして裏切る美しい妻にも、セックスと物語がセットになった素性を知らない女にも、違和感は感じない。しかし、妻がセックスの後に物語を語り出すという設定には、違和感が付随する。20年以上の歳月を共にした身近な女性に遠い神秘性を見ている、映画内の錯誤的なファンタジーに、うすら寒さを覚える。

映画が撮影と編集を観る芸術形式だとするならば、脚本や人物造形の違和感なんか無視してしまってもいいじゃないかという意見もあるだろう。本稿に対して、物語にばかり気を取られていて映画の本質を無視していると、考える人もいるかもしれない。だが、この映画の場合、映画自体の演出が物語の流れと密接に絡まっており、物語を簡単に無視することはできない。

家福による『ワーニャ伯父さん』の稽古は独特だが、濱口の映画についていくらかの知識を有する者にとっては、馴染みのあるものだ。家福は、戯曲のテクストを、感情を排してただただ正確に読むことを俳優達に要求する。何度も何度も、繰り返し読む。「本読み」と呼ばれる一連の作業は、濱口が『ハッピーアワー』以降実際に導入したと語っている方法と同じだ。つまり、フィクション内の家福の演出は、実際の濱口の演出と重なっている。

映画の中で、「本読み」は演技の相手の言葉をより深く聞き、より深く反応するための手段として語られている。だとすれば、「本読み」による演出は、共に演じる相手との関わりが重要になってくる。稽古の終盤で、ワーニャ役の高槻がある事件を起こすことで劇に参加できなくなる。俳優同士の関係性に多くを負っている家福の演出において、1人の俳優がいなくなることは、全体の関係性が大幅に崩れることを意味する。別の俳優が入って立て直すのは容易ではない。映画を観ている誰もが予想するように、代わりにワーニャを演じるのは自身が俳優でもある家福だ。演出家として稽古にかかわったとはいえ、その後の稽古は大きな困難を迎えるはずだ。だが、『ドライブ・マイ・カー』において、高槻が退場したあとの稽古は一切描かれない。かわりに描かれるのは、家福とみさきがみさきの故郷まで車で行く、広島〜北海道間の移動行程だ。ワーニャ=家福の再生を映し出すことが、劇の困難な立て直しの代わりになる。しかし、先程も述べた通りこのシーンは、家福がみさきという精神的クッションにもたれるところで終わりを迎える。家福が涙を流してみさきと抱き合うシーンには、人間の相互的な影響を感じ取れず、家福の一方的な解決に思える。個人的な精神の危機を救うために他人にもたれかかること自体が、責められるべきだと言っているわけではない。本作における、人間の相互的な作用に賭ける演劇の制作過程と、家福の個人的なドラマは重なり合っていないではないかと言いたいのだ。家福の物語は『ワーニャ伯父さん』から乖離しており、劇の上演が蔑ろになっている感覚すら残る。

故に、映画の山場となる上演シーンには空疎さが持続し、家福の演技もどこか芝居じみている。声を張り上げる西島秀俊の姿から、変化は掬い取れない。舞台裏で机に腕をついて息を乱すショットも、妻の死の直後に家福が演じたワーニャの姿と重なって見えてしまう。濱口自身の言葉を借りれば、そこに「はらわた」から響く声が感じ取れないのだ[2]。演劇自体が古風で味気ない新劇のように見えるし、今までの「本読み」は何だったのかという気分に苛まれる。確かに、最後のソーニャの長台詞を韓国手話で語るパク・ユリムは素晴らしい(特に息をパッと吹く動作は本当に素晴らしい)が、彼女はオーディションでも公園での立ち稽古でも力強い姿を見せていた。つまるところ、最後の劇の本番のシーンに、役者達の相互変容は掴めない。パク・ユリムの手話を前にして涙を浮かべる、西島秀俊の姿を映すのみだ。だから『ワーニャ伯父さん』の上演も、みさき同様に、家福の慰めとして使われている感が否めない。それは結局のところ、家福が他者を他者として受け入れて「正しく傷つく」ことが、最後まで為されていない事実を意味するのではないか。本作が映し出すのは、家福の「変わらなさ」だ。そして、本稿の前半で指摘した『ドライブ・マイ・カー』の滑らかさは、「変わらなさ」を隠蔽するための機能を見事に果たしている。

[2] 濱口竜介、野原位、高橋知由『カメラの前で演じること 映画「ハッピーアワー」テキスト集成』左右社、2015年、p53

他の監督の映画であれば、「変わらなさ」の隠蔽も、それほど気にならなかったかもしれない。「ちょっと都合のいいストーリーだけど、映画として良いところはたくさんあるな」で済んだかもしれない。先述した「滑らかな」場面以外にも、本作には素晴らしいシーンがいくつも存在する。フレームギリギリに収まったサーブ900に少しずつカメラが接近していくショットや、広島国際会議場前の噴水(祈りの泉)が吹き上がる3回のショットなど、感嘆を覚えた場面を挙げればキリがない。それで十分じゃないかと思うかもしれない。だが、濱口竜介の映画は、隠蔽されているものを晒し出すことで生まれる変化、あるいは変化の兆しを捉えることに重心を置いていたはずだ。変えられない痛みや醜さは、痛みや醜さのまま映そうとしていたはずだ。それが濱口の信念、いや、信仰だと私は感じていた。だからこそ、本作における都合の良い独りよがりを、やり過ごすことができない。断片を取り出せば本当に優れた作品だと思うからこそ、全体の流れから感じ取った違和感を無視できない。

もしかしたら、私は濱口の過去から見出した幻想を、濱口の現在に押し付けているだけなのだろうか。そうかもしれない。だとしても、今までの濱口作品と『ドライブ・マイ・カー』が根本の部分で異なること、そしてそれによって強く違和感を抱いたことは、指摘しておきたかった。大勢に受け入れられる作品であればこそ、作品から受けた傷をやり過ごすべきではない。なにか大切なものが、『ドライブ・マイ・カー』の中では隠され、排除されている。私はどうしてもそう感じてしまう。そのことに、「正しく傷つく」必要がある。

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新作オペラ『Super Angels』で渋谷慶一郎が賭けたもの、あるいはカニエ・ウェストとの近似性について https://tokion.jp/2021/09/22/super-angels-keiichiro-shibuya/ Wed, 22 Sep 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=60904 渋谷慶一郎が作曲を手掛けた新作オペラ『Super Angels』の世界初演が大成功のうちに幕を閉じた。気鋭の批評家・伏見瞬が同オペラと希代の音楽家の創造性の核に迫る。

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去る8月21日、22日に新国立劇場で渋谷慶一郎作曲によるオペラ『Super Angels』(総合プロデュース・指揮:大野和士、台本:島田雅彦)が世界初演された。同オペラにはオペラ歌手のみならず、アンドロイド「オルタ3」や多様な子ども達、バレエダンサーが出演。さらにはロンドン拠点のヴィジュアル・アーティストのWEiRDCORE(ウィアードコア)が手掛けた映像がフィーチャーされるなど、旧来的な「オペラ」の枠組みにおさまらない多様性に満ちあふれた作品となった。
“子どもたちとアンドロイドが創る新しいオペラ”との副題を授けられた同オペラが提示した可能性とは、そしてそこにあらわれた稀代の音楽家のクリエイティビティの核とは、どのようなものであるのか。気鋭の批評家・伏見瞬が、各所で話題沸騰中の新作アルバム『Donda』をリリースしたカニエ・ウェストを重要な参照項としながら、読み解いていく。

“新しいオペラ”に宿る現代ヒップホップ・アイコンとの近似性

渋谷慶一郎ほど、カニエ・ウェストと近い位置にいる作家はいない。少なくとも、渋谷が作曲を担当したオペラ公演『Super Angels』を捉えるにあたっては、クラシック~現代音楽の文脈やテクノロジーとの関係よりも、現代において最もいかがわしいヒップホップ・アイコンとの近似性から考えた方がいい。

渋谷は『Super Angels』の具現化にあたって、2019年にカニエがはじめたゴスペル・パフォーマンス「Sunday Service」の、近未来の宗教儀式的なイメージを参照したと公言している(※1)。確かに、本作の序盤と終盤に大集団で演奏されるテーマ曲「5人の天使」の、神秘とうさんくささ、安らぎと恐怖が紙一重に同居する感覚は、カニエのゴスペル・ソングの感触に似ている。しかし、似ているのはそれだけではない。

カリフォルニアで行われた「Sunday Service」のパフォーマンス

『Super Angels』の情報量は過多というほかない。オペラなのだから当然オペラ歌手とオーケストラがいるわけだが、歌手の中にはアンドロイド「オルタ3」が含まれる。さらに、新国立劇場バレエ団の5人のダンサーが踊り、ロンドンのWEiRDCOREによる映像が展開し、大所帯の合唱隊が歌を重ねる。極めつきに、視覚、聴覚に障害を持つ子供たちによる合唱団「ホワイトハンドコーラスNIPPON」が声と手話の合唱で参加する。これらばらばらの存在達を、音楽と物語の中で1つにまとめあげる。やらなければいけないこと、ケアしなくてはいけないこと、調整しなければいけないことは無数にある。未知数だらけの無茶な作業に、制作陣は向き合わなければいけない。

破壊的な作業行程は、カニエ・ウェストのそれに通ずる。そもそも彼は、多数の音楽作品の制作だけでなく、自らのファッション・ブランド「Yeezy」も並行して運営し、共にトップクラスの人気と評価を獲得してきた作家であり、さらにはドナルド・トランプ支持の政治家として2020年のアメリカ大統領選に出馬し、混乱と顰蹙を生み出した。物議を醸し続ける言動も含め、その活動全てが、「カニエ・ウェスト」の世界を作り上げるための作業となる。先日発表されたばかりの100分越えの新作『Donda』では、スタジアムを貸し切った大規模なリスニングパーティーを複数回行い、パーティーのあとにはスタジアム内にスタジオを作って音源の調整作業を続け、スタジオの様子をWEB上で24時間流しっぱなしにした。音楽・ファッション・映像・ゴシップ・宗教儀式の要素を重ね合わせ、全世界のオーディエンスと対決する。無数のコラボレーターと共に1つの世界を作り上げて大多数に差し出す作業は、横暴さと繊細さの間をひたすら綱渡りするようなものだ。膨大な情報量、多数の協同者、巨大なリスクの引き受けという点において、両者の制作姿勢は共通している。

カニエ・ウェスト『Donda』リスニングパーティーの様子

楽曲自体にも共通性がある。渋谷の作品においては、現代音楽の複雑さと、ポピュラーソングめいた親しみやすさと、電子ノイズの刺激が、1つに溶け合うことなく同居している。『Super Angels』でも、音列技法を駆使した不協和音の楽曲と、俗っぽさすら感じるシンプルな歌曲と、リアルタイムでのサラウンド・ノイズが詰め込まれていた。この折衷感は、粗暴なインダストリアル・ビートが突如神聖なゴスペル・ソングにつながり、ソウルフルな黒人コーラスにキング・クリムゾンの白人的ロックのサンプリングが衝突する、カニエの曲の支離滅裂に近しい。

2人が、ほぼ同時期に身近な家族を亡くしており、作品にその死を反映させていることも指摘せねばなるまい。カニエが2007年11月の母の突然の死に10年以上こだわって混沌と恋慕を表現し続けるように(『Donda』は母親の名前である)、渋谷は2008年6月の妻との死別を契機に作られた『ATAK015 for maria』(2009年)以降、死を主題にした作品を多く発表してきた。初音ミクにとっての死をテーマにした『THE END』(2012年)にせよ、仏教音楽・声明とエレクトロニクスによって生死の境を描かんとした『Heavy Requiem』(2019年)にせよ、はたまた太田莉奈が死の記憶を歌う憂穏なダンスポップ「サクリファイス」(2012年)にせよ、そこには常に死が付きまとう。そして『Super Angels』においても、主人公の肉体的な死が描かれ、AIにとっての死も暗示的なモチーフとなっている。

渋谷慶一郎「ボーカロイド・オペラ『THE END』 初音ミク(パリ公演)」
渋谷慶一郎/Keiichiro Shibuya – “Heavy Requiem” – Buddhist Chant: Shomyo + Electronics (Ars Electronica)

※1  「TALK LIKE BEATS presented by Real Sound #65 Guest:渋谷慶一郎 初音ミク、杉本博司、藤原栄善……渋谷の記憶に刻みついたコラボレーションとその裏側」37:52以降の会話を参照
https://open.spotify.com/episode/3n1TpYYSILVm72VvuV8mqg?si=_JikKWXRSy2foh6KsdVL5w&dl_branch=1

明快な二項対立を拒む、相反する欲望

島田雅彦が脚本を務めた『Super Angels』の筋書きはシンプルだ。「マザー」というセントラルAIに統治された管理社会において、「異端」の烙印を押されて「開拓地」に追放された少年アキラと、彼に同伴したアンドロイド「ゴーレム3」(オルタ3の役名)が、意識と無意識を混ぜる装置「カオスマシーン」を駆使して、マザーに反乱を企てる。途中、アキラはマザーの策略によって命を落とすが、意識をゴーレム3に託し、想い人だったエリカと「カオスマシーン」の力で再会し、最後はマザーを崩壊に至らしめる。理性と管理を象徴するマザーが敵で、夢と解放を象徴するアキラとゴーレム3が主人公という古典的な二項対立が、この物語の特徴だ。

しかし、脚本の単純明快な対照性は、渋谷の楽曲と演出によって破綻をもたらしている(破綻していく)。最後、大団円のコーラスで終わるかと思いきや、エリカのソロパートが奇妙な緊張感を持って響き、不穏な空気を残したまま劇は終了する。このソロパートは、第三幕のマザーの人工音声が歌ったパートと同じものだ。エリカとマザーが歌によって重ねられており、主人公側のヒロインであるはずのエリカが、新しいマザーとなるバッドエンドがほのめかされている。また、テーマ曲「5人の天使」はマザーを称える場面でも、アキラとゴーレム3を称える場面でも使用されており、両義的な響きが消えない。

もう1つ、引っかかったのはマザーとゴーレム3の声の対比だ。解放の旗手ゴーレム3の歌のとっぴな音声変化に比べて、ステージ上空から降ってくる統治者マザーの声のほうがトーンが安定していて聞き取りやすく、人間に近しいのだ。管理を求めているのは、機械ではなく人間なのではないか。そんな疑念が燻る。つまり、『Super Angels』においては、敵と味方、管理と解放、機械と人間の対立軸が楽曲演出によって混乱に投げ込まれ、観客は物語の安心感と演出の不安感に引き裂かれる。ホワイトハンドコーラスによる手話は、観客に聞こえないメロディを想起させ、不安定は一層際立つ。この混乱は、オペラという西洋発祥の形式自体が持つ、安定した人間中心主義に対する日本人からの批評でもあるだろう。と同時に、それは渋谷慶一郎が抱えた欲望との対峙を表している。

欲望とは、ここでは「私が誰で、世界はどういうものか」という世界像を形成するための、根本的で不可解な心の働きを指している。渋谷慶一郎は、安定を拒む欲望の中で生きているように思える。同時に、強烈なコントロール欲求を持っているようにも見える。この2つは、カニエ・ウェストの活動や言動からも感じる。未知の世界を知りたい欲望と、世界を思い通りにしたい欲望が重なると、全知全能のカリスマにやがて人は近づく。つまり、相反した強い欲望の先にあるのは「マザー」なのだ。マザーは機械ではない。それは、あまりに人間的な未知と支配への欲求が、行き止まりにたどり着いた時の姿だ。解放と管理は、マザーのデッドエンドにおいて踵を接している。

渋谷が“機械”に賭けたもの、逸脱への志向性

『Super Angels』で私が最も心動かされたのは、マザーの精神世界を表現した第三場のバレエダンスだった。木村優里によるダンスは、つま先立ちとも相まってどこか危う気で、華麗な足のステップと、ぎこちない腕のロボットダンスが、統治者の深い不能感と重なって見えた。それは、なんというか「天皇」のように孤独だと思ったのだが、渋谷が言うにマザーを称える前半の曲は、大日本帝国政府から嘱託を受けて「大管弦楽のための日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」(1940年)を作曲した作曲家・リヒャルト・シュトラウスによるオルガンとオーケストラのための「祝典前奏曲」(1913年)の冒頭のオルガンを引用しているという。とにかく、マザーの罪悪と受難を、他人事としない表現に、私は感銘を受けたのだと思う。エリカとマザーの同化も、マザーを無条件に否定できる存在にしない意図から生まれているだろう。

欲望の皮肉な逆説に気付いているから、渋谷もカニエもコントロールできない状況に身を投じる。膨大な情報量の処理を自らに課し、多様な他者との協同を好み、緊迫したリスクを背負い続ける。支離滅裂を愛し、生者にとって最も不可解な死への興味を止めない。それは、自らの力では変えようのない原理的な欲望に、自らが抗うための手段だ。しかしながら、抵抗に思える運動も、実際は欲望の一部に過ぎないのかもしれない。

渋谷にとってもカニエにとっても、「自由」の歓びは入り組んだけもの道の先にしか感じ取れない、大変にややこしいものだ。いつそれが不自由な機能不全に転じてもおかしくない。カニエはおそらく、自らとの不安定な闘いを、唯一神への愛によって方向付けている。矛盾に満ちた彼が初期から最新作まで信仰を歌い続けているのは、オーディエンスにとって衆知の事実だ。

渋谷が賭けているのは、機械の非欲望的な側面だ。アンドロイド「オルタ3」は、ステージを動き回り声を発していたが、そこに欲望はない。計算の積み重ねの中で動いているに過ぎない。だからこそ、人間の欲望が持ちえない不規則性、あるいはエラーを時に有する。機械と人間との関係次第で、人間の欲望は別の何かに異化する。もちろん、機械が機能不全をもたらす可能性もあるが、賭ける価値はある。

渋谷の機械に対する信頼は、ピアノとの関わりから生まれているだろう。西洋楽器の中でも最も数学的に整えられた音響機械に渋谷が触れるとき、残響の変化によって、コントロールから逸脱した自由が生じる。彼の指は、非人間的な響きの深さを探るように動く。逸脱を教えた機械という意味では、ピアノこそが、渋谷にとっての最初のアンドロイドだった。電子音のエラー、グリッチノイズへの愛着にも逸脱の志向が潜む。

そして、『Super Angels』におけるオルタ3の素っ頓狂な声の変化にも、クライマックスで視覚障害の少女、長野礼奈がソロで鳴らすバイオリンの緊迫したハーモニクスと、音に加わるサラウンドのエフェクトにも、人間的欲望からの逸脱が聞こえた。コントロールを最大限に発揮しながら、そこに落ち着かない音に信を置く。『Super Angels』は、管理も解放も、現実も夢も、人間も機械も肯定しない。本作が肯定するのは、異物によって欲望が異化する時の歓びの感触、ただそれだけである。 

■新国立劇場『Super Angels スーパーエンジェル』
総合プロデュース・指揮:大野和士
台本:島田雅彦
作曲:渋谷慶一郎
演出監修:小川絵梨子
総合舞台美術(装置・衣裳・照明・映像監督):針生 康
映像:WEiRDCORE
振付:貝川鐵夫
舞踊監修:大原永子
演出補:澤田康子
オルタ3プログラミング:今井慎太郎

※年内に公演記録映像の無料配信を予定

渋谷慶一郎
東京藝術大学作曲科卒業、2002 年に音楽レーベル ATAK を設立。作品は先鋭的な電子音楽作品からピアノソロ 、オペラ、映画音楽 、サウンド・インスタレーションまで多岐にわたる。
2012 年、初音ミク主演による人間不在のボーカロイド・オペラ『THE END』を発表。同作品はパリ・シャトレ座公演を皮切りに世界中で公演が行なわれている。2018 年にはAI を搭載した人型アンドロイドがオーケストラを指揮しながら歌うアンドロイド・オペラ『Scary Beauty』を発表、日本、ヨーロッパ、UAE で公演を行なう。2019 年9 月にはアルス・エレクトロニカ(オーストリア)で仏教音楽・声明とエレクトロ二クスによる新作『Heavy Requiem』を披露。人間とテクノロジー、生と死の境界領域を作品を通して問いかけている。
2020 年9 月には草彅剛主演映画『ミッドナイトスワン』の音楽を担当。本作で第75 回毎日映画コンクール音楽賞、第30 回日本映画批評家大賞、映画音楽賞をダブル受賞。2021 年8 月、東京・新国立劇場にて新作オペラ作品『Super Angels スーパーエンジェル』を世界初演。2021年12月にはドバイ万博ジャパンデーに於いて新作のアンドロイド・オペラを発表予定。日本の仏教音楽・声明とUAE現地のオーケストラとのコラボレーションによる大規模な作品が構想されている。
http://atak.jp

Photography Ronald Stoops

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インタビュー:ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーへの10の質問 https://tokion.jp/2020/11/07/interview-oneohtrix-point-never/ Sat, 07 Nov 2020 11:00:53 +0000 https://tokion.jp/?p=11215 現代最重要アーティストの1人であるOPNが待望の新作アルバム『Magic Oneohtrix Point Never』をリリース。気鋭の批評家・伏見瞬が、10の質問で同作の背景とOPNの創作哲学に迫る。

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アンビエントやドローン、エクスペリメンタルを主領域として刺激的な作品群を紡ぎあげ、――時にブライアン・イーノやエイフェックス・ツインらの名前を引き合いに出されながら――、各所から高く評価されてきた米ブルックリン在住の音楽家、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(以下OPN)ことダニエル・ロパティン。2017年にはサウンドトラックを手掛けた映画『グッド・タイム』がカンヌ・サウンドトラック賞に輝き、また、今年3月にリリースされ世界的ヒットアルバムとなったザ・ウィークエンド『After Hours』に作曲・プロデュースで参加を果たすなど、その活動のスケールや領域は広がり続けている。

そんな彼がOPN名義として前作から約2年半ぶりとなる新作『Magic Oneohtrix Point Never』を完成させた(「TOKiON the STORE」ではリリースを記念したポップアップストアも展開中だ)。同作の背景やその根底にあるもの、そして同氏の創作哲学の核を探るべく、気鋭の批評家・伏見瞬がOPNに10の問いを投げかけた。

不適切そうに思えるものを混ぜ合わせる――その錬金術みたいなものに興味がある

Q1:新作を聴かせていただいて、印象的だったのはストリングスやチェンバロのような音が目立っていたことです。『Age Of』あたりから、あなたの曲にはチェンバーポップ的なアプローチの楽曲が増えたように感じます。このあたりの変化について、ご自身ではどのように考えていますか?

ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(以下、OPN):正直、自分ではわからないな。例えばメロトロン・ストリングスは『Replica』でも使っているし、あれは2011年に出たわけで。だからその指摘が当たっているかどうかわからないけど、とにかくクレイジーなストリングスの編曲に挑戦してみるのが好きだし、だからやっている。そういうことだね。ただ、今回のレコードの制作時には、古いAMラジオのフォーマットで「Beautiful music」というものがあるんだけど、それを特によく聴いていて。「イージー・リスニングという呼び名が定着する以前のヴァージョンのイージー・リスニング」とでもいうか、とても甘ったるい、大袈裟なストリングス要素を山ほど使っている音楽なんだ。もしかしたら、それが何か関係しているのかもしれないね。「Beautiful music」は、一種のミューザックや店内で流れるBGMみたいなものなんだけど、その手の音楽だけを専門に流すラジオ局が存在していたっていう。1970年代かそれくらいの時期に、ショッピング・モールのエスカレーターで流れていた音楽、みたいな。あれは興味深いよ。

Q2:新作は「ラジオ」をモチーフにしていると伺いました。ラジオは、テレビやインターネットよりも親しみを覚えるメディアだと思います。あなたは、ラジオの性質をどのように考えていますか?

OPN:とにかくまあラジオを聴いて育った僕からすれば、ラジオは「それを通じて自分独自のテイストを発展させていくための手段でありテクノロジー」みたいな感じかな。若い頃は、暇さえあればラジオをエアチェックしてミックス・テープを作りながら過ごしていたしね。とにかくラジオの持ち味すべてが好きだったってことだし、どう説明すればいいのやら……。例えば局を別の局に切り替える際のサウンドが気に入ったし、正体不明の局にぶつかったかと思えば次の瞬間にはコマーシャル局の流す、もっと出来合いのスタイルにパッケージされた放送が耳に飛び込んで来る、みたいに完全にランダムになれるところも、とにかく好きだった。だから、そういった「あれやこれやのすべてが表に存在していて、空気中/霊気(ether)の中を漂っている」っていうのはいいな、と。で、ある意味、それを掻き分けてサーフしなければならないわけ。あれは楽しかったね。

Oneohtrix Point Never『Magic Oneohtrix Point Never』

Q3:エレクトロニックミュージックの作家、Arca、Yves Tumor、George Clantonなどの近作には70年代のグラムロック(ボウイやT-rex、Roxy Musicなど)と同じ匂いを感じます。コンセプチュアリティ、ミュータント性、ヴィジュアル要素の強調、それまでの音楽への批評的視点などに、グラムロックを感じるんです。Garden Of Delete、Age Of、そして今作と、あなたのアルバムにも同様の特徴を感じます。あなたは1970年代の批評的なロックをどのように受け止めてきましたか?

OPN:僕はとにかく、不適切そうに思えるものを混ぜ合わせる――その錬金術みたいなものに興味があるというだけのことなんだ。新作にも、グラムロックの一種と言えるヘア・メタル(※80年代アメリカのいわゆる「お化粧メタル」。ガンズ・アンド・ローゼズ、モトリー・クルーetc.)の要素はちょっとあるけどね。レコードの終わりのほうにマジにヘア・メタルな瞬間があって。それは“Lost But Never Alone”というトラックのことだけど、自分にとってあの曲がおもしろいのは、あれがヘア・メタルとゴスの混ざったようなものだからなんだ。80年代の音楽ファンはヘア・メタル族かゴス族かまっぷたつに分かれていたし、その両方が好きな奴がいたらそいつはスキゾだ、と。だろ? ハッハッハッハッハッ! その2つの異なる音楽ライフスタイルを同時に体現するような曲はどんなものか、両者の典型的な形式言語を聴いて取れる、そういう音楽はどんなものだろう?と。興味をそそられたのは、そこだったんだ。

ただ、僕は、ポピュラー音楽というのは連続体だと思っているし、そこでは新奇な音楽テクノロジーの利用と、目新しいソングライティング手法との組み合わせが起きている。ポピュラー音楽界ではそれが常に起きているからこそ、スタイルもいろいろと変化していく、と。ただ、それでも結局のところ、ポピュラー音楽というのは自身と対話しているようなものなんだよね。というのも、ある意味自らを塗りつぶしていくというのか、聴き手の面前でポピュラー音楽はリアルタイムで変化していくものだし、一種の反動としてそれが起きている。要するに、それ以前に起きたことへのリアクションであり、また、それまで使用可能だったテクノロジーに対する反動として変化していく。だから、僕からすればすべては混ぜこぜに思えるのは全く理にかなっているんだ――それらは連続体として続いているから。

メランコリーは、最も美しい類いの音楽を生み出す感情

Q4:少し奇妙ですが、私が今作から連想した既存の作品はSmashing Pumpkinsの『マシーナ』でした。ご存知ですか? それは、ヘヴィメタルとニューウェイブの要素を感じるから、そして『マシーナ』収録曲の「I Of The Mourning」が「ラジオ」をテーマにしていたからだと思いますが、もう一つ、「センチメンタル」なムードが共通しているのではないかと思いました。私はあなたの作品にあまりセンチメンタルな性質を今まで感じなかったので、今作にセンチメンタルな感覚を覚えたことに少し驚きました。あなたは自分の作品における「センチメンタリズム」を意識したことはありますか? センチメンタル、あるいはメランコリーと言ってもいいかもしれませんが。

OPN:(『マシーナ』は)あんまりよく知らないけど、知ってはいるよ。(メランコリーについては)そうだね……、そもそも僕とエイブル(・マッコネン・テスファイ)、ことザ・ウィークエンドとがお互いに引き寄せられた理由の1つは、どちらもメランコリーにとても興味のある人間同士だからだし……。でも、おかしなものだよね、メランコリーっていうのは。というのも、あれっていわば、自分の抱く悲しみの中から喜びを得ようとしている状態のようなものであって。そして、その状態は音楽においてはとても興味深いもので。というのも、僕からすれば歌のほとんどはそういうものだから。自分の悲しみ、あるいはエモーションの劇場と言ってもいいけれども、そういったものの痛みに歌はうずいているし、その感情がネガティヴなものであれポジティヴなものであれ、とにかく感情をとことん探究するってことだし、感情の最果てを目指すことで極端なものになる、みたいな。で、メランコリーというのは……うん、僕にとってのメランコリーというのは、「最も美しい類いの音楽を生み出す感情」なんだ。もちろん、これは僕個人の意見に過ぎないけどね。ただ、例えばラヴェル作品の『夜のガスパール(Gaspard de la nuit)』、あれの第二部が本当に好きで。“絞首台(Le Gibet)”という題名のパートだけど、あれは実に奇妙に空間性が多くて、とても悲しいから好きなんだ。しかも音符の数はごく限られていて、あれはすごく不思議な感じがする音楽だな。だからなんというか……そのせいで、本当に妙なんだ。聴いていると不安にさせられる、みたいな? うん……ともかく、そうだね、メランコリーは好きだ。それは間違いない。

Oneohtrix Point Never – Long Road Home 

Q5:あなたの音楽において、アルペジエーターの使い方が特徴的で、あなたのシグネチャーのような音になっていると感じます。アルペジエーターを頻繁に使う理由を、あなた自身はどのように考えていますか?

OPN:なんで頻繁に使うか、その理由? 自分にもわからない! エレクトロニック音楽が好きだし、とにかく分散したサウンドのシークエンスの響き方が好きなだけだ、としか言いようがないな、うん。そこから生まれるサウンドそのものは美しい、と。だから使っているんだよ。

Q6:あなたは音楽を作る時、何らかのエモーションを込めて作っていますか? それとも冷静に作っていると感じますか?

OPN:もう、これだけ(音楽作りを)長くやってきたんだし、今の自分は本当に直観的にやれるようになっている、ということかな。そう言ったって、それは何も考えずにやっている、という意味ではないんだけれども。とある音楽ピースを作るにあたって自分がそこで何を達成しようとしているか、それについての明確なアイディアは持っているし、アルバムを作る際に、とある一連の楽曲シークエンスをそう並べることで自分には納得がいくのはどうしてか等々、そこは把握している。ただ、それらは本当に、直観的な決断なんだ。ある意味、それらの決断は知性に左右されるものではない、という。もちろん僕はそれらについて考えるのが大好きだし、それに……できあがったところで全体を振り返り、「わぁ、これはかなりおもしろいものになったな!」と考えるのも好きだけどね。ただ、ここで言わんとしているのは、自分はとにかく直観的にやっているということ。願わくはね。 映画に音楽スコアをつける際と、今回の新作のように完全に自分自身のクリエイションの場合とでは、やはり違いはあるよね。だから、僕の直観はどちらにも必要なんだけど、映画作品の場合は実作業の面で調整可能なものにしなくてはならない、という意味では違う。場面のキューや長さに合わせなくてはならない等々があるし、これまで僕が仕事してきた映画監督達はみんな、当然のことだけれども、自分達の作品を非常に、非常に大事にしている人達で。彼らは映画音楽に何をやってほしいかをきっちり把握している。で、その点は必ずしも純粋に「僕次第」で決めていくことではない、という。だからそれは僕の直観と監督側の直観との間に生じる対話ということになるし、その対話が一種の地図になっていく。双方が納得したものじゃなくちゃならないし、ともに目指す達成地点のゴールというのかな、うん、一種の地図ができていくんだね。ところが、自分1人で作業する場合、必ずしもそこに地図は存在しないというか……例えば今回の場合は、とにかく「セルフ・タイトルのレコードを作りたい」というアイディアが浮かんだだけだし、だからいろんなことを考え始めて。そこで作品の設定としてラジオ局を使うのは納得がいくな、と思ったんだ。だからなんだよ、ああなったのは。ただ、自分にわかっていたのはそこまでで、音楽的な実験という面ではわかっていなかったよ。この作品が実際にどういうものになっていくのか、というところまではね。

僕は何らかの「空間性」のある音楽を思い描こうとしているんだ

Q7:最近読んで刺激を受けた本はありますか?

OPN:ああ、最近読んだ本があって(と、声がやや遠くなり、本を見つけ出そうとしている)……どこにあるかな……あ、あった! 『High Static』という本で、正確には『High Static, Dead Lines – Sonic Spectres & the Object Hereafter』。大まかに言えば、ラジオ放送をはじめとするさまざまなノーマルな音響との遭遇について。ラジオの放送をやっていて奇妙なことが起きた等々(苦笑)、まあ、いろんな不思議な遭遇例を検証した本ってことになるね。すごくクールな本だよ。フィクションはそんなに好きではないな。哲学書だとか、社会学系や歴史本といった、ノンフィクション作品を読むのが好きだよ。

Q8:サフディ兄弟とのタッグについて。私は『GOOD TIME』と『Uncut Gems』を近年に稀に見る傑作だと思っていますが、あなたの貢献が作品を全く別のレヴェルへ押し上げていると感じました。新しい映画のあり方が作られつつある。そう思いました。あなたは映画音楽を新しいフェーズへ移していこうといった野心を持って映画音楽の制作に臨んでいますか? それとも、感情や感性に任せていたりしますか?

OPN:最初に、自分の内側を眺めてみようとしたと思う。で、作業を進めながらそれらを修正・調整していく、という。だから、僕はそれを相手にやればやるほど自分自身の直観について理解が深まっていく、そういう段階にあるんだよ。でも、「これをやると良いだろう」と狙って、自分に無理強いした試しはまずなくて。どっちにせよ、常に自分の直観に従っているんだしね。

Q9:私は以前、ディズニー映画の音楽を作っていたシャーマン兄弟について調べていたのですが、彼らはあなたと同じロシア系ユダヤ人の移民二世でした。彼らとあなたの音楽スタイルは全く違いますが、土地から切り離されている感じと、ここではない別の新しい世界を想像している感じは共通していると思いました。ロシアからの移民二世であることがあなたに影響を与えていると感じますか?

OPN:――あーむ…………きっとそうなんだろうね? ただ……その影響をどんな風に測ればいいのか自分にはわからない、というか。だって、それって本当に、とても複雑な話なわけでしょ? だから……確かに自分の両親の感性からは影響を受けたよ。それはアメリカンな感性ではないし、ただ、僕自身はアメリカで生まれ育った、という。だから自分のことはロシア移民家族の子どもの、でもアメリカで生まれて育った人間(=アメリカ人)だとかなり思っているし……もちろん、そういう育ち方ならではの、非常に独特な体験は経てきたよ。ただ、その体験が僕の作る音楽にどんな風に作用してきたか?というのは……それは、フロイト派の心理学者か何かじゃない限り、答えられないよ。

確かに僕は非常に、ものすごくプライヴェートな音楽を作ろうとしている。けれども、だからと言って、それは何も、自分に影響を与えてきた音楽だったり、自分が音楽を塑造するきっかけになった音楽、それらを体現するような音楽を作ろうとしてきたわけではない。だから、そういったことが僕の生まれ育ちとどう関わっているのか?ということは、自分にはわからないな……。だって、人によっては、音楽や映画の世界への導入部は単純に、その人の親の持っていたレコード・コレクションだのヴィデオ・テープ群だったってこともあるんだし。精神的な面では、自分は親の持っていたVHSテープに影響されてきたんじゃないかと思う。親はミハイル・バリシニコフ主演の『ホワイトナイツ/白夜(White Nights)』(1985)っていう映画のVHSは持っていたけど、家にはレコードは1枚もなくて(笑)。でもさ、『ホワイトナイツ』には音楽が含まれていたんだよ! あれは……ルー・リードの曲で、“My Love Is Chemical”という歌が劇中で使われていたけど、あれはめちゃくちゃヘンなルー・リードの曲なんだよ、シンセ・ポップ調な歌で。あれはすごくヘンな、いわゆる、「ダサ過ぎるから逆に良い」みたいな曲っていうか(苦笑)? チェックしてみてよ。すごく異色な曲だから。

Q10:あなたはBrian EnoやWilliam Basinskiのような「アンビエント」というジャンルを定義づけてきたミュージシャンからの影響を以前のインタビューで語っていました。近年のOPNの作品は形式的にはアンビエントミュージックから離れていますが、新作のラジオというコンセプトや映画音楽でのチャレンジは、「どのような環境で音楽が聴かれるか?」というアンビエント的な問いを意識しているものではないかと思いました。私はストリーミングサービスの普及以降、アンビエントのコンセプトはより重要性を帯びていると感じます。あなたは今、アンビエントのコンセプトをどのように考えていますか?

OPN:人々がアンビエントに求める効果って、聴いていると物事のペースが遅くなり、そうやって一種の、他から一切干渉されないテリトリーを、精神的な領域みたいなものを作り出そう、みたいなものじゃない? で、そんなことをやるのは不可能な話だろうと、ぶっちゃけ、自分では思っているけどね。でも、それはともかく――それでも、アンビエントはものすごく、本当に、本当に美しい音楽になり得るものだと思っている。大好きな作品もかなりあるし、そうした作品のもたらす場面を味わってきたことも確かにある。でも、アンビエント音楽を聴く際に……何らかの効果を目的としてそれを聴くことは自分にはまずない、というのかな。だから、例えば「リラックスしたいからこの音楽を聴こう」とか、「眠りに就く助けとしてこれを聴く」だとか「チル・アウトのために聴く」云々の効用を自分が求めるってことはないんだよ。

作品を作る時に「自分の音楽がどのように人々に聴かれるか」ということは、考える。と言いつつも、その回答は2つの部分から成っていると思う。1つは、僕はまず、自分が聴きたいと思う音楽を自分で作っている。でも、2つ目に、それと同時に僕は、聴いた人々にとっても充分な空間/余裕のある音楽を作りたいと思っているんだよ――聴いた人々がまた、それぞれ独自に、クリエイティヴにその音楽と遭遇を果たすことのできる、そういう「空間性」のある音楽をね。いろんな風に取れる両義的な曖昧さもあり、それだけ聴き手にも夢を見られるだけの余地がある、そういう音楽を思い描こうとしているんだ。と同時に、それは根本的に、僕自身にとっても魅了されるような音楽である必要もある。その面がなかったら、僕自身がすごくイライラして、飽きてしまうだろうから。僕が音楽を作らなければいけないのは、根本的に……これまで存在してこなかった何かを自分は表現できているぞっていう、その手応えを感じたいからだし。それが動機なんだ、うん。

ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(ダニエル・ロパティン)
1982年生まれ、アメリカのマサチューセッツ州出身。ミュージシャン、プロデューサー。2013年よりWarp Recordsと契約し、ソフィア・コッポラが監督した映画『ブリングリング』のサウンドトラックやサフディ兄弟監督の映画『グッド・タイム』のサウンドを手掛けるなど、自身の作品以外にも活動を展開。最近では、ザ・ウィークエンドの作曲やプロデュースにも携わるなど、フィールドの幅を広げている。

■Oneohtrix Point Never POP-UP STORE
会期:10月31日~11月15日
会場:TOKiON the STORE
住所:東京都渋谷区神宮前6-20 MIYASHITA PARK North2F (MAP)
時間:11:00〜21:00

Question and Translation Mariko Sakamoto

Photography David Brandon

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コラージュから読み解く君島大空 https://tokion.jp/2020/11/04/ohzora-kimishima-collage/ Wed, 04 Nov 2020 06:00:38 +0000 https://tokion.jp/?p=9897 ミュージシャン、君島大空が自らの「コラージュ」性を語る。彼の知られざる音楽遍歴と表現のコアに、批評家・伏見瞬が迫った。

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君島大空。1995年生まれの音楽家。彼の音楽には、ありとあらゆる要素が詰め込まれている。ロックもポップスもフォークもジャズもエレクトロニカも入り込んでいるのだが、そのどれかが中心を成しているわけではない。どちらかというと、あらゆる要素が切り貼りされて一つの世界を成していくコラージュ性が、表現の主導権を握っている。そのような感覚がある。

今回は、君島大空の「コラージュ性」をテーマに話を伺うことになった。結果的に、そのテーマは彼の音楽的ルーツや言葉との関わり方につながっていった。

まず、彼は何枚か紙を差し出してきた。それは、今までの作品のジャケットにもなっている、彼自身の手によるコラージュ作品だ。デジタルでの切り貼りではなく、すべて手作業で行っている。切り取られた紙だけで構成されているのではなく、糸も細かく器用に縫い付けられていた。

「手」で考える、「耳」で見る

──コラージュの制作を始めたのはいつ頃から?

君島大空(以下、君島):3年前です。弾き語りのデモCDを出すことになって、ジャケットをどうしようか迷ったんです。絵を描くのも好きなんですけど、人に見せられる程の自信はなくて。そこで、コラージュをやってみようと思い、実家の窓からの風景に切り取った写真を重ねました。

岡上淑子さんというコラージュ作家が好きなんです。特に彼女の『はるかな旅』という作品。一見感情の通ってない冷たい質感なんだけど、よく見ると人の手で作った跡が感じられる。手で切った跡に体温を感じました。これなら僕もできるんじゃないかと思って、音楽制作に煮詰まった時に、コラージュを作るようになりました。

コラージュの制作中は、手をずっと動かすことになります。「この写真をこの角度で切り取りたい」と集中すると、それ以外のことが頭から消える。その時間がすごく好きで。とてもリフレッシュできます。時と場合によりますけれど、調子が良いと1日で3つ作れたりします。

そして手を動かす時間以上に配置を考える時間のほうが長いかもしれません。それは音楽も同じです。ミックス段階で音をどう配置するかですごく悩む。目で見るのと耳で聞くのを、同じ頭でやっている感じがします。ちょっと共感覚っぽいところがある。聴いていて風景の見える音楽が一番好きなんです。海のことを歌ってないのに海が見える。そういう力が音楽にはある。自分の音楽からも景色が見えないと納得できないんですよね。今くらいの秋の晴れた日だと、カーテンのレースに光が当たって、柔らかく「ふわぁ」となっている状態を、言葉で描写せずに表現したい。新しい作品ではそのことをすごく考えました。

──手作業が楽しいという話に関連して、君島さんはギター弾くの好きですよね?

君島:めちゃくちゃ好きですね。

──ライヴでは合奏形態でも弾き語りでも、ギターを弾きながら笑っている姿が印象に残っています。コラージュもギターも手を使うという共通点があって、君島さんは“手の人”なんだなと。

君島:「手」で考えているところはありますね。過去のライヴ後に「エグベルト・ジスモンチみたいだ」(エグベルト・ジスモンチ=1947年生まれ、ブラジル出身のマルチ器楽奏者、作曲家)ってツイッターで書いていましたよね?僕はジスモンチがすごい好きなので嬉しかったです。「届いたな」って思った(笑)。

──ジスモンチもギターが好きで好きで仕方ない感じしますよね。

君島:彼はそもそもピアニストで、ギターは楽しいから弾いているというスタンスな気がします。独学で習得した演奏法に誰とも比較できない静けさと無邪気さを覚えました。自分で10弦ギターを作ったりもしている。ギターを弾いている時は遊んでいる子どもみたいな感じがすごくいい。ここ2、3年強く意識している1人です。

情報量と「演技」しない音

──ブラジル音楽はもともとお好きなんですか?

君島:大好きです。特にアントニオ・ロウレイロ(=1986年生まれ、サンパウロ出身のシンガーソングライター、マルチ器楽奏者、作曲家)。彼のファーストアルバム(『Antonio Loureiro』2010年)は特別な作品です。すべて1人の内から湧き出てきてしまった感じとか、和声の連結の仕方やそこに乗せるメロディも込みで1つのかたまりになっている。こういう感じを自分の作品でも出せないかな、と思っていました。

ロウレイロのファーストには音楽の「湿度」みたいなものがある。じめっとした暗さ、作らずにはいられなかった衝動が出ている状態。それが僕にとってかけがえのないものなんですよね。

──ちなみに長谷川白紙さんもロウレイロが好きと言ってました。

君島:去年ロウレイロがトリオ編成のライヴを日本でやったんですけど、観にいったら白紙くんに会いました。

──君島さんと白紙さんから同じミュージシャンの名前が出てくるのはおもしろいですよね。お二人の音楽は出てくる音が似ているわけではないけれど、共通性はある。それは「情報量の多さ」だと思うんですよね。あらゆる要素を、取捨選択をせずにすべてまぜこぜにしたまま放出している感じがある。それが、ある種のコラージュ感覚にも通じていると思う。自らの作品の情報量は意識しますか?

君島:わざと情報量を増やしている部分もあります。録音していて好きなのは、衣擦れの音とか咳払いとか、偶然入った「録れちゃった」音。それは録ろうと思って録った音とはやっぱり違って、「録られる」こと意識していない、緊張を強いられていない音なんです。

──音も「演技」しますよね。

君島:そう、「演技」していない音が好きなんです。ボイスメモで偶然録れちゃった音を、自分にしかわからないように作品に取り込んだりしています。日々聞こえている音を、日記みたいな感覚で録音しています。その中で良いなと思った音を、曲のテクスチャーに加えてみる。「テクスチャー」というと曲の上澄みみたいに捉えられることが多いかもしれないけれど、僕はそれが一番最初にあってほしいと思います。すごく大事で、大気や酸素のようなものに似ている気がします。自分にしか聞こえない音を入れていくことで、やっと自分の色が出てくるんです。

コロナ、フェネス、そしてメタル

──ここ数年の世界には1990年代っぽい雰囲気があると僕は感じています。ざっくりまとめると、1990年代は情報が未整理のまま詰まった状態が生々しくリアルだった。それと同時に、1990年代には世界が良くならないままだらだらと日々が続くような、ローファイやグランジのアーティストが表現していたような気怠いフィーリングもあったと思う。最近の世界の気配、特に新型コロナ以降の空気は1990年代のそれに近い。情報過多の中で、だらだらと日々が続いている。そして、情報量の多さや気怠いフィーリングは、君島さんの音楽にも通じるものがあると思うんです。
君島さん自身は、ご自身と、外側の時代の空気をどういう距離感で考えていますか?

君島:なるべく関係ないものにしたいとは思っていました。世界と関係なくなれる場所に、自分の音楽がなればいいなと。けれどコロナ禍になって、結局世界から影響は受けちゃうし、それはそれで別に構わないなと思うようになった。コロナの状況になって初めて外からの影響を意識するようになりました。自分と向き合う時間が長くなったからでしょうね。

1990年代っぽいというのは最初のEP(『午後の反射光』)を出した時にもよく言われたんですけど、実はその時代に人気だった音楽からは全然影響受けてないんですよ。レディオヘッドを初めて聴いたのは1年半前だし、スマッシング・パンプキンズも1曲くらいしか知らない。かっこいいとは思うけど、僕はみんなが聴いていた音楽を避けていたところがあったんです。

自分で音楽を作ろうと思ったきっかけは、フェネス(=オーストリア出身の電子音楽家、ギタリスト。坂本龍一とのコラボ作品でも知られる)の『Endless Summer』(2001年)なんです。ここまで1人の人間が広げられる音楽があるんだ」と衝撃的で。彼の脳みそをそのまま覗いている感じがしたんです。時系列はばらばらのまま、彼の大切なものが全部詰まっている。フェネスがこのアルバムで使っている機材を調べたら、ラップトップとジャズマスターのギターとファズエフェクターだけ。必要最小限の機材で作った音楽が、日本の片隅の若者にも届いていることに感動した。「これを自分でもやりたい」と思ったんですよね。いろいろな時期の録音を1つの音源に入れるのも、フェネスからの影響かもしれません。

──なるほど。僕が1990年代の匂いを感じたのも、脳みそをそのまま見せるような生々しさ故かもしれません。

君島:ちなみに、フェネスに出会う前はメタルばっかり聴いていました。

──メタルはどのようなものを聴いてましたか?

君島:メシュガー(=スウェーデン出身、1980年代から現在まで活躍するメタルバンド。複雑なリズムやノイズの多用など、実験的な作風で人気)ですね。福生のライヴハウスのセッションに通っていた時期があって、そこでドラムを叩いていた人がメシュガーのCDを貸してくれました。なんというか、「融けた鉄」のような感触があって、すごいかっこよかった。

それから、ドリーム・シアター(=アメリカ出身、1980年代中期から高い人気を誇ってきたバンド。プログレッシブ・メタルというジャンルの草分け的存在)もよく聴きました。特に『Train of Thought』(2003年)というアルバムが本当に大好きで。この作品には絵に描いたような絶望の音が鳴っています(笑)。ドロドロした重たさ、暗さがずっと続いていく。心がおかしくなった時に聴くと優しさを感じられる気がします。

あとはジャズ/フュージョンの馬鹿テクな人達を聴いてました。グレッグ・ハウとかリッチー・コッチツェンとか、ただただギターが素晴らしく達者な人達(笑)。メタルとかフュージョンはスポーツのような、どれだけ速く正確に弾けるか、競技のような美しさがあります。聴いていると元気が出てきます。「手」を動かす人がやっぱり好きなのかも知れません。

「自分」を表現しつつ「自分」を出さない。

──11月に発売される新しいEP『縫層』は、音の細かいところまで聞こえてくるのが気持ちよくて、音の解像度が上がったという印象を持ちました。歌もキャッチーで耳に残りやすい。メロディがきれいに反復してたり歌詞が韻を踏んでたりとか、記憶に残る工夫が随所に見られるなと。

君島:まず、単純に使用した機材が良くなりました。所謂ローファイな音も、良くないとされる音質も大好きなんですけど、今回は良い音で気持ちいいぞ、と(笑)。歌も、過去の作品よりも少し前に出すようにしました。ただ、自分の声が前に出てくるのは怖いですね。声って記名性というか、その人の情報が勝手に出てくるじゃないですか。作っている人の顔や声を知ってしまうと、音楽の聞こえ方にも影響が出てくる。それが怖い。だから、前作は声を思い切り小さくして、リヴァーヴも深くかけてました。「自分」を表現したいんだけど、「自分」が出すぎないようにしたいんですよね。

歌詞の書き方も同じなんです。僕は他人を主役にした物語は違和感があって書けない。自分の記憶と結びついた妄想しか詞にできないんです。だけど、そこから「君島大空」という人間の固有性が出てきてほしくない。今の時代は人々が言葉をすぐに伝えられる。でも、それは本当に「言葉」なんだろうかと思います。茨木のり子さんの詩に「言葉らしきものが多すぎる」という一節があって。おこがましくも、今の世界に僕が覚える違和感を言い当てていると思いました。言葉がすごく雑に扱われていて、言葉がとても軽い。僕は「言葉らしきもの」じゃない言葉が欲しい。本来、言葉の連結ってもっと乱暴で、麗しくて、そこから「間」や「距離感」が感じられるはずなんです。

──一般的には、言葉は相互理解のための道具ですよね。人は他人との距離を近づけるために言葉を使っている。君島さんは、むしろ自らの表現と受け手の間に「距離」をとるために言葉を使っているんですね。歌詞にもどこかコラージュめいたものを感じるのも、そのためかもしれない。

そうですね。僕自身は伝えたいメッセージがたくさんある人間だと思っているんですが、それをそのまま伝えたければ文章を書いたほうがいいなと思います。歌詞は、メッセージを伝えるために書いてないですね。人間の体温や湿度が、言葉の連なりの全体像からなんとなく見えてくればいい。そう思って、言葉を選んでいます。

君島大空
1995年生まれ。2014年から活動を始め、SoundCloudにて自身で作詞、作曲、編曲、演奏、歌唱をして多重録音で制作した音源の公開を始める。2019年3月にファーストEP『午後の反射光』を、7月にファースト・シングル「散瞳/花曇」をリリース。同年の 「フジロックフェスティバル ’19」の「ROOKIE A GO-GO」に合奏形態で出演した。今年11月11日にセカンドEP『縫層』をリリースする。自身の活動と並行して、ギタリストとして 高井息吹、坂口喜咲、婦人倶楽部、吉澤嘉代子などのアーティストのライヴや録音に参加する他、劇伴や楽曲提供なども行っている。
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Photography Ko-ta Shouji

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