NAO, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/nao/ Mon, 26 Feb 2024 02:24:24 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png NAO, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/nao/ 32 32 異文化の間で躍動するチベットの作家達 https://tokion.jp/2024/02/24/the-world-of-tibetan-writers/ Sat, 24 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=224980 2010年代、世界で急速に広まったチベット文学。2020年に日本で刊行された『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』は発売わずか2ヵ月で重版となった。 その魅力を研究者の星泉とたどる

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星泉

星泉
1967年千葉県生まれ。東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所 教授。専門は、チベット語学、言語学。博士(文学)。1997年に東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所に着任。チベット語研究のかたわら、チベットの文学や映画の紹介活動を行っている。編著書に『チベット牧畜文化辞典(チベット語、日本語)』、訳書に『チベットのむかしばなし しかばねの物語』、ラシャムジャ『路上の陽光』『チベット文学の新世代 雪を待つ』、共訳書に『チベット幻想奇譚』、トンドゥプジャ『チベット現代文学の曙 ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』、ペマ・ツェテン『チベット文学の現在 ティメー・クンデンを探して』、タクブンジャ『ハバ犬を育てる話』、ツェラン・トンドゥプ『闘うチベット文学 黒狐の谷』等がある。『チベット文学と映画制作の現在 SERNYA』編集長。

チベットの研究者、翻訳者の星泉はチベットの文学作品には今を生きる人達の心情がよく表れていると話す。ニュースで報道される情報では、人々の生活や何を感じているのかまでを伝えきれないことも多く、チベット人達の日常の姿を知ることは難しい場合が多いという。一方でチベットの文学作品には、今を生きる人達の心情がよく描かれていて、日本人の読者の間では「チベットの物語の中には、宗教や人種を超えて共感できる内容が多く、多忙な現代を生きる日本人が忘れがちな思いやりやユーモア、他者への理解を深めるヒントに溢れている」と話す人も少なくない。

星が現在まで日本語に翻訳したチベット文学には、作家であり亡命チベット人の医師であるツェワン・イシェ・ペンバが遺した長編歴史小説『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』、現代チベット文学を牽引するラシャムジャの日本オリジナル作品集『路上の陽光』『雪を待つ』等がある。『路上の陽光』に収録されている日本を舞台にした短編「遥かなるサクラジマ」では、チベットの地を踏んだことのない、日本に暮らす亡命2世のチベット人女性の、生きる苦悩や葛藤が描かれている。星は同書のあとがきに「チベットでも近年増えている、進学や就職、出稼ぎなどで都会暮らしをする孤独な若者に呼びかけるような、力強いメッセージ性のある作品」と記している。

ラシャムジャの作品は、日本人が今読みたい海外文学として紹介されている。一方で、まだ知られていないチベット人作家は多く、その中には女性の作家や詩人も多い。チベット文学における異文化に触れる時の知的なアプローチは、迫害や抑圧の歴史によって培われた発想が元になり、多様性のある時代を生きる現代人に必須の考えが根付いている。世界的にチベット文学が注目を集めたきっかけと特異性、今注目すべき女性作家から、チベット語と漢語を使い分ける制作の意図までを聞いた。

創作活動の最前線に立つ、豊かな口承伝承の語り手達

ーー2010年代以降、日本を含めた世界各地で同時多発的にチベット文学が翻訳出版されたということですが、どのような経緯だったのでしょうか? 

星泉(以下、星):まず、現代のチベット文学を語る上で重要な作家に、ペマ・ツェテンさんとツェラン・トンドゥプさんがいます。私の推測ですが、この2人が日本、フランスやアメリカ等の研究者や翻訳家達と交流を深めたことがきっかけとなり、各国で同時多発的にチベット文学が翻訳出版されたのではないかと考えています。

ペマさんは作家であり、世界的に評価される映画監督です。2000年後半から本格的な映画界に入った彼は、すぐに実力を認められ、国際舞台で活躍するようになります。私は、2011年に映画祭でお会いした際にて小説を頂いたのですが、とてもおもしろい作品だったので、日本語に翻訳をして多くの人に届けたいと思いました。当初は翻訳をする予定ではなかったのですが、ペマさんから「英語の翻訳が始まって、多分来年には刊行されると思うんだけど、日本語ではどうかな?」と連絡がありました。作家から翻訳を期待されることは今までにない体験でしたし、連絡が気軽に取り合える仲になれたことで相互関係が始まり、翻訳出版に至りました。フランスやアメリカの映画祭でペマさんに本を渡された翻訳者達も同じように彼の作品と人柄に魅了されたのではないでしょうか。ペマさんは関わる人に喜びを与える人格者でした。個人的にもとても大切な人だったため、昨年5月に亡くなった時は本当に悲しかったですね。

ツェラン・トンドゥプさんの小説も、アメリカやフランスで翻訳されています。近著が出ると連絡をくれたり、交流のある各国のチベット研究者や翻訳者と引き合わせてくれて、彼を中心にして輪が広がっていきました。何か相談すると即座に応えてくれる協力的な人で、貴重なチベットの情報を提供してくれます。この2人が、世界の翻訳者達の影で動いてくれたことがとても大きいと思います。なるべくして同時多発的にチベット文学が刊行されたんですね。

加えて、過去のチベット研究の蓄積、翻訳書籍はありますが、2010年代にはチベット語でやりとりのできるネット環境が充実したこと、自分達の活動を広く世に届けやすくなったことも関係していると思います。

ーー近年、日本でもチベット文学が取り上げられる機会が増えているように感じます。どのような特徴がありますか?

星:チベットには「語り」を重視する文化があります。チベット文学は口承が中心で、一般の人達にとって物語とは読むものではなく、聞いて楽しむものでした。そういった背景から、説得力を持った言葉を用いて自分の声で語ることが重要視されます。

私が仲間達と作ったチベット語、日本語辞書『チベット牧畜文化辞典』 の中に「男の備えるべき9つの能力」という単語があります。そこには「力が強く、泳ぎがうまく、動きが素早く、土地の歴史を熟知し、笑い話が得意、議論に強く、物知りで賢く、忍耐強く勇敢で、言語明晰であること」とあります。そのうち5つが語りに関わることなのです。土地の歴史を熟知して語れると一人前として周りに認められることが読み取れます。

チベット文字の成立は1300年ほど前と古く、また仏教に支えられた長い古典文学の伝統もあるのですが、一般の人達がそうした文学を読んだり書いたりする文化はありませんでした。彼らは自分達の経験を語り継いでいくことで記憶に残してきたのです。

激動の時代に学び、物語を書いた希少な女性作家達

ーー日本で紹介されているチベット文学の魅力の1つとして「ことわざ」を巧みに使うことが挙げられます。ことわざはチベットの人々の暮らしの中では欠かせないもので、上手に使えるようになることは大人の証でもあるそうですね。

星:はい。ことわざは、問題が起きたときに闘ったり解決したりするためのプロセスでよく使われます。例えば、物語の中では喧嘩の場面でことわざが頻出するのですが、「威張った犬ほどよく吠える、威張った人間ほどよく喋る」と言って、ここぞという時、相手を打ち負かしたい時に繰り出します。意味合いとしては、古くから積み上げられてきた真実や結果が凝縮された「ことわざ」を根拠に、自分の言ってることが正しいという論理にもっていきます。自分の主張を助けてくれる援軍のようなイメージです。

もう1つ、理解し難い奇想天外な複雑な事柄を整理して納得するためのツールともいえます。理不尽な出来事をよく理解して受け入れられなければ、自分の心が壊れてしまいますよね。そんな時に、昔から語り継がれてきたことわざを引用し、わからない出来事を理解するための手がかりとしても使っている。「長く伝えられてきた言葉だから正しいだろう」「似たような出来事は過去にも起こっている、人間ってしょうがないね」という風にことわざを通して、現実を理解しているのでしょう。

ーー昨年日本で出版された『チベット女性詩集』には、女性達が現代詩を発表してから40年とあり、1960~1980年代生まれのチベットを代表する7人の女性詩人の詩が収められています。星さんは、1960年代生まれの詩人達の作品を重要視されているそうですね。

星:そうですね、1970年代後半に、学齢期だった1960年代生まれの男女は、チベットにおける時代の転換期を経験しています。中国全土で1966年から1976年まで起こった文化大革命を経験した女性達は、男女共に1960年代は学校に行けなかったものの、1976年ぐらいにようやく通学できるようになります。ただ、女性の場合は、親の協力を得られたほんの一握りしか学校に行けなかった世代です。そういった意味でも、この世代の女性達が書いたものは大変貴重です。例えば、女の子は学校にいくことを許されませんでした。なぜなら、当時多くのチベット人が従事していた牧畜、農業においては、家事労働は欠かせない労働であり、家事を親から子にしっかりと継承することが重要視されたからです。牧畜民として生きていく上での重要な家事を、母親が娘にしっかりと仕込んでおかないと、村で生きていけませんから、家事を教える機会が失われないように学校に行かせなかったんですね。

他には、女の子が学校に行くと「ろくなことにならない」とも言われていました。1967年生まれの詩人、デキ・ドルマさんは、学校に行きたいと言ったことが、村中で大騒動になり、学校に行きたいなんて、あの娘には鬼でも取りついたのではないかと噂が立ち、とても悲しい思いをしました。でも、諦められずにいる娘をかわいそうに思った父親が、馬で寮制の学校に連れていったことで、学校に通えた。大変な苦労や辛い思いをしなければ女の子は学校にいけない世代でした。

創作をするという点では、1960年代生まれの作家は男女共に、詩や物語をチベット語で書く先達がいなかったために苦労も多かったと思います。その理由は、根本的にチベット語というものが一般の人々の心情を描くような言葉ではなく、宗教のための言葉だったことも関係しています。

ーーチベット語で書くのが難しい状況下で、漢語で書く場合はどうだったのでしょうか?

星:チベット人女性で、1960〜1970年代に漢語で教育を受け、中学、高校、大学で漢語を習得し、中国や海外の文学を男性と同じように受容した人達は限られた数ですが存在します。

その時代の特徴としては、幹部の子弟は優先的に学校教育を受けられる、つまり庶民ではなく、役人になることを期待されて、男女共に進学することができました。そうすると、北京大学等に進学したチベット人が現れるんですね。その中には物語が好きな女性がいて、大学を卒業して、漢語で文学作品を書いた人達もいます。 中国の大学では、古典の漢文の基礎を教えますから、それが女性達の書きたいという思いを助けたんです。漢語だと大勢の先達の作家がいるので、自分も書けると思えたのではないでしょうか。

異文化の間で躍動するストーリーテラー達

ーーチベット文学は、漢語で書かれた長編小説もたくさんあるそうですね。チベット人作家はどのような理由で、チベット語と漢語の使い分けをしているのでしょうか?

星:まず、ほとんどのチベット人は、チベット語と漢語のバイリンガルです。漢語を使わないと生きていけないということもありますし、学校でもチベット語だけを教えるところはありません。テレビやインターネットが普及して手軽に学べる環境があることも関係していますが、それ以前からバイリンガル化が進んでいました。ただ、読み書きの方はどういう教育ルートを通ったかで異なります。

作家を分類すると、漢語だけで書く作家、チベット語だけで書く作家、そしてバイリンガルで書く作家がいるんですが、漢語だけで書く作家は、小さいうちは親元で育ったとしても中学校からは中国の漢語学校に通います。すると、チベット語を学ぶ環境がほぼないので、親が頑張って教えなければ、チベット語の読み書きは習得せずに大学まで進学します。 でも、自分達のアイデンティティはチベットにあるため、漢語で故郷のチベットの物語や詩を書いています。

あまり多くはないものの、チベット語で書く作家達のほとんどはチベット語で教える各県の民族学校に進学し、チベット語による高等教育を受け、民族大学のチベット語課程で学び、作家になります。バイリンガルで書く作家は、先述したペマ・ツェテンさんとツェラン・トンドゥプさんで、チベット語と漢語の翻訳も自分達でしています。

ーー同じところで生を受けても、教育ルートによって、言語だけでなくインプットされる知識も大きく変わりそうですね。

星:そうですね。漢語教育を受けるか、民族学校でチベット語の教育を受けるかでインプットするものも変わりますし、特に古典作品の受容が全然違いますよね。古典の勉強は、その人の教養の素地を作りますから、同じ場所で育ったとしても、親に与えられた言語教育の中で読み書きを習得していく過程で、全く違う表現を身につけていきます。

先述したペマさんは、民族中学に進学しましたが、最初に書いた作品は漢語です。 その作品が、ラサのチベット自治区で発行されている漢語の文芸誌に発表されて、高く評価されてからは、チベット語で書き始めました。ただ、チベット語だけで映画を撮りはじめてからは、小説は漢語だけで書くことにシフトし、漢語の読者を獲得することに努めていました。

ーー漢語で書くことにこだわった理由は何でしょうか?

星:まずは漢語で書けば読者が増えるからでしょうね。教育環境の影響で漢語でしか読み書きのできないチベット人も大勢いるので、そういう人達にも届けることができます。チベットの人達にとって物語は目で読むものというより、耳を傾けるものという意識が根強いようで、ラジオで文学作品が朗読されることもあるそうです。特にコロナ禍のチベットではロックダウンが長期間続いたのですが、チベットの古典文学から現代文学まで、さまざまな朗読がインターネット上に掲載され、多くの人が耳を傾けたそうです。作家達はいろいろなことを考えてチベット語と漢語を使い分け、受容する方もそれぞれの環境で目で読んだり耳で聴いたり、選択しているのが今のチベットの状況ですね。

声で語ることを大事にする文化という意味では、日本でも漢文の素読であったり、落語があります。日本人が落語を楽しむようなイメージで文学を楽しんでいるチベット人がいるということですね。私もチベット人方式を真似て、日本語に訳した文学作品を朗読で紹介してみよう等と考えています。

ーー英語原作の小説『白い鶴』で、作中に「グリーン・ブレインド」とあり、英語では「環境問題に意識の高い」という意味があるものの、チベット語では「レバ・ジャング(脳+緑色の)」というイディオムをふまえ、思想的に腐っている、遅れたという意味で使われているそうですね。星さんは、混合語や作家が創作した言葉を、チベット語と英語の変換も踏まえながら翻訳をされているんですね。

星:『白い鶴』に限らず、チベット人作家の作品は、括弧で強調したり、注釈なしに「チベット語化した英語」と「チベット語を踏まえた英語」を多用したり、チベット語を英語風に書いてみたりと、複数の言語を自由に使った表現方法に富んでいます。そういった表現を「言語の脱領土化」と言いますが、英語という大言語に完全に乗っ取られるのではなく、大言語の中でチベット語の存在感をしっかりと放つ営みでもあります。

例えば、それを口頭でやっているのがシングリッシュやインド英語で、少言語で大言語を変容させていくような営みです。だから、英語で書かれた本でも、紛れもなくチベット人の作家が書いたものであり、英語しか知らない人には絶対に書けない表現がたくさん散りばめられていると思います。

ーー近日、日本では初となるチベットの女性作家の長編小説が刊行されるそうですね。

星:はい、ツェリン・ヤンキーという女性作家の長編小説『花と夢』 の翻訳が4月中旬に出ます。ラサの小さなアパートで共同生活をしながらナイトクラブで働く4人の娼婦のシスターフッドの物語です。4人共つらい過去があり、彼女達を待ち受ける運命も悲痛なものなのですが、それを温かく見守るようなまなざしで描いた素晴らしい作品です。女性達の会話がとても生き生きとしていて、彼女達がすぐ側にいるような感覚を味わえると思います。刊行は「春秋社」から。新しいシリーズ「アジア文芸ライブラリー」の1冊です。楽しみにしていただけるとうれしいです。

Photography Seiji Kondo

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世界を魅了するノルウェーのプロダクトデザインの魅力 日本文化からの影響も https://tokion.jp/2024/02/09/charm-of-th-norwegian-product-design/ Fri, 09 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=222998 北欧デザインを代表するトゥーリ・グラムスタッド・オリヴェールのデザイン集『turi』が限定発売した。日本の民藝運動をけん引した作家や日本文化に感化された作品も登場する。

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Photography Seiji Kondo

(左から)
森百合子
北欧ジャーナリスト、エッセイスト。北欧5カ国で取材を重ね、ガイドブックや旅エッセイ、インテリアやライフスタイルをテーマに執筆。著書には『3日でまわる北欧』シリーズ(トゥーヴァージンズ)、『北欧のおもてなし』(主婦の友社)、『日本で楽しむ わたしの北欧365日』(パイ インターナショナル)等がある。北欧ヴィンテージ食器とテキスタイルの店「Sticka」を運営している。
https://hokuobook.com/

青木順子
ノルウェー語講師、翻訳・通訳、講演会講師。ノルウェー国立ヴォルダカレッジ、オスロ大学に留学。2000年からノルウェーの情報提供を目的としたコミュニティー・サイト「ノルウェー夢ネット」を運営。著書に『テーマで学ぶノルウェー語』『ノルウェー語のしくみ<新版>』『ニューエクスプレスプラスノルウェー語』『「その他の外国文学」の翻訳者』など。訳書に『うちってやっぱりなんかへん?』『わたしの糸』等がある。

シモンフッデレ
デザインスタジオ/出版社 trykkSAK 代表。グラフィックデザイナーとしてアートやデザインにまつわる本の制作を中心に手掛ける。特に本を通じて、現在の社会問題や政治問題について考えさせる機会を増やすのがゴール。陶芸の地としても知られるノルウェーのスタヴァンゲル郊外に事務所を構える。
https://trykksakforlag.no/

トゥーリ・グラムスタッド・オリヴェール(以下、トゥーリ)は、ミッドセンチュリーの時代から活躍してきたノルウェーを代表するアーティストだ。昨夏ノルウェーで、トゥーリが生涯で創作してきた500以上のイラストや写真のアーカイヴ、創作活動を共にした仲間達達とのエピソードや私生活までを綴ったデザイン集『turi』が発売された。著者は、作家兼美術史家のトルン・ラーセン。

11月に同書のデザインを手掛けたノルウェーのデザインスタジオ兼出版社「trykkSAK」の代表、フッデレとシモンが来日し、北欧ジャーナリストの森百合子がオーナーの北欧雑貨店「Sticka」 でトークイベント「可愛いノルウェーへようこそ ~世界を魅了する北欧デザイン、turiの世界」を開催した。通訳、聞き役として、ノルウェー語の翻訳家の青木順子も登壇した。

評判の代表作の裏側にある知られざる苦悩

デザイン集『turi』は、フッデレとシモンが5年かけて膨大な作品や写真を厳選し、当時の話や語られることのなかった葛藤を聞きながらまとめたものだ。あと数冊を出版する計画もあるというほど、人生のエピソードが豊富な作家でもある。

同イベントではトゥーリの社内デザイナー時代まで遡り、その歴史から紐解かれた。ノルウェー南西部のフィッギオにある老舗陶器メーカー「フィッギオ」の代表作である『ロッテ』はトゥーリがデザインを手掛け、1962年の販売後にノルウェー国外でも高く評価され、20年以上ものロングセラーとなった。人気の理由は、物語の1編を感じさせるような愛らしい少女や植物が描かれたデザインにあるのだが、意図的にストーリー性を落とし込んだのではないという。そのエピソードとして、発売当時に熱心なファンから「『ロッテ』にはどのような物語があるのか?」という手紙が「フィッギオ」に届いた時、トゥーリは「物語を綴っているのではなく鳥や花に溢れた夢のような場所を想像して、リラックスしてほしいという思いがあった」と返信したという。

『ロッテ』の海外輸出が本格的に始まった後は、日本やカナダ等、一気に国外での知名度を得た。世界的にブランドが広がる一方、トゥーリは売り上げ優先のブランディングとの葛藤で1975年に「フィッギオ」を去る。人気シリーズの『エルヴィラ』は営業部の反対を押し切って試作品を販売し売上は好調だったものの、社内評価は低かったという。

そもそも、当時のノルウェーにおいて工芸品は美術としての評価は高くなかったが、トゥーリは手工芸品の制作を続けた。「フィッギオ」退社後は地元のアーティスト達と関わりながら、手工芸品の価値向上を目指して多くの作品を制作した。結果、自宅のスタジオで制作したテキスタイルは工芸品として認められた。

また、トゥーリは陶芸家や教師達とともに、フェミニストとして精力的に活動した。同書によれば、ノルウェーの南西部に位置するサンネスは、この活動で多くのフェミニストが誕生した街として知られる。1915年に設立された世界で最も古い女性の平和団体、婦人国際平和自由連盟(Women’s International League for Peace and Freedom, WILPF)のサンドネス支部には、トゥーリが作った「平和の解放(release a peace)」が掲げられている。

日本の民藝との出会い

1978年に初来日したトゥーリは、23人のノルウェー人アーティストとともに、京都で開催された世界クラフト会議・京都国際大会(World Crafts Council)に参加した。同大会には、世界各国から2,400人の専門家とともに25,400の工芸品の展示やセミナー、ワークショップが行われた。当時のトゥーリの日記には、2,000人が参加した庭園パーティのことや陶芸家達と訪れた滋賀県・信楽陶芸村で2トンの粘土とともに歓迎されたこと等が記されている。

来日の一番の楽しみは、日本の民藝運動を担った重要人物の1人、濱田庄司の益子の窯を訪れることだった。工房内の見学許可は下りていなかったものの、濱田の息子がトゥーリ達の手が“陶芸家の手をしている”ことで見学を許されたという。トゥーリにとって、日本の旅で感化されたものは焼物だけではなく、自然への敬意、実用性を踏まえた日本の伝統工芸と職人技にまで及んだ。

この旅で得たインスピレーションが元となり、タペストリー作品「私の日本庭園(Minejapans Bager)」が生まれ、日本をテーマにしたテキスタイルのデザインも行っている。さらには、芸術家の河井寛次郎の自宅を訪問した際に、英字書『We Do Not Work Alone』の詩的な人生観に触発され、自身も「美とは何か でも喜びが見つかった すべての人生の中で(What is beauty But joy found In all of life)」という詩を残しているほどだ。

『turi』制作中の思い出とトゥーリの日本での評価

「trykkSAK」は「『turi』の制作を通して、トゥーリが女性として、デザイナーとして多くの試練を経験したもかかわらず、作り上げるデザインにはそれが見えず楽しい世界が描かれている点にプロ意識の高さを感じた」と語った。トゥーリの創作意欲は現在も衰えず、絵を描くことはやめず、ノルウェー国立博物館で開催したルイーズ・ブルジョワの大展覧会のために「オスロへ行く」と話していたそうだ。さらに制作中の忘れられないエピソードとして、訪れたトゥーリ家では、チャイムが鳴り止まないほど、常に来客があったことを挙げた。彼女の人と会うことが大好きな性格やどんなに苦しくても人を楽しませ、明るい気持ちにさせる社交性がデザインに反映されているのかもしれない。

青木はデザイン集の出版が今回初ということにも驚きつつ、首都のオスロではなく、郊外のサンネスで活動を続けたこととインターネットがない時代にグローバルに活動していた功績を讃えた。また、ノルウェー絵本の翻訳を多く手掛ける青木にとって、ノルウェーと日本とでかわいいと捉えられる絵が異なり、絵本の魅力を日本の読者に伝えることに苦労した経験を交え、日本でも愛されるトゥーリのデザイン性の高さを評価した。

『turi』に寄稿している森は、自身もトゥーリ作品の愛用者で「Sticka」には、祖母や母の代から『ロッテ』を使っているという顧客がたびたび来店しているという。ジャーナリストとして、ヴィンテージアイテムのバイヤーとして、長年北欧を訪れている経験からも「トゥーリの作品は特別な存在」という。その理由は「ノルウェーのデザインは日本ではまだあまり知られていないが、トゥーリの作品に興味を持つ顧客は多く、トゥーリをきっかけに北欧デザインやヴィンテージ製品に興味を持つ人がいる」からだ。「一般的には北欧デザインといえばモダンな家具やシンプルなインテリアをイメージする人も多いが、トゥーリが生み出した自由で、自然に囲まれた愛らしい世界観もまた、日本の人々が思い描く北欧のイメージと重なるのかもしれない」と締めくくった。

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大人も深読みしたい、多様性や社会問題を考えるノルウェーの絵本 https://tokion.jp/2024/01/29/norwegian-picture-books/ Mon, 29 Jan 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=222399 昨年、ノーベル文学賞をヨン・フォッセが受賞し、日本でも注目が集まるノルウェーの書籍。ノルウェーの絵本の世界を翻訳家・青木順子と作家のグロー・ダーレと巡る。

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日本人にとって、ジェンダーやDV等あらゆる社会問題に関する気付きが描かれているノルウェーの絵本はいろいろな驚きに満ちた世界かもしれない。中でも子どもの視点から親のDVを捉えた『パパと怒り鬼−話してごらん、だれかに−(以下、パパと怒り鬼)』、ヤングケアラーの存在を社会が認知する前に表面化させた『水族館(原題、AKVARIUM)』(未翻訳、以下、水族館)等がある。

『水族館』は母親が金魚という設定で、主人公の少女の日常を立体的に描写している。少女はいつも水槽の近くで寄り添いながら母親の世話をしている。友達に母親が金魚と言っても信じてもらえず、ある日、学校から親に保護者会の案内が配られると、母親を水の入った袋で連れて行こうとする。途中でカバンの中で水がこぼれてしまい瀕死の状況になってしまった母につきっきりで看病した結果、少女は満足に食事も摂れず、不登校になってしまう。後日、その状況を見かねた先生が食料を持って少女の家を訪ねて、2人で食事をしながら「あなたのママ素敵ね」と声をかけて、物語は幕を閉じる。

同書が出版された2014年当時は、ヤングケアラーの認知が低かったため、子どもを育てられない親を金魚に置き換えて物語は進む。読み進めれば、ヤングケアラーという存在を描きたかったことが明確に伝わるキャラクター設定だ。シリアスな題材ながらも、最後に希望や救いを感じられるのは温もりのある挿絵といった、絵本ならではの表現によるところも大きい。

日本では扱われることの少ない社会問題や多様性に真正面から向き合う絵本がノルウェーを中心に世界中で注目が集まってきている。同作の著者で絵本作家、グロー・ダーレとアカデミー賞短編アニメーション賞の受賞監督であり、絵本作家のトーリル・コーヴェの絵本『うちってやっぱりなんかへん?』『わたしの糸』の翻訳を手掛けた翻訳家、青木順子にノルウェーの絵本の魅力と制作へ懸ける思いを聞いた。

青木順子

青木順子
ノルウェー語講師・翻訳・通訳・講演会講師。ノルウェー国立ヴォルダカレッジ、オスロ大学に留学。2000年からノルウェーの情報提供を目的としたコミュニティー・サイト「ノルウェー夢ネット」を運営。著書に『テーマで学ぶノルウェー語』『ノルウェー語のしくみ<新版>』『ニューエクスプレスプラスノルウェー語』『「その他の外国文学」の翻訳者』など。訳書に『うちってやっぱりなんかへん?』『わたしの糸』ほか。

グロー・ダーレ

グロー・ダーレ
1962年、ノルウェーのオスロで生まれの詩人兼作家。オスロ大学卒業後、テレマーク大学カレッジで創作を学ぶ。1987年に詩集『Audiens』でデビューし注目を集め、作詞家兼小説家になる。夫のスヴェイン・ニューフスと一緒にヴェストフォル、ショーメ在住。

もしも、の物語の世界が想像力を膨らませてくれる

--トーリル・コーヴェさんの絵本の翻訳を手掛けた経緯を教えてください。

青木順子(以下、青木):コーヴェさんの短編アニメーション『王様のシャツにアイロンをかけたのは、わたしのおばあちゃん(以下、王様のシャツ)』を日本のテレビ番組で見たことがきっかけでした。この作品は、1905年に独立したノルウェーの国民投票で君主制が選択され、デンマークのカール王子とマウド王妃がノルウェーの国王であるホーコン7世になったエピソードが、フィクションとして描かれています。まだ、召使いが存在しない当時のノルウェーの王室の悩みは誰もシャツにアイロンをかけられないこと。そこへ“アイロン掛けのプロ”のおばあちゃんが登場し、王様のシャツにアイロンをかけることになるものの、第二次世界大戦でドイツがノルウェーを占領します。

イギリスへ逃亡した国王一家はラジオでノルウェー国民に「ドイツへの抵抗」を呼びかけ、王様を愛するおばあちゃんと仲間達がドイツ軍の軍服にアイロンで穴を開けたり、シミを作ったりして抵抗します。最終的に、ドイツ兵は撤退、王様一家が無事にノルウェーへ戻ってくるという物語です。

実際は、レジスタンス運動だけでナチスが撤退したわけではなく、先頭に関わったのは主に男性達です。ただ、おばあちゃんやそのクリーニング仲間の女性達がナチスに一矢報いようと自分なりのやり方で抵抗した姿を作者は描きたかったのだと思いますし、たとえ歴史に残されていなくても、名もなき女性達がレジスタンスに加わった事実があります。この絵本を読んで、原作を超えるほど秀逸で驚きました。以来、ノルウェーでコーヴェさんの作品が刊行される度に読んでいました。

--日本の読者にも人気のある『わたしの糸』は、赤い糸で巡り合った大人と子どもの関係を描いています。少女が空から垂れている糸をつかみ取り空を飛び、幼児と巡り合ったことで母になり、親子として二人は成長していきます。最後は主人公の娘が糸を辿って自立していく様子をほぼイラストのみで表現しています。

青木:この作品は、主人公が手をのばしてつかまえた1本の糸から冒険がはじまる物語で、アニメーション版は広島国際アニメーションフェスティバルで優秀賞を獲得する等、評価が高いですね。コーヴェさんが、アジア人の養子を迎えられたことが作品の発端になっており、血縁に関係ない人と人の繋がりをテーマにしています。子どもが遊ぶ場面にはいろんな肌の人がいますし、国籍や人種を限定せず、世界中の誰が読んでも感情移入しやすくなっています。コーヴェさんは、「この本では設定を母と娘にしたけれども、それに捉われずに読む人が自由に想像して欲しい」と言っています。性別や人種を超えて人と人が繋がれる可能性を感じさせてくれる物語です。

--日本では絵本に対象年齢を設けることが多い一方で、ノルウェーの出版社は絵本の読者対象を「0〜100歳」としており、大人同士が絵本をプレゼントし合う文化もあるそうですね。

青木:ノルウェーの書店では、絵本を年齢で分類しておらず、子どもから大人まで絵本を楽しんでいる印象があります。また、子どもの自立心を育むため、絵本を読んだ後に感想を求める環境もあります。

--子どもの視点から親のDVを描く『パパと怒り鬼』は、日本でも深刻化するDV(家庭内暴力)がどのように起こっているかを伝え、子どもに助けを求めることを喚起しています。この作品は、DVを受けて育ったノルウェーの子ども達が国王ハーラル5世と会うことができたエピソードがもとになって作られたそうですね。『王様のシャツ』にも言えることですが、公人と国民の距離がとても近いように感じられます。

青木:そうですね、何年か前に国王が「ノルウェーには男の子が好きな男の子もいるし、女の子が好きな女の子もいる」という心に残るスピーチをしました。国王に限らず、外務大臣が「ウクライナのことで心を痛めてる」と手紙を送ってきた子どもの学校を訪問しています。人口が少ないという環境もありますが、国民が公人を身近に感じられる活動は盛んです。

性暴力は日本でもとても大きな問題になっていますが、ノルウェーでは何年も前に国営のテレビ放送で政治家が「あなたはペニスを触られましたか?」と具体的な行為を挙げて被害者や支援を必要とする子ども達に呼びかけていました。30代の若い大臣も多いですし、ロールモデルが大勢いると政治に興味を持つだけでなく、政治家になることを身近に感じる子ども達が増えていきます。

まだ見えていないものを書き伝える絵本作家の力

--最近は、ヤングケアラーという言葉が日本でも浸透していますが、ノルウェーではそういった状況に置かれている子どもを主人公にした絵本が出版されていたそうですね。

青木:はい。ダーレさんは学校訪問をしながら、女子生徒が“女らしく”いることを強要されるような、家庭や社会における性別役割分業意識が固定化されている状況を伝えるという、子どもが直面する社会問題を題材にした作品を多数描いています。また、作中には暴力シーンや性的な描写等ショッキングな内容が含まれるのですが、子どもは物語を受け止める潜在能力があると信じています。

一方で「子どもに刺激的過ぎる本を読ませていいのか」と警戒して遠ざけようとする親もいます。ただし、絵本を子どもに買い与える存在は親なので、こういった物語を子どもに届けるために大人達の意識を変えてもらうことも重要です。

--ノルウェーでは、著名なミステリー作家が子ども向けの小説を書くことも珍しくないと聞きました。どのようなものがあるのでしょうか?

青木:日本語訳の小説も多数出版している著名なミステリー作家、ジョー・ネスボさんは、子ども向けの小説も多く手掛けています。ネスボさんに限らず、ノルウェーの作家達は小・中学校や図書館で朗読会をする機会を積極的に設けています。子ども達に本物の芸術に触れてもらいたい、読んでもらいたいと自然と意識しているのかもしれませんね。国の文化支援が充実していることもあり、子ども達が良質な物語の世界に触れる機会は多くあります。

子どもの豊かな読書体験は大人次第である場合が多いですが、日本の読者には翻訳という形でノルウェーの物語に触れてもらい、多様な社会や考え方があることを知ってもらいたいですね。

著名ノルウェー人作家が絵本を手がけた理由

--ダーレさんはどのような経緯で絵本を作り始めたのでしょうか?

グロー・ダーレ(以下、ダーレ):私は詩人として、あるいは短編小説や詩的な散文を書く作家として活動していたのですが、書籍を出版していたノルウェー最大の出版社「カッペレン・ダム」から、児童虐待の物語を書かないかと誘われました。物語の中心となるのは、刹那的で身勝手な母親と、生活維持のために家事をやらざるを得ない真面目な娘です。出版社からの支援があったものの、このような物語を作るのはとても困難でした。4冊の児童書を発売した後、5〜19歳までの子どもたちに物語を通して伝えたいことが明確になりました。

それは、自分の言語力と創造力を生かして、心の中にある、誰にも言えない秘密や危険な体験といった影や暗部を照らすような本作ることです。

物語の登場人物と同じような状況で困っている子ども達に寄り添い、支えとなること。作中のキャラクターと友だちになり、孤独ではないと伝えられることを願っています。私の本が、読者の心のドアを開ける光や導きとなって暗い影を解き放ち、消せるといいですね。

--『水族館』について、母親を魚にするというアイデアはどのようにして生まれたのですか?

ダーレ:私の物語の特徴は、寓喩と隠喩です。11〜12歳くらいまでの子どもは、物語を純粋に理解します。年上になるに連れて、登場人物の感情や人間関係といった心的な思考、倫理感、価値観や行動規範等も考察するようになります。大人は、現実の社会構造と権威、権力、自己のアイデンティティや自尊心と比較し、言葉から想像を膨らませてあらゆる情報を認識しようとします。

『水族館』も、読者の年齢や経験値によって異なる解釈や発見があります。例えば、この物語の主人公のモアとガラスの水槽に入った気まぐれな魚の母親が表面的には奇抜でおもしろく描写しているように見えます。しかし、13〜19歳の子ども達には、日常生活を送る上で必要最低限のことを提供できない母親と暮らすことの困難さを感じ取るようです。社会的、倫理的にも物語を読み取れるので、水の中にいるという状況をアルコール依存症患者の生活と置き換えてイメージし、解釈することもできるのです。

育児放棄をされた子どもは、物語の描写から苦しかった実体験や思い出がフラッシュバックするかもしれません。まだ、過酷な現実に直面していない読者には間接的に、過酷な状況を強いられている子どもの存在を伝えられます。寓喩と隠喩を用いることで、1つの話の中に多様な解釈と発見を生むことができます。

--執筆における課題はありますか?

ダーレ:課題は、大人と子どもの視点をバランスよく保つことです。過度に大人目線になったり、複雑過ぎないようにすると同時に、簡単で平凡ではないように言葉を選んでいます。また、芸術性に加えて、心理学と教育学の要素も盛り込んでいます。

そのためにスイスの心理学者、ピアジェが提唱する7、8歳以下の認識を特徴づける前操作期の心の発達特性に着想を得ています。この年齢の子ども達は、魔法を信じたり物や生き物を外界と認識して、体験と空想を交えながら理解していきます。ですので、子どもが興味を惹く比喩を取り入れながら、年少には親しみやすさを、10代には詩的にも楽しめるように意識しています。

さらに心に響く物語を追求するために心理学者や研究者といった専門家へのインタビューに加えてリサーチもしています。セラピストからは、DV家庭で育った子や虐待された子ども達の状況を共有してもらっています。子どもは感じたことを自由に言葉で表現するのですが、タコは性的虐待者のようだと具体的に描写したこともありました。

実際に子ども達が発した言葉を引用して物語に組み込むと、絵本に登場するキャラクターのセリフに真実味と信憑性が生まれます。結果的に物語の理解を深め、読者の子ども達とより直接的に繋がることができます。このような手法を取る理由は、私自身、心に暗い影を落とすような経験をしていないからです。『怒り鬼』や『ドラゴン(未翻訳)』『タコ(未翻訳)』を読んだ子ども達は、主人公と自分を重ね、「どうして私のことを知ってるの?」と驚いた様子で聞くことも多々あります。

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韓国の“手の味”と伝統的な発酵とは https://tokion.jp/2024/01/26/south-korean-fermentation-traditions/ Fri, 26 Jan 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=222419 韓国食文化研究家のきむ すひゃんがディアスポラの視点で研究してきた朝鮮半島の発酵食の魅力をたどる。丹念に受け継がれた食文化の源流には人々の知恵があった。

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韓国ドラマや映画では食事のシーンが多く、にぎやかな雰囲気に魅せられる。韓国料理の定番といえばビビンパやチヂミ、サムギョプサルにトッポッキやホットクと韓国を旅行すると朝から晩までグルメに夢中になる人も多いだろう。

韓国人作家のキム・ビョラはK-BOOK読書ガイド『ちぇっくCHECK Vol.9』(K-BOOK振興会)に寄せたエッセイ『食べる』で、「中国人は舌で味わい、日本人は目で味わい、韓国人は腹で味わうという言葉が昔からある」とそれぞれの国の食文化を振り返り「韓国人の食事は、舌ではなく心で味わってこその美食だ」と結んでいる。腹と心で味わう料理として受け継がれてきた韓国料理だが、そのうまみの1つは伝統の発酵調味料“ジャン(醤)”であり、日本でも馴染みのあるコチュジャン、テンジャン(味噌)、カンジャン(醤油)等で知られる発酵食だ。

韓国の食と発酵技術を探るため、ソウルで「発酵」がテーマのカフェ「キュン(Qyun)」を運営する在韓26年の在日3世、きむ すひゃんのもとを訪ねた。

きむ すひゃん
東京生まれ、在韓26年の在日コリアン。韓国留学中から韓国文化を日本へ伝えるメディアコーディネーター、ライターを始め、企画編集者として韓国文化雑誌『スッカラ』を立ち上げた後、韓国食文化を専門に活動中。ソウルにファーマーズマーケット「マルシェ@」を立ち上げ、韓国の農家を通して韓国の食を新たに経験する過程で、韓国の草、発酵、豆文化、在来種などテーマの幅を広げ、現在は発酵食を中心としたカフェ「Qyun」を運営しながら、韓国の食文化を日韓へ発信している。『食べる旅 韓国むかしの味』『コウケンテツ 僕の大好きな、ソウルのおいしい店』他、コーディーネートした書籍も多数ある。
Instagram:@sukkara_seoul, @grocery_cafe_qyun

韓国の食文化から人々の生活の佇まいが見えてくる

−−テンジャンやカンジャンは、どちらも塩気が強めで豆のような香ばしさも感じます。まずは、発酵調味料のジャンについて教えてください。

きむ すひゃん(以下、きむ):ある学者が「朝鮮半島の食は、120パーセントが発酵食である」と述べているのですが、朝鮮半島のジャンの特徴は、主に大豆のみの発酵食品であること。作り方は、まず煮た大豆の塊に枯草菌等、多様な野生の菌を繁殖させたメジュと呼ばれる大豆麹を、ハンアリ(甕)に塩と水と共に入れます。甕は家の一番日当たりの良い場所へ置き、太陽の光、雨水、空気、風等、すべてを当てながら発酵させたものを漉した液体がカンジャン(朝鮮醤油)、漉して残った固体がテンジャン(朝鮮味噌)になります。発酵の過程で多様な野生の菌が混ざり合って生み出す複雑な味が特徴です。ジャンは欠かせない調味料です。ジャンは酵素の塊で、大豆のタンパク質が豊富に含まれています。

調理した野菜に味付けしたものを「スッチェ(熟菜)」と呼ぶのですが、野菜の栄養素を効率的に摂れるようにナムルはニンニクとネギ、ジャンを和えます。最後にゴマかエゴマの油を数滴垂らして、炒りごまの粉をかけます。野菜や油とジャンが絡まり合って、お互いのうまみを引き出します。

日本では、ナムルと聞くと和え物をイメージする方が多いですが、朝鮮半島でナムルは「食べられる植物の総称」を意味します。伝統的に野菜や草と発酵食をバランスよく組み合わせながら、必要な栄養素を効率よく取ってきました。例えば、よもぎや高麗人参を筆頭に、人に有益なすべての植物は食料として、そして韓方として医学的に活用されてきました。

−−韓国の寺や古宮の庭で、ずらりと並ぶ大きなハンアリ(甕)を見かけました。日本の発酵食品は冷暗所に置いて、できるだけ空気に触れないように作りますが、韓国ではハンアリを外に置き、中にはガラスのふたがついているものもありますね。材料や作り方にも違いがあるのでしょうか?

きむ:ハンアリの間から風が入るようにしたり、ふたをガラス製のものに変えて光を当てながら空気中のあらゆる菌が混ざるように作っていきます。朝鮮半島ではこれらを各家庭で作っていました。家庭ごとにそれぞれの家の菌や人の菌を駆使した麹文化があり、先祖を祭る儀式に自家製の発酵食品は欠かせませんでした。文献を見ると、 高句麗の時代から朝鮮半島のジャンの味には定評があり、高い発酵技術が評価されていたと記されていて、古くから菌を扱う技術や野生の菌でおいしいジャンを作れる気候的環境に恵まれていたことがわかります。

日本の味噌は、豆と塩、米や麦の麹を使いますが、朝鮮半島のジャンは、豆と塩、水で作ります。さらに日本では麹菌を使いますが、朝鮮半島では大豆を蒸した後に、叩いて空気が入らないように塊にしたら藁の上に敷いて、野生の多種多様な菌を使って熟成させてメジュ(大豆麹)を作ります。元は日本でも野生の菌を使っていましたが、朝鮮半島に比べて湿気が多く、温暖な気候では菌の管理が難しかったため、麹菌を培養して乾燥させた種麹を生産する業者「もやし屋」が管理していました。微生物の働きによる変化で、人間に有益なものを「発酵」、有害なものが「腐敗」と判断されているように、判断を間違うと人間の命に関わる危険があります。それぞれが国の気候風土に適した発酵を選んで発展してきたんですね。

基本的にはカンジャン、テンジャン共に大豆のみで作られ、多様な野生の菌と気候や気温といった自然環境によって独自の味が生まれます。日本の味噌汁は最後に味噌を溶き入れますが、朝鮮半島でテンジャン(味噌的なもの)を使ったスープを作る時は最初からテンジャンを入れてグツグツと煮込み、テンジャンに含まれている多様な味や風味を引き出します。カンジャンを使ったスープも同様で、ジャンの中にある味の多様性はある意味、それ自体が出汁としての役割を果たすわけです。和え物にカンジャン数滴を加えるのも、出汁を加えるようなイメージで野菜の味に深みを足します。

−−日本では多くの人が味噌や醤油をスーパーや醸造所から購入しています。韓国のジャンは現在も各家庭で作ることが主流なのでしょうか?

きむ:つい数十年前まで、私達の祖父母の世代までは家でジャンを作るのがあたりまえでしたが、住環境とライフスタイルの変化によって消えつつある文化になってしまいました。ジャンを作り続けている名人のハルモニ達によるジャンがブランド化され、買えるようになりました。同時に日本的な製法に近い工場生産のカンジャン、テンジャンが一般的になり、野生の菌で発酵する伝統的なものは朝鮮カンジャン、朝鮮テンジャンと区別して呼ばれています。今の韓国人の食生活には伝統的な野生菌のジャンと工場生産のジャンが共存しているわけです。

自家製にこだわる家庭もありますが減少傾向にあり、多くの飲食店でもそれは同じです。一方で富裕層の中には、ジャンを家政婦に作ってもらう人達もいます。日本の味噌や醤油は海外に流通し認知されている半面、朝鮮半島のジャンは一部の大手メーカーのものしか流通していません。その理由は、先述した野生菌を使っているからです。野生なので管理ができないために工場生産が難しく、手間がかかり効率も良くありません。

九州の麦味噌や愛知の八丁味噌等、一部を除いて日本の味噌の味わいには均一性があります。しかし、朝鮮半島のジャンは味の管理が難しいため、材料は同じでも家ごとに全く味が違います。それがおもしろさですが、幅が広いため1つに絞って代表的な味を伝えることは難しい。私のワークショップで初めてジャンを食べる人達には作り手の名前を伝えています。おいしいジャンは、不思議と共通して動物性タンパク質の味がします。これがあれば、化学調味料がなくてもうまみを補えるんですよ。

−−発酵の観点から、ジャンの他に注目している食材はありますか?

きむ:朝鮮半島原産の豆、特に大豆属の豆に大変な関心を持っています。朝鮮半島の発酵食の原点ではないかと思うほど種類が豊富なんです。昔、日本列島がアジア大陸の一部だったことから、日本原産の豆も多くありますが、朝鮮半島原産の品種はそれをはるかに超えます。原産地とは、最初にその植物が栽培・供給され始めた場所を指しますが、朝鮮半島における豆の歴史は大変古く、豆のナムルといったらコンナムルが有名で、家庭栽培野菜という独特な豆もやし文化は、長い冬の間、朝鮮半島の人々の命を支えてきました。

朝鮮半島特有の文化ですが、昔は寒い冬には野菜が作れず、北側や中国との国境辺りになると半年ぐらい、ソウルでも4ヵ月程度、1年で少なくとも4~6ヵ月くらいは全く野菜が採れないため植物への執着心がとても強いです。過酷な自然環境を生き抜き、ビタミンを摂取する方法として、保管期間が長くタンパク質も豊富なジャンはとても重要な栄養素でした。そういった点から、ジャンは人々が命がけで作り上げた大豆文化ともいえます。

−−野生の菌で作るジャンと、たっぷりの陽を浴びて自然の中で育った豆。朝鮮半島の豊かな食文化は家庭で発展し、受け継がれてきたのですね。

きむ:店の評価をする時に「あの店には“手の味(ソンマッ)”が感じられる」と表現するように、ナムルは手で直接和えることに意味があると言われ、伝統の味は祖先達の手によって育まれてきました。おいしい料理を作るための1番の道具は手で、今でもおばぁちゃん達は手を使って丁寧に作っています。野生の菌も混ぜて料理をしているとしたら「手の味」は、家の菌の味ともいえます。昔は素手でしたが、現在多くの飲食店ではグローブを着用して調理せざるを得ない状況なのが残念でなりませんね。

韓国料理を食べることは、人の手と温もりに出会うこと

−−発酵といえばお酒もありますが、どのような歴史がありますか?

きむ:朝鮮半島は日本の統治以前まで家で酒を造る家醸酒(カヤンジュ)の文化がありました。同時期に日本政府によって酒の製造が許可制になったため、各地域や家庭での醸造ができなくなりました。第2次世界大戦後まもなく朝鮮戦争が始まり、困窮したために、今度は韓国政府が米による酒造りを禁止しました。そういった時代の中で伝統的な酒造りは衰退していきました。

でも過去20〜30年の間に多くの方達の努力で、朝鮮半島の文化遺産として酒が注目を集めるようになりました。激動の時代をくぐり抜け、家内で秘かに受け継がれてきた貴重な醸す技術と知恵が受け継がれてきたおかげです。

−−多忙な現代も自宅で発酵食を作っているのでしょうか?

きむ:発酵食は再び注目されていますし、韓国では自家用の酒造りは合法であるため、コロナ禍ではマッコリ造りが大流行しました。世代で分けると、60〜70代以上は伝統的な発酵の技術を継承しており、家で醸す文化を大切にしています。40〜50代にはナムルや簡単な調理法は多少受け継がれているものの、キムチを漬ける等、醸す文化にはあまり馴染みがありません。朝鮮半島の親子関係は独特で60〜70代の親が30〜50代の子どもに料理を作っていることも珍しくないため、そういった環境が世代ごとの発酵食文化との関わり方に影響しているともいえるでしょう。

私は在日コリアンですから、朝鮮半島の発酵食文化を俯瞰することも、深掘りすることもできます。3世として家庭でも朝鮮半島の発酵食を経験して育ちましたが、韓国で暮らし始めて出会った朝鮮半島の発酵食の多様さとその奥行きを経験し、その素晴らしさに魅了されました。

その中で、朝鮮半島の女性達が持っている多様な発酵食の知恵や技術が消えてしまうのではないかという恐れを日々感じています。専門家は発酵文化の重要性を知っていますが、多くの人達にも気付いてもらえるように、発酵料理のカフェの運営や郷土料理の研究と復元、勉強会等の開催もしています。朝鮮半島特有の発酵がベースの“手の味”が失われてしまわないようにこれからも活動を続けていきます。

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知られざる韓国の食文化とソロ活の流儀 https://tokion.jp/2023/12/18/uncovering-food-culture-in-south-korea-solo-dining-and-the-art-of-living/ Mon, 18 Dec 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=219465 在韓30年超の韓国ジャーナリスト伊東順子が語る、日韓食文化の類似と相違点。そして韓国におけるソロ活と旅、移動する生き方を探る。

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伊東順子

伊東順子
編集者、翻訳者。愛知県生まれ。1990年に訪韓し、翻訳・編集プロダクションを運営する。2017年に「韓国を語らい・味わい・楽しむ雑誌『中くらいの友だち——韓くに手帖』」(皓星社)を創刊。著書に『韓国 現地からの報告』(ちくま新書)、『韓国カルチャー』『続・韓国カルチャー』(集英社新書)、訳書にイ・ヘミ著『搾取都市、ソウル』(筑摩書房)などがある。また、解説を担当した書籍にチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房、斎藤真理子訳)がある。

韓国のドラマや映画では食事のシーンも多く、ついつい食欲が刺激されることも少なくない。名作に登場した食事を再現するレシピは「韓国ドラマ 食事」と検索すれば大量に見つけられ、書籍も多く刊行されている。なぜ、韓国ドラマや映画には食事のシーンが多く登場するのだろうか?

伊東順子による『続・韓国カルチャー 描かれた「歴史」と社会の変化(以下、続・韓国カルチャー)』(集英社新書)にその答えの一端がある。同書は韓国のエンターテインメントを通じて社会変化を考察する中で、人気作品に登場する食事が意味する背景を詳細に記している。韓国をテーマにした著作を多数持ち、長年にわたり日本に韓国文化を伝えてきた伊東に韓国の食文化と歴史を通じて、近年増えている1人旅や食事、さらに海外で生きるコリアン・ディアスポラの思想までを語ってもらった。

「おいしい」を巡る、食べ方と生き方

--韓国の映像作品を見ていると食事をするシーンが多く、嬉しい時も、悲しい時も「まずはご飯から」という印象がありますが、日常のどんなシチュエーションでも食べることが重要視されているのでしょうか?

伊東順子(以下、伊東):韓国人にとって、空腹はものすごく不幸な状態であり、またそれほど食べることが重要だと考えられています。例えば、仕事の席でも常套句として「食事をしましたか?」と聞く習慣があります。もちろん挨拶ですが、食べていない場合、どんなに忙しくても食事に誘われます。その背景には、1960年の朝鮮戦争の影響から、韓国は世界の最貧国の1つであり、経済状態は北朝鮮よりも悪かったといわれていたことも理由の1つです。

--韓国料理といえば、ナムルやたくさんの小皿料理を皆で一緒に食べる様子が浮かびます。一方で、日本では1人で食事をすることは「ソロ活」と呼ばれて注目されています。韓国では1人で食事をすることに先入観はありますか?

伊東:韓国では2000~2010年にかけて、日本のドラマ「孤独のグルメ」と「深夜食堂」が大ヒットしてから、1人で食事をすることも増えてきています。1人で気ままに食事をして、旅を楽しみたいという理由で日本に行く人も多いようですし、韓国の食事の仕方も変化していると思います。まだ、年功序列の傾向が高いため、大勢での食事は若い韓国人にとって気を使うことでしょうし、割り勘の習慣がないので、常に年長者が支払うという煩わしさもある。だからこそ、たまには1人でゆっくり食事をしたいと感じるのでしょう。

かつては中華料理店が気軽に1人で食事ができる場所

--日本では昔から定食屋など、1人で食事を済ませやすい飲食店が多くあります。韓国ではどうでしょうか?

伊東:過去には中華料理店が1人でも入りやすい場所でした。昔の韓国は外国人が少なかったため、身近な外国料理といえば華僑経営の“町中華”くらいしかありませんでした。ある意味で「治外法権状態」というか、「韓国文化圏外」だったため、1人で食事をしていても後ろめたさが全くありませんでした。

それとともに中華料理は「ハレの日のごちそう」的な意味合いもありました。中高年は幼い頃に誕生日等に炸醤麺を食べた思い出がある人が多いですね。他の国と同じく、韓国でも家族の食事は母親が作ることが多かったですが、中華料理は母親が作れないスペシャルな料理でした。今では世界中の料理が食べられるので、これといった一品はないと思います。小さな子どもにはピザとかチキン等が人気ですが。昔と今では、韓国人にとって外食のイメージに違いがありますね。

--日本料理店はあったのでしょうか?

伊東:1963年から1979年の朴正煕元大統領が日本料理好きだったこともあり、昔から日本料理店はたくさんありました。朴元大統領は、日本から寿司を空輸していたという噂があったほど、日本食好きだったと言われています。でも、日本料理店は接待料理として知られていたため、気軽に誰もが行ける店ではありませんでした。そういった状況で、中華料理店ではうどん、オムライスといった「洋食(庶民的な日本食)」も食べられました。それから1990年代には焼き鳥や炉端焼きなどがブームになりました。

おいしいだけではない、土地や風土に根差した食文化

--著書には、韓国人の料理にまつわる思想や思い出が綴られているものも少なくありません。『続・韓国カルチャー』で、韓国映画『リトル・フォレスト 春夏秋冬』について言及されている項では、日本の「すいとん」にあたる「スジェビ」について「韓国の人はスジェビが大好きで、真冬の寒い日もそうだが、季節に関係なく、雨が降るとスジェビを食べるという人も多い」と書かれています。ご自身にとって思い入れのある韓国料理を1つ挙げるとしたらなんでしょうか?

伊東:冷麺ですね。韓国には冷麺にこだわる人がとても多いのです。そもそも韓国の冷麺店は解放後に北朝鮮出身者が始めたものです。今もソウルで老舗といわれる冷麺店の多くは、北朝鮮出身の創業者によるものです。韓国人の友人の中には、幼少期の思い出として父親に連れられて行って食べた平壌冷麺の話をしてくれる人がいます。北朝鮮出身者以外の人達にも冷麺はこだわりの一品です。東京の人にとってのそば屋のようなイメージでしょうか。

--韓国料理はヘルシーなイメージがあるように感じます。どのような思想があるのでしょうか?

伊東:韓国人は基本的に健康志向で「土地のものをその土地に合った方法で食べる」という身土不二の考え方を持っています。元々日本にもある考え方ですが、ビーガンやプラントベース等とは異なる食の考え方です。中国人も同じですが、「医食同源」の思想から食べ物は体に良くなければいけないと同時に、自国の伝統食が最も自分達に適していると考えた結果でしょう。

--韓国料理といえばニンニクのイメージがありますが、何か特別な意味があるのでしょうか?

伊東:高麗時代に編まれた『三国遺事』に収録されている建国神話「檀君(タングン)神話」には、ニンニクとヨモギを食べて熊が人間に生れ変わった話があります。人間になった熊が、天帝の息子と通じて建国の祖を生み、国が誕生したと言われているように、韓国ではニンニクとヨモギは大切な食べ物です。韓国人はニンニク以外にヨモギもよく食べますし、韓方として伝統的な健康や美容のために取り入れられています。逆に唐辛子が普及したのは18世紀以降といわれています。

--というと、元々韓国料理は辛くなかったということでしょうか?

伊東:李朝時代(1392〜1876年)のキムチは辛くありませんでした。今も伝統的な宮廷料理のコースでは唐辛子はほとんど使われていません。元々ニンニクを食べる文化があったところに唐辛子が入ってきて、その相性がとても良かったことから徐々に韓国料理が辛くなっていきました。今のような辛い料理の普及は朝鮮戦争後といわれています。特に最近は韓国の食の専門家が韓国料理の辛さを行き過ぎだと警告するほどで、私が初来韓した30年前に比べても、年々辛くなっていくように感じます。

韓国の力は海外に出て活躍する移民達との共創

--韓国を訪問した外国人観光客のトップは、日本からの観光客。一方で、日本を訪問した外国人観光客のトップは韓国からの観光客です。日本人の韓国での観光目的としてグルメは欠かせません。韓国人の日本への旅の目的はどのようなものなのでしょうか?

伊東:日本人の韓国旅行では、韓国料理や俳優、アーティスト等、目的がある場合が多いですが、韓国人は目的を持たずに日本旅行に行く人が多く、全都道府県を制覇するなど、リピーターもとても多い。佐賀を何度も訪れている韓国人の友人がいて、その理由を聞いたら佐賀空港だと言われました。佐賀空港で開設された最初の国際線が韓国らしく、開設記念キャンペーンで訪れたのが初めての日本旅行だったそうです。日本の地方空港では、最初の国際便が韓国というところがあり、最初に訪れた土地に特別な思い入れをもっている韓国人は少なくありません。先日、取材で対馬に行ったのですが、この地域には韓国からの移住者が大勢います。在住6年の60代の方に移住の経緯を聞いたら「ソウルの空気がきれいではなくなったから」と日本で暮らす理由を語ってくれました。

--韓国人は国外に親戚や友人を持つ人が多く、700万人のコリアン・ディアスポラがいると聞きます。伊東さんは、外国人移住者多い韓国で、世界を移動しながら韓国人がどのように生活してきたのか? 韓国史と世界史とが交差する、さまざまな人々の歴史を書く「移動する人びと、刻まれた記憶」の連載も開始されました。伊東さんはこれまでに韓国の政治、経済から文学、映画、ドラマをはじめ、教育現場や日韓の文化交流まで、韓国人の声を日常から聞き取って書いた多くの著作で知られています。今回、ディアスポラをテーマにした経緯を教えてください。

伊東:韓国の経済発展は世界的に注目されており、映画やドラマも世界中で注目を集めています。韓国のような同質性の高い国から、どうして世界で勝負できるトランスナショナルな文化が生まれるのか。そこにはコリアン・ディアスポラといわれる人々のバラエティに富んだ経験の蓄積があると思います。苦労や努力と成功の経験です。アメリカの原動力が入ってくる移民達の多様性とパワーによるものなら、韓国の力は海外に出て活躍する移民達とのコラボにあります。

社会には柔軟性と新陳代謝が必要だと思います。日本も入ってくる外国人の多様性から学ぶのと同時に、海外で生活する日本人の力をうまく生かせないものかと考えたりもします。

Photography Junko Ito

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韓国語と日本語の間で“小確幸”を探して 神保町書店「チェッコリ」で出会う隣国の文学  https://tokion.jp/2023/08/08/k-book-store-in-tokyo-chekccori/ Tue, 08 Aug 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=201373 韓流ブームの第四波を迎えている日本で、ますます注目されるK文学。その生彩を韓国関連コンテンツ専門出版社「クオン」のキム・スンボクと巡る。

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キム・スンボク(金承福)

キム・スンボク(金承福)
「クオン」代表。1969年、韓国全羅南道霊光生まれ。ソウル芸術大学文芸創作科で現代詩を専攻。1991年に卒業し日本へ。日本大学芸術学部文芸科卒。来日してからも韓国の詩や小説を読むことを欠かさないほどの本好きが高じて出版社を立ち上げることを決意し、2007年にクオンを設立。事務所移転に伴い、2015年に韓国の本を専門に扱うブックカフェ「チェッコリ」を、本の街・神保町にオープンした。

歴史、政治的背景から近くて一番遠い国といわれている韓国。一方で、気軽に旅行に訪れる人も多く、若い世代になればなるほど、Kポップやドラマ、映画などを通して生活スタイルや価値観等への共感も多く、“憧れの国”として熱心に韓国カルチャーを追いかける日本人にもたくさん会う。さらに近年は、韓国で130万部を売り上げ、世界16か国で翻訳出版され、映画化もされた『82年生まれ、キム・ジヨン(以下、82年生まれ)』(チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳、筑摩書房)がきっかけとなり、Kポップやドラマ、映画ファンの中にも文学に興味を持つ人が増えている。韓国のフェミニズム小説と言われる同書は、世界各国の女性たちに深い共感が生まれ、これからの時代を共に生きるための希望となったという声も聞こえる。

では、なぜ、日本人が韓国の小説に惹かれるのか。『82年生まれ~』の翻訳を手掛けた翻訳家の斎藤真理子は自著『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)で次のようにつづっている。「この現象は、読者の広範でエネルギッシュな支持に支えられたものだ。読者層は多様で、一言ではくくれないが、寄せられる感想を聞くうちに、読書の喜びと同時に、またはそれ以上に、不条理で凶暴で困惑に満ちた世の中を生きていくための具体的な支えとして、大切に読んでくれる人が多いことに気づいた」。

そんな韓国文学を日本で楽しめる場所が神保町にある「チェッコリ」だ。店名には韓国語で「韓国の寺子屋で1冊の本を学び終えた子どもが、先生の教えに感謝するお祝いの場」という意味が込められているそうだ。店には一般読者から韓国の研究者、日本の出版関係者らも多く集う。同店は韓国関連の専門出版社「クオン」が運営を行っており、オーナーのキム・スンボク(金承福)が16年前に同社を立ち上げた。当時は韓国文学の翻訳は年間20点あまりだった。書店を巡り、書籍を置いてもらうまでにたくさんの苦労があったというが、社名の由来である「すべての良いものは、みんなに愛されて長く生きる」を信じてやってきたという。現在では、多くの書店で翻訳された韓国の書籍コーナーがあるが、「まだまだ日本語で出版されていない韓国の良書はたくさんある」と目を輝かせる。

好奇心と情熱と連帯で繋がる、日本における韓国文学の世界

--「クオン」では幅広い分野の韓国の書籍をシリーズで出版しています。日韓の文化人を通して両国の差異や類似性を掘り下げる「同時代人の対話」、歴史・社会等さまざまな角度から韓国の歴史や精神が知れる「人文・社会」等、多数あります。その中で「新しい韓国の文学」は、現在も装丁で高い評価を得ているそうですね。初めて出した本は、2011年の発売から変わらずに人気があり、韓国人としては初のマン・ブッカー国際賞を受賞したハン・ガンの『菜食主義者』だと聞きました。

キム・スンボク(以下、キム):『菜食主義者』の装丁に「01」と記載しているのですが、ある書店員に「01と書いてあるけど、何冊まで出すの? その分、棚を確保する必要があるから」と聞かれ、その場で「24冊まで」と答えました。本を6冊作って、その売り上げでさらに6冊を作る計画だったのですが、平坦な道のりではありませんでした。それでも現在までに無事に23冊まで出版しています。『菜食主義者』の出版後、「韓国文学の世界観が変わった」という言葉を頂いたのは嬉しかったですね。私達が書店に営業へ行き、書籍を取り扱ってもらえないと読者と本は出合えませんから、もっと頑張らないといけませんね。

--それから12年を経て、今は何に注力していますか?

キム:現在は出版と書籍仲介業、書店経営の他に、ブックイベントやK-BOOKフェスティバルの開催、韓国語の翻訳コンクールを開いて翻訳者の育成・発掘もしています。「あまり読書はしないけど、韓国語を学びたい」というお客さん向けに「韓国文学ショートショート」というシリーズを出版しました。このシリーズでは、1つの短編を韓国語(原文)と日本語(翻訳)で手軽に読めて、さらに韓国語の朗読をYouTubeで配信しています。

あらゆるおもしろいと感じることをやりながら、巻き込んできた仲間が多く、今も常に新しいことに興味を持っています。私達は、「この人と仕事をしてみたいな」と思ったら、粘り強く説得をすることから始めます。そのパワーが今に繋がっている気がしますね。私だけではなく、関わっている皆の情熱が集まっていますから。

韓国語と日本語の間で“小確幸”を探して 神保町書店「チェッコリ」で出会う隣国の文学

美味しい、親しみを感じる国から憧れの国へ 日本人の意識の変化

--実は私も先日、「チェッコリ」のオンラインのイベントに参加をしました。年に100回はこのようなイベントを開催していると聞きましたが、エネルギーが必要ですね。どのように企画運営をしていますか? また、読者層にも変化はでてきましたか?

キム:連帯意識を持ちたいと思っています。読者だけではなく、翻訳家や編集者といった制作者とも仲が良いので、次回作の構想や販売方法等を話し合っています。出版に関わる方達と相互関係を作り、韓国文学のマーケットを広めるために活動してきましたが、今では街の書店でも韓国文学のコーナーがたくさんできました。

「チェッコリ」を始めて8年になりますが、今回の韓流ブームでお客さんの年齢層が一気に下がった気がします。韓国に憧れている10代は、お店に入ってきた時から目の輝きが違います。BTSや韓流スターが愛読書として薦めた作品を求める読者が多いですね。一方で歴史や政治に興味のあるお客さんも増えました。動画配信サービスが始まってからは、韓国映画やドラマも気軽に視聴できますから、文化的にも身近に感じているようです。「韓国文学はおもしろい」という声が増え、読者達がまた他の本を手に取ってくれる。読みやすい内容の作品ばかりではないですが、徐々に広がっています。

果敢な言葉は、国境を越え、社会を良くする力を秘めている

--「クオン」から詩集が出版されているのを見ました。文学やエッセイには、読者の社会性に訴えるような力強さを感じたのですが、韓国文学の中では、詩というのは、どんな位置付けにあるのでしょうか?

キム:韓国は儒教の国ですし、書物を読んで詩を書き、詠ずることを一番としていた国ですからね。今でも文学者は尊敬されています。「クオン」からは、詩集シリーズ「セレクション韓・詩」をスタートし、2冊の韓国の詩集を出版しています。一作目はハン・ガンの『引き出しに夕方をしまっておいた』で、回復に導く・詩の言葉という帯をつけました。韓国の小説は日本語翻訳で出版されていますが、現代詩はまだ少ないのでもっと紹介していきたいです。私達の詩集が売れれば、日本の出版社も興味を持ってくれて、詩集の出版がさらに多くなるはずです。

日本と韓国では喜びや悲しみを表現する方法が少し異なります。日本では短歌や俳句が親しまれていて、今もSNSを中心に若い世代で短歌が流行っていますが、韓国では詩。かっこいい背景と一緒に、詩的な短い文章が投稿されていて、それが現代詩の表現の1つになっているように感じますね。自称詩人も多いんですよ(笑)。それくらい、日常的に詩を書く人達が世代を問わず多いということです。

--『82年生まれ』を筆頭に、韓国のフェミニズム書籍は日本でも多数翻訳され「励まされた」「韓国文学を読んで、日本のフェミニズムや歴史を考えるようになった」という声があったりして、韓国文学が女性達の連帯を生むきっかけの1つになっています。このように、韓国の現代作家の作品と日本の読者層との親和性はどんなところにあるのでしょうか。また反対に、韓国における日本文学の影響についても教えてください。

キム:現代作家達のエッセイが、日本でたくさん読まれているのは、韓国人と日本人が近い感受性をもっていて、共感しやすいからだと思います。また、韓国語に翻訳出版されている日本の書籍は、韓国語の日本語訳書籍の10倍以上もあり、韓国の若者は日本文学に共感しています。言葉は違いますが、文化圏が一緒だと改めて感じます。

現代の韓国で最も有名な小説家の一人、キム・ヨンスの有名なエピソードがあります。彼が、小説家になろうと思ったきっかけは村上春樹を読んで、新しい小説の書き方を知ったからでした。1970年代生まれの彼がそれまで読んでいた小説は、南北問題や朝鮮戦争、イデオロギーの闘い等、重い作品が多かったため、自然に小説の在り方が刷り込まれていたそうですが、村上作品に出合い、難しいテーマもないのに、自分の気持ちをわかってくれるような感覚の書き方に自分でも書けるのではないかと思ったらしいです。

村上作品は、個人を主語に書くという意味でキム・ヨンスの小説の概念を変えるほどの大きな影響を与えました。キム・ヨンスをはじめ、現在50代半ばの作家であるハン・ガン、キム・ジュンヒョク、キム・ヨンハも、すごく良い小説を書いていて、世界中で愛読されています。彼等の作品の特徴である個人の話を描きながらも、自国の歴史や社会問題等をうまく取り入れる点が韓国文学の魅力の1つです。

日本人は、重く、痛みを感じる韓国小説を読んで、自分の考えを代弁してくれているかのような感覚を覚えているようです。反対に、韓国人は日本の何気ない日常の癒し、幸福な小説に惹かれています。それは映画も同じで、激しく、メッセージ性が強いものが多い韓国映画の中で、日本の映画も大人気で、主役の男性に夢中になったり。相互補完しているようでおもしろいですね。

「良い本とは読んだ後、すぐに行動させる本」

--キムさんは自社だけでなく、日韓の出版仲介業もされています。昨年末にキム・ウォニョン(※)の邦訳書が3冊同時出版され、1冊目は、「クオン」から出版した『希望ではなく欲望——閉じ込められていた世界を飛び出す(以下、希望ではなく)』(牧野美加訳)。2冊目は、著者が『希望ではなく~』が自由と連帯の力を証言するための書なら、弁論を書いたという『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』(五十嵐真希訳、小学館)。もう1冊は、韓国新世代SF作家の旗手キム・チョヨプとの共著で、完全さに到達するための治療ではなく、不完全さを抱えたままで、よりよく生きていくための技術を刺激的な対話で考察していく『サイボーグになる テクノロジーと障害、わたしたちの不完全さについて』(牧野美加訳、岩波書店)です。これらの作品の出版仲介をした理由は何ですか?

キム:『希望ではなく~』に出合ったきっかけは、知的障害のある著者の弟との日常を愉快につづった『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった(以下、家族だから』(岸田奈美著、小学館)を読んで、障害を持つ著者の本を韓国語で読みたくなったからでした。

キム・ウォニョンの本は、どの作品も『家族だから~』のように楽しく読むというよりも深く考えさせられる内容でした。そこで読み終わった後、そんな作品が話題になることや販路の拡大を考えていると興味を持ってくれそうな日本の編集者の顔が何人か浮かんだので、企画書を送って「読んでほしい」と連絡したら、すぐに返事があり、あっという間に各書の出版が決まりました。良い本は、読んだ人を行動させますね。私は楽しいと思ったら、すぐに行動して、楽しくなければ即座にやめるので、すぐに他のことを始められんです(笑)。

近いうちに「チェッコリ」は広い店舗へ引っ越しする予定なので、毎月国を変えて、書籍の紹介コーナーを作ったり、イベントをしたりしたいですね。2019年に書評家や翻訳者と「アジア文学の誘い@チェッコリ」というイベントを開催して、タイ・チベット・中国文学を紹介しました。それがきっかけになって、アジア9都市の人気作家による『絶縁』(小学館)の出版に携わりました。『絶縁』がきっかけで、チベット文学が注目され、本屋大賞の翻訳部門にノミネートされたり、出版社から単行本が出版されたりと良い流れを間近で感じています。「“日本国内でのアジア文学の注目のきっかけとして”韓国文学が1つのモデルケースになっている」とも聞いたので、日本でアジア文学に携わっている方達と連携して楽しく盛り上げていきたいです。一番得をするのはアジアの文学を母国語で読める日本語圏の読者達ですね。

それから、今年の初めに、北朝鮮の小説『友』(ペク・ナムリョン、和田とも美訳、小学館)の仲介をしました。韓国だけでなく、北朝鮮や中国の延辺朝鮮族自治州にも韓国語を話す人がいますから、今後は、韓国文学だけでなく、ハングルで書かれている多様な作品を日本で紹介したいと思っています。

※キム・ウォニョンは、骨形成不全症のため、入院と手術を繰り返し、14歳まで病院と家だけで過ごした。15歳で特別支援学校の中等部に入学し、一般の高校、大学、大学院を経て、弁護士の道に進んだ。現在は作家、パフォーマーとしても活動している。

Photography Seiji Kondo

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 ポートランドの日系四世ジャナ・イワサキが語るかつて存在した日本町とジャパニーズ・アメリカンの歴史 https://tokion.jp/2023/05/18/interview-jana-iwasaki/ Thu, 18 May 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=178583 かつて日本町があり、多くの日系人が暮らしていたオレゴン州ポートランド。「オレゴン日系アメリカ人博物館」の理事に聞いたジャパニーズ・アメリカンの過去と現在

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ポートランドには日本と繋がりの深い場所が2ヵ所ある。1つは、「オレゴン日系アメリカ人博物館(JAMO)」。JAMOは以前「オレゴン日系レガシーセンター」と呼ばれ、オレゴンの多文化コミュニティーにおける日系人の歴史を探求、啓蒙する場としての役割を担ってきた。ここでは、日本町の歴史資料に加えて、第二次世界大戦中に日系人が収容された強制収容所に関連する展示もされている。もう1つが「ポートランド日本庭園」だ。全米に300以上あると言われる日本庭園の中でも格段に評価が高いことで知られる。枯山水等、8つの庭園様式で構成される公園内には茶室が設置され、開園50周年を迎えた2017年のリニューアルオープン時には建築家・隈研吾が手掛けたギャラリーやビジターセンター等、3棟の建築物が新設された。現在は、日本人旅行者や在住者も多いポートランドだが、意外にも日系人の歴史はあまり知られていない。

「JAMO」によると、1890年のポートランド在住日本人は25人ほどだったのが、20年後には1200人になった。そして日系一世により作られた日本町は“ジャパンタウン”と呼ばれ、次世代へ受け継がれていくことで、日系アメリカ人のコミュニティーの輪郭が形成されていったという。1940年には、4000人を超えたものの、第二次世界大戦中の1942年2月19日、ルーズベルト大統領(当時)が、軍事活動の妨げとなる人物の排除を可能とする「大統領行政命令9066号」を発令したことで、約12万人の日系アメリカ人が、全米に10ヵ所ある強制収容所に隔離された。戦後、ポートランドの日本町は完全には回復せず、戦争中に抑留された日系人の多くは他の都市に移住し、日本町に戻った人はわずかだったという。その後、ポートランドで日系人はどのようにコミュニティを築いていったのか。知られざる日系人の歴史を「JAMO」の理事であり、日系アメリカ人四世のジャナ・イワサキに聞いた。

ジャナ・イワサキ
日系四世、オレゴン日系人博物館(JAMO)理事。以前は「オレゴン日系レガシーセンター」として知られていた JAMO 。その役割は、太平洋岸北西部の日系アメリカ人の歴史と文化を保存し、尊厳を尊重することに加えて、第二次世界大戦中の日系アメリカ人の経験の認識と理解を推進し、全アメリカ人の公民権の保護を提唱している。
Japanese American Museum of Oregon
Photography Rich Iwasaki

ポートランドにおける日系アメリカ人のストーリー

−−イワサキさんの祖父は生前、ご自身の体験や日系人の歴史を伝えるために、ポートランド州立大学やオレゴン歴史協会、地元の図書館などで講演会を精力的に行っていたそうですね。

ジャナ・イワサキ(以下、イワサキ):祖父は当時30歳で、8人兄弟の長男として困難な状況下で家族を守るために必死に行動しました。家族はオレゴン州東部の日系アメリカ人の収容所に送られました。男性が徴兵されて農民不足だったため、サトウダイコン(てん菜)等を栽培し、砂糖の製造過程で出る副産物は、軍需品や合成ゴムの生産に使用されていました。収容所へ行ったことで、それまで農業で多忙だった生活は一変し、(収容所で農作業はしていた)実質的に農作業をする時間は減ったと聞いています。祖父は、収容所では家族形成を維持できるので、より良い状況になると考えたそうです。その一方で、他の収容所では、同年代同士で集まることが多く、家族形成が崩れたと言います。

年齢によっても収容所での経験、状況は大きく異なります。学齢期だった祖父の弟や妹達の中にはアイダホの大学に転校を余儀なくされた人もいますが、「収容所で新しい友達ができて楽しかった」と話した妹がいたといいます。権利や自由が奪われ、希望を見出すことが困難な状況下であるにも関わらず、前向きな思い出があったことを聞いたのは驚きでした。

すでに多くの日系退役軍人は他界していますが、私の伯祖父2人を含む退役軍人達は、2011年にワシントンD.C.で、オバマ大統領から議会名誉黄金勲章を授与されました。この時、合計33,000人の日系二世の第442連隊戦闘団、第100歩兵大隊に所属していた人々が出席しました。

−−人種差別等の過ちを繰り返さないために、日系アメリカ人は毎年2月19日を『追憶の日(The Day of Remembrance)』と定めて、全米各地でイベントが行われていますが、イワサキさんはどのような活動をされましたか?

イワサキ:家族や友人とともに「マンザナー巡礼」に参加して、アイダホ州中南部のミニドカ、カリフォルニア州北部のトゥールレイク、カリフォルニア州のマンザナー、ワイオミング州のハート・マウンテンの収容所を訪れましたが、とても衝撃的な体験でした。「マンザナー巡礼」は今でも続いていますが、どの収容所も夏は猛烈に暑く、強風の土地もあり、気象条件が厳しいです。私が訪れたのは冬ではありませんでしたが冬も「寒さに慣れていない多くの南カリフォルニア出身の日系人にとって冬の厳しい寒さがどれほど辛かったか」という話が強く印象に残っています。「マンザナー」に収容されていた女性から、家族をキャンプに残して日本に渡った父親の話を聞きましたが、その経験が彼等にとってどれほど辛い体験だったか、計り知れません。

当時、アメリカ政府は、収容所の全員に忠誠心を測るアンケートの回答を求めました。その多くの質問に「ノー」と答えた人達の多くは「ノー・ノー・ボーイ(No-Noboy)」と呼ばれる若い男性達でした。当時、「ノー・ノー・ボーイ」達は権威に逆らうことで恥さらしと考えられていました。第二次世界大戦で徴兵を忌避した息子を恥と考え自殺した日系一世の母親の話を聞いたことがあります。

「ノー・ノー・ボーイ」の多くは、政府がキャンプから家族を解放した場合にのみ奉仕することを条件にしましたが、最終的に、数名が第二次世界大戦後、朝鮮戦争で軍務に就いたといいます。日系アメリカ人市民連盟(JACL)が、選抜徴兵者に公式に謝罪したのは2002年だったことにも大変な衝撃を受けました。巡礼に参加することで、これまで考えたこともなかったさまざまな事実を知りました。

最も印象的だった収容所は、トゥールレイクとハート・マウンテンです。トゥールレイクは、多くの活動家やコミュニティーリーダーが入っていたことで知られる監獄があります。その場所は、収容所の人達の間では冗談で「刑務所内の刑務所」と呼ばれていました。でも実際は、施錠するドアすらない収容所内の刑務所に留置されていました。その刑務所には最も反体制派の人々が送られたといいます。

ハート・マウンテンでは、元下院議員のノーマン・ミネタとアラン・シンプソンという2人の著名な政府指導者が登壇し、過去の経験について語りました。それぞれカリフォルニア州とワイオミング州の政治家として活躍をしましたが、実は戦中に知り合ったんです。ミネタがハートマウンテンで収監されていた際、彼のボーイスカウトのリーダーが隣接するグループにジャンボリー(ボーイスカウトで行われるキャンプ大会)に参加するよう呼びかけました。最終的に1つのグループが参加することに同意し、ミネタとシンプソンはペアを組んで様々な競技に参加しました。それから20数年を経て、ミネタがカリフォルニア州・サンノゼ市長に選出された時に、シンプソンがミネタ宛に祝辞の手紙を書いたことがきっかけで交流が再開。その後もミネタは民主党員として、シンプソンは共和党員で政治理念が異なるにも関わらず、さまざまなプロジェクトで協力しました。

ハート・マウンテンには、他にも多くの日系人の功績が伝えられています。ロサンゼルスのリトル・トーキョーに今もある創業120年の洋菓子店「風月堂」の親族が収容されていた時、配給された砂糖でおやつを作っていたことや収容所の兵舎の下に暗室を作り、当時の記録写真を多く残し、保存したヒラハラ家の人々も精励な活動家として知られています。巡礼に参加する最も重要なことは、その時代を生きた日系二世の親戚や家族の友人と経験を分かち合うことです。先人達の忍耐力に深い敬意と賞賛の念を抱きますし、後の世代が暮らしやすいよう道を切り開いてくれたことに感謝しています。

さらに、日系アメリカ人にとって最も重要だった賠償請求に対し政府は1988 年、正式に謝罪し、生存者全員に20,000ドルが支払われています。

−−日系アメリカ人が体験してきた歴史には、人種や世代を超えて悲しみや怒りを覚えます。より希望に満ちた未来のために、この歴史から学べることは何でしょうか?

イワサキ:私の曽祖父は、1916年にオレゴン州・ヒルズボロで農業を始めました。1942年に新しい家を建設中でしたが、「大統領行政命令9066号」の発令によって、立ち退きを余儀なくされたため、地元の医者に貸したものの家賃が支払われませんでした。そこで、近所のドイツ系アメリカ人の酪農家、フロイデンタールさんが家賃を徴収し、管理してくれました。フロイデンタールさんの厚意により、私の家族の農場は現在も同じ場所に残っています。アメリカはドイツとも戦争状態にあったため、フロイデンタールさんは曽祖父達の状況を理解し、支援を申し出てくれたんです。

そして、フロイデンタールさんは、ヒルズボロのルーテル教会に通っていたため、祖父の弟が恩返しに、教会の建設に使用する大きな岩を粉砕し農場用トラックでヒルズボロまで運びました。この教会は現在もメインストリートにあります。教会は改修によって大きくなり、現在はヒルズボロ・パークス & レクリエーションの一部として、コンサート、レセプション、イベントが開催されています。後にフロイデンタールさんは財産を教会に売却しましたが、私達の家族や教会員との友情は継続しています。これは、個人が友情とアライシップで深く繋がり、お互いの境遇に配慮をした例です。

「your story is our story」日系アメリカ人の歴史を明らかにし、伝える多様なアーティスト達の活動

−−過去を振り返ると、多くの日系人アーティストがいます。すべてをあげることはできませんが、写真家のフランク・マツラ(1873~1913年)、画家でイラストレーターのミネ・オオクボ(1912〜2001年)、 そしてポートランドのオレゴン日系レガシー・センターの創設者で、アーティストのヴァレリー・オオタニが知られています。マツラは明治時代にアメリカに渡り、先住民や白人、黒人等あらゆる人種のアメリカ人を撮りました。オオクボは、自身の日系人強制収容所での体験をイラストとともに綴った書籍『市民13660号』で知られ、今も当時の体験を鮮明に伝える貴重な資料として読み継がれています。そして、オオタニはポートランドの日系人社会で大きく貢献した人物の1人として知られていますね。

イワサキ:組太鼓のグループ「ポートランド太鼓」と、2019 年と「JAMO」に改名された「オレゴン日系レガシーセンター」の創設者として、オオタニには大きな影響を受けました。オオタニのアート作品は家族の経験の影響が強く、人とアイデアを結びつけることに長けている人物でした。

ポートランドの日系アメリカ人の歴史を称えるオオタニのパブリックアート作品〈Voices of Remembrance〉は、投獄された家族を表す金属製のタグが付いた鳥居のオブジェで、風が吹くとタグがチャイムのように優しい音を奏でます。この作品は、1942年に最初の日系アメリカ人が収容された「ポートランド・アセンブリ・センター」に所蔵されました。現在はエキスポセンターと名称が変わりましたが、今も多くの人が訪れています。(〈Voices of Remembrance〉は現在修復中で、2025 年に再び設置される予定)

−−映画監督のベス・ハリントンやアーティストのジュリアン・サポリティ等、日系アメリカ人の意思を受け継ぐ非日系アメリカ人アーティストの存在もあります。ハリントンは現在、前述した写真家のマツラの生涯を追ったドキュメンタリー「Our Mr. Matsura」を制作中です。また、ポートランド在住のベトナム系アメリカ人のソングライターのサポリティは、音楽プロジェクト「No-No Boy」を立ち上げ、ベトナム戦争を生き抜いた自身の家族の歴史や日系人を含めたアジア系アメリカ人の体験からインスピレーションを得た楽曲を多く発表していますね。

イワサキ:学ぶべきことは非常に多いです。ハリントンのおかげでマツラの存在を知りました。マツラは、日系移民がアメリカ社会の一員となった軌跡を残した人で、写真を通して周辺地域の生活や複数の先住民部族の人々等の日常生活を記録しました。この写真がなければ、当時の生活を知ることはほとんどできなかったでしょう。新しいコミュニティーに意欲的に入っていき、さまざまな交流をすることに成功した多くの日系一世がいました。コミュニティーにおける文化の多様性を尊重していた当時の日系アメリカ人の活動には、知れば知るほど刺激を受けています。

サポリティの「No-No Boy」 は重いテーマを掘り下げていて、パフォーマンスでは古い写真も使われています。ある曲のMVで見た、戦時中、線路に寝そべる日系アメリカ人男性の姿がとても印象に残っています。繰り返しになりますが、戦争と人種差別が、収容所に投獄されたすべての人達にとってどれほど辛い体験であったかを理解しました。

このような魅力的な作品が存在するにもかかわらず、人種差別は続いています。私達は過去を学び、同じように人種差別と戦う志を持つ人達や組織とともに声を上げて、関係性とパートナーシップを構築し未来に向けて行動を起こす必要があります。

Cooperation: Jana Iwasaki&James Rodgers, JAMO
References: Densho. Preserving Japanese American stories; Japanese American Museum of Oregon. Oregon’s Japanese Americans: Full documentary; Portland State University and the Oregon Historical Society. Japanese American incarceration in Oregon digital exhibit; U.S. National Park Service. Manzanar National Historic Site.

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ポートランドのフィールグッドなヴィーガン・ジャパニーズ「Obon Shokudo」の日常 https://tokion.jp/2023/01/31/portland-based-vegan-japanese-restaurant-obon-shokudo/ Tue, 31 Jan 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=165992 体と心を喜ばすもてなしを重視する和食家庭料理店「Obon Shokudo」。食にまつわる当たり前に疑問を持ちながら、変化を起こし続けるオーナー夫妻の活動とは。

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ポートランドの各地で開催されているファーマーズマーケットは、生活と地元食材がダイレクトに結びついていることで知られる。ランチタイムは学生やビジネスピープル、旅行者達でにぎわい、地元のシェフがオーガニック野菜を仕入れるために訪れるところでもある。そんなファーマーズマーケットで、7年以上をかけて存在感を増してきたヴィーガンのジャパニーズレストラン「Obon Shokudo(オボン食堂)」が、実店舗をオープンしたのは2021年の夏。現地ではすでに根付いているヴィーガンと日本食というジャンルの中で、他にはない特別なメニューを模索した。そこで、目をつけたのが日本の家庭料理。日本人なら誰もがなじみのある、おにぎりやけんちん汁といった家庭料理にポートランドの季節の食材を使用している。味付けはオーナーが親しんだ母の味を彷彿とさせる。そんな「Obon Shokudo」にポートランドで昔ながらの製法でみそ作りをしている「Jorinji Miso」のオーナー夫妻と訪れた。

Obon Shokudo
オーナー夫妻、フミコ・ホズミとジェイソン・ダファニーが経営するオレゴン州ポートランドの日本の家庭料理を提供するヴィーガン・レストラン。全メニューはプラントベースで、食事と農場を結びつける「ファームトゥテーブル」及び有機栽培、サステナブルな食材を使用。野菜を無駄なく使うなど食品ロス削減を徹底した環境に優しいレシピを考案し、所得水準に関係なく多くの人がオーガニック食品を味わえるように価格にも配慮している。
https://www.obonpdx.com/

誰もが満足する体と心を喜ばせる日本食

店内に入ると、「Obon Shokudo」のオーナーであるジェイソン・ダファニーは、友人である「JorinjiMiso」のオーナー夫妻に笑顔で手を上げた。キッチンでは、忙しそうにジェイソンの妻フミコ・ホズミが揚げ物に使う粉を試していて「いろんな粉を試しているけど、かき揚げの衣が安定しない」と話した。野菜はそれぞれの水分量やコンディションが違い、グルテンフリーの粉を使うと粘り気がでないため、揚げ物の調理は難しい。

その後も健康意識の高いグルテンフリーの常連客のために小麦粉の代用を探し続けたが、納得のいくものとは出合えなかったために、11月頃には思い切って小麦粉に変えたという。一番の気がかりだった顧客にもこのかき揚げはスムーズに受け入れられた。以降はできる限りヴィーガンにこだわりながらもグルテンの機能性を柔軟に取り入れている。

ローカルからは「『Obon Shokudo』は、ポートランドの他の日本食レストランにはない料理が味わえる」という評判を聞く。その理由は、定番メニューにも趣向を凝らしたアイデアが詰まっているからだ。看板メニューである発芽玄米のおにぎりの具には、豆腐の味噌漬けや生姜とピスタチオの味噌、柚子とパンプキンシードの味噌など、日本人になじみ深い家庭料理にも「Obon Shokudo」らしさが加わる。

そもそも、フミコは「精進料理ではなく、体と心を喜ばせられる料理を提供する」ためにヴィーガンレストランを始め、「『Obon Shokudo』の料理で快適な生活を送ってほしい」という考えを持っている。そのため、「Obon Shokudo」は肉料理と遜色のない「おからを使ったコロッケ」や「豆腐を使ったカツ」等、ジューシーなメニューも豊富で、ヴィーガン以外の顧客にも人気がある。揚げ物のカロリーや栄養価を懸念する顧客には、植物性タンパク質のメリットと、油を抑えた調理法で体への負担が少ないことを丁寧に説明する。価格が良心的でありながらも満足のいくヴォリュームなのは、「ぜいたく品となっているオーガニック食品を所得水準に関係なく1人でも多く提供したいから」だという。

3つの“フィールグッド”

「Obon Shokudo 」は“フィールグッドな日本食”をコンセプトに掲げ、食材の仕入れから、顧客が入店してから退店後までを視野に入れ、誰もが気分よく食事ができる仕組みを作っている。1つ目の“フィールグッド”は素材への意識。食材は会いに行ける距離のローカルの農家や業者から、できるだけ旬のものを仕入れている。2つ目は食品ロス削減への意識を徹底していること。「Obon Shokudo 」ではスタッフが食材を捨てる前に必ずフミコのチェックが必要で「物を粗末にしないで大切に使う。スタッフには、うちは他のレストランと違うから、食材を捨てないでと言い続けています。そこまでやってもまだ食べられる“山盛りの食材”を持ったシェフ達が『これ捨てていい?』って聞きにくる」。食材の無駄を出さずに飲食店を続けていくことの難しさを痛感するエピソードだ。最後の“フィールグッド”は、健全な胃のサイクルを作ること。「満腹まで食べたとしても胃もたれせずに、翌日も自然な空腹で、快適に目覚められるような食事のリズムを作りたい」という。そしてフミコは「長い時間をかけて完璧に仕上げられたおいしいものがあるなら、自分達で作るよりもその商品を『Obon Shokudo』でも提供したい」というように、自社生産にこだわりながらも、他社で丹念に作られた至極の逸品にも敬意を払い、「Obon Shokudo」では「JorinjiMiso」の甘酒を置いている。「Obon Shokudo」は味噌や麹等も作っているため甘酒の生産もできるが、フミコは「JorinjiMiso」の甘酒を絶賛する。

さらに、注目なのが「本日のメニュー」だ。フミコとジェイソン自らが、休日に山で採ってきたキノコを使用するのだが、最近では舞茸のような味わいのキノコを使用した餃子がふるまわれたという。昨年は松茸が豊作だったため、たけのこと合わせた炊き込みご飯やソテーが登場したのだとか。日替わりメニューはどの店にもあるが、キノコ専門家が作る日替わりメニューには特別感がある。

小さな活動で社会に変化を起こし、ローカルの生産者と共創する

2人はもともと、多様なフードカルチャーが混在していることと、街のスローガン「Keep Portland Weird(ポートランドは異端であり続けよう)」という個性を尊重する地域性に惹かれてサンフランシスコから移住してきた。

「Obon Shokudo」は最初にケータリング店としてオープン。その後、地元のヴィーガン、グルテンフリーのディストリビューターに日本食の販売を提案されたことをきっかけに2014 年からファーマーズマーケットに参加し、けんちん汁やおにぎり、コロッケ等の販売を始めた。当時のポートランドでは寿司やラーメン以外の日本食の知名度は低く、試食の提供を繰り返しながら少しずつ顧客を増やしていった。日本食になじみのない人でも想像しやすいようにけんちん汁は“野菜のたくさん入った汁、コロッケは“日本風ファラフェル”と説明することもできたがそれに甘んじず、各料理本来の名前を使い、成り立ちや使われている食材までを説明したが、すぐには受け入れられなかったという。地元民に未知の異国料理を根付かせるまでにはひたすら継続させることが重要だ。フミコは「自分が心安らぐ、埼玉県の実家の母や祖母が作ってくれた日本の家庭料理を作りたかった」と言い、これまでの数年間を「現在も変わらないことですが、『絶対にうまくいくよ』と背中を押してくれるジェイソンの存在が大きいですね。彼の行動力と思い入れは本当にすごい」と微笑みながら振り返った。家族というテーマは、店名とロゴにも落とし込まれている。店名は先祖の霊を祭る“お盆”と、配膳用の木製の漆塗りの“おぼん”から、モノクロのロゴは、ホズミ家の家紋がインスピレーション源だ。

また、取引先を選ぶ重要な決め手は、食品の質だけでなく、食品ロス、環境への配慮、地域活性への貢献等の価値観を共有できるかどうか。現在は、レストランの運営の他に、新しいブランド「Obon kojo」を立ち上げ、かんずりの店頭販売と味噌や麹の小売り販売と卸を行っている。“フィールグッド”を創造力として、多くの人達にシェアされていく「Obon Shokudo」の活動について、フミコは「私達の活動が社会に与えられる影響はまだ小さいですが、食品ロス削減や食生活で健康を意識する人が増えるといいですね」と締めくくった。

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ポートランドで魔法使いと呼ばれる発酵の伝道師「Jorinji Miso」による“口福”な生活 https://tokion.jp/2022/11/16/jorinji-miso/ Wed, 16 Nov 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=156158 競争ではなく共創するものづくりと日々の営みや縁を大切にする、みそ屋「Jorinji Miso」。先進性や多様性に日本の伝統製法を組み合わせたみそ作りとは。

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アメリカで発酵食品が注目されて久しい。発酵リヴァイバリストで発酵オタクを自称するサンダー・エリックス・キャッツが初の発酵食品に関する書籍『発酵の基本 “Basic Fermentation”』を出版したのが2003年。その後も世界の発酵食品文化を巡る冒険記からより高度で専門的なレシピ本まで多数執筆しており、その中の1冊は『サンダー・キャッツの発酵教室』として日本語訳されている。

さらにアメリカの発酵食品を遡ると著者、アキコ・アオヤギとアメリカ人の夫、ウィリアム・ シュルトレフが1972年秋から日本国内で日本の大豆食品に関する研究を開始し出版した『ザ・ブック・オブ・トウフ』がある。そして、アメリカにみそブームを巻き起こしたと言われる『ザ・ブック・オブ・ミソ』が1981年に発行された。余談だがニューヨーク、マンハッタンのある老舗寿司屋のオーナー兼職人は、「1980年代は刺身、黒いのりで巻かれた寿司、みそ汁を食べることに抵抗のあるアメリカ人がたくさんいて、少しずつローカライズしながら日本食は今の地位を築いた」というから、現在の発酵食品を含めた日本食に対する関心と需要は40年近くをかけてじっくりと成長してきたといえる。次いで2018年、世界一のレストランとして知られるデンマーク・コペンハーゲンにあるノーマの発酵ラボによる『ノーマの発酵ガイド』が出版され、発酵はより独創的で洗練された料理手法として紹介された。

コロナ禍で第3次発酵ブームといわれる日本と海外でそれぞれに進化している発酵食品だが、点と点をつなげるような活動をした日本人料理研究家が舘野真知子だ。舘野は日本国内でみそや塩麹、甘酒等、発酵食品の書籍を出版し、60年以上にわたって放送されている料理番組に出演した。誰にでも簡単にできる家庭料理として発酵食品を啓蒙する活動は、日本の他にポートランド、ニューヨークにも及ぶ。2019年に出版した『きちんとおいしく作れる漬け物』の英語版『Japanese Pickled Vegetables』は重版となり、シンプルでおいしく誰でも作れるレシピを追求した料理法は国境を超えて評価された。数年前、ニューヨークで行われた漬け物のレクチャーイベントで舘野は「日本人にはない個性的な発想で発酵料理を楽しむポートランダーと接する中で発酵食品の可能性を感じた。次は甘酒を広めたい」と話した。ポートランドと発酵食品の関係については、2009年に始まった「フェルメンテーション・フェスティバル(発酵祭)」がある。舘野の友人でありポートランドで昔ながらの製法でみそ作りをする「Jorinji Miso(成林寺味噌)」のオーナー、ミガキ夫妻を介してこのイベントに2度参加し、発酵好きなポートランダーとの交流を深めたという経緯がある。

Jorinji Miso(成林寺味噌)
オレゴン州ポートランドで生まれ育った日系三世のアーネスト・ミガキと、2015年にポートランドに移住した日本人の由利・ミガキ夫妻が営むSoy Beam Jozoのみそブランド。自然発酵にこだわる少量生産で、オレゴン州ポートランド近郊のスーパーや飲食店への卸売りの他、月に1度の直売会やイベント、また夏期を除いたアメリカ国内への発送等、直接販売にも力を入れている。
https://www.jorinjimiso.com/

創業27年、縁が繋がり今に受け継がれるポートランド生まれの「Jorinji Miso」

「Jorinji Miso」は、1995年にポートランドで生まれ育った日系アメリカ人三世のアーネスト・ミガキと彼の最初の妻、日本人のスミコが設立した。生粋のポートランダーであるアーネストは日本に職を求めて移住した後にスミコと出会い、1994年に2人でポートランドへと戻ってきた。当時のポートランドには、今のように手作りのみそが手に入る場所がなかったために納得のいく日本食を自分達で作ることを決意する。日本から持ち込んだ指南書と道具を使い、いくつもの試作を経て完成したみそは試食した友人達に絶賛され、この経験が「Jorinji Miso」誕生のきっかけとなった。しかし、その後、地元のオーガニック・スーパーの店頭に並ぶほど人気を集めていた矢先にスミコが急逝。喪失感と不安の日々を送っていたアーネストだったが、地元のファーマーズ・マーケットでみそを使ったパティスリーを販売する友人のミオ・アサカ等の励ましで懸命にみそ作りを続けた。

そして2015年、東京からポートランドへ留学していた大江由利は、ミオをきっかけに「Jorinji Miso」の存在を知ってアーネストと出会い、工房を手伝い始めるようになる。翌年には公私ともにパートナーとなった。由利・ミガキは「Jorinji Miso」との出会いについて「ポートランドにこんなにおいしいみそがあることは嬉しい驚きだった」と当時を振り返る。

「Jorinji Miso」のみそ蔵には、創業当初に地元の新聞に取材された時の切り抜きが貼ってある。その理由について由利は「3人でみそを作っているという気持ちがあり、スミコさんは私達がおいしいみそを作れるように見守ってくれている」と語る。由利は日本の短大を卒業後20年間務めたシステムエンジニアの知識と、前述した料理家の舘野がシェフとして働いていたファームトゥテーブルのレストラン「六本木農園」のマネージャーだった経験を生かし、「Jorinji Miso」のパッケージやブランドロゴのデザイン、みその製造スペース、環境管理等を5年かけて一新、そのなかでも創業からずっと使ってきたラベルを変えることはスミコのことを考えると一番大きな決断だった。「今が一番楽しい」と笑顔で由利が話す通り、ポートランドでのみそ作りや試食のデモンストレーション、ウェブサイトで紹介するレシピには今まで培ってきた経験や知識の集大成のように見える。“ミソ スープ”の類いではないメニューは、みそマヨネーズソースの上に色とりどりの野菜とマッシュルームをのせたトルティーヤ・ピザといったフュージョンスタイルで、料理作りが楽しくなるものばかりだ。

日本人らしい美意識や心遣いを感じるポートランドのみそ作り

生みそにこだわると当然販路が制限される。「Jorinji Miso」はポートランド近郊の限られたスーパーと公式サイトで販売しているが、大規模な仲介会社にまとめて商品を卸すことはせず、地元の小規模な配送会社を利用したり直接配達するなどして極力注文から顧客の購入に至るまでの時間を短くするよう工夫している。その理由はできるだけ無駄が出ないようにするためで、容器への充填(みそ詰め)も極力注文を受けてから行っている。「みそがもったいない」と話し、みそ樽の表面部分にあるカビを丁寧に取り除きながら熟成加減を確認する。どんなに丹念に仕込んだとしてもある程度のロスが出てしまうことが残念と話す。「おいしくなるんだよ」と声をかける理由も菌は生き物だから。あらゆる手間を惜しまないものづくりに心を動かされる。

また、こだわりはみそ作りだけではなく容器やラベルにも見られる。スーパーで販売するみそは一部の店舗を除きプラスチック容器を使っているが、直売はグラスジャーと紙容器のみ。ラベルは剥がれやすいシールにすることで、購入者がグラス容器をリユースしやすいようになっている。言われなければ気付かない、細部まで妥協しない姿勢は日本人らしい美意識や心遣いを感じる。

一方で、地元のレストランからみその作り方を求められれば、惜しみなく教える。由利は「みんながみそを作ってくれるようになればいい。ポートランドが日本の次にみそ作りをしている街になったら楽しい」と語り、日本人としての誇りを持って、本物のみそと発酵食品文化を伝えている。実際に地元の学校やコミュニティーのみそ作りでは「Jorinji Miso」の麹が使われているという。みそをお湯で溶かしたもので満足する顧客や発酵食品に神秘性を感じ、由利とアーネストを「魔法使い」だと思っている人などユニークなポートランダーとの交流もあるという。確かにみそ作りの過程は知れば知るほど興味深く不思議だ。同じ土地で同量の材料を使ったとしても作り手によって仕上がりに差異が生まれる。以前、日本のみそ職人から「菌は人を選ぶから、作る人の心が整っていないとみそが作れない」と聞いたことがある。

すでにニューヨークでは寿司やラーメンだけでなく、だしやうまみ等、日本特有の味覚が広く知られている。日系二世の父と、青森出身の母を持つアーネストは、手作りのみそ汁と漬物で育ったものの、当時は今のように日本食レストランや日本の食材が手に入る場所はほとんどなく、大学時代のカフェテリアの乾燥したピザやハンバーガーにもうんざりしていたという。25歳の時に仕事で横浜に移住してから牛丼や焼き鳥、立ち食いそば、和菓子等に出合った時には「ポートランドで食べていた日本食はほんの一部」だったことを知る。そんなアーネストに現在のポートランドでの日本食とみその認知度を聞くと、「アメリカのオーセンティックな発酵食品と日本食が混在している。グルテンフリーやヴィーガン等、多様な食文化に合わせて消費者の嗜好も変化しているが、今は少し落ち着いている。次はどんなトレンドになるのか気にしているが、自分達の納得のいくみそを作り続けるしかない」と語った。

Cooperation Kazumasa Kobayashi

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北米最大規模の日本町だった地から発信される日本の職人技 シアトル「KOBO at Higo」 https://tokion.jp/2022/11/12/seattle-kobo-at-higo/ Sat, 12 Nov 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=154366 かつてさまざまな国に渡った日本人を祖先にもつ日系クリエイター、コミュニティを通して「日本」の過去と今を探る。

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シアトルのチャイナタウン・インターナショナル・ディストリクト(以下、CID)は、かつては北米最大規模の日本町があった地であり、日本にルーツをもつアメリカ人にとっては歴史的にもっとも重要な場所の1つだ。1880年代に最初の日本人労働者が、アメリカ北西部に到着した後、鉄道や製材所、農場等で過酷な労働に従事した。戦前の世界的な人口増大において、1930年には8500人の日系人が現在のCIDに移住し、アメリカ西海岸では 2 番目に大きな日系人コミュニティとなった。人口増加に伴い日本語学校や新聞社、宗教施設、道場が設けられ、さらに日本町として知られるようになった頃には、日系人経営者による宿泊施設や飲食店、商店等が立ち並んだ。その繁栄は1937年の日中戦争の影響を受けて変化し、日本へ帰国する人々が増えたものの、1941年日系アメリカ人はシアトル最大の少数民族だった。そして1941年12月8日(現地時間7日)、日本軍がアメリカ・ハワイの真珠湾を攻撃、太平洋戦争へと突入したことで日系アメリカ人の生活は一変する。当時のアメリカ大統領、ルーズベルトが「大統領令9066号」を発令、アメリカ市民を含む12万人以上の日系人が「敵性外国人」とみなされ、強制収容所へ送還された。シアトルの日本町の住人は土地や財産を全て放棄させられ、スーツケース片手に日本町を去った。

日系人が収容されている間にシアトルのボーイング社は軍用機の需要により急成長し、労働者が急増したため日系人の住居だったエリアには他の人種が住み着いていた。戦後に収容所を出た日系人の多くは、変貌した日本町から他都市へ移住し、同地の日系の店舗もだんだんと数が少なくなっていった。

次いで1951年、当時のシアトル市長のウィリアム F. デビンが同地をアフリカ系アメリカ人、日本、中国、フィリピン等の多様な文化が共存する「インターナショナル・センター」と呼んだことで「インターナショナル・ディストリクト」という名前で親しまれるようになる。1980年代、シアトルはベトナム、ラオス、カンボジアから数千人の移民を歓迎し、彼等は同区の南にあるレーニア バレーに定住し商いを始めた。現在は12番街とジャクソン・ストリートエリアが「リトル サイゴン」と呼ばれている。一方で「インターナショナル」という言葉が、先に同地を開拓した中国系コミュニティの歴史を弱体化させてしまうのではないかと懸念する人々による長年の抗議活動があり、1998 年に「CID」と改名された。

「KOBO Seattle」
アメリカ人夫婦のビンコ・チヨング・ビスビー、ジョン・ビスビーが1995年にシアトル、キャピトル・ヒルにオープンした日本とアメリカ北西部の作家の作品を扱うアート&クラフト・ショップ。2004年に2号店となるアートギャラリー&ショップ「KOBO at Higo」をインターナショナル・ディストリクトにオープン。店名は日本語の「工房」に由来し、伝統的な作品に加えて現代的な作品も専門としている。年6回、厳選された作家によるクラフト&デザインの展示会を開催している。同店は、モノの蓄積ではなく、必要なものをそぎ落とすことで定義される本質的な生活を提案している。天然資源から生み出される作品が人々のインスピレーションを得るきっかけになり、作り手の温もりを想起させる機会作りになることをテーマにしている。
https://koboseattle.com/

多様な民族・文化の生きた歴史を体感できる街で、その本質に触れる

現在の「CID」は主に 3 つの民族グループに分けられる。前述した「リトル サイゴン」、キングストリート周辺の「チャイナタウン」、そして戦前から営まれてきた日系商店、宿泊施設のあるメインストリートの「日本町」だ。

現在の日本町に半世紀以上前の面影を感じることは難しいが、当時のまま現存する貴重な建物がいくつかある。その1つは、1909年に熊本からシアトルへ移住した村上三蔵が、1932年に日本町に開店した日用雑貨店「ヒゴ・バラエティーストア(以下、ヒゴ)」。現在は、アートギャラリー&ショップ「KOBO at Higo(以下、KOBO)」として日本のものづくり、職人技を感じさせるアート&クラフトを販売している。

「KOBO」のオーナーはアメリカ人夫婦のビンコ・チヨング・ビスビー、ジョン・ビスビーの2人。ビンコは台湾出身で日本とアメリカで学業を終えた父親とカリフォルニア生まれで、流暢な日本語を話す日系アメリカ人の母親を持つ。東京で生まれ日本語で育ったが、6歳の時に父が亡くなりシアトルに移り住んだ。移住後、日本町の小学校に通っていた時に母親とともに「ヒゴ」や周辺の商店を訪れていたという。アート好きの母親は、日本で収集した手作りの陶器や民芸品を愛用し、ニューヨークやカリフォルニアの親戚に会いに行く度にビンコを美術館へ連れていった。シアトルから母親と共に和歌山にいた母方の親戚を訪ね、その親戚がシアトルを訪ねるという交流もあった。

ジョンとの出会いはニューヨークの大学院時代。ジョンはニューヨーク市の建築事務所に勤務していたが、2人はより深く日本を知るために1年間東京に住むことを決め、ジョンは日本の大手建築会社に勤務した。建築デザインに造詣が深いジョンと、民芸・工芸好きのビンコは、日本各地を訪れて、多くの人と出会う中で日本の職人技に魅了された。当初は1年の滞在予定が、結果的に5年間を日本で過ごした。

ビンコにとって、日本の工房での職人達との交流は、「成長するにつれ話す機会が減っていた日本語を再習得する機会でもあり、自身のルーツに触れる貴重な体験だった」で、「工房を訪れた時、職人達に歓迎され、温かいもてなしを受けたことを今でも鮮明に覚えている」という。当時についてビンコは「長い歴史のある日本の職人技、アート&クラフトをアメリカで紹介したいと思いました。アメリカの職人は1、2年で何かを作り始めますが、日本の職人は弟子入りし、工房の掃除など身の回りの仕事から学び始め、何かを作れるようになるまで時間がかかります。例えば1つの形を何年にもわたって作ることから始めて、その形を完璧に作れるようになったら別の形を習得し始めるんです」と回想する。

楽しさと驚きに満ちた日本文化を広めるために

「KOBO」の店内には日本の伝統工芸から、現代的な“Kawaii”カルチャーをイメージさせる小物や「MUJI」のアイテムまでが並ぶ。加えてパシフィック・ノースウエスト(アメリカ大陸の太平洋岸北西部)の作家で、日本からインスピレーションを得ている作品も取り扱っている。“売れる”以上に「店に置きたい」という自身の考えを貫いた、型にはまらないキュレーションが同店の強み。

ビンコは「作品を見た時に、共鳴し、縁を感じるものや作品を選んでいます。日本人特有の感性や木・自然への敬意の他に“間”や余白の美しさがある作品を中心に、アメリカ人作家でも何かしらの日本らしさを感じる作品を置いています」とセレクションの視点を語る。「多くの人が『日本のデザイン』について語る時、(歌川)広重や(葛飾)北斎の浮世絵等をあげますが、それ以外にも素晴らしい文化が存在します。例えば、日本食。スタッフの1人が日本のお土産に駄菓子を買ってきました。駄菓子は、日本で昔から親しまれているもので、食べるとやみつきになるほどおいしくて、楽しい気分にもなる。言葉で説明するのは難しいですが、日本文化を全く知らない人達にそういう楽しさや驚き、思いがけない出会いを提供しています」と展望を語る。

「KOBO」のスタッフの豊富な知識や経験も人気の理由の1つだ。「『KOBO』では日本人が多く働いています。アートやデザインを学んだスタッフも多いので、説明しなくても作品の重要性や日本の職人技を理解しています。ここで扱っている作品が手作りか、機械で作られたものか、どこで作られたものかを見分けるのは難しいですから、お客さんへ丁寧に説明していくことが大切です」。

2人が日本のアート&クラフトをシアトルで紹介し始めて27年が経つ。コロナ禍でオンラインの売り上げが飛躍的に伸び、現在では、サンフランシスコやニューヨーク、ミネソタ、フロリダにも顧客がいる。「多くの人が旅をするようになり、アジアに詳しい人が増えています」と手応えを語りながら「私達がKOBOを始めたとき、家族や友人にはビジネスではなく趣味でやり始めたように思われ、先行きを心配されました。それでも自分達のやりたいことにこだわった結果、時間をかけて評価を得ました。今後の目標は、新しい作家を紹介し続け、手作りの価値を感じてもらえる場を創造すること。来年は店舗内を改造し、ここで紹介するアーティストやデザイナーに会うために日本を訪れるつもりです」創業当時を振り返った。

2号店の存在意義は、日系アメリカ人の歴史を継承すること

「KOBO」の1号店は、ファッションやアート、レストランが軒を並べ、LGBTQ+のコミュニティで賑わうキャピトルヒルにある。一方でCIDにある2号店「KOBO at Higo」は、1号店とは全く雰囲気の異なる場所に出店している。その理由は、75年にわたって同地で営業をしてきた「ヒゴ」の存続と日本町の歴史の保存だ。

「ヒゴ」は戦後、村上三蔵の妻と子ども達が長きにわたって店を切り盛りしてきたが、 2003年に村上マサコの引退とともに廃業を決めた。そこでビンコが同店を継承することを決意する。「戦後に店を引き継いだオーナーの娘のマサコさんが、高齢で店を運営していくのが困難になり、日本町の伝統を継承する人に店を譲ろうとしていました。マサコさんの甥である、ポール・ムラカミさんを友人から紹介されて、日本町の歴史を守るために店を譲り受けました。当初は、巨大なスペースをどう改装するか、人員配置や在庫管理の資金と運用の懸念もありましたが、ジョンが建築デザイナーだったことが店舗を段階的に改修、修復する時に役立ちました。資金面の理由もありますが、日本町の歴史を伝えていくためにできるだけ手は加えず、天井や壁、外の看板等はそのまま残しています。古いキャビネットを塗装して再利用し、古い要素を残しながらも新しく生まれ変わらせました」。

現在は一時閉鎖しているが、「KOBO」の店内には「ヒゴ」で長年使われていたディスプレイや元オーナー家族が強制収容された時に持っていたスーツケース等の展示スペースがある。そこは、シアトルのアジア系アメリカ人の歴史を伝える「ウィング・ルーク博物館」が主催する日本町を巡るツアーにも組み込まれている。

また「KOBO」のある一角には、1904年に開店し、現在も営業している北米最古の日本食レストラン「まねき」や、北米に唯一現存する日本式公衆浴場「橋立湯」を地下に備えた「パナマホテル」等がある。1963年に橋立湯は閉店したが、同ホテルは2006年に国定歴史建造物に指定され、現在は宿泊とカフェをやっている。ビンコは、「この店を出店する勇気が持てたのは、パナマホテルのオーナーのジャンがいたから。ホテルを修復して、カフェを併設していると知り、大きな励みと刺激を与えられました」と当時を振り返る。

CIDには人種を超えて、この地で生きた人々の歴史や文化を継承しようとする姿がある。それぞれが独立しながらも必要な時には話し合い、助け合える結びつきがある。

ビンコは「コロナ禍で閉店した店は多く、一時的に治安が悪くなり、現在もその状況を引きずっています。楽観的に考えてはいるものの、積極的な地域保護をする必要があります。日本町とCIDは、シアトルにとって非常に重要で特別な場所です。これからもKOBOでは、日本文化とデザインの素晴らしさを伝えていきたいと思っています」と締めくくった。

■参考文献:Washington State HistoryJapanese American National MuseumDiscover NikkeiThe Wing Luke Museum

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