Kana Yoshioka, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/kana-yoshioka/ Fri, 16 Feb 2024 09:20:37 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.2 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png Kana Yoshioka, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/kana-yoshioka/ 32 32 進化するミュージシャン、中村卓也 革新的な姿勢が生み出したコズミック・ワールド https://tokion.jp/2024/02/16/interview-takuya-nakamura/ Fri, 16 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=223668 ブルックリンを拠点に活躍するミュージシャン、中村卓也が提唱する革新的コズミック(宇宙)ワールド。

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中村卓也

中村卓也(Space Tak)
1966年生まれ。作曲家、ピアノ、トランペット奏者。国立音楽大学作曲科を卒業後、ボストンのニューイングランド音楽大学院へ留学。大学院在籍中よりジョージラッセルのバンドに参加。1994年からニューヨークに拠点を移し、さまざまなシーンにて活動開始。これまでにジョジョ・メイアー、オーガニック・グルーヴス、ココロージー、ブルックリン・ジプシーズ、マリアンヌなどのバンドにて活動してきた他、リー・スクラッチ・ペリー、アート・リンゼイ、ロバート・ウィルソン、エイサップ・ロッキーなど多様なアーティストの活動に参加。またクインシー・ジョーンズ、ビリー・ホリデイのリミックスを担当。パンデミックの最中は「Temple Nopgue」と題し八王子の法然寺や長野のスタジオよりさまざまなアーティストを招き実験的なライヴを配信。2023年は「The Lot Radio」での配信が100万回再生を超え話題を呼ぶ。現在はブルックリンを拠点に国内外にて活躍中。
https://solo.to/deertrapstudio
Instagram:@space_tak

ニューヨーク・ブルックリンを拠点にローカルのアヴァンギャルドな音楽シーンにて、幅広い活動を繰り広げるミュージシャン、中村卓也。日本バブル末期の1990年に渡米。ボストンのニューイングランド音楽院にてジョージ・ラッセルの教えの下にリディアン・クロマティック・コンセプトを学び、1994年にニューヨークへ活動の拠点を移して以来、トランペッター、ピアニストとして、アンダーグラウンドからメジャーまで幅広い音楽アーティスト達とステージを共にし、約40年以上、常に革新的な音楽活動を続けている生粋のミュージシャンだ。

コズミック(宇宙)をテーマに、楽器と音楽機材を駆使しソロでライヴ/DJを決行。ジャズ、ドラム&ベース、エレクトロ、ジュークなどジャンル問わずの選曲に、オリジナルのビートと演奏を重ねたインプロ的な独自スタイルが注目され、昨年は世界的に人気のブルックリン発のネットラジオ「The Lot Radio」でのDJプレイが100万回再生(スーパーバイラル)されるという快挙を遂げ、本人も驚きの“卓也の時代”が来ていることを感じて止まない。

これは個人的な印象だけど、初めて卓也さんの演奏を聴いた時、自分が思うニューヨークの空気を纏った音色だなと感じた。アーバンでモダン、品とストリートが交差した感じ。「俺はジャズ・ドロップアウト」と卓也さんは言うけど、自ら選んだ他とは異なる道と体験してきた環境が、孤高のスタイルを生み出したのだと感じて止まない。そして時代が今、卓也さんを捉え始めているのではないだろうか……よって気になるのは「一体、中村卓也というミュージシャンはどんな人物なのか」。

ジョージ・ラッセルの教えを受け、人生を謳歌するために1990年にボストンへ

——トランペットは父親が買ってきたから始めたそうですね。

中村卓也(以下、中村):父が音大の先生をしていた関係で、子どもの頃から楽器が家にあって、ピアノは仕事道具なので当然なんだけど、大学附属の楽器屋さんから型落ちしたエレクトーンやベース、スチューデントモデルの管楽器とかがうちに流れ着いてきたり。その頃のテレビのテーマソングとかに当時はインストポップとかもあって、トランペットの曲がよくあったから父にトランペットがやりたいとか言ったのかもしれない。それから父がいい感じのトランペットを買ってきてくれて、そこから父の生徒でもあった方にトランペットを教わる、というか遊んでもらう感じで始まりました。

——1990年に渡米されましたが、ジョージ・ラッセルが講師を務めていたニューイングランド音楽大学院へ行こうと思ったきっかけはなんだったのですか?

中村:ジョージ・ラッセルの音楽はすでに少しずつ聴いていたから、日本へ来日した時にコンサートに行ったんだけど、そこで衝撃を受けて。今まで教わってきたクラシックの理論では説明がなかなかつかないことが、彼の言う「リディアンスケール」を中心にした考え方ですっきりとわかるらしい、ということで興味を持っていたんだよね。その頃は国立音大に行って作曲を勉強するフリをしてジャズをやっていたんだけど、学校を卒業する頃に校内に「ニューイングランド音楽院生徒募集中」と書いた張り紙が偶然貼ってあって、彼がそこで教えていることはレコードのジャケットとかを見て知っていたし、日本でジャズをやるのもなんかよくわからなかったから、オーディションに行き、そのまま1990年にボストンに行くことになったんだよね。学校では他に、ポール・ブレイとかデイブ・ホーランド、ジュリ・アレンなど最先端の人達が教えていた。

——流れの中で行くことを決めたんですね。

中村:行くチャンスができたから何も考えないで行ってしまおうってことで、そのまま決めて行ってしまったんだよね。日本でアメリカのコピーをしてジャズやるより、どうせだったら実際に何が起こっているか見たかったというのもありました。

——ボストンでの大学院生活はどうでしたか?

中村:大学院だったから、自分で勉強しろっていう感じで。最初は英語もわからないまま、とりあえず入れたから行くという感じで。でも演奏をして仲間もできて、その中でなんとなく英語を覚えていくことができたし、アメリカに行くということ以前にジョージ・ラッセルを始め、今考えればすごいなと思えるいろいろなマスター達から学べるということしか考えていませんでしたね。だって彼のおかげでマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンとかの演奏が変わってしまったっていう人だし、これはぜひとも学びたいと思ったから。

——ジョージ・ラッセルからどんなことを教わったんですか?

中村:彼は1950年代にニューヨークジャズが革新している時期に、「シンプルなコード進行から複雑なものまで、現代の音楽に対応した新しいハーモニーをもっと自由にシンプルにインプロヴァイズ(即興演奏)できるように考えられた・発見された新しいコンセプト」をひらめいて、当時のニューヨークの仲間とともに研究をして広めた人で、アメリカの音楽をだいぶ変えてしまったような人です。

もともと自身もドラマーとして活躍していたんだけど、友達のマックス・ローチがすごすぎて作曲家に転身したらしい。マイルス・デイヴィスはジョージ・ラッセルの影響で「So What」のようなシンプルなグルーヴとコードの上で、いろんなスケールを使ってカラーを変えるようなやり方のモードジャズを演奏して、同じく影響を受けたジョン・コルトレーンは「Giant Steps」という曲を書いてさらに自由になって行ったんだと思う。

理論だけど感覚や自然の法則に根差しているんで、例えば昔のヒップホップの人達なんかは、サンプリングをして何か面白いものを作っちゃったけど、それもみんな感覚でいいサウンドかどうかってだけでやっているわけで。だから彼からは音楽を全体的に感じながら、その瞬間と共にいるということを学んだと思う。

ニューヨークで活動し、何かが生まれる瞬間の一員になる

——クラブ系の音に興味を持ったのはいつ頃ですか?

中村:1990年にボストンに行った時はまだ学生だったんだけど、先生でもあったボブ・モーゼスというドラマーのバンドに入って活動していたんだよね。その頃ボストンに「ウェスターン・フロント」ってすごく面白いクラブがあったんだけど、そこの2Fでレギュラーでサウンドシステムを出していて、バンドのショーの休憩の合間に見に行ったらどうもレゲエじゃないっていう……やたらとベースがでかいし、ビートは速いし、これは俺が若い頃に聴いていたレゲエとは違うなと。それが最初のジャングル体験なんだけど、「これはなんなんだ!」と思ってやられました。

——1990年代前半にニューヨークへ引っ越してからは、どんな音楽体験をしていたんですか?

中村:まあ、ジャズをやろうと思ってニューヨークに行ったんだけど、ちょうど1980年代後半頃からネオクラシックなジャズが、「これからはこれだ!」みたいにレコード会社の売り方で主流みたいなことになっていて、だけど俺はジョージ・ラッセルやサン・ラーとか、本当にアメリカのカルチャーに根差してジャズを革新してきた本物に接してしまったので、その方向に「それはないだろう」と感じてしまっていて。ちょうどその頃にニューヨークでやっていた「ジャイアント・ステップス(Giant Steps)」っていうパーティとか、そういったクラブへ行くようになったら、そこでのバイブスも良くて新しい何かをみんなで作っている感じだったから、こっちのほうが自分に合っているなと肌で感じたんだよね。トランペットでジャズを吹くのは基本的にどこでも一緒だけど、ビートはもっと新鮮だし、横のつながりも強い世界で、そっちのほうが自分を受け入れてくれたんだよね。

それからしばらくして、ジャミロクワイとかいろいろなアーティスト達のジャングル・リミックスが好きになって、「ボストンのサウンドシステムで聴いたあの音に似ているな」と。ちょうどその頃、ニューヨークでバンドを始めて「バー・ボブ(Bar Bob)」という、アシッドジャズやジャングル混ざったようなウィークリー・パーティにバンドで参加したら、人がたくさん来るようになって、バンドもどんどん人気が出てきたから、「こういうふうにジャズは進化していくんだな」「これは最高だ!」って。せっかくアメリカに来てニューヨークにいるんだし、そこで何かが生まれる瞬間の一員になりたいというか、そこからずっと今まできている感じです。

——「ジャイアント・ステップス」は1991年からニューヨークで始まった、アシッドジャズやクラブジャズを取り入れた、当時は新しいスタイルのパーティだったと思います。DJプレイやライヴもあって、人種もさまざま、そこにジャズを感じたんですね。

中村:その頃はエレクトロニックなジャズ・フュージョンとかもあったけど、あれはレコード会社、いわゆるコーポレート系で権威があってとかそういう世界だったから、ジャズフィールドも一時期は売れなくなって新しい売れ方はないのかって、そこに父親からビバップを教えてもらったような才能のある若手の黒人の人達が入り込むフィールドがあったんだよね。実際に90年代に「バー・ボブ」でやっていたパーティには、お客さんも来てエキサイトしていたし、何をやってもいいじゃないけど自分もその中にいるっていう感覚があった。

——90年代前半のダウンタウン・ニューヨークで起きていた音楽シーンの中に卓也さんはいらっしゃったんですね。

中村:そうだね。ジャズ・ミュージシャンだけど、ジャングルをやったおかげでニューヨークで認知度が広がったからね。「プロフィビット・ビーツ(Prohibited Beatz)」というパーティを1996年にマンハッタンのチェルシーにあった「シャイン」というクラブで毎週火曜日にやるようになって、3ヵ月くらいで「ニューヨークタイムズ」に紹介されて人がいっぱい来たりね。

その頃、俺はドラマーのジョジョ・メイアー(Jojo Mayer)という人がやっていたドラム&ベースの走りのバンド、ナーヴ(Nerve)にトランペットとキーボードで参加していたんだけど、自分のスタイルを探していた頃にそのバンドに入れたのはラッキーだった。「プロフィビット・ビーツ」は、そのジョジョ・メイアーが仕切って3~4年くらいやってたんだけど、ゲストでブレークビーツ・サイエンスなんかをDJで呼んだり、ズールー・ネイション(Zulu Nation)のT.Cイスラム(T.C. Isram)がMCチームで入ったり、サンフランシスコのレーベル「NAKED MUSIC」のアーティストでもあるリサ・ショー(Lisa Shaw)もいたり、10人ぐらいの大所帯のクルーでやっていたんだよね。そのパーティがきっかけで俺はアート・リンゼイに誘われて一時期キーボードで数年参加したりしていたこともあった。だけど自分のプロジェクトやナーヴも同時進行でやっていたから、自分のやっていることに戻ってきた頃には、ニューヨークでドラム&ベースが少し下火になっていたんだんだよね。それが90年代後半から2000年くらいの話。

ブルックリンのローカルコミュニティに音楽活動の根を張る

——2000年代はどのような活動をされていたのですか?

中村:ナーヴでは西ヨーロッパだけでなく、ポーランドをはじめ東ヨーロッパを回ったり、その頃の東ヨーロッパはソビエト連邦が崩壊した後で少し暗かったんだけどジャングルとかも流行っていて、ドラム&ベースが東ヨーロッパにも伝わっていることを生で体験したりした。それと並行してオーガニック・グルーヴス(Organic Grooves)って「CODEK RECORDS」というグループにも誘われて、オーガニック・グルーヴスはすごく人気だったからそこで頑張ったんだけど、911(アメリカ同時多発テロ事件)でダメージを受けてしまいパーティをやりにくくなってしまったんだよね。その頃、俺はブルックリンのウィリアムズバーグに住んでいたから、その周辺で演るようになってだけどだんだんと自分の中でダンスミュージックが厳しくなってきたというか、少し飽きてしまった時期でもあった。

——2000年代前半のウィリアムズバーグはまだこれからという感じで、新しいことが始まった時期なのではないでしょうか?

中村:そうそう。2000年くらいのウィリアムズバーグはイーストリバー沿いにあったシッピングドックがなくなって、人が住んでいなかったところに人が引っ越してきたような時期だったから、川沿いが少しずつ盛り上がり始めていた頃だった。「ドムジーズ」があって、その近くにタイレストランがあって、ケント・アヴェニューではジャングルのパーティもやっていたからよく行ってたし、後に俺も活動や運営に携わるようになった「スタジオBPM」という日本人がやっていたステージのあるスタジオもあったり。

そこからウィリアムズバーグはバンドブームになっていって、アニマル・コレクティブ、TV オン・ザ・レディオとか、俺が参加することになったココロージーもそうだったし、いろいろなバンドが出てきてみんな面白いことをやっていた時期だった。その頃のナーヴはドラム&ベースだけでなくダブステップも取り入れてツアーを始めていたんだけど、自分はダブステップには惹かれなくて、だんだんと離れてウィリアムズバーグのバンドのほうへ。クリエイティブなブルックリンがすごく面白くなっていた頃だったから、自分もマリアンヌというスペースロックなバンドを日本人3人と始めたりもして、ココロージーはそこから2019年ぐらいまで頻繁に彼女達のツアーに参加するようになった。

——ココロージーはどのようなバンドなのですか?

中村:姉妹2人組のユニットで、姉のシエラはクラシックをやっていてハープを弾いたり、きちんとオペラも歌える人で、妹のビアンカはポエトリーやおもちゃのサンプラーを演奏したりしてビョークみたいな感じ。俺はリー・スクラッチ・ペリーのバンドにも参加していたココロージーのベースに誘われて、ビアンカの(ソロの)ライヴに参加したのがきっかけで急遽ココロージーのツアーにも参加することになったんだよね。そこではアート系やLGBTの人達と出会って自分にとって新しい流れになっていたんだけど、2016年くらいからツアーが一段落してここから先何をやるか考えていた頃、2017年に「The Lot Radio」に呼ばれたんですよ。

100万回再生された「The Lot Radio」でのDJプレイ

——「The Lot Radio」はDJプレイが主体のネットラジオですが、最初はどのようなスタイルで参加しようと思ったのですか?

中村:フリージャズからテクノまですべてという感じで、そのスタイルを自分では「コズミック」と呼んでいるんだけど、コズミックというのは何でもミックスありという意味なんだよね。そもそもヨーロッパで1980年代とかに森の中でマッシュルームを食って、アフリカン・バンバータみたいに何でもかける「コズミック」なスタイルを楽しむムーヴメントがあったの。50歳前後のヨーロッパの人ならわかると思うんだけど、アメリカにはあまりないジャンルで「何でも」っていう意味で使っているんだけどね。

その感じでDJに関してはなんでも混ぜるというか、レコードはそんなに持っていないけど、DJを始める前は「CODEK RECORDS」に参加していたから、そのレコードがいっぱいあったのと、ココロージーやオーガニック・グルーヴスとかのツアーに出かけていた頃に昔のテクノのレコードが安い時期だったから、まとめて買っていたの。そのレコードに俺がサン・ラーとかそういう音楽をたくさん知っていたからフリージャズを混ぜてDJをやって、ちょうどニューヨークのサウンドエンジニアのヒデ君からOP-1(Teenage Engineering)を紹介してもらって使い始めていたから、当然だけどトランペットも入れてやるようになっていて。2017年にココロージーのツアーが落ち着いて終わってしばらくした頃に「The Lot Radio」に誘われて参加し始めたんだけど、ちょうど他のDJ系のインターネットラジオが急にいくつか盛り上がり始めた頃だったのもあって、自宅で働く人達や職場なんかで聴いてくれたりしていたんだろうね。そしたら2023年1月に「The Lot Radio」でやったプレイが自分でも驚くくらいバズっちゃって……。

——現在、100万回再生を超えていますよね! 卓也さん自身ここまでハズった理由はなんだと思いますか?

中村:カリブル(Calibre)っていうリキッド・ドラム&ベースの巨匠のレコードが近所のレコード屋で安くなっていて、懐かしいなと思って買って持っていたから、あの日はそのレコードのドラム&ベースの上にトランペットを混ぜて自分なりにプレイしたんだけど、そこで何が起こったかというと、「Wobbly Wobbly」という、イギリスの20代のドラムンベースのクルーがいて、彼等が俺がカリブルをかけながらトランペットを吹いている「The Lot Radio」のYouTube映像をを彼らのTikTokに上げたの。それが若い世代のドラム&ベース好きに引っかかってどんどん拡散されていって、それで1週間ぐらい経ってから「お前のプレイ“スーパーバイラル(Superviral)”だよ」って。「スーパーバイラル」なんて言葉はその時に初めて知ったんだけど、SNSでどんどん広がっていった感じだよね。

——何十年もの音楽に対する経験が詰まった内容のことをDJでやってのけてしまうプレイは若者達にとっては、確実にクールに映ったと思います。

中村:ズルいよね、あのスタイルは(笑)。だけどまだ日本ではあのスタイルを理解してもらえてはいないし、でもインターネットの世界でここまでいけたからもう大丈夫だとも思ってる。20代にウケればいいの。本当はもっと認知度を上げるためにも、バイオグラフィーにクインシー・ジョーンズのリミックスやっていました、とかそういうのを書いたほうがわかりやすのかなとか思う時もあるけど、やっぱり(東京の)国立市出身だからどこか俺はのんびりしてるんだよ(笑)。

若手達とともにパーティを開催

——DJは誰かに教わったりしたのですか?

中村:ニューヨークにWFMUというオールドスクールなラジオ局があるんだけど、そこにスモール・チェンジ(Small Change)という友達のDJがいて、彼がDJをするならとある程度の基本をほとんどくれたころがあったんだよね。ドラム&ベースはなかったけど、そこからジュークやジャンプスタイル、面白いテクノとかがわかってきた感じ。

——ハウスよりもテクノ寄りな感じのほうが好きなんですね。

中村:ハウスはあまり興味がない。自分がジャズ・ミュージシャンだから感じるのか、ハウスってそのジャズからすると一番わかりやすいコードチェンジを使ってジャズっぽくしてそこに歌を乗せるとか、それに自分は引っかからないというか。それに俺の場合はニューヨークにいても、ニューヨークで流行っていたハウスミュージックとは違うところでやっていたのもあるしね。

——ソロのライヴを行う時に使用しているビートはすべてオリジナルなのですか?

中村:ソロのライヴの時はすべてオリジナル。最近はシカゴジュークやフットワークなんかももっと多めにしてもいいかなって思ってる。今、俺とブルックリンでパーティをやっているDJのラムジー(RMZ)はメンフィス出身で、メンフィスラップのラジオ番組でもDJをしていてジュークが好きなんだよね。自分も好きでDJラシャド(DJ Rashad)やRP・ブー(RP Boo)なんかを聴いていたんだけど、ニューヨークにもそれが好きな若い人達がいることを知って「最高!」って思っていたら、パンデミックが終わった頃にラムジー、クッシュ・ジョーンズ、ナイジェルなんかとつながり始めて、今は少しずつ一緒にやるようになっている。

「止むを得ない状況に、俺達が合わせた」ことから生まれた新しい流れ

——トランペットやピアノの音色はアーバンなのに、ビートからはストリート、生きてきた道が音楽に現れているというか、他にはない驕らないリアルなスタイルに人々は気づいてしまったのではないでしょうか。

中村:最初はアメリカに来てジョージ・ラッセルに「リディアン・クロマティック・コンセプト」を元に、ハーモニーがどうなっているのか、音のつながりって何なのか、バイブレーションというのは何なのかを教わってさ。そもそもソニー・ロリンズというジャズのサックス演奏者が、日本のFMラジオでスティーヴィー・ワンダーの「Isn’t She Lovely」を紹介して、それにバチ!ときちゃったわけで、ソニー・ロリンズはジャズだけにとらわれないでやっている人で、それがすごいなと思っていたから。同時に自分はYMOやクラフトワークで育っている世代だから、ジャズ以外にもテクノもあればニューウェイヴもヒップホップも周りにあったから。だからレコード会社が「ジャズはクラシカルな方向で生き延びるしかない」と言い出した時、自分はそこに入る隙はないなと思ったんだよね。人種差別のある世界に行っても仕方がないし、だから「ジャイアント・ステップス」にも行ったんだと思うし。それでそこにサンプリングミュージックがあってアシッドジャズもいいなと思ったけど、だけどあの時(90年代前半)はジャングルが格好いいなと思って、そうしたら自分の周りにいるジャズの人でも同じようなことを感じている仲間がいたんだよ。

——そこからさまざまなバンドでのプレイ経験を経て、今のスタイルができあがったと。

中村:ニューヨークのクラブやライヴハウスは機材がそんなに良くないから、自分でスピーカーを持っていかないと自分の好きな音が出せないこともあるし、今は機材も進んできているから、お金かからないからバンドを組まずに1人でやる方向もあるわけ。ジャズの場合、ビッグバンドからあふれた人達がアフターワーズで少ない人数で演り始めて、それを日本から見たら大天才が現れたみたいな感じに捉えられているけど、どちらかというと止むを得ない状況に俺達が合わせたというか、実はたまたまこれをやってみたら良かった、みたいなことがほとんどなんだよ。

——自然発生的な感じがいいですね。“ない”状況から新しいことが生まれる状況とでも言いますか。

中村:だってそうじゃん。ドラムマシンだって303(Roland TB-303)や808(Roland TR-808)にしても、日本人からしたらリズムボックスの進化版みたいでダサいなって目で俺達は見ていたけど、ミドル・シカゴの人達がジャンクヤード屋で40ドルぐらいで買ってきて、作った人の意図とは違う目線で面白いことを始めちゃったら新しいことが生まれて、それはMPC(AKAI)もそうだよね。その頃はサンプリングをしたら著作権に引っかかるなんて考えもしていなかったろうし、作ってる側の意図なんか無視して、とにかく自分達ができることをその機材でやってみたら面白いことになったっていう感じだろうし。ニューヨークで生活をしていると、そういう感じのことをいろいろなところで目の当たりにするから「こうやって生まれたんだ、なるほどね」っていつも感じていたよね。

“ジャズ・ドロップアウト”から生まれた独自の進化

——ピアノやトランペットの演奏に関しては、最近はどのような方向になってきていますか?

中村:ピアノに関しては、パンデミック前は現代音楽みたいなのを弾いてみたいなと思い始めて、この5~6年はだいぶ上手になったんじゃないかな。その前は雰囲気はいいからと雇われて、普通のジャズやポップスはできるかもしれないけど、細かいところまでできなくてテイストでごまかしてたりしてたの。だけどもう少し上手くなりたいなと思って、今もチャレンジしているところ。まだできることがいっぱいあるし、ピアノに関しては人前で弾く弾かないは関係なくドビュッシーとかクラシックもどんどん弾けるようになりたいというか。ピアノのインプロヴィゼーションで、リアルタイムコンポジションというところでのボキャブラリーを増やしていきたいよね。トランペットはメロディー楽器だからボーカル的な楽器。そういう意味では、伴奏と演奏とストラクチャーの全体的なバランス、ハーモニーを作るという上でいろんなことが試せるのがトランペット。変な癖がついてしまう時もあるけど、そんな時は休んでまたどんどん吹いていくって感じかな。

——卓也さんは、ジャズの世界ではどのような立ち位置に自分はいらっしゃると思いますか?

中村:ジャズに関しては初めて聴いた時から吸い込まれてしまったというのがあるし、それができるようになりたいっていう単純な話から始まったこともあるしね。父がミュージシャンで音楽大学の先生でミュージシャンになるにはいい環境だったけど、ミュージシャンではなく「なんか違うことやろう」と思っていたこともあった……とはいえ10代の頃に病気になったということではそれしか選択肢がなかったということもあり。おかげで本当に自分自身で感動するものに出会えたし、だから俺の場合はジャズ・ドロップアウトっていう感じなのかな(笑)。 

——ドロップアウトしたことが、新しい世界を生み出していると感じます。

中村:自分が面白いことをしている人って、それぞれが好きなことをやってるイメージがある。だからドロップアウトしない人っていうのは、実はそこまで好きじゃないっていうのもあるかもしれないよね。自分の場合は例えばサン・ラーもそうだけど、個性の強い人に惹かれていたしね。正統派じゃないし、この人よくわからないけどすごく惹かれるみたいな。それを自分もできないかなとか、自分の個性を作ることは難しいことだから、どうしたらこういう風になれるんだろうということは常に考えていたかも。そもそもエリート的なのが好きじゃないし、というか苦手なんだよね。怖いというかさ(笑)。

DJセットにOP-1とトランペットを取り入れ世界を回る

——これから挑戦してみたいということはありますか?

中村:最近は曲を作ってるからそれをどうしようかなと。自分の好きなジュークやドラム&ベースが自分の中で急激に進化して、昔のジャングルとはまた違うものができ始めているから、自分なりに挑戦してみようと2年ぐらい前からシーズン2が始まっている感じ。ソロのライヴはやる会場によって少しずつスタイルを変えているけど、好きなことを何でもしてもいいよと言われたら、ジャングルやジュークを多めに取り入れると思う。昨年はニューヨークでも人気の「パブリック・レコーズ」や、インド4ヵ所を回るツアーに行ったり、マイアミのアートバーゼルでも演った。インドはツアーを組んでくれた人がナーヴを過去に聴いていて、「The Lot Radio」でプレイを見てブッキングしてくれたんだけど、バンガロールでは「Echoes of Earth 2023」っていう大きいフェスティバルにブックしてくれていい時間を過ごせた。今年はノースアメリカ、サウスアメリカのDJツアーをできたらいいなと思っています。

——オリジナルDJセットが注目され始めていますね。

中村:昨年は『Mixmag Asia』の注目のエレクトロニックDJに選ばれたり、ココロージーのツアーの間にパリの「RINSE FM」でDJをやったりしたんだけどそれが盛り上がってしまって。これからはトランペットとOP-1、それ2つを持って1人で世界中を回ってみようかなって。わざわざキーボードを持っていかなくても、今のセットだと身軽にどこでも行けるのがいい。そんな感じでボンボン始まってる感じ。これからが楽しみだよ。

Photography Koki Sato

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対談:Alex from Tokyo × DJ NORI 『Alex from Tokyo Presents Japan Vibrations Vol.1』から考える1980〜90年代のエクレクティックな日本の音楽 https://tokion.jp/2024/01/12/alex-from-tokyo-x-dj-nori/ Fri, 12 Jan 2024 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=221366 パリ生まれ東京育ちのAlex from Tokyoが世界へ届ける、1980年代、90年代のサウンド『Alex from Tokyo Presents Japan Vibrations Vol.1』について。

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Alex from Tokyo(左)とDJ NORI(右)

Alex from Tokyo(アレックス・フロム・トーキョー)
1973年、パリ生まれ。4歳の頃に東京に移住し、18歳から22歳はパリの大学に在籍し1991年に東京へ戻る。10代後半よりDJをスタートし、1993年にはDJ Deep、DJ GregoryとともにDJユニットA Deep Grooveを結成し、90年代~2000年代はイギリスのレコードレーベル/レコードショップ「Mr.Bongo」東京支社や、ローラン・ガルニエのレーベル「F Communications」の特派員を務める。DJとしては東京、パリ、ニューヨーク、ベルリンを拠点に世界各国様々なパーティにて活躍。楽曲制作の面では、サウンドエンジニアの熊野功とのTokyo Black Starにてこれまでに数々のEP、アルバムをリリース。また2019年にベルリンにて自身のレコードレーベル「world famous」を再起動。現在はパリを拠点にワールドワイドに活動中。
http://www.instagram.com/alexfromtokyo/

DJ NORI
1979年に札幌にてDJを開始。86年に渡米しニューヨークにてDJプレイを経験。伝説のDJ、ラリー・レヴァンとともにプレイをする経験を持ち、映画『MAESTRO』では世界のダンスミュージック・シーンに影響を与えたDJとして出演。90年に帰国後は、芝浦GOLDのレジデントDJとして活躍。06年、初のミックス・アルバム『LOFT MIX』をリリースし、09年には活動30周年を記念し「DJ NORI 30TH ANNIVERSARY」を開催し、30時間ロングセットを達成。現在はレギュラーパーティの他、DJ MUROとの7インチ・バイナルオンリーのDJユニットCAPTAIN VINYLとしても活躍中。
http://www.instagram.com/norihisamaekawa

長年にわたって活動をし続けてきたAlex from Tokyo(アレックス・フロム・トーキョー)が、日本の楽曲をセレクトしたアルバム『Alex from Tokyo Presents Japan Vibrations Vol.1』(world famous)をリリースした。本作はパリ生まれのフランス人でありながら、DJ名を「フロム・トーキョー」と自ら名付け、東京カルチャーを胸にワールドワイドに活躍するアレックスが思案を重ね作り上げ、彼が音楽に目覚めDJを始めた1980年代、90年代の日本のエクレクティック(和洋折衷)なサウンドをセレクト。

さて、どんな内容のアルバムに仕上がったのか、レコードが仕上がったタイミングで来日を果たしたアレックスと、彼と長年の付き合いのある日本のトップDJ、DJ NORIに話を聞いてみた。ちなみにアレックスとDJ NORIは、DJ NORIが1990年代にアルバイトをしていた渋谷のレコードショップ「DJ’s STORE」で出会って以来、後に伝説のハウスミュージックパーティ「Gallery」を共にオーガナイズし、DJプレイをしてきたソウルメイトだ。

「自分がリスペクトしているヒーローに対するオマージュを表現したかった」(アレックス)

——『Alex from Tokyo Presents Japan Vibrations Vol.1』は、いつ頃から構想を練っていたのでしょうか。

アレックス・フロム・トーキョー(以下、アレックス):ニューヨークに住んでいた頃からかな。日本関連の内容のプロジェクトをワールドワイドにやりたいと思っていて、パンデミック中にどのようにこの企画を立ち上げればいいのかを考えた結果、自分のレーベル「world famous」から出そうと思い立ったんだけど、個人的な経験をベースとしたプロジェクトだから自分でやるしかないと。

人生の半分を日本で過ごして、東京は自分にとっても1つのホームでもあるから「Alex from Tokyo」という名前にして。その名前で僕は海外で知られているけど、7年前にベルリンに引っ越してヨーロッパでレコードレーベルを再起動しようと思った時、自分がこれまで経験したことをヨーロッパへ紹介することをしたいと思ったんだよね。その第1弾として、自分の生活の基盤にあるミュージックライフ……1980年代に東京のダンスミュージックに出会って、東京のアンダーグラウンドクラブへ行き始めたところからスタートしようと思って、エレクトロニック・ダンスミュージックを幅広くエクレクティックに、当時出てきていたいろいろな“バイブレーション”を感じる曲を11曲選んで、それを2枚組のアナログレコードでリリースしたんだ。良いサウンドシステムで聴けるリスニング向けであり、DJプレイにも使えると思う。

——日本の音楽を欧米の人達へ紹介する作品を意識されたんですね。

アレックス:もちろんヨーロッパだけではなく、日本を含め世界に向けてだよね。日本の情報は海外では意外と少なくて、世界中のいろんなところにDJで行くと、いつも日本のことを聞かれる。だから、ただレアな音源だけを集めたコンピレーションではなくて、文化的な企画として作りたくて、それぞれの曲に関して当時の状況も含めた解説文やライナーノーツを書いたり、当時の雰囲気が伝わる写真を使ったりして、そう考えると大掛かりで豪華なプロジェクトになったと思う。ここ数年は特に日本のクラブやレコードレーベルについて、多くの人達が興味を持ってくれている。日本にセンスのいい人達がいることは昔から知られていて、いろいろな意味で日本の音楽は注目されているから。

——今回は、どのような音源をセレクトされたのですか。

アレックス:今でもDJをする時にかけているタイムレスな曲でもあって、自分がインスピレーションを受けたアーティスト達の曲。だからヒット曲のベストコンピレーションではなくて、自分のミュージックライフや経験の中で通ってきた道の中で、本当に刺激をもらった曲であり、そうしたアーティストへのオマージュでもあるよね。それと日本の皆さんへ向けたラブレターでもある。

——DJ NORIさんはアルバムを聴いてみて、いかがでしたか。

DJ NORI:本当にDJが作ったコンピレーションだなと思います。もちろんDJでこのアルバムの中から1曲だけをかけるというのもありなんだけど、セレクションや曲順、世界観がすごく統一されていて気持ちいい流れになっているので、A1からA3まで、そこからBサイドまで聴いていて全く違和感がない。それとダンスミュージック・アンビエントのコンピレーションとして成り立っているなと、感じました。 

——自分も全体を通じて、この時代のエレクトロニック・ミュージックにおいてのアンビエントがあると改めて感じました。

アレックス:そうだね。一時期はアンビエント・ハウスという言葉があったくらいだと思う。

DJ NORI:このコンピレーションの中には80年代の曲もあるけど、この時代の日本人の繊細さだったり、日本人独特の音楽性をすごく感じるんだよね。それがダンスミュージックやリスニングミュージックとか、いろんなものを超えた上でアレックスがチョイスして1つのものに完成されたというか。普通のコンピレーションとは違うなと、思いましたね。 

——80年代、90年代の日本人アーティスト達が放つ独特なサウンドの質感があると思います。収録されている中で一番古いのは80年代前半ですよね。

アレックス:このアルバムの中で一番古いのは、84年にリリースされた坂本龍一さんの曲(Ryuichi Sakamoto「Tibetan Dance(Version)」だね。

DJ NORI:坂本さんは既にこの時代に、自然にこれを目指して曲で表現したのかなと思うと素晴らしいよね。沖縄音楽にもはまっていた頃だと思うし。 

アレックス:そうなんだよね。この曲が入っている『音楽図鑑』はちょうどY.M.O.を辞めた後に出したソロアルバムで、それまでと全く違うマインドセットを感じるというか。笙(しょう)の演奏者もフューチャリングしていて、サンプリングで使っているんだよね。「フェアライトCMI」という当時の革新的なシンセサイザーが使われているんだけど、いち早く坂本さんが日本で使っていた。だからきっと実験的な気持ちでアルバムの制作に取り掛かっていたんじゃないかな。

それに、このバージョンは、84年にリリースされた限定版のアルバムの中にボーナスで入っていた「Tibetan Dance」のダブバージョンなんだよね。オリジナルも大好きなんだけど、自分がダンスフロアでよくかけていたのはこのダブバージョンで、これがレコードに入るのは初めてになる。

DJ NORI:それと細野晴臣さんの曲(Haruomi Hosono – Ambient Meditation #3)にはスペイシーなアンビエントの世界感があって、細野さんはこの曲から先はアンビエントな感じになっていくよね。坂本さんも細野さんも常に先を行ってるよね。アレックス:今回の細野さんの曲は、93年にリリースされたアルバム『MEDICINE COMPILATION from the Quiet Lodge』に入っているんだよね。日本では数年前に再発されたんだけど、ライナーを読むとアンビエント・ハウスをテーマでやっているんだよ。細野さんそれまでのアルバムとは違う空気感で、アンビエントの雰囲気を取り入れたダンスミュージックというか、絶妙な時代だよね。僕は子供の頃からY.M.O.にはすごく影響を受けてきたし、このアルバムでは自分がリスペクトしているヒーローに対するオマージュを表現したかったんだ。

「このアルバムの良さは、日本の時代に古さを感じないということ」(DJ NORI)

——80年代後半、NORIさんは日本にいらっしゃいましたか?

DJ NORI:80年代後半はもうニューヨークにいたんだけど、藤原ヒロシくんの「T.P.O – Hiroshi’s Dub(Tokyo Club Mix)」は当時聴いていた。あの曲のボーカルは(高木)完ちゃんで、タイニーパンクスとハウスミュージックの融合みたいな。アレックスが選んだのは、僕の札幌時代からの友達のHEYTA(DJ HEYTA)のミックスだよね。この曲は89年にリリースされたけど、89年といえば「芝浦 GOLD」がオープンした年だから、まさに東京でハウスミュージックが確立されるタイミングにこの曲がリリースされているわけ。それを僕は日本へ帰ってきた時にHEYTAに聴かせもらって初めて知ったんだけど、シカゴ的なグルーヴが入っているし、すごくいいなと思った。この曲はHEYTAの他に、ダブマスターXやSatoshi Tomiieもミックスをやっていているよね。

アレックス:この間、完さんが説明してくれたけど、T.P.O.(藤原ヒロシと高木完によるユニット)で「Punk Inc.」という曲を作って、その曲をヒロシさんがリミックスしたのが「Hiroshi’s Dub」になって、それをさらにHEYTAさん、Satoshi Tomiieさん、ダブマスターXさんがリミックスをしたっていうものなんだよね。雷の音で始まるドラマチックなHEYTAさんのリミックスは、あの時代にクラブに行っていた人なら耳にしたことがあるアンダーグラウンド・シーンのテーマ曲だよね。僕にとっては当時の東京のシーンを思い出させるサウンドトラック的な曲。

DJ NORI:それで「Hiroshi’s Dub」の後に、Okihide「Biskatta」が入っているのも自然な感じがしていてすごく良いんですよ。この流れはアレックスのセンスだよね。DJミックスを超えた上でちゃんとした音の流れというか。

——この曲は90年代ですけど、当時のUK発のアンビエントやレイヴを感じました。

DJ NORI:ジ・オーブなどのアシッドハウスや、 ソウル2ソウルなども出てきて、やっぱり89年あたりから出てきたUK色はすごく日本に影響を与えていたのかなと感じます。だからイギリスのものと日本のものは近いというか。


アレックス:その頃の日本のサウンドは、ニューヨークとロンドンの影響がものすごく強いよね。

DJ NORI:一方その頃ニューヨークは、アメリカなんだけどアメリカじゃないみたいなところもあるしね。ニューヨークはいろんな人種がいるから、ヨーロッパの音楽も入ってきていて、その中で出てくるのがニューヨーク・サウンド。

アレックス:それこそ88年に僕が初めて行ったクラブが「BANK」で、飯倉交差点の少し手前の地下にあった狭いスペースのクラブだったんだけど、そこもニューヨーク、ロンドンのサウンドがミックスされていたね。



DJ NORI:88年、89年あたりはちょうどディスコからクラブに移行されていた時代で、ディスコ世代ではない、最初のクラブ世代だね。

アレックス:当時の日本のレコードショップだと現在の六本木ヒルズの場所にあった「WAVE」が象徴的だと思うけど、そこでUKをはじめとした最先端のヨーロッパのものがたくさん売られていて、それで「WAVE」の店員さんにすごく面白いアンダーグラウンドなクラブがあるよって「BANK」を教えてもらったの。だからNORIさんが言うように、ディスコ世代ではない、クラブ世代である自分をこのアルバムで正直に表現したかったのかもしれない。

——このアルバムを通じてNORIさんが改めて感じた、80年代半ばから90年代半ばまで楽曲の印象的なことは何でしたか?

DJ NORI:時代に古さを感じないということですか。このコンピレーションだとサイレント・ポエツの曲(Silent Poets「Meaning In The Tone(95’ Space & Oriental)もだし、ニューヨークで知り合ったHiroshi Watanabeくんの曲(Quadra「Phantom」)もだし、坂本龍一さんの曲のこのバージョンも知らなかったのでとても新鮮でした。モンド・グロッソの曲(Mondo Grosso「Vibe PM(Jazzy Mixed Roots)(Remixed by Yoshihiro Okino)」もすごく好きで、モンド・グロッソの曲がリリースされたのは 94年だけど、95年あたりがシーンの変わり目なんだよね。音楽的には89年にいろんなものが出てきて、 95年あたりからそれがさらに広がっていってって。ハウスではハードハウスもだけど、音数が増えていって、ハウスのシンプルな部分がどんどんなくなっていく。それとメジャーの音楽も多くなってきていた時期だよね。その中でジャズのテイストも出てきて、それが新鮮だったり。日本でクラブジャズが出てきた時、ニューヨークでは「BODY & SOUL」とかが始まって、ハウスミュージックではジョー・クラウゼルとか次の世代が活躍し始めたりとか、それまでとは異なったグルーヴになっていくんだよね。 

——日本のクラブジャズの中で、なぜモンド・グロッソの曲を選んだんですか。

アレックス:あの時代はいろいろなクラブジャズをやっているアーティストがいたから、今回は必ずクラブジャズを1曲入れたかった。だけどライセンスに関して、日本のメジャーレベルはすごく難しくて。特にジャズに関してはメジャーが持っている音源が多いというのもあるんだけど、アーティストが損しているよね。そんな経験も今回のコンピレーションを制作した中で感じました。


——この時代はメジャーレーベルがクラブミュージックを扱っていたんですね。

DJ NORI:そう。だから制作に関してお金のかけ方が全然違う。 DEF MIXのリミックスはほとんどメジャーレベルから出ていたし、この時代にメジャーで作られたクラブ系の音楽は30年経った今聞いてもクオリティが高いものが多いよね。

アレックス:音の鳴りが全然違うというか、クオリティに差がある。 

——今回、アレックスとともにTokyo Black Starで活動しているサウンドエンジニアの熊野功さんがリマスタリングを行い、今の時代に向け各曲をさらにヴァージョンアップさせと思いますが、どんなサウンドに仕上がりましたか?

アレックス:僕と熊野さんは、2人で90年代から一緒にTokyo Black Starというエレクトロニック・デュオをやっているんだけど、2010年に「PHONON」というオーディオブランドを始めて、熊野さんがサウンドエンジニアとして音の開発やチューニングをしてくれている。僕は熊野さんの音がしびれるほど好きなんだけど、彼のスタイルは高級ハイ・フィデリティ(Hi-Fi)なんだよね。僕がちょうど知り合った90年代からサウンドエンジニアをやっているけど、当時はエイベックス関連のヒット曲をマニピュレートしている反面、90年代末くらいからパーティーにサンドシステムを出している。クラブのサウンドシステムの文化を持ちながら、ハイファイな音も作ることができる、ただのHi-Fiで綺麗なサウンドだけじゃなくて、ローもすごく出せる、その融合ができる人。曲によってはレベルが低いものもあって、DJする時にかけられなかったりすることがあるんだけど、リマスタリングしたおかげでどれもクラブで響くように仕上がった。

DJ NORI:熊野さんがサウンドシステムをやっていたってことを初めて知ったけれど、低音が出ているよね。音が聞きやすくなっているから、そういう意味でこのアルバムは本当にお得ですよ。

「やっぱり、いいレコードしかターンテーブルに乗らないんですよ」(DJ NORI)

——Quadra、Mind Design、Okihide、C.T. Scanなど、日本のテクノ系アーティストの作品も多くセレクトされましたが、日本には本当にたくさんの良いテクノ系のインディーズ・レコードレーベルがあることを再確認しました。

アレックス:KEN=GO→さんの「Frogman Records」、山崎マナブさんの「Sublime Records」、それとMind Designのリリース先だった澤田朋伯さんがやっていた「TRANSONIC RECORDS」や、他に「Syzygy Records」とか、90年代初頭は日本のテクノの勢いは凄くあったよね。「Hiroshi’s Dub」が出てきた後に、Hisa Ishiokaさんが「King Street Sounds」の前にやってた、レーベル「La Ronde Label」もそうだし、寺田創一さんがやっていた「Far East Recordings」もだけど、当時は日本でも日本のエレクトロニック・サウンドのレコードを買うのが難しかった。 枚数も限られていたのもあるだろうけど、その時はニューヨークやロンドンに日本のレコードが置いてあった印象がある。

DJ NORI:確かに僕が初めて寺田創一君のSoichi Terrada & Nami Shimada「Sunshower」をレコードを聴いたのは89年なんだけど、ラリー(・レヴァン)がプレイしていて、音がすごく良かったことを覚えていますね。それでその曲を好きになったんですけど、ラリーのようなDJは音のクオリティの良さで曲を選ぶし、ジャンルが云々の前に音が良ければターンテーブルにレコードが乗るわけ。だからいいレコードしかターンテーブルに乗らないんですよ。

——このアルバムの中でも異彩を放っていたのが、清水靖晃さんの「Tamare-Tamare」ですが、アレックスにとってどのような曲になりますか?

アレックス:清水靖晃さんはサクソフォーン・プレイヤーで活躍する世界的なトップ・ミュージシャン。細野さんや、坂本さんの作品に参加しているし、本当にすごい才能を持ったマルチ 演奏者だよね。この曲は87年にリリースされたんだけど、当時、清水さんがパリに一時期住んでいた時に、パリでレコーディングされたもの。ミュージシャンもエンジニアも向こうの人達で、パリのスタジオで収録されたものになる。ちょうど86年あたりは、パリやロンドンでワールドミュージックのブームがあった頃で、清水さんはパリでそのバイブレーションを録音した人。「Tamare(タマレ)」とは、「ダンス」という意味なんだけど、この曲が当時出た頃から僕はDJでかけている大好きな曲。それと日仏コネクションがこの曲には含まれているから、個人的なストーリーとしてもいいなと思った。

——そしてPrismこと、横田進さんのことを紹介いただけたらと思います。

アレックス:横田さんとは、東京とパリのアンダーグラウンドミュージックを行き来をしていた、95年に東京で知り合ったんだよね。91年の9月に僕がパリに戻った時にテクノやレイヴ・ミュージックを知って、そこからローラン・ガルニエやDJ ディープに出会い、その場で思い切って「Rex Club」とかへ遊びに行ったりしていたんだけど、それまであまり日本には入ってきてなかったヨーロッパのサウンドをその頃に体験してすごく衝撃を受けたの。その中で、僕は東京で体験してきたサウンドも自分の中にあったから、パリで DJ をやる時も自分のスタイルを作るようにしていたんだけど。

——その頃に出会ったパリのDJ達は、どのようなスタイルでプレイをしていたんですか?

アレックス:DJディープと知り合って彼と一緒にDJ をやるようになった頃は、ニューヨークのハウスをかける人たちはパリには少なかった。デトロイトやシカゴにしてもハードなものがかかっていた中で、ディミトリ・フロム・パリス、ローラン・ガルニエ、DJディープなんかは、テクノの中でもハウシーなものもかけたりしていた。ちょうどその頃にローランが「F Communications」という レーベルを立ち上げて、自分が日本に戻る前にフランスのレーベル のプロモーション音源などを日本のDJ達に配ったりしていて、そこから「F Communications」の日本の代表になったんだけど、その頃に「Sublime Records」の山崎さんと知り合って、彼が横田進さんを紹介してくれたんですよ。

横田さんの「METRONOME MELODY」というアルバムをもらって、その頃に僕は「Mr.BONGO」というレコード屋でアルバイトをしいたんだけど、横田さんがよく遊びに来てくれていてそれで仲良くなって、98年くらいに恵比寿に「Lust」というクラブができた時に、横田さんがパーティーを始めたいということで「Skintone」をスタートして、僕はそれにDJとして参加することになったんだよね。横田さんは本当にピュアなアーティストで、海外でもすご人気があった。DJすることが本当に好きで、パーティではレフトフィールドな音源をかけたり、とてもアーティスト気質の強い人だったよ。

「こんなに素晴らしい日本の音楽があることを知ってもらいたい」(アレックス)

——Vol.1ということは、Vol.2の構想も考えていますか?

アレックス:『Japan Vibrations』をシリーズ化して、日本のサウンドを世界に紹介したいなと思っているんだけど、本やドキュメンタリーフィルムの制作もやってみたいなと思っています。今回ヨーロッパでは文化プロジェクトとして『Japan Vibrations Vol.1』のリリースパーティーをやって、アルバムを最初から最後まで聴いてもらって、その後にクラブでパーティをしようと思っている。新世代の人達にはこんなに素晴らしい日本の音楽があることを知ってもらいたいし、インスパイアしてもらえたら嬉しいよね。

——NORIさんからアルバムについてメッセージを頂けますでしょうか。

DJ NORI:このアルバムの良さは、やはり人々のパワーを感じることじゃないでしょうか。クリエイターがどんどん出てきた時代だったと思うし、楽曲や、使用機材の素晴らしさを感じることができるコンピレーション。それとクラブカルチャーの流れを感じるこの時代のクロスオーバー感。それを選曲から感じることができるし、アレックスだからこそ表現できたのだと思います。パリで生まれてるけど、結局アレックスのルーツは東京なんだなと感じさせてもらいました。ディミトリはfrom Parisだけど、アレックスは from Tokyo……他のフランス人とは違うところだよ。

Photography Keee

V.A.『Alex from Tokyo presents Japan Vibrations vol.1』

■V.A.『Alex from Tokyo presents Japan Vibrations vol.1』
world famous
2枚組LPアナログ盤/CD/デジタルにて配信
[アナログ盤収録曲]
A side:
A1 Haruomi Hosono – Ambient Meditation #3 
A2 Silent Poets – Meaning In The Tone (’95 Space & Oriental) 
A3 Mind Design – Sun 

B side:
B1 Quadra- Phantom 
B2 Yasuaki Shimizu – Tamare-Tamare
B3 Ryuichi Sakamoto – Tibetan Dance (Version) 

C side:
C1 T.P.O. – Hiroshi’s Dub (Tokyo Club Mix) 
C2 Okihide – Biskatta 

D side:
D1 Mondo Grosso – Vibe PM (Jazzy Mixed Roots) (Remixed by Yoshihiro Okino) 
D2 Prism – Velvet Nymph 
D3 C.T. Scan – Cold Sleep (The Door Into Summer) 

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ROADSIDER’S=路傍の編集人、都築響一が手掛けるリアルアートの巣窟「大道芸術館」 https://tokion.jp/2023/12/21/interview-kyoichi-tsuzuki/ Thu, 21 Dec 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=219663 路傍の編集人、都築響一が手掛ける向島の美術館「大道芸術館」で、大衆・昭和・性をテーマにアートの真髄を知る。

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都築響一
1956年、東京都生まれ。作家、編集者、写真家。1989年から91年にかけて美術選集『アート・ランダム』にて『アウトサイダー・アート』と『アウトサイダー・アートⅡ』を出版し、欧米のアウトサイダー・アートの動向をいち早く日本に紹介。現在に至るまで、独自の視点で世界各国のアウトサイドに属するアート、ファッション、民俗など幅広く紹介し続けている。これまでに昭和のラブホテル、世界の地獄アートなど、長年追い続けてきた数々の出版書籍は、年代、人種を超え多くのコアなファンを持つ。現在は大道芸術館のキュレーションを行う他、自身が発信するWEBメディア「ROADSIDER’s weekly」を配信中。
https://roadsiders.com
X(旧Twitter):@kyoichi_tsuzuki

東京・墨田区向島。かつて江戸城から隅田川を越えた東の地域は、“向こうの島”と呼ばれ、下町のさらに下町、江戸のサバーブ庶民が暮らす地域だった。そこには地元に愛される料亭があり、花街、置屋、赤線地帯が存在する場所として知られていた。

その向島に、ミュージアム「大道芸術館」はある。元料亭だった建物を、ミュージアムとバーに創り上げ、数々の路傍アートをキュレーションするのは、作家、編集人としてROADSIDER’sを提唱する都築響一。大衆、昭和、エロを軸に、この先、世に残すべき文化を紹介する芸術館には、今の世を生きる人々の奥深い部分に宿る純粋なツボを、ポチッと押してくれる気持ちよさがある。

昨年にオープンをして以来、日本国内はもちろん、世界各国から噂を聞きつけた一筋縄ではいかない人々が足を運ぶ「大道芸術館」とは、一体どのような館なのか。さあさあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい……館長の都築響一に話を聞いた。

秘宝館と変わったアート

——2022年に「大道芸術館」がオープンして約1年が経ちましたが、メディアでの紹介はほとんどなく、口コミで広まっていった印象があります。

都築響一(以下、都築):海外のメディアでは紹介されたけど、日本のメディアではあまりないかもしれないです。やっぱりエッチな部分に注目されることが多いから、媒体を選んでいるうちに取材してくれるところがなくなっちゃったんですよ(笑)。街紹介で普通にペロっとやってもらっても仕方ないし、それよりもここに来たいと思う人に来てもらって、SNSで発信してもらったほうが、僕としては気持ちいいかなって。あとはたくさんの人に来てもらっても対応できないというか、周りは住宅街だから人が並ぶことは絶対に避けたかったし、静かにやりたかったんです。だけど静かすぎる時もあるんですけどね(笑)。

——「大道芸術館」を始めるにあたり、誰からどのようなアイデアが出たのですか?

都築:「ケンエレファント」という、ガチャガチャやソフビを作っている会社の社長が、僕が昔からやっていることを気に入ってくれていて、最初は秘宝館のガチャガチャを作りたいという話だったんだよね。大竹伸朗くんのガチャを作っていて、そこに僕が解説を書いたりしていたので、その流れで秘宝館のソフビを作る話も出たんだけど、ガチャガチャって18禁のものはできないんですよ。すごいボリュームで作るものだし、置くところが公共の場所なので非常に難しいということで、じゃあ空いている空間で秘宝館とかできればいいよねと話していたんです。そこからコロナになっていくつか空き物件が出てきたので、面白いからいろいろな物件の内覧に行って、何軒か見ているうちにこの場所が出てきた。それでここが一番面白いかなって借りることになったんです。

——向島だけでなく、他の地域でも物件を探していたのですか?

都築:浅草とか江戸川の上流のほうとか、いろいろ見たけど、細長いビルで使い方が難しいとか、環境が難しいとか、一長一短あって、その中でここが一番使いやすいかなと思いまして。だから最初から向島でやりたいと思っていたわけではなく偶然なんです。

——向島は料亭街もあるし、未だに昔ながらの文化を継承している地域だと思いますが、そこに「大道芸術館」が良い感じにはまったのではないでしょうか。

都築:向島は、東京で唯一花街としてきちんと生き残っている場所かもしれませんね。新橋、赤坂とかもありますけど、ここには料亭が10軒以上あって、芸者さんも80人以上いて、東京の芸者さんの半分以上は向島にいるんですよ。だからアクティヴに動いている料亭街としては、一番栄えているんじゃないかな。

だけど僕達はそんなことをほぼ知らずに借りて、花街として動いていることをそのあとに知ったんです。やっぱり昔ながらの料亭街のしきたりがあるので、露骨にエロを表現したら浮いてしまうわけだし、難しいことはいろいろありましたね。

——昭和・大衆・性文化を取り扱っている印象がありますが、いつどのようにそのアイデアが浮かんできたのですか?

都築:最初は秘宝館のものとか、見世物小屋の絵看板を見せたいところから始まったわけですが、なにも昭和だけをやろうと思ったわけではないんです。実際に展示されている作品は、今、作られているものが圧倒的に多いし、なので昭和に関してはとっかかりですね。

例えば昭和の大衆文化に対する誤解があったり、コンプライアンス的にも難しくなったりしているし、その一方で幻想としての昭和というか……例えば、「昔のラブホテルかわいいよね」みたいに、昭和の後に生まれている人達は思うわけだけど、実際にラブホにしろ、秘宝館にしろ、見世物小屋にしろ、もう実物を見ることができない。だからそういうものを見て体感してほしいというのもありますね。あと展示されているほとんどの作品が、現代美術では評価されていないんです。今作られている“変わったアート”とでもいいますか(笑)。

——その“変わったアート”作品が並ぶと、それはそれでたまげたことになっているなと思います。作品に関しては目にしていいなと感じたら、購入する感じですか?

都築:僕はコレクターではないので、ただ買うことはありえないんですよ。大体のものが取材をした人の作品ですね。僕が取材を通じて知り合った人達は経済的に恵まれない人達が多いので、そういう人達の作品を買いたい。買ってささやかな応援をするというか。それと取材をさせてもらうために買うこともあるし、本当にいいなと思うから売ってくださいと頼むこともある。だけど結果として集まってきたものをどうしようかなって思っていたので、この場所ができて良かったという感じですね。

——ということは、都築さんが好きで興味のあるアーティスト達の作品が、芸術館には展示されているわけですね。

都築:そういうことになります。僕自身はハイアートも好きなんですよ。だけどほとんどの人がそっちではないものが好きなんです。こういう編集者業界にいると、ファッションでいえば「グッチ」や「プラダ」とかいわゆるハイブランドをみんな好きだと思いがちじゃないですか。だけど世の中の9割は「ユニクロ」や「しまむら」でもいいわけ。アートにしても普通の人が好きなのは、ラッセンみたいな海からイルカがジャンプしている絵だとかそういうものなのよ。そういう人達が世の中9割だと思うし、そういう人達のほうが元気なんですよ。

狭い中で仕事をしていると、それが見えなくなることがすごく怖いし、ハイカルチャーに属している人達のほうがマイナーなんだということを知らないと恥ずかしいと思うわけ。だから両方とも取り上げることが使命だと思うのに、みんな一方しか取り上げないから残りを僕が引き受けているって感じですね。

——毎日、高級料理を食べるのもいいけど、ご飯と漬物&おみそ汁だけのおいしさもあるということにも似ていますね。

都築:毎日、「吉野家」だっていい人もいますからね。今日、ちょっといいことがあったらお新香をつけるとか……そういう人達のことも知らないと。

意識の低いことに劣等感を持つべからず

——大衆文化の良さを改めて言葉で言いますと。

都築:意識が低いということかな。世の中、意識が高いほうがいいみたいな感じがあるじゃないですか。だけど普通の人はたいてい意識低いんですよ。だけどその意識の低いことに劣等感を持つ必要はないと。高くてもいいけど、低くてもいいじゃんって。だからメディアばかり見ていると、意識高いほうがいいじゃんってなるけど、高いってお金もかかるわけですし。食で意識高い人達は、オーガニックなものばかりを食べて、スローフードとか言ってるけど、そんなことできない人達が大勢いるわけ。夜遅くまで仕事して、家に帰る時は夜に開いてるスーパーやコンビニでしか買うことができなかったり。そういう人が多いと思うけど、そういう人が意識が低いかというと違いますしね。

意識高くあれっていうのは、メディアが作り上げた1つの商売の形であって、ハードルを上げることはいいことだけど、これを買え、あれを買え、うちの雑誌を読んでくださいね、みたいなことを言うのは汚い商売の1つだと思っています。

——となるとハイアートとは何ぞや、ということも考えてしまいます。

都築:もちろんハイアートもいい。だけどアートをダメにしているのは美大なんです。美大に入ることがまず失敗の原因だと思う。

——辛口ですね(笑)。

都築:(笑)。これでも抑えて言っているんですけど、子ども時代に友達はできないけど、絵を描いている時はハッピーだったとか、そういう人達がいっぱいいるわけじゃないですか。絵を描いている時だけはリストカットのこと考えなくても大丈夫とか。

だけど絵を描いて生きていける道は美大へいくしかないと言われて、美大に行くための予備校へ行かないといけなくなる。ようやく狭き門を突破して入学金をたくさん払って美大へ入ったら、「コンセプトを述べよ」みたいな。そもそもきちんとコンセプトを語れるような論理的でコミュニケーション能力ある人は美大に来る必要ないと思うし。そういうことを繰り返して、4年も経てばどんどん純粋に絵を描きたいという気持ちが失せてくるわけです。

だったら中卒や高卒でアルバイトや仕事をしながら、夜に絵を描いている人のほうが4年間先に進んでいると思うんですよね。アートの世界で生きるなら、美大へ行かないといけないみたいな馬鹿げた誤解が未だにまかり通っていて、そういうのを僕は若い頃からずっと見てきておかしいなと思っているの。だけどアートメディアはそういうことを言わない。だって美術メディアにとっては美大と予備校って大きな広告主だからね。

——そういう風に成り立っているわけですね。

都築:そうだよ。美大の予備校で教えているのは、美大の大学院生とかだし。だから子ども達をカモに商売が成り立っていることがあるし、そうやって理論武装させられているうちに、難解なほうがいいと思うようになってきちゃうわけです。現代美術の展覧会に行っても、ほんとはよくわからないのに、わかってるふりをしないと恥ずかしいとか。そのためには難解な解説を読まないといけなくなるから、図録や解説書を買えとなるんです。そうすると美術出版社が成り立つ。評論家や学芸員は、論文を載せるのが一番の仕事だと思っているから、そういう風にしてみんなが“頭のいいふりゲーム”をしているわけです。

一方、その外側で好きな絵を描き続けてきた人達は、評価されないままいる。そういう人がいっぱいいることを僕は取材を通して知っていったんです。

——好きで描いている作品だから、「大道芸術館」に展示されている作品からは自由を感じるのかもしれません。

都築:以前、水戸芸術館で個展をやったんですけど、美術館には部屋の隅に膝にストールとかを掛けて座っている人達がいるでしょ。美術館によって呼び名が違うんだけど、水戸芸術館ではフェイスさんと呼んでいるんです。そのフェイスさん達と仲良くなって、一緒にお茶を飲んだりしてさ。だってあの人達が朝から晩まで同じ作品を1日中、何時間も観ていて一番アートに詳しいですから。それで話をしているとわかるけど、コンセプチュアルで難解な作品の部屋は15分くらいで交替するけど、面白いものは1時間ぐらいいられるって。作品にも直感的に受け入れられるものと、受け入れられないものがあるんですね。

——居心地が良いか、悪いか。「大道芸術館」にいて思うことが、みなさん長い時間滞在されているイメージがあります。

都築:ここだと人と違うことをバカにされないからなんじゃないかな。美術館で居心地が悪いと感じるのは、わからない自分を見せるのが恥ずかしいからなんですよ。

例えば美術館に石がポンポンとあったとしても「これって鉱物標本じゃないの?」とか言えないし、わかっているフリをしなくてはいけない。洋服も同じで、ブランドの高い服を記号として着ている。ジャージ上下に10万円出せる人は、誰が見ても高いってわかる服を通して「ファッショニスタです」っていう自分を見せているわけですよ。でも本当はブルドッグのマークが付いているジャージのほうが似合うのに。そういう風に、自分はもっとエロいのが好きなのに言えなくて、だけどここだとそれを言える。 だから同類が集まるわけですよね 。

——同類が集まれば、話しやすいですよね。 

都築:「今までこんなこと言えませんでした」って人もたくさん来る。だってさ、見世物小屋が好きですとかなかなか言えない。だけどそういうことを言えない環境というのがすごく窮屈なんだよね。

——東京オリエント工業のラブドールを入れたのも、都築さんのアイデアなのですか。

都築:ラブドールが好きだという人が結構いることは知っていたけど、実際にドールに対面したりとか、触ったりしたことがない人が多くいることがわかったんです。それで 一気にラブドールを買ったんですよ。今、大道芸術館には7人くらいラブドールがいます。

——先日、大道芸術館にいるドールの表情が明るく見えたので、「今日は元気だね」と女将に伝えたら、ラブドールにやられてると言われました(笑)。こちらのその日のテンションでラブドールの表情が変わって見えるそうで。

都築:ラブドールは持ち主の思いを反映するからさ。ラブドールも持ちきれなくてメーカーに返品されることや、修理に出されることもあって、それを「里帰り」っていうらしくて。その時に大事にされてきたドールと、適当に扱われてきたドールとでは顔つきが全然違うそうです。だからうちでカウンターに座っている子も、日によって表情が曇るのよ。だからドールの位置を変えたりしているの。

——ラブドールの素晴らしさは、ドールの近くにいると癒されることけです。ラブドールの存在は「大道芸術館」の大きな魅力だと思います。  

都築:あれがあるとないとではだいぶ違ってくるね。だけど本当にただの思い付きだったんですよ。最初からやりたいと思っていたわけではなくて、たまたま予算もあったので面白いかもって感じだったんですよ。 

——後付けだったんですね。



都築:すべて後付けです。あれもこれも入れてみたいと、いろいろ話しあいながら作っていったって感じですね。インテリアに関しても、あの映画の中のキャバレーに出てきたあのシーンみたいな感じがいいとか。断片的なアイデアがたくさんあって、それを建築家と話しているうちに固まっていく。そういう作り方の方が面白いんですよ。最近、絵を30点以上足したんですけど、何をどこに置くかはあまり考えずにとにかく持ってきて、前日の夜にウロウロしながらこの壁まだ空いてるなら、と入れられるだけ入れました。

——新しい作品が追加されギアが一段上がったなと感じました。

都築:最初の頃も相当グチャグチャだったと思うんです。「ドン・キホーテ」みたいに圧縮展示って感じだったんだけど、だんだんと目が慣れてくると隙間が気になってきて、作品を外すよりもっと入るんじゃないの?みたいな。今の美術展がスカスカ過ぎるんですよ。白い壁にポンと作品があるのがかっこいいみたいな。僕は白いところがあるなら、もっと作品を入れたらいいんじゃないって思うんですよ。だってアーティストは描いた作品を出したいなと思うわけだからさ。ポツポツが格好いいみたいなのは古い考えだと思います。 

ROADSIDE = 路傍からの視点で世の成り立ちを知る

——ちなみに都築さんは「大道芸術館」を通じて、皆さんに性の解放をしてほしいなと願っていますか?

都築:そんなことはないけど(笑)。

——それは私が勝手に感じてることですか!

都築:きっとそうだと思います(笑)。僕が言うよりもすでにみんな、解放されているでしょうから。エロが好きな女の子はいっぱいいるけれども、友達には言えないっていう人が多いわけじゃない。だけどここに来ると学芸員のお姉さん達もあおってくるから、「話ができて楽しかったです」っていうお客さんもいる……「縛られてみたいです」とかさ。 みんないろいろあるわけじゃん。そうやってみんなが思っていることを、言える場所なんだと思うよ。

——女性がエロについて話せる場所はあまりないのでしょうか。

都築:場がないというより女友達同士ではあまりしないんでしょう。だけど同じタイプが何人か集まれば、パワーアップするわけですよ。前に渋谷で、「神様は局部に宿る」というタイトルでエロ系のイベントをやったことがあるんですけど、1ヵ月で1万5000人来て7~8割が女性のお客さんでしたね。カップルで来ても明らかに女の人が主導、男はイヤイヤ付いてくるみたいな。半分以上は僕のことを知らなくて、Instagramを見て渋谷で変なイベントをやっているからとやって来た女の子達が多かった。それで、あのラブホテル知ってるとか、ラブドールをいじくり回していく。そういうのを見ていると別に女の子が慎み深いわけではなくて、ただ場がないっていうだけで、本当はエロが好きなんだっていうことがよくわかりましたね。

——背中を押してくれる材料が、この芸術館のあちらこちらにあるからかもしれません。それと向島という場所も。向島のそばには有名な赤線地帯があったと聞いています。

都築:そうだよ。鳩の街といって、ここからすぐ近くは、昔はすごく有名な売春地帯だったの。だから今でも「鳩の街通り商店街」ってちゃんと看板出してるよね。

——ところで、「大道芸術館」という名前にした理由は何だったのですか。

都築:僕は「ROADSIDERS’ weekly」というメールマガジンを出してるんですけど、ROADSIDE = 路傍というのが1つのテーマでもあるんです。美術館みたいに限られた場所だけにあるものではなくて、地べたにあるものを探していて、そこから「MUSEUM OF ROADSIDE ART」という名前にしようとまず考えて、それから立派な伝統芸術ではなくサーカスやお祭りの場に生きてきた大道芸というニュアンスをつけたくて、「大道芸術館」という名前にしたんです。  

——なぜ路傍や道端のものを好きになったのですか。

都築:物事に優越をつけたくないんですよ。僕の仕事はジャーナリストで、評論家ではない。評論家というのはたくさんある中から「これがいい」というものを選んで、なぜこれが一番いいのか自分の名前を懸けて語るわけだけれど、それとは反対に、「これがいいって言うけどこっちもあるから、どちらか好きなほうを選べば」って選択肢があることを伝えるのがジャーナリスト。現代作家の展覧会に行って、わからないという人は自分の理解が足りないとか、教養がないとか、自分が劣っていると思うわけ。

だけど、そうじゃなくて好き嫌いにすぎないんだから、好きなほうを選べばいいだけで、そこに優劣はないっていうことをいろんなジャンルを通じて教えたいんですよ。有名美術館でやる人が一番偉くて、道端で作品を出してる人は日曜画家でしょ、じゃなくて、愛犬が好きすぎて絵に描きましたみたいなことを、恥ずかしがらず好きにやってほしい。それを言わせないのが評論家とメディアの汚い役割なんですよね。

——都築さんの中でアートの境界線みたいのはあったりするんですか?



都築:そんなもの何もないですよ。アートとアートじゃないものは分けにくいし、値段がつくものとつかないものしかないと思います。例えば民芸は値段もつくし価値があるのはわかるけど、タダでもらうのはよくてもお金を払って買う人なんていないような「おかんアート」はどうなんだって。でも見ようによっては分け隔てはほとんどないと思うし、そこに小難しい理屈がつくかつかないかだけかなんですよ。だって12歳ぐらいの裸の少女の写真撮って出したら速攻捕まるけど、じゃあバルテュスはどうなんだって。裸の女の子の絵を描いていても、それが何億円だと「アート」と認知されたりする。結局はお金でしょっていう話。「大道芸術館」の3階にある秘宝館のコレクションをルクセンブルグの現代美術館で展示したこともありますけど、そういう場所に置かれれば美術品になる。でもここに置かれればただの見世物。プレゼンテーションの場所によって人は評価するってことはありますよね。  

——確かに。少し前まではアートとして扱われなかったものが、突然騒がれることもありますよね。

都築:10年かそこら前まで日本の美術雑誌では、モザイクをかけないと浮世絵の春画は掲載できなかった。でも大英博物館などで展覧会をやったりしていくうちに、いつの間にか春画がアートということになっていた。それって誰が決めたの? って感じで、浮世絵も今は立派なアートだけど、百数十年前までは外国人が日本でお茶碗とかを買った時に使っていた包み紙だったわけです。日本人は誰もあれはアートとは思っていなかったのに、包み紙を見たヨーロッパの人が「お!」みたいな。それが逆輸入された時にはすでにアートになっていた。

そんなんだから、アートの基準っていうのは超いい加減ってことなんですよ。そこに確たる論理は何もなくて、その時の都合でそうなっているだけ。

——「大道芸術館」へ来たお客さんには、どのようなことを感じてもらいたいですか?

都築:男の人に恥ずかしがらず見に来てほしいですよね。優しい学芸員のお姉さん達にいろいろ教えてもらってください(笑)。それで自分の価値観を大事にするとともに、人と違うことに対してひるまないでほしいなと思います。世間がベジタリアンとか言っている中で、吉牛がいいということを隠さず話せるようになったら一人前。そういうことを言えるには18歳じゃまだ難しいと思うけど、だんだんと言えるようになってくる。歳をとるということはそういうことだからさ。だから自分が歳をとってだんだんとわかったことを伝えられたらいいなと思っています。 

——都築さんも変わられているんですね。

都築:変わっていますよ。いろんなことを確信できたのは60歳を超えてから、この数年だと思うよ。これだけ長くやってきたから、今になってどんなひどいことをSNSで書かれたって、どうってことない。作った本は売れてほしいけど、好きなことができたらあとはなんでもいいやって思える時がいつか来る。  

——我々にも、いつか……。

都築:そういう日が来るよ……っていうか、もう来ているんじゃないの(笑)。

Photography Vincent Guilbert

■大道芸術館
住所:東京都墨田区向島5-28-4
営業時間:月~金 15:00~23:00(20:00よりバータイム)、土・日 13:00~19:00(最終入館18:30)
休日:不定休
入館料:¥3000(館内で使用できるドリンク¥1000オフチケット付き)、平日20時以降はバータイムにてチャージ¥1500
※イベント開催時は入館の金額が異なる場合があるので、各SNSにてお確かめください。
museum-of-roadside-art.com
Instagram:@daidougeijutsukan
X(旧Twitter):@moratokyo

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スケートボード映像作家・ROB TAROが『TIMESCAN 2』で捉えた「日本のスケートボード・シーンの奇跡」 インタビュー後編 https://tokion.jp/2023/08/25/interview-rob-taro-part2/ Fri, 25 Aug 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=204189 『TIMESCAN 2』を観て知る、スケートボード映像作家、ROB TAROが捉えた日本のスケートボード・シーンの奇跡。後編では『TIMESCAN 2』について聞いた。

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ROB TARO Photography DEIB

ROB TARO(ロブ太郎)
1995年生まれ。アメリカ・ニュージャージー出身。10代半ばにスケートボードに出会い、その魅力にのめり込んでいく。2015年に日本へ拠点を移す。カメラを学ぶために通っていた学校は、3ヵ月でドロップアウト。そこからさまざまな人々や日本のスケートボードシーンと出会い、生粋のスケーターとして、またスケートボード映像作家として東京を拠点に活動を始める。これまで撮影をした映像は、『TIMESCAN』としてYouTubeにて公開中。2019年にリリースされたフルレングス映像DVD『TIMESCAN』および、2023年の公開された『TIMESCAN 2』が話題を呼ぶ。ちなみにROB TAROという名前は、日本とアメリカの血を引き“太郎”というミドルネームを持つことから。
Instagram:@rob.taro
Instagram:@timescan

スケートボードと共に生きるスケーター達が、日本各地、さまざまなスポットで技に挑戦をしていく熱い姿をストーリー性のある映像作品へとアップデートして見せるスケートボード・ドキュメンタリーフィルム『TIMESCAN(タイムスキャン)』(2019年)。同作はスケートボードの技を捉えるだけでなく、個性あふれるスケーター達の魅力も紹介をしてくれる。その中心にいるのが、自身もスケーターである映像作家のROB TARO(ロブ太郎)だ。インタビュー後編ではROB TAROの最新作となる『TIMESCAN 2』について話を聞いた。

インタビュー前編はこちら

——TIMESCAN 2』は、どんな作品に仕上がりましたか?

ROB TARO:4年前に1作目の『TIMESCAN』を出した後からずっと撮影を続けていたんですが、何ヵ月かごとに、ドキュメンタリーを兼ねたスケートボードビデオをYouTubeにアップしたりしていて。コロナもあって『TIMESCAN 2』を出すのに時間がかかってしまったんですけど、この4年間全国を1人で回ってみんなと繋がることができた。僕もみんなのこと信じてるけれど、みんなも僕のことを信じてくれたし、頑張ってくれたから、いい作品になると確信していました。

——アートワークの面でもスケートボードシーンと繋がる素晴らしいアーティストが参加されていますね。

ROB TARO:HAROSHIさんは、アメリカにいる時から大ファンで、 ニューヨークの展示は10代の頃から毎年行っていたんです。野坂稔和さんもレジェンドです。野坂さんは日本に来る前に「Independent」か何かで見たことがあるんです。そして最近盛り上がってるHIROTTONとRYOTA DAIMONも『TIMESCAN 2』のタイトルを書いてくれました。素晴らしいアーティスト達の作品を使わせていただけて、すごく嬉しいです。

——映像の中に、日本文化を感じる瞬間が出てきますが、ロブ太郎さん自身も日本文化に興味がありますか?

ROB TARO:子どもの頃から日本舞踊をしたり、母が美術館とかにもよく連れて行ってくれたので、そういうのが今も繋がっているんだと思います。

——それとパートごとに流れる音楽も、日本の曲を上手くセレクトしていて、センスがあるなと思いました。

ロブ太郎:音楽に関しては1990年代のものが好きなんです。もちろん当時僕は生まれたばかりだし、記憶はないんですけど、 あの魅力は何なんですかね。 僕の周りには音楽に詳しい人が多くて、最初はケンジ君が渋いCDをたくさん持っていて教えてもらえたのが大きいかな。洋楽であればスレイヤー、バッドブレインズとか、日本の音楽であればはっぴいえんど、ゆらゆら帝国、ザ・タイマーズ、人間椅子とかを教えてもらいました。 

——東京の試写を南青山にある「BAROOM」という円形劇場で行ったスタイルもいいなと思いました。最初は、劇場を探していたとお聞きしました。

ROB TARO:そうなんです。このメンバーだしベストなところでやりたいから、劇場やシアターみたいなところで試写会できたらいいなって思っていたんです。それを最初に「TACOS BAR」のKOBAさんに相談したら、少し時間が経ってから「この場所はどうかな」って「BAROOM」を紹介してくれて。普段はマニアックなジャズを聴かせる素敵なお店なので、最初は不安だったんですけど、お店の方達が温かくて、とてもオープンに対応してくれました。ちょうどお店のほうも何か新しいことをやってみたいという時期だったみたいで、タイミングが合いましたね。スケートボード作品の試写を、ああいう場所でやることは世界的にもあまりないと思います。

スケーター達が納得いくまで撮影に立ち会う

——出演されているスケートボーダー達は、ROBさんにとってどんな存在ですか?

ROB TARO:みんなすごく個性があるし、言葉で言うのはなかなか難しいな(笑)。 でも今回、映像に出ている人達は、スケートボードが本当に好きでやっている人達ばかり。だからお金の問題じゃなくて、自分を信じてくれて、一緒に旅に行ってくれたり、大変な思いもしましたけど、『TIMESCAN 2』は、全員スケートボードが大好きだからできたんじゃないかな。今はオリンピックの競技になって、ファッションでもスケートボードファッションが流行っていて、スケートボードが人気だからやってる人達が多いけど、本当に好きでやってるのかなって感じることもあるんです。スケートパークに行くと滑りを見た時に、上手くても感じるんです……本当に好きなの? って。

——TIMESCAN 2』で注目すべきスケーターはどなたですか? また、思い出深い話があればお聞きできますか?

ROB TARO:今回、登場してもらったスケーターの中に本郷真太郎と本郷真輝という兄弟が出てきます。2人とも今すごくキテるスケーターなんですけど、彼等と撮影するのは楽しかったですね。まだプロじゃないけど、「THRASHER」から直接フィーチャーされたり、これから必ずプロの道へいくと思う。他にも出てるRYO SEJIRI、KAZUAKI TAMAKI、RYONOBUCHIKAは上手いだけではなく、場所の見方だったり、進化した日本人のクリエイティブさだとか、スキルがものすごく高いです。

それと僕にとって重要なのは、宮城豪さんの存在ですね。本郷兄弟の弟の真輝の撮影をしていた時に、レールの上を歩いて板を落して5050・グラインドしてっていう豪さんのシグネチャーの技を真似して、それをInstagramのストーリーにあげたら、豪さんから反応がきて。それでやりとりをしている時に、「僕は豪さんの大ファンなので、すごく撮りたいです」と伝えたら、会えることになって。僕は東京に住んでいるから、大阪にいる豪さんのところまで仕事が休みの時に行って、いろいろ話をして、だけど撮影はなかなか始まらなくて。いろいろと質問をされたんです。なぜこの映像にこのメンバーと自分が出るのか、なぜ撮りたいのか、とか。豪さんは世界的なスーパーレジェンドなのに、この9年間何も出していなかったので、とにかく不安が大きかったんです。

それで1年くらい東京から大阪へ通って、豪さんに会いに行きました。その時に、豪さんの映像が9年間出ていなかったのは、ただの偶然ではないんだってこともわかりました。何かに苦しんでいそうでした。だけど僕はずっと豪さんのファンだし、僕も含めて、世界中に豪さんの滑りが見たい人がいるって、ずっと伝え続けて、ようやく撮影のコンセプトが決まったんです。

それで「公園で撮影しよう」ということになって、豪さんのスポットがある深北公園に行くことになって。コンセプトは公園と、豪さんが気持ちいいと感じる丸いレールで技を撮ること。それともう1つ、滑り終わった後はきちんとスポットを綺麗にすること。豪さんは、毎回滑り終わった後でスポンジと水で綺麗にしたり、レールに傷が付かないように工夫をしたりして、マナーをきちんと守っている。年齢は関係ないけど、今45歳なのに、休憩もしないで5時間暑い中で滑ったり、とんでもない転け方もする。心配で何度か止めようとしたこともあったけど、それでもやりたいんだって。それで乗れたとしても、2~3週間後に「もっと良い動きができるかもしれないから、撮り直したい」って連絡がきたり。いろいろな面で、今回一番頑張ったのは宮城豪さんなんじゃないかと思います。

——11秒、スケートボーダーとして進化されているんですね。

ROB TARO:豪さんの滑りは、豪さんにしかできないから、正解がないんです。だから僕もそれに付いていかないといけない。もう無理かもっていうことも最初のほうはありましたけど、僕は豪さんや自分が納得しない映像は出さないと最初から決めていたから、頑張りました。結果的に、2人とも納得のいく撮影ができて嬉しかったです。いつか豪さんとは美術館とかで何か一緒にやりたいです(笑)。スケートボードはアートとも繋がりがあるものだと思うし、日本はまだ少ないと思うけど『TIMESCAN』としてそういう関係を作ってみたいですね。

——ROB TAROさん自身、スケートボードが本当に好きなんだなと感じます。

ROB TARO:好きです。あと頭がおかしくないとできない(笑)。普通じゃないんで、僕は。

——最後に、このインタビューを読んでくれた方々へメッセージをいただけますか。

ROB TARO:当たり前のことかもしれないけど、好きなことをやっていると、途中で自分で気付かなくちゃいけないことに、気づけないことが多い。頑張り過ぎちゃったのか、僕も忘れてしまっていた時がありました。何でスケートボードをしているのかと、何で頑張ってるんだろうとか。それを思い出すのは大切なこと。ちょっと呼吸をして「何で始めたのかな」って考えて、「大好きだからやっている」と思い出した時、やる気が出ます。「好きだからやれる」……それがみんなへのメッセージ かもしれません。だけどこれは自分へのメッセージでもあるかな(笑)。

■DVD『TIMESCAN 2』
形態: DVD
リリース:2023年8月30日
購入先URLなど:https://www.timescan.store/product-page/time-scan-dvd

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スケートボード映像作家・ROB TAROが『TIMESCAN 2』で捉えた「日本のスケートボード・シーンの奇跡」 インタビュー前編 https://tokion.jp/2023/08/24/interview-rob-taro-part1/ Thu, 24 Aug 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=201843 『TIMESCAN 2』を観て知る、スケートボード映像作家、ROB TAROが捉えた日本のスケートボード・シーンの奇跡。前編ではこれまでの活動について。

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ROB TARO Photography Lui Araki

ROB TARO(ロブ太郎)
1995年生まれ。アメリカ・ニュージャージー出身。10代半ばにスケートボードに出会い、その魅力にのめり込んでいく。2015年に日本へ拠点を移す。カメラを学ぶために通っていた学校は、3ヵ月でドロップアウト。そこからさまざまな人々や日本のスケートボードシーンと出会い、生粋のスケーターとして、またスケートボード映像作家として東京を拠点に活動を始める。これまで撮影をした映像は、『TIMESCAN』としてYouTubeにて公開中。2019年にリリースされたフルレングス映像DVD『TIMESCAN』および、2023年の公開された『TIMESCAN 2』が話題を呼ぶ。ちなみにROB TAROという名前は、日本とアメリカの血を引き“太郎”というミドルネームを持つことから。
Instagram:@rob.taro
Instagram:@timescan

スケートボードと共に生きるスケーター達が、日本各地、さまざまなスポットで技に挑戦をしていく熱い姿をストーリー性のある映像作品へとアップデートして見せるスケートボード・ドキュメンタリーフィルム『TIMESCAN(タイムスキャン)』(2019年)。同作はスケートボードの技を捉えるだけでなく、個性あふれるスケーター達の魅力も紹介してくれる。その中心にいるのが、自身もスケーターである映像作家のROB TARO(ロブ太郎)だ。

アメリカ人と日本人の血を受け継ぐ彼が、日本のスケートボード・シーンに魅せられ、ニュージャージーから日本へやってきて8年。その間に制作をした映像からは、こんなにも日本には個性のあるスケーター達がいること、こんなにも多くの面白いスポットやスケートパークがあることを知ることができるとともに、純粋に「スケートボードっていいね!」と観た人の心をグッと動かしてくれる何かを感じることができる。

そのロブ太郎の最新作となる『TIMESCAN 2』が完成し、先日、神戸と東京で試写会が行われた(現在も全国各地スケートショップにて試写巡回中)。作品に対するステートメントの冒頭に「『TIMESCAN 2』はただのスケートビデオではなく、もっと奥深い作品です」とあるように、ROB TAROの人間の深さが作品にあふれて出ていた。今回、ROB TAROが同作に込めた思いを彼のこれまでの歩みと共に聞いた。前編ではスケートボードとの出会いから映像作家になるまでを語ってもらった。

「皆さんが知らない日本のスケートボードシーンを知ってもらいたい」(ROB TARO)

——試写会を終えて、みなさんの反応はいかがでしたか?

ROB TARO:本当にいい反応ばかりでした。この作品は4年かけて撮影をしたんですけど、ずっと試写会の日を想像して楽しみにしていました。試写会が終わって数日経ちましたけど、まだ現実味がなくて(笑)。スケートボード作品の試写会って、海外なら声が出ることが多いんですけど、神戸でも東京でも最初から最後まで歓声があって、やっぱり声が出る試写会っていいですね。

——上映時間48分、総勢52名のスケーター達が出演されていますが、ストーリー性のある映像が素晴らしかったです。

ROB TARO:スケートボードの映像って昔は1時間くらいのものは普通にあって、それでブランドも稼いでいたと思うんですけど、今はSNSにアップされる短い映像が主流になっていて、1時間の映像作品を作るというのは、本当に少なくなっているんです。どれだけ頑張って何年も時間をかけて作った作品でも、スケートボードのトップのメディアに取り上げられること自体もすごく大変です。しかもスケートボードのトップのメディアにやっと取り上げられたとしても、1円も入らない。

だけど、そんな時代でも4年かけて作っている僕のような人間もいるわけで、48分っていう長い映像でも内容がおもしろければ観てくれるかなって。それを信じて、頑張って作った作品で、結果的に試写会も盛り上がって、本当に涙が出そうになりました。

——『TIMESCAN 2』については後でじっくりお聞きできればと思うのですが、まずはROB TAROさんのこれまでのヒストリーを教えていただけますか?

ROB TARO:1995年にアメリカのニュージャージー州で生まれて、20歳までいました。母が大阪人、父がアメリカ人で、母が子供の頃に日本語を教えてくれていたんですけど、日本人の友達は1人もいなかったし、向こうにいる時は日本語をほぼ使わず、英語で生活してました。

スケートボードを始めたきっかけは、正直覚えていないんです(笑)。12歳か13歳のクリスマスに、板(スケートデッキ)を父がくれて。それも自分が欲しがったとかではなく、いきなりくれて。当時、スケートボードをする友達は周りにいなかったし、近くにスケートパークもなかったんですけど、なぜかスケートボードにハマったんです(笑)。

その頃は「このオモチャ(スケートボード)でどう遊ぶか」ってことばかり考えていました。今でこそYouTubeとかでHow Toとかありますけど、当時はオーリーをどうやって飛ぶのかもわからなかったから、靴とデッキをテープでグルグル巻きにして練習をしたりとかして。高校生になって友達も増えましたけど、僕は変わり者だったから何年もずっと1人でスケボーで遊んでました。高校を卒業したらどうする? みたいな社会的プレッシャーもあったので、そこから逃げる居場所がスケートボードでしたね。

——そこからさらにのめり込んだきっかけは何だったのですか?

ROB TARO:その頃、友達が日本のスケートボードビデオをYouTubeでチェックしていたんです。その映像は、それまで僕が観てきたスケートボードビデオと違って、日本にしかない新鮮さを感じました。僕に日本人の血が混じっているから強く感じたのかもしれないけど、日本のスケートボードビデオにすごくクリエイティブを感じて、さらに夢中になりました。

——どんな日本の映像やスケーターに影響を受けたんですか?

ROB TARO:「大阪ダガーズ(OSAKA DAGGERS)」のチョッパー(Chopper)さんとダル(DAL)さん。それと「タイトブース(TIGHTBOOTH)」の『LENZ Ⅱ』の上原耕一郎さんと宮原聖美さんのパートは、向こうでも人気でインパクトがありました。あと「FESN」の森田貴宏さんの映像作品『overground broadcasting』の「ビリヤードパート」は感動しました。森田さんはスケーターとしてもすごく上手いのに、アーティストとしても素晴らしい。それと「FESN」の同じ作品の宮城豪のパートも本当に衝撃的で、すごく影響を受けました。

——当時、アメリカ側から見た日本のスケートボードはどんなところが魅力的でしたか?

ROB TARO:日本って街は狭いけど、だからこそそれをどう細かく使うかとか、世界のトッププロでも想像しなそうなことをする。日本の街に合わせていくと、自然とそれが日本のスケートボードのスタイルになるんですよね。そのイメージを作ったのは「FESN」で、夜にVX1000というカメラで、技はシンプルかもしれないけど、細かいトリックを撮影する。音楽もクラブミュージックを使ったりして、それに日本っぽさを感じました。

KOICHIRO UEHARAs part from TIGHTBOOTH PRODUCTION’s 「LENZII」
Gou Miyagi – overground broadcasting skate video
FESN /overground broadcasting / FESN Headquarters part(ビリヤードパート)

日本のスケートボードシーンをリアルに体験、サバイブする

——ROB TAROさんが、スケートボードの映像を撮りたいと思ったのはいつ頃からですか?

ROB TARO:アメリカにいる時は、フィルムカメラで写真は撮っていたんですけど、映像は撮っていませんでした。高校を卒業してから大学に行って、普通に仕事もしていて、その頃はスケートボードが好きでしたけど、週に一度すべれたらラッキーみたいな感じでした。

それで大学2年の時に、この先どうしようか迷って、「日本へ留学しよう」と思って、8年前の20歳の時に1人で日本へ来たんです。僕は日本人の血が混じっているし、日本のスケートボードビデオもすごいし………あと、これが一番の理由なんですけど、このまま日本を知らないでいるのも「もったいないな」と思って。

それで東京の学校に行くことになったんですけど、入学前に大阪のおばあちゃんのところにいる時に、自分で調べて電車で1時間半くらいかけて青い路面のスケートボードパークへ行ったんです。その時はまだ日本語を片言しか話せなかったんですけど、スケーター達に話しかけたらみんな優しくて。そしたら「プロスケーターが来たよ」ってみんなが言って。布のデッキテープを見た時にわかったんですけど、世界の中でも一番レアな人……宮城豪さんに出会ったんです。日本で初めて スケートボードに乗った日に、こんなことが起こるなんてって驚きました。

——引きが強いですね(笑)

ROB TARO:それで僕と話をしてくれた人が豪さんを紹介してくれて。豪さんは基本的に人と写真を撮らないのに、その日に一緒に写真を撮ってもらいました。その時の写真は今も大切に持っています。

——その後、学校へ通うために東京へ来ましたけど、その頃は東京でスケートボードはしていたんですか?

ROB TARO:学校はいろいろあって3ヵ月でやめてしまったんですけど、その頃に宮下公園のパークへ滑りに行って、そこで「Greatest 40’s Club」という、僕からしたら日本のトップレジェンドと思えるようなクルーに出会いました。それで彼等がプライベート・スケートパークに誘ってくれたんです。西船橋にある室内にいかついボウルがある「P-NUTS」というプライベートパークがあって、そこに毎週金曜日にすべりに行っていました。

そのうち同い年の柏のクルーとも出会って、ある日彼等が茨城にある「AXIS SKATEBOARD  PARK」っていうスケートパークに連れて行ってくれて。行ってみたら西海岸にあるような大きなコンクリートのパークで。そこに年配のスケーターもいて、「君、良いね。滑り終わったら家に飲みにおいでよ!」ってなぜか誘われて。その人がどういう人なのかも知らずに家について行って、着いたら畑の中にポツンと一軒家があって……クモの巣とかほこりがたまっていたり、割れたガラスは全部スケートボード用のシールで補強されているし、映画に出てくるようなスケーターの家だったんです。しかも壁には「THRASHER」マガジンを始めたファウスト・ウィテロ(FAUSTO VITELLO)がサインした鉄の「Independent」のバットが飾ってあったりして、スケーターにとっては美術館みたいでした。

そこで「ロブは何をしているの?」とその人に聞かれて、学校をやめて寮に住めなくなってしまったと話をしたら、「ここに住んでいいよ」って(笑)。その人は、「Underdog」の田中ケンジさんという人だとわかって、それで引っ越したんです。2度目に会ったのは僕がその家に引っ越す日でしたね。ケンジさんのドキュメンタリーも『TIMESCAN』の時に撮影しています。

LONG DISTANCE EP. 1 – KENJI TANAKA

——どんどん進んでいきますね。

ROB TARO:ケンジさんの家に1年半くらい住んでいたんですけど、当時ケンジさんは海外のスケートボードブランドのデュストリビューションをやっていて。僕がいる時に「コンソリデーテッド・スケートボード(CONSOLIDATED SKATEBOARDS)」っていう有名なスケートボードブランドのチームがバルセロナとサンディエゴから来たんです。

スティーブ・ベイリーとか「THRASHER」の表紙を飾るようなスケーター達もやってきて、一緒に「AXIS」に滑りに行ったんです。僕は大学の頃にカメラを勉強していたから、みんなの写真を撮ろうと思ったんですけど、ツアーに同行しているフォトグラファーがいて、逆に映像を撮るフィルマーがいなかったから僕のカメラで映像を撮っていたら「ツアーの映像の撮影を頼む」って言われて。それで10日間くらい、そのコンソリチームのツアーに同行することになったんです。

それで10日間の撮影が終わったら「編集もよろしくな!」って(笑)。僕はそれまで編集をやったことがなかったけど、自分で調べたり、向こうの意見を参考にしたり、曲はケンジくんに相談したりして何とか完成させて。その初めて作った映像が、「THRASHER」にアップされて。まさかっていう感じでした。

Consolidated & Bassturd’s “Japan Tour” Video

ドキュメンタリー目線でスケートボードを撮り始める

——ROB TAROという名前はその頃から使っているのですか?

ROB TARO:ROB TAROを名乗り始めたのは、コンソリのツアーの前ですね。ある日、朝起きたらケンジ君に「行くぞ!」って言って車に乗せられて、何も知らないまま何時間も走って気付いたら仙台にいて。そしたら「BRIDGE」という室内のスケートーパークで、「TIGHTBOOTH」が主催する「DO DO DO」という大会をやっていたんです。その大会に僕も参加しようと思ってエントリーしようとした時に、名前をなんて書いたらいいのか迷って。そしたらケンジ君が「ROB TAROでいいんじゃね」って言ってきて。僕の本名はROBで、TAROはミドルネームなんですけど、ケンジくんだけ僕のことを「TARO」って呼んでいたんですよ。

それで、ROB TAROで出場して、その大会がとんでもなく熱くて、僕もブチ上がって、いいすべりを残したいと思って、乗ったこともない技に挑戦したりしていたら、気付いたら優勝してたんです。それで「VHS」マガジンにも、「ROB TARO」って名前を載せてくれて、それからこの名前を使っています。

——本格的に映像を始めたのは、コンソリの映像を撮ってからですか?

ROB TARO:そうですね。それからスケートボード関連の映像を撮るようになりました。その頃から、僕がファンだった日本のすごいスケーター達に出会えるようになって、一緒に旅をしたりするようになって。そこでわかったのが、日本にはこんなにもたくさん上手いスケーター達がいるんだということ。それも個性があってスタイリッシュ。僕はアメリカから1人で来たので、それがプラスになったのか、いろいろなクルーと年やジャンル関係なく繋がることができた。だからそれを思い出として残したいなと思ったんです。日本やアメリカの友達、世界のみんなに、「こんな特別なものがあるんだよ」って、そんな気持ちで撮り始めたのが前作の『TIMESCAN』なんですけど、それまで作品を作ったことがなかったから、最初はかなりフリースタイルで。お金もなかったから、ヒッチハイクをして全国を回りながら撮影しました。

——そこから全国各地のローカルのスケートボーダー達と交流をして、リアルなシーンを映像に収めていったんですね。

ROB TARO:スケートボードビデオって技を見せることがほとんどで、それはそれでいいんですけれど、僕はどちらかというともっとドキュメンタリー目線というか。技だけではなく、日本にはこういう場所や、こういうクルーがいるんだとか、それぞれのキャラクターとか遊び方とか、そういうことを紹介したいなと思って。だから「時間を取り込む」っていう意味で『TIMESCAN』なんですよ。思い出を少しずつ溜めて、それを作品にして、自分の中で一生残したいなって。

『TIMESCAN』の1作目は、東京、大阪、茨城、北海道、そして僕の地元ニュージャージーとニューヨークで試写会をしたんですけど、びっくりするほど反響がありました。ニューヨークでの試写会には大きなメディアの人達も来てくれて、「JENKEM」というメディアと知り合うことができました。

——これまでの経緯を聞くと、自然な流れではあるけれど、グッドタイミングで選ばれているような感じもします。

ROB TARO:僕は日本に来る前から、もし自分にチャンスが与えられたら、200%にして返すと決めていたんです。それにプラスしていろいろなスケーター達が協力をしてくれた。みんなすごく熱くて、頑張ってくれた。だからこうして映像作品を発表できるのは本当にみんなのおかげですね。

後編へ続く

Cooperation BAROOM

■「BAROOM」
住所:東京都南青山6-10-12 1F
営業時間:18:00~24:00
定休日:日・月
※イベント開催により変更となる場合もあります
TEL:03-6892-1577
https://baroom.tokyo/access

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DJ NOBU × 日野浩志郎が目指す、解放への道。 https://tokion.jp/2023/06/15/dj-nobu-x-koshiro-hino/ Thu, 15 Jun 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=190837 DJ NOBUの熱いラブコールを受け、日野浩志郎率いるバンドgoatが「FUTURE TERROR」に登場。東京では、約5年ぶりに新体制にてライヴを行う。

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DJ NOBU  Photography Dai Fujimura
日野浩志郎  Photography Dai Fujimura

DJ NOBU
DJ/サウンドプロデューサー。「FUTURE TERROR」、レコードレーベル<BITTA>主宰。パンク、ハードコアでの活動を経て、2000年初期よりDJをスタート。2001年より地元である千葉市でアンダーグラウンドに根付いたパーティ「FUTURE TERROR」を定期的に開催し、2009年以降はDJとして国内だけでなく海外にも進出。ワールドクラスDJとして、各国のパーティやフェスに出演し、2022年にはヨーロッパにて「FUTURE  TERROR」を開催。また、サウンドプロデューサーとしても定期的にトラックを制作しリリースを重ねている。
Twitter:@dj_nobu_ft
Instagram:@dj_nobu_ft

日野浩志郎
goat、bonanzasのプレイヤー兼コンポーザー。ソロプロジェクトとして電子音楽を主軸としたYPYをはじめ、中川裕貴によるユニットKAKUHAN、実験的なリズムを試みる5人編成バンドgoat、bonanzasでの活動のほか、舞台作品『GEIST』の作曲と演出、『戦慄せしめよ / Shiver』では、太鼓芸能集団 鼓童とコラボレートした音楽映画を担当。また、国内外のアンダーグラウンドミュージシャンのリリースを行うカセットレーベル「Birdfriend」や、コンテンポラリー/電子音楽をリリースするレーベル「Nakid」も主宰。
Twitter:@po00oq
Instagram:@po00oq

日野浩志郎率いるバンドgoat(ゴート)が、6月17日に東京・「UNIT / Saloon」で開催されるDJ NOBU主催の「FUTURE  TERROR」に出演を果たす。goatは昨年末に約5年ぶりにライヴ活動を再開、今秋には約8年ぶりに新作のリリースを予定している。今回、DJ NOBUがgoatに熱いラブコールを送り出演が決まったそうだ。本対談は、アメリカツアー真っ最中だったDJ NOBUからの連絡を受け、急遽実現。DJ NOBUがインタビュアーとなり、日野の思考に迫った。対話から見えてきた「耐え忍んだ先にある開放」——それはテクノを主流にしたDJ NOBUとgoatの日野浩志郎、2人が目指す共通点なのではないか。

DJ NOBU:日野くんとは、京都で<BLACK SMOKER RECORDS(ブラックスモーカー レコーズ)>と一緒にやった「BLACK TERROR」で知り合ったんだよね。その時に<BLACK SMOKER RECORDS>のJUBEくんが「いいバンドがいるんだよね」って、日野くん達をブッキングして。当時、日野くんはかなり若かったと思うんだけど、ライヴが終わった後に話しかけてくれて、それが最初の出会いだったよね。

日野浩志郎(以下、日野):確か2012年でしたかね。まだ僕はgoatを始めていなかったくらいの時かも。 

DJ NOBU:本当に綺麗な目をした若者で、とても印象深かったんですよね。日野くんは<BLACK SMOKER RECORDS>とも仲が良くて。

日野:そうですね、YPY(日野浩志郎によるソロプロジェクト)でアルバムを出したり。その時の「BLACK TERROR」ではbonanzasというバンドで出たんですよね。

DJ NOBU:YPYやKAKUHAN(日野浩志郎と独自の手法でチェロを演奏する作曲家・演奏家の中川裕貴によるデュオユニット)にしろ、日野くんはいろいろなプロジェクトをやっている中で、goatはどういうプロジェクトになるのかな? 

日野:僕自身も説明しづらいんですけど、僕が思い描いていた構想をやっと体現できたプロジェクトがgoatでした。goatの前にbonanzasをやっていたんですけど、それが母体とはなっていて……なんて言ったらいいのかな、自分達の楽器を使って全員がドラムの一部になるようなものをgoatは体現をしているんですけど。

DJ NOBU:僕はgoatを”人間ドラムマシーン”だと思っていて……というと安っぽい言い方になってしまうかもしれないんですけど、すごく精密だし、人間がやっているとは思えないような集中力。それにプラスして、人間が演奏しているテンションが加わっている。この間アメリカで4連チャンでDJをやったんだけど、東から西への移動もあって体力的にとてもつらくて、でもそんな状況で「std」を聴くとすごく元気が出たんです。

日野:聴いてくれたんですね!

DJ NOBU:もちろん聴いていますよ! 「std」のテンションやアッパーさからは、日野くんの人間力を感じるんです。

日野:「std」は1stアルバム(『NEW  GAMES』)の最後に入れた曲で、goatの中では爆発力があって一番解放的な曲なんです。タイトでミニマルな演奏で我慢をため続けて、曲の最後に解放的になるみたいな。僕等の中では一番人間的な曲というか。

DJ NOBU:そこの表現に僕はテクノを感じたりするんですよ。僕もやっぱり、我慢・我慢・我慢、で解放するみたいなのがとても大事で、ベルリンで12時間DJをしたんですけど、その時に8時間我慢させたんですよ。で、8時間経った後に「シルベスター」をかけたんです。そしたら泣いている人達がフロアにいっぱいいて(笑)。そういう、忍耐の先にある快楽というのがあると思っていて、まさに僕がgoatを好きな理由の1つに、そういう感覚をすごく感じる。それをみんなにも味わってほしいと思って、今回の「FUTURE TERROR」で声をかけたんですよ。

日野:goatの場合は、我慢タイムが、本当の我慢タイムになる時もあるんですけど(笑)。けどその我慢があるからこそ最終的には効果的に作用してくるんです。

DJ NOBU:goatって頭で聴くのも楽しくて、頭で聴いて数えたりすると、日野くんというアーティスト自体が数学的ということがわかったりするし。で、それを一度忘れて感覚で聴くと、ものすごい快楽を得るんですよ。それがgoatの素晴らしいところでもあるなと。

日野:難しく聴かせることって簡単なんですよね。実際に僕等はわりと複雑なことをしていると思うんですけど、それをいかにシンプルに聴かせるかっていうのが、作曲の中の一番重要なポイントの1つで。なので感覚的に聴いてもらえるのが僕にとっては一番嬉しいです。

「最後の快楽に向けての集中力」(日野浩志郎)

DJ NOBU:ライヴを観ても、音源を聴いても思うことなんですけど、goatは集中力がすごい。その集中力はどこからくるのかな。

日野:先ほどNOBUさんも言っていた最後の快楽に向けて、集中していってると言えばいいんでしょうか……。集中することが普通になっているのかもしれません。

DJ NOBU:幼少期とかに、そういう訓練を受けたとかはではない?

日野:ずっとスポーツをやっていました。子どもの頃は野球選手になりたくて、小学校の頃に野球部に入って頑張っていたんですけど、中学校が田舎すぎて人数が少なくて野球部がなかったんです。だから陸上部に入って、高校で野球をもう1回やるぞ! と思っていたんですけど、高校が弱小で、そこでサッカー部に入るという。なので学生時代は野球~陸上~サッカーとずっとスポーツをやっていましたね。

DJ NOBU:スポーツマンだったんだ。その頃は、今後につながるような音楽を聴いていたの?

日野:高校の頃はニルヴァーナとか、レッチリとか、流行りものも聴いていました。その中でも今でもやっぱり影響あるのはレッド・ツェッペリンかな。少し背伸びしてマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンとかも聴いていましたけど。

DJ NOBU:今でもツェッペリンは聴いたりするの? 

日野:聴きます。それにスピーカーを買い直したら、まずツェッペリンを聴きますね。

DJ NOBU:スピーカーの個性だったり、キャラクターだったりを、ツェッペリンをベースに聴いて確認しているんだね。必ず聴くという曲はあるの?

日野:曲よりはアルバム単位で聴いてますね。アルバムだと『フィジカル・グラフィティ』とか好きだし、曲で言えば「アキレス最後の戦い」とか好きです。

DJ NOBU:今度スタジオに遊びに行かせていただいた時に、あのスピーカーで聴いてみたいな。で、僕の個人的な感想として、goatってかっちり演奏をして、KAKUHANはインプロって感じに聴こえるんですけど、自分で違うことをやって楽しんでいるというか、自身の中でバランスを取っているとかはあるの?

日野:めちゃめちゃありますね。goatはつらいんですよ。作曲も練習もライヴもつらいですが、終わってからようやく解放感があるというか。1つのプロジェクトを続けていくとクリエイティヴでなくなっていくから、意図的に別のプロジェクトをやって1回goatのことは忘れるようにしています。その合間にYPYの曲を作ったり、KAKUHANでセッションをレコーディングしてみてとかバランスは取っていますね。

DJ NOBU:goatの反復って、概念でいうトランスと同居しているというか。演奏している方からしたら、とてつもないんだろうなと思うんですよ。

日野:演奏している側が一番興奮しているし、一番楽しいと思います。

DJ NOBU:一緒に楽しめる人っていうのを前提でメンバーを決めたの?

日野:なかなかメンバーを見つけるのは大変なんですが、正直まずは一緒に音を出してみないとわからないところがあります。練習時間をポジティブに共有できる人じゃないと難しいんですが、実際ライヴするまで新しく入ったメンバーはつらいと思いますよ。で、最後にライヴをして興奮に気づくって感じ。

DJ NOBU:昨年末まで5年間ライヴをやっていなかったですけど、その間にgoatは何をしていたんですか?

日野:作曲と練習とメンバー探し。暗黒期もさまよいつつ、って感じですかね。 

DJ NOBU:「暗黒期」という言葉が出てくると思わなかったんですけど、5年間ためてアップデートして、ここから一気にgoatが動き出すっていう感じですね。

日野:そうです。今年10周年なんで、秋には新作アルバムも出すし、8月にはgoatの国内ツアーも予定しているんですけど、その時のツアーで先行発売をして、その後に流通をし始めようかなと考えています。

DJ NOBU:アルバムは自身のレーベルから出す予定なの?

日野:今回は自分のレーベル<NAKID(ネイキッド)>からです。レコーディングもミックスも終わって、これからマスタリングですね。

DJ NOBU:ちなみにマスタリングは自分で? それか他に頼むの?

日野:マスタリングはラシャド(・ベッカー)に頼もうかと思っています。

DJ NOBU:そうなんだ! ラシャドなんだね。彼に頼むのは意外だった。僕が前にベルリンの「ベルグハイン」でDJした時に遊びにきてくれて。goatの音って生音だけど、それをどうラシャドに指示する予定なの? 

日野:あまりこちらの意思を押し付けたくなくて。アーティストとして信頼しているから、まずはラシャドの好きなようにやってほしい。その上で修正するポイントがあればって感じです。普段はミキシングやマスタリングで、その人のアーティスト性を出されるのってあまり好きじゃないんですけど、ラシャドの場合は良くなっている。で、想像していないところが良くなったりしているから、楽しみなんですよね。

DJ NOBU:なるほどなあ。意識していなかったところが良くなるってことですよね。そこに自分が気づくという。 

日野:そうなんです。だからあまり言いたくなくて。ちなみにgoatの1st、2ndをコンパイルしたレコードがあるんですけど、それもラシャドにマスタリングしてもらって、その時にそういう良さがあったから、今回もお願いしようかなと思いました。そのコンパイルしたレコードは2018年ですが、今回出すアルバムは新作という意味では8年ぶりになるんですよ。

「反復の快楽は、本当の意味でのトランス」(DJ NOBU)

DJ NOBU:『Rhythm & Sound』から8年ってことですよね。前に「FUTURE TERROR」に出てもらったのって2016年でしたっけ。

日野:2016年から2017年のカウントダウンでした。

DJ NOBU:そこからアップデートされた部分とか、変わった部分はどういうところなんでしょうか。

日野:メンバーが増えたということもあって、昔の曲のアレンジがだいぶ変わりました。既存曲は昔より良くなっていると思っているのが1つ。さっき暗黒期と言いましたけど、初期のドラマーが素晴らしく、当時は彼のために作曲していた部分は大きくて、そのドラマーがいなくなって試されるのって、作曲やアレンジ能力だと思うんです。初期の楽曲に関して、初期ドラマーがいなくなった後、「彼がいなくなって、良くなくなった」と言われるのが一番最悪じゃないですか。

DJ NOBU:確かに。

日野:そのプレッシャーが一番大きくて。だから彼に頼らないで、アップデートするというのがまず大前提としてありました。けど今のドラムの岡田くんや雷くんも素晴らしく、アレンジが加わった今の既存曲は、これまでで一番良いんじゃないかと思っています。作曲に関しても2ndアルバム以降はアップデートする必要性を感じていて、いろいろとリズムアンサンブルの実験を繰り返してきました。昔はシンプルなフレーズを繰り返していって、その中で爆発力を持つみたいな作り方をしていたのを、リズムの組み合わせを、なんて言ったらいいのかな……シンプルだけど、変わり続けて聴き飽きないようなリズムみたいなものを試したいと思ったり。なおかつライヴで興奮できるもの。それを試すためにいろいろな作曲方法をして、実際に楽器を変えてみたり、みんなでボンゴやマリンバを叩いてみたりしたりして。それがある程度自分の中でうまくいくようになってから、バンドに落とし込んだのが今の状態ですね。

DJ NOBU:反復ではあるけど変化する感じが、アップデートする前と今との違いかな。 

日野:そうですね。反復する種類が違うって感じですね。

DJ NOBU:本当に反復の快楽じゃないですか。チープな言い方かもしれないけど、本当の意味でのトランスというか。それとgoatっていい意味でエンターテイメント性も感じるというか。2016年の「FUTURE  TERROR」のカウントダウンの時も完璧でしたからね。ライヴ、楽しみだなあ。

日野:あの時のカウントダウンは自分の人生の中でも最高に興奮したライヴでした。緊張も一番、演奏も納得できた。カウントダウンのための練習をしていましたからね。曲間は何秒だとか、BPMは絶対に変えないとか、合図は何分何秒の時に出すだとか。そういう特殊な練習をしていましたね。これ外したら殺される!みたいな(笑)。それは冗談ですけど。

DJ NOBU:(笑)。それがあの完璧な状態になっていくのか。そういう苦労を日野くんは見せないし、goatは「こういうことができて当たり前」だと思っていたから、そういう話が聴けて良かった。日野くんは謙虚でクールなんですけど、現場で反転する創造的なエネルギーを持っているというか、バーンッ! と現場で流すことができるのが、goatというバンドのすごさかなと思っています。

日野:いつもギリギリですけどね。ライヴの前は悪夢を見ますしね(笑)。だけど楽しんでいます。十分リハーサルをして、納得できるライヴができてやっと楽しめるってところはありますね。だからライヴをするまでは、すごい心配だし、95%以上はつらい。

DJ NOBU:なるほどなあ。僕も「FUTURE TERROR」やるのはつらいんですけど、アメリカにいる最中も気になるし、悪夢も見るし、だからお互い同じ気分になっていたんですね(笑)。今回は本当に、goatのためにパーティをやりたいんですよ。それで日野くんに愛を伝えたいっていう。

日野:受け止めまくっています。ありがとうございます。僕らも本当に気合い入れているんで。

硬くならずに「未来の恐怖(FUTURE TERROR)」へ向かう

DJ NOBU:何か伝えたいことはありますか? goatを知っている人でも、知らない人でも。

日野:あまり硬くならずに、難しく聴くこともないので、感覚的に聴いてもらえればいいです。

DJ NOBU:しばらくはgoatの活動をしていく予定ですか?

日野:そうですね。今年は10周年なので、“goat year”って感じだと思います。

DJ NOBU:「FUTURE TERROR」以降の、ライヴの予定はこの先ありますか?

日野:今回は各週末、週末ツアーみたいな感じで、全部で7ヵ所やります。年末にやった大阪のライブは、今の編成になって初めてのライヴだったんですけど、今のgoatをプレゼンテーションするには納得のできだったかなと。

DJ NOBU:日野くんが作曲をした譜面に対して、どれくらいのパーセンテージでメンバーの人達はパフォーマンスするんですか?

日野:決めているところは100%そのまましてもらうんですけど、自由度のあるところもあります。元鼓童の立石雷くんが笛を吹く楽曲もあるんですけど、その曲の中ではサックスと笛は自由度があって、そのボトムを演奏している自分達は自由度ゼロ。そういうバランスのものもあります。だけど他の曲は、100%演奏方法が決まっているのがほとんどですね。もう毎日、練習しないと「FUTURE TERROR」が怖い。だけど、良いライヴをして「FUTURE TERROR」を楽しみたいですね。

DJ NOBU:「未来の恐怖(FUTURE TERROR)」とはよく言ったもんだ(笑)。6月17日のライヴ、楽しみにしています。

■FUTURE TERROR at UNIT / Saloon
日にち:2023年6月17日
場所:UNIT / Saloon
時間:オープン[Saloon] 23:00 / [UNIT] 23:30
Line up:
[UNIT]
DJ Nobu
Haruka
Akie
Live:goat

[Saloon]
Occa
鏡民
Kuri
Sakuma
Live:MANISDRON

Sound design:HIRANYA ACCESS
Tickets:https://future-terror.zaiko.io/item/355848
[カテゴリー3]
前売 / ADV:¥3,500
25歳割 / U25:¥2,500

■日野浩志郎スケジュール
6/24~25 日野浩志郎、古舘健(ダムタイプ)、藤田正嘉、谷口かんな、前田剛史「Sound Around 003」@ロームシアター京都 
7/15~17 KAKUHAN@Rural
7/21:YPY@AZUL(大分)
7/22:YPY@NAVARO(熊本)
8/27:goat 10 year anniversary 東京公演@渋谷WWW X
8/31~9/1:goat 10 year anniversary event@ロームシアター京都

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「ネイバーフッド」× JUN INAGAWAが生み出すオタクの新世界 https://tokion.jp/2023/04/19/neighborhood-x-jun-inagawa/ Wed, 19 Apr 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=180985 「ネイバーフッド」クリエイティブディレクター、滝沢伸介と気鋭アーティスト、JUN INAGAWAのコラボレーションが放つ、新しいカルチャーへの入り口。

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滝沢伸介がかじを取る日本発世界的ブランド「ネイバーフッド(NEIGHBORHOOD)」と、イラストレーター・漫画描きとして活躍するアーティスト、JUN INAGAWAによるコラボレーションコレクションが発表された。2020年に初コラボレーションを果たして以来、第2弾の今回は、JUN INAGAWAが生み出した魔法少女のフィギュアとTシャツ、インセンスが登場する。

自身が見つけたカルチャーに深部までのめり込み、互いにファッションやアートを通じて表現を続ける2人が意気投合して生み出されたプロダクトに込められたメッセージとは。この先のシーンをさらに魅力的なものにしていくであろう、最強コラボレーションではないだろうか。

JUN INAGAWA(じゅん・いながわ)
1999年生まれ。東京都出身。2012年にアメリカ・サンディエゴに移住し、絵を描いているうちにLAを中心としたスケートボード、ヒップホップなどのストリートシーンから注目を浴び、 A$AP ROCKY(エイサップ・ロッキー)などのアーティストからラブコールを受ける。2018年に帰国後は、アニメとストリートを結ぶ独自のスタイルで気鋭アーティストとして活躍。アパレルブランドとのコラボレーション、音楽アーティストへのアートワーク提供を行い、またDJとしても活躍。現在、月に1回パーティ「MAD  MAGIC ORCHESTRA」を主催。4月7日からは自身が原案、イラストを担当するTVアニメ「魔法少女マジカルデストロイヤーズ」(TBS系列)が放送スタート。またエレクトロ3ピースバンドFlog3も始動開始。
Instagram:@madmagicorchestra

滝沢伸介(たきざわ・しんすけ)
1967年生まれ。「ネイバーフッド」クリエイティブディレクター。ファイルレコードでレコードレーベル、「MAJOR FORCE」の担当を経て、1994年にモーターサイクルやミリタリーなどを軸にしたブランド、「ネイバーフッド」をスタート。原宿発日本を代表する世界的ブランドとして人気を呼び、全国各地、アジアに店舗を持つだけでなく、ヨーロッパ、アジア、アメリカ、オーストラリアなどでも販売されており、根強い人気を誇る。またさまざまなアーティストやブランドとのコラボレーションをはじめ、この10年の間でブランド内に植物ラインの「SRL」や、アウトドアギアコレクションを設立するなど幅広い展開を行う。2023年3月には台湾に「ネイバーフッド」の新店舗をオープンさせた。
https://www.neighborhood.jp
Instagram:@neighborhood_official
Instagram:@sin_takizawa

単純に彼のストーリーや、バックボーンがおもしろくてすごく意外性があった

——まずJUNさんが「ネイバーフッド」を知ったきっかけを教えてください。

JUN INAGAWA(以下、JUN):めちゃめちゃ仲の良いおじ的存在の人が「ネイバーフッド」を昔から大好きで……って、おじ的というのは実は血はつながっていなくて、カルチャーを教えてくれた師匠みたいな人なんです。

滝沢伸介(以下、滝沢):ちょっと待って、血がつながってないんだっけ! 本当のおじだと思っていたよ(笑)。

JUN:リアルに仲がいいので、“おじ”ってずっと言い続けているんです。“NORI”っていうんですけど、小さな頃から親よりも仲がよくて、僕にアニメ以外のカルチャーを教えてくれた人。彼が「ネイバーフッド」のTシャツを着ていたり、小物を持っていたりとかして、なんだろうって小さい頃から興味を持っていたんですよ。それで初めて原宿の店に行った時にインセンスを買ったんです。店に入った時のインセンスの香りがすごく好きで。リニューアルする前の店によく行っていたんですけど、その時は裏原って言葉も何も知りませんでした。僕がアメリカから帰ってきた18歳くらいのことですね。

滝沢:そのおじと展示会に来てくれたじゃん。確か4~5年前だよね。それが最初の出会いかな。その時に話を聞いてアーティストだってことを知ったんだよね。

——コロナ禍に行ったイベント「HUMUNGUS」で、JUNさんと「ネイバーフッド」はつながりがあるんだなと感じたんですけど、滝沢さんは、JUNさん周辺のユースカルチャーは気になっていたんですか?

滝沢:アニメが好きなわけではないんだけど、単純に彼のストーリーや、バックボーンがおもしろくてすごく意外性があったんですよね。彼がただ単に若いアーティストってだけならここまでつながらなかっただろうけど、裏原宿だとかのカルチャーをきちんと知っていたから付き合えたかな。うちの娘が今年で20歳だから、JUNくんは息子のような感覚でもあるけど(笑)。

JUN:「娘がアニメが好きなんだよね」と教えてくれましたよね。僕は先入観があまりなかったというか、自分が10年くらい滝沢さんの大ファンだとしたら違ったのかもしれませんけど、すごい先輩だけどもフラットに会話ができたのが嬉しかったです。

滝沢:彼のおもしろい部分は、アニメを描いているアーティストとしての部分だけではなく、アートも制作しているところや、アメリカにいた時にエイサップ・ロッキーと一緒にいたりしたことだったり。それでいて、裏原カルチャーにすごく精通しているところも。謎じゃん全部。「何この子!?」みたいな(笑)。

JUN:これ毎回インタビューで答えてるんですけど、みんなわかんないんですよね。僕もどうやって伝えたらいいのかわからないというか、難しい。簡単に言うと、ただのアニオタがおじから教えてもらったスケートビデオにハマって、「シュプリーム(Supreme)」や「ファッキンオーサム(Fucking Awesome)」周りのスケーター達を漫画っぽく描いたら、それがSNSを通じてウケて、A$AP Bari(エイサップ・バリ)周辺につながって「ヴィーロン(VLONE)」とコラボしたりしたという。だけどその頃はエイサップ・ロッキーもバリも、ヒップホップも何も知らなかったんですよ。普通に音楽はアニソンとかミスチル(=Mr.Children)くらいしか知らなかった。だけど彼らと仕事をするようになっていったんです。

滝沢:めちゃめちゃヒップホップに興味があってっていう感じではないんだね?

JUN:とはいえヒップホップをやっている人達には興味があったんですよ。なんでこいつらはヒップホップに興味を持って、外で酒を飲んでスケートして楽しんでるんだろうって。話を聞くと、家庭が恵まれていないやつだったり、いろいろな事情があって集まっているんだって知って。その延長線上で、東京に戻ってきて滝沢さんにも会っているんです。それが18歳の時です。

滝沢:自分達も18歳の頃は周りからのインプットがすごくありましたよね。僕も東京で(藤原)ヒロシくんに会ったり、いろんなクラブミュージックを知ったりとそういう年齢だったから、インプット段階の年齢なのかもしれない。

反発することから新しいカルチャーの流れが生まれる

JUN:東京に帰ってきて皆さんに出会った頃は、なんでも受け入れられる状態でした。いろんなものからインスピレーションを受けては自分の中で消化していくっていう。20歳になるまではすべて取り入れて、すべて消化して、そのカオス具合を作品にしようと思っていました。だから最初の作品はとにかく壁に描くって感じで、ぐちゃぐちゃでしたね。18~19歳くらいの時は、なんでかわかんないですけど何かに対して反発していたし。

滝沢:そう思いたい世代だよね。何かに熱くなって、架空の敵を作ってでもそうしたいって。

JUN:その時に今、テレビで放送されているようなアニメを作り始めたんですよ。だから心の変化が早いというか。今のアニメ作品も描いた当時が19歳の頃っていうめちゃくちゃ過去の作品なんですよね。それで「ネイバーフッド」と初めてコラボしたのは、2020年のこの時期ですよね。

——滝沢さんからコラボレーションのお誘いを?

滝沢:どうだったけな……。「何かやろうよ!」って感じだったんだけど覚えていないな。本当に普通の会話の流れでって感じかな。

JUN:僕もいろいろな延長線上で何かやろうよって感じのテンションが好きです。「なんかやろうぜ~!」って言って、その後何もやらないパターンもあるじゃないですか。そういう人は自分から外すって決めているんですよ。興味ないんだな、僕にって。逆に僕のことをおもしろいやつだなってサポートしてくれる人は、絶対に何かやってくれるんですよね。はまらないパズルの1つがハマったんだな、これはって。

滝沢:他にもストーリーのあるヘルメットを作ってプレゼントしてくれたり、年齢は親子レベルなんだけど、割とフラットに付き合えるって感じかな。

——滝沢さんとJUNさんに見えるヘルメットの感覚、何かしら共通するものがあるのではないでしょうか。

滝沢:僕の中でヘルメットといえば、ザ・タイマーズだから。

JUN:そういえば、ザ・タイマーズの話をされていましたよね。あと滝沢さんの若い頃はどんなクラブシーンだったのかとかも、すごく興味がありました。それで滝沢さんは僕の年の頃とかの話をたくさん聞かせてくれました。それで18歳の時にザ・タイマーズのPVを観た時に「これだ!」って思いましたね。

滝沢:18歳の時にザ・タイマーズを観て「これだ!」って普通は思わないよね(笑)。

JUN:放送事故のやつを観たのかな。それがめちゃくちゃ格好よく見えたんですよね。パンクってファッションではなく、アティチュードだと思っているので。で、この人は本当にちゃんとパンクやっているんだって。今ってパンクファッションの人がめっちゃ多いじゃないですか。だけど「それパンクじゃない!」って思うんですよ。もっと言えば姿勢が。ザ・タイマーズは最初なめてかかったら、ものすごくちゃんとした過激なパンクだった。そこから日本のパンクがめちゃ好きになって、それからマルコム・マクラーレンとか海外を掘っていったんです。

ATARI TEENAGE RIOTからインスパイアされた、魔法少女のUZI

——今回、制作したコラボレーションのフィギュアについて聞かせてください。

滝沢:本当はインセスチャンバーを作りたかったんだけど、今回はフィギュアにしたんですよね。最初は頭のウージー部分からインセンスの煙が出てくる仕様を考えていたんだけど、構造上無理で。でも結果仕上がったものは、陶器よりも繊細にできたし重量感もあってすごくよかった。これもきちんとしたアート作品というか。JUNくんとのコラボレーションは2回目になるんだけど、平面の作品から立体物を作ったというのは、うちとしては今回が初めてでした。なので、大きな進歩ですね。あとはTシャツとインセンスを作りました。フィギュアは、頭にウージーがついているのがいいよね。

JUN:ウージーがついている魔法少女は今まで描いたことがないんですよ。なんで頭にウージーをつけたかというと、Atari Teenage Riot(アタリ・ティーンエイジ・ライオット)のTシャツのバックにウージーがプリントされているのがあって、それをそのまま描きました。それでアタリの映像を観ていたら、過去に「ネイバーフッド」と一緒にやっていたことを知ったりして。

——そうえいば、過去にファッションウィークの一環で「ネイバーフッド」がショーをやった際に、ランウェイをせずにアタリ・ティーンエイジ・ライオットのライヴがショーだったことがありましたよね。あの打ち出し方はとにかく衝撃でした。

滝沢:ファッションショーじゃないじゃんって(笑)。ランウェイをやらないで、ライヴをしているメンバーが洋服を着ていたという。観に来ている人達はランウェイだと思って来ていたから、始まったら「なんだこれ!?」みたいになってましたね。

JUN:それはヤバいですね! だけどファッションショーをやるとなった時に、ランウェイではなく、ライヴをやるっていう感覚は、なんかわかる気がします。僕も企画をやると壊したくなっちゃう感があるんですよね。常識を守りつつですけど。

滝沢:だから液晶モニターに「DESTROY FASHION」って映して、ランウェイの考え方をぶち壊してみたんだよね。だからこのウージーがアタリのって聞くとまたいいよね。

JUN:旗がウージーからビュン! って出てきてもいいですよね(笑)。

滝沢:(笑)。

JUN:他には、アタリのインピレーションもありますけど、もともとこのツインテールヘアもオーソドックスな僕が作ったアニメからきてます。初めて「ネイバーフッド」とコラボレーションをした時に描いたのが、この女の子でした。紫の髪色で、ウージーもあってって。今回はその女の子を立体にしてもらいました。

アート作品を作るということに関して、僕は現代アートに詳しくないし、アートっていうものに触れずにストレートに今まで生きてきたと思います。アートって経験やお金も必要だし、場所も必要ですよね。そして、僕は資本主義がめちゃめちゃ苦手で、というのもお金になるものしかアートじゃないっていうのがダメで。だからヘルメットを作って滝沢さんにあげたように、感覚で人に伝わっていくのが好きです。絵を描くのが好きだから、人に会うとすぐに似顔絵を描いてあげたりしちゃうんですけど、それで自分のアートの価値が下がるよって言われることもあるんです。だけど壁に勢いよくグラフィティを描くようなスピードで、人にどんどん伝わっていくのが好きなんですよね。

滝沢:それって純粋にすごくアーティスト的だよ。

JUN:(プレスルームに飾ってある作品を観て)この作品は誰でしたっけ。

滝沢:コスタス。

JUN:以前からこの作品はかっこいいし、誰の作品なんだろうってずっと気になってました。今回、コラボの発売に合わせてポップアップをするんですけど、その時に僕、コスタスに影響された初キャンバス作品を描こうと考えてます。まだキャンバスに絵を描いたことがないんですけど、これくらいの大きさで描いてみようかなと。そのきっかけをくれたのも滝沢さんです。

滝沢:それは描いてみたほうがいいよ。

JUN:そのときどきの衝動で描いてみてもいいかなって。せっかくだから「ネイバーフッド」の広い場所を借りて、やってみたいです。いまだに僕は模索中というか、いろんなことにチャレンジしている最中なので、「これがJUN INAGAWAです!」っていうのがないんですよね。

滝沢:でも音楽もDJもそうだけど、ここ数年ですごい吸収して変化しているよね。

世代やジャンルを超えたクロスオーバーからイズムを継承していく

——JUNさんのDJといえば、先日観たんですけど半端なかったです。ある機材をすべて使いまくり、まるで即興のライヴのようでした。

JUN:目の前にCDJが4台あったら、全部使うでしょって感覚です。ミキサーにこれだけ機能があるなら、全部使っちゃおうよって。それをぐちゃぐちゃに使うんじゃなくって、どううまく使いこなそうかって考える。それをケミカル・ブラザーズのライヴを観て学びました。僕らの世代的におもしろいのが、ケミカル・ブラザーズって、滝沢さんの時代からしたらアンセムなんですよね。先輩のDJからすると、恥ずかしくてかけられないって感じの曲も、僕らの場合はディグって出てきたものだから、ピュアにかけられる。本当に「格好いいぞ!」って思ってかけているから。1周回って、なんていうんですかね……若い人達にどんどん受け継いでいかないといけないじゃないですか。

滝沢:これがJUNくんの魅力だと思うんですけど、上の世代と下の世代の、いい形でのハブになっている。コミュニケーションのスキルがすごく高いから、そんな役割もきちんと担っていて、必要なことだなと思う。

JUN:もともとフワっとしたものが、だんだんと固まってきたのかもしれないですね。やっていくうちに自分が何が好きかとか、ものを作っていくたびにどんどんわかってくるんですよ。それはDJもそうで。アーティストで絵を描いていながらDJをするとか、モデルをやっていてDJをやっているとか、なめられやすいんですよね。自分の仲間内ではDJができるけど、本物のDJとは一緒にできないというか。

だけど僕は、大沢伸一さんや、石野卓球さんのようなレベルの人とやりたかったんです。自分がそのレベルに行き着くまで、DJって名乗りたくない。なので絵を描くのをサボって、DJの練習をめちゃくちゃしてるんですけど、これからもどんどん本気でやろうと思っています。DJをすることも、アートを作ることも、結局つながってくるはず。例えばアニメだったら起承転結があるストーリーを作るけど、DJに関してもお客さんを目の前にしてやる時、起承転結を作るじゃないですか。

滝沢:DJに関して、割と最初からセッティングをしていくの?

JUN:事前に物語を作って、その日の一夜を1話だとしたら、ストーリーを考えてDJをブッキングするんです。例えば、森の中で主人公の目が覚めて、そこから物語が始まるとか。じゃあ、その森のような場所で音を出せるDJだったらこの人をと。さらに森を抜けたらUFOが停まっていて、UFOに拉致されて他の星に行って、他の星のクラブで踊る、みたいなことをイメージしたら、次のDJを考える。それを一夜通してやるとめちゃおもしろいんですよね。

滝沢:一夜にちゃんとしたストーリーがあるのね。そのやり方で、上の世代をつなげるのは最高だよね。だから若い世代には、若い世代ですごくいいものがあるっていうことは、僕もすごく感じていて、そこをちゃんとクロスオーバーさせていくことがおもしろいというかね。

——滝沢さんも先日、別のインタビューで次の世代へ受け継いでいく話をされていましたが、新世代のアーティストとのコラボレーションもその1つなのでしょうか。

滝沢:そう。各世代とか、各ジャンルとか、すでにそこで成立して、それがまったく違う脈略でそれぞれ進んでいくこともいいんだけど、そこで時代を前後したり、クロスオーバーさせることは本当はすごく大事だと思います。フラットに付き合えて、根底にリスペクトがあれば、そんな難しい話ではないはず。

JUN:滝沢さんとのやりとりは、シンプルな感じでそれが良くて。僕はただただ楽しかったです。それこそ「バンド(Flog3)の衣装を作ってください!」と僕が頼んだら快く受けてくださったり。

滝沢:ノリだよね、「衣装作ろうよ」って(笑)。僕にしても衣装作ってあげて、それをステージで音楽をやる時に着てくれたらすごく嬉しいじゃん。

——「ネイバーフッド」で、音楽レーベルを始めるのはいかがですか?

滝沢:そうだよね、音楽は何かやりたいんだけど。JUNくんがずっと買ってくれていたインセンスの名前(「Pacific」)も808ステイトから取った名前ですからね。

JUN:そうなんですね! ……そういうところなんですよ、僕が「ネイバーフッド」にぐっと入っていってしまうのは。

滝沢:今は1990年代や当時の原宿ファッションだったりを、若い世代の人が掘ったりしているじゃん。僕らも上の時代の人達がやってきたことを掘っていたから、それってすごくおもしろいよね。

JUN:ループになっているんでしょうね。これもいつも取材で話しているんですけど、アニメもバイクもファッションも、音楽もなんでも、みんな好きなモノの話をしている時の目って一緒で、キラキラしている。それってジャンルが違うだけで、みんなパッションを持っていて、みんなガチなオタクなんですよ。好きなものに向けるエナジーはみんな一緒。だから僕はいつも「オタク」っていう言葉を使っているんです。

■JUN INAGAWA × 「NEIGHBORHOOD」 Pop Up & Launch EVENT
日時:4月21日 19:00〜23:00
会場:TRUNK(HOTEL)
住所:東京都渋谷区神宮前5-31
ライヴ:Frog3
DJ:JUN INAGAWA、Shun、SYSTEMS、Yozzy
入場:無料

Photography Takaki Iwata
Edit Shuichi Aizawa

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$HOW5が描く過去と未来が交差したネオ・フューチャー https://tokion.jp/2023/01/11/interview-show5-tegaki/ Wed, 11 Jan 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=163334 イラストレーターの$HOW5が描く、過去と未来、そしてカルチャーが交差するネオ・フューチャーについて。

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カセットテープやCDRをキャンバスに描かれた、目を引くポップなイラスト。それは録音されたアルバムのジャケットのアートワークだったり、好きな音楽アーティストや曲をイメージしたオリジナルの絵だったりとさまざま。子どもの頃からほんの少し他とは違う角度で音楽に慣れ親しんできた、イラストレーターの$HOW5が描くイラストは、ソウル、ヒップホップ、トラップ、パンク、ニューウェイヴ、シティポップといった音楽好きが観たらたまらなく幸せになるものばかりだ。

最近は描くモチーフを、1980年代~1990年代のカセットデッキやiBOOK、iMacなどのパソコン、さらに音楽機材「ローランド(Roland)」の808などにも広げて、新しい試みにも挑戦中だ。

未来に向かって生きる私達がポジティブな気分になれるよう、そんなメッセージが秘められた作品には、$HOW5のこれまでの生き様がすみずみに表れているのだ。そこで今回は、$HOW5本人のルーツから現在地までを探る。

$HOW5 / TEGAKI(ショウゴ/テガキ)
イラストレーター、DJ。母は美術の先生で、父はソウルミュージックをこよなく愛する数学の先生と、両親がともに教師という家庭で育つ。1998年からレコードジャケットを手描きしたカセットテープやCDR作品を1000点以上制作し続けている。最近のオフィシャルワークとしては、「ラルフ ローレン(Ralph Lauren)」のホリデーイベントでのショッピングバッグの手描きポロベアとポストカードのデザインや、『POPEYE Magazine』の映画特集号の見開きイラスト、水谷光孝著『Wassup! NYC』の挿絵などを担当。DJとしては、DOMMUNEのブートレグ特集に出演。個展としては、2022年9月に代々木上原の「ファイヤーキングカフェ」で「“car$$ette” by $HOW5」を開催した。
Instagram:@show5_original

邦楽禁止の幼少時代とそこから模索した「ファンキーってどんなノリ?」

——まずはアーティストのルーツの話から聞かせてください。どのような幼少時代を過ごされたのでしょうか?

$HOW5:兵庫県の六甲で生まれて、それからすぐ尼崎に行って、小学校から伊丹。1979年生まれなんですけど、当時の尼崎とか伊丹はかなりやんちゃでした。パンチパーマに暴走族と、そういった人達がリアルに近くにいました。

それでうちは父がだいぶ変な人でした。数学の先生なんですけどレコードコレクターで、ソウル・ファンジン・フロム・大阪『Soul To Soul』というZINEをつくっていたんですよね。ZINEでは父が気に入っていたソウルミュージックやドゥワップとかのレコードが紹介されていて、子どもの頃は僕には見せてくれなくて。でも大人になってから読んだら、ちょいちょい下ネタとかが書いてあって(笑)。ちなみに学校の先生なんで、「あなたのソウル度チェック 」ページとかあったりしておもしろいんですけどね。

——(笑)。では、お父さんの影響でソウルミュージックが子どもの頃から身近にあったんですね。

$HOW5:そうですね。ただ子どもの頃は、家では邦楽を禁止されていて。父はもともとバンドをやっていたのもあって、邦楽は日本語の言葉の特性として8ビートにはうまく乗らないから、聴くとリズム感が悪くなると。そのせいで、学校で友達が話しているヒット曲がわかんないという……。家ではJB(ジェームス・ブラウン<James Brown>)で、学校ではビーズ(B’z)。僕はビーズもいいなと思っていたんですけど、レコードを買ってくれないので、テレビの「ミュージックステーション」だけが頼りでした。

自分としては、学校の友達とは話が合わないから、つらかったですね。父は、音楽に関してアフリカアメリカンが発明したリズムをとても重要視していたんです。音だけで白黒はっきり認識できるというか……。その白黒は肌の色なんですよね。そんな感じで世間とは逆転していて、ヒット曲じゃなくて、レコード屋基準でした。のちに評価されるレア盤を早く見つけたら偉いとか。ノリが悪いのはダメ! みたいなことを刷り込まれながら育ちました。

——それはアフリカアメリカンのカルチャーに関して、物心つく前から生活の中にあったということですね。$HOW5さんが音楽にのめり込んだきっかけはなんだったのですか?

$HOW5:テディー・ライリー(Teddy Riley)とか、ボビー・ブラウン(Bobby Brown)とか、ベイビーフェイス(Babyface)の1stだったりかな。都会的だったんですよね。「ローランド」のD-50のシンセサイザー音が入っていて。JBとかもサンプリングしているんだけど、ぜんぜん違うというか。車のフェアレディZとか、マツダRX-7 FDとかに、ボビ男(※1990年代初期のボビー・ブラウンのような格好をした人)や黒服みたいな人が、ボディコンみたいな服を着てるオネーさまを連れて乗っていて、爆音でテディ(・ライリー)系がかかっていて、「イケてる!」みたいな。それが12歳くらいの頃で「どうやら僕はこっち側が好きだぞ!」と。

ただ「ミュージックステーション」にズー(ZOO)が出た時に、ちょっとした困惑がありました。父からしたらズーだったりはあり得ない存在で。父はバンドでファンキーなグルーブが出せない、アジア人のノリはなんだろうってそういった壁にぶち当たりながら英語のカバー曲で挑戦してる人だったから、「これ(ズー)は聴くのはやめてくれ」って言われたんですよ。それでまた「これも違うのか」ってなりました。

——それは大きな命題ですね。何を突き詰めるかで変わってくる。

$HOW5:そうなんですよね。そこから「ファンキーやノリってどういう感じなのか」とか、「よくグルーヴとかいうけど、何を指しているんだろう」とか、そういうことを考えるようになりました。すると、8ビートだけではなく、16ビート。つまり倍のリズム空間を感じて踊れている人は日本人だとほぼいないってことに気付いたんです。

——$HOW5さんの作品を観ていると「何かあるな」とは思っていましたけど、そんなルーツがあったのですね。

$HOW5:あとは、図工(母)と数学(父)を教える両親の子ども。共働きなので、学校が終わってから図工室とかで長い時間待たされたんですよね。暇で時間があったので、ゴッホの本とかを観たり、シダの葉っぱの数を数えたりしていました(笑)。それでちょっとおかしくなってしまったのかもしれないです……。

あと、昔のことをよく覚えているねって言われます。子どもの頃に観た西部警察のワンシーンだったり。僕はその頃は4、5歳だったんですけど、すごく覚えているんですよね。

——それは何かの瞬間につながることがあるんでしょうか?

$HOW5:最近だとトラヴィス・スコット(Travis Scott)がいるジャックボーイズ(Jackboys)曲のMVに、マツダのRX-7 FDが出てきたんですけど「これは中学生の頃、めっちゃ乗りたかったやつだ!」みたいな。まさかランボルギーニに数千万かけているラッパーが、数百万の車に乗るなんて! と思ったことがあります(笑)。

自分のレコードがほしくて、カセットテープにイラストを描き始める

——続いて作品について聞かせてください。絵を描くことは独学で学んだんですか?

$HOW5:デッサンや絵の技術は母から教わって、父からアイデアを学び、それで描いていました。それから美術、デザイン系大学にも行ったんですけど、僕はいろいろと疑問が湧いてきてしまって、自分と学校のズレを感じてしまったんです。

その環境でも音楽だけはずっと好きで聴いていて、ちょうどその頃ムロ(MURO)さんやデヴラージ(DEV LARGE)さんがよくネタものやソウルを雑誌で紹介していたんですけど、それが家にあるレコードばかりで。そういったこともあって、物事をいろいろな角度で見るということに気付きました。

——カセットの作品はどれくらいの時期から制作されているのでしょうか?

$HOW5:1998年です。日本にMDが出てきたくらい? ですかね。家のレコードは父のものなので、父がいない間にそのレコードをカセットに録音して、自分の部屋にカセットのレコード棚のようなものを作ってました。それは「自分のレコード屋を作りたい!」みたいな感覚だったんだと思います。レコードジャケットのあせた色とかも好きで、文字のフォントが年代によって違うところなど、まさにレコードから学ぶアートといいますか。だけどこのノリだけでは食べていけないし……。悩みながらDJやラップをしながら、そのうちスニーカーを作ることがめちゃめちゃBボーイなんじゃないかと思い始めたんです。

——スニーカー作りに興味を持たれたんですね。

$HOW5:大学にいた頃、僕は「ソウルトレイン」(※1971年から2006年までアメリカで放送されていたテレビ番組)の影響で、アフロヘアにしていて、それで学校に行っていたんですけど、それを教授におもしろい髪型しているなと気に入られまして。その教授の話を聞いていくうちに、教授はハングリー精神が強かった戦後に生きてきた人だとわかり「こういう人が戦後を変えてきたのか」と思いました。それがめちゃドープというか、かっこよく感じて、金を稼ぐことって実はめちゃくちゃかっこよいことなんじゃないかなと考えるようになったんです。

マニアックさを極めていくのもいいけど、ずっとそれだけなのも何か違うなと思うようになったのがこの頃で、ちょうど日本ではさんピンCAMPが開催されたあとに成熟してきた時期でした。とても夢があった時代だったので、自分も、まだ誰もやっていない新しい感覚でヒップホップにたずさわりたかった。それがスニーカーを作ることでメイクマネーをすることでした。そうだ、ちゃんと就職をしてスニーカーを作ってみたいと思ったんです。それで神戸の小さな靴工場で数年働いた後、今の会社(「ニューバランス(New Balance)」)に就職しました。

根底にあるパッションは「日本をもっとよくしていきたい」

——個展を初めて開催したきっかけはなんだったのでしょうか?

$HOW5:兵庫から東京に引っ越してきて、KZAさんやシンコスチャダラパー)さんのパーティに通っていたんですけど、それでちょっと顔を覚えてもらえるようになった時に、「君は何をやってるの?」って聞かれて、これまで描いてきたカセットやCDRを見せたら、「これなんかやったほうがいいよ!」と、シンコさんやデヴラージさんに言われたんです。自分が憧れていた人達に声を掛けてもらえたこともあり、「これは何かしないと」と、カセットテープやCDRの作品展を2014年にやったのが最初です。

その時の個展は、1990年代から2000年代くらいのヒップホップの作品が多かったです。ただカセットテープやCDRは小さいので会場を埋めるのは大変でした。そこで昔から好きで持っていたラジカセ本体に絵を描いたり、小さな絵を引き伸ばしたりして展示をし始めたので、そこから現在の形に近づいていきました。

——作品を見ているとソウルミュージックやヒップホップだけでなく、シティポップやパンクなどの音楽も好きですよね。

$HOW5:ある日、パンクショップの「アストアロボット」で展示しないか声を掛けられたんです。その時にパンクやマルコム・マクラーレン(Malcolm McLaren)の洋服にも興味がわいたんです。すると「セディショナリーズ(SEDITIONARIES)」は、トラップのラッパーの人達も着てたりしていたし、パンク以降のニューウェイブやノーウェイブのアート・リンゼイは坂本龍一さんともリンクしている部分があって。そう、中西さんのプラスティックス(Plastics)の感じやブレードランナーのSF感、結局1980年代の東京、YMO、はっぴいえんど、ナイアガラ、なども含めて調べることになっていきました。そして、シティポップも日本のソウルミュージックとして描いていて、作品を観てくれた吉田美奈子さんがコンタクトしてくれたことは、自分の中ではとても大きなできごとでした。

それから1980年代の東京について調べることが、もっと楽しくなりました。そして、1980年代から裏原宿の前夜くらいまでを総合的に今のものとして見せられる表現はないか模索し始めました。サイバーパンク以降のSFを感じるヒップホップの源流。アフリカバンバータやラメルジーのような感覚で“NEO TOKYO”を表現することに興味が出てきました。

——結局はヒップホップに戻ってくるんですね。現在の作品では「ローランド」の 808が使われていますが、ヒップホップやトラップと言えば808ですよね。

$HOW5:日本車で例えるなら、レクサスなんかは海外でも評価されていて、ヒップホップ界でもSWAGな車だったと思うんですけど、808もそれと同じだと僕は思います。だけど車ほど国内で一般的には知られていない。僕が学生だった頃の教授から感じた、「日本のハングリーさを取り戻せ!」じゃないですけど、まだ誰もやっていない日本の表現。そういったことを機材の作品で車と一体化させて表現しました。最近NHKでも808の特集がありましたし、1980年代にYMOやプラスチックスが使い始めた日本の機材音が、2020年代もグローバルチャートのサウンドの主流である事実って、めちゃくちゃおもしろいし重要だと思うんです。

 

——日本発のものが海外に渡って、それが向こうで独自のカルチャーを産んでいることもありますよね。

$HOW5:そうなんですよ。アニメ『AKIRA』とシティポップが同じ空間にあるのは、日本人的にはしっくりこないかもしれないですけど、山下達郎や大貫妙子をサンプリングして808ビートに仕立てて、映像で『AKIRA』をサンプリングするみたいなことをやっている人気アーティストが向こうには普通にいるんですよね。それに気付いていないのは、海外に対して日本人が興味をなくしてしまっているからなんじゃないかなと思います。とてもおもしろいのに一方通行のカルチャーなのがもったいないなあと。

——アンテナを張っている日本のクリエイター達は、同じことを感じているかもしれないですね。でもまだまだ気付いていない人も多いかもしれません。

$HOW5:自分の作品の中で使っている映像は、海外のヴェイパーウェイヴの人が編集したものなんですけど、同じ映像の切り方でもしゃれているというか、カッコよく見える。夏目雅子も新鮮に見えて、海外の友人からすると「こっちではこんなに日本のものが人気なのに、日本人はなぜ? 興味はないの?」って。海外では今のリズム感でもっと進化させているのに「新しくなったものに興味はないの?」っていう。この感じを自分なりにどう伝えたらいいのか、葛藤も含め模索しているうちに、出てきたテーマが「今の日本をもっと明るく前進しましょう(笑)!」っていう様なところでした。感覚の鋭い人が作品を観て気付いてくれたり、新しい視点にも興味のある人が増えてくれたらいいなと最近は思うようになりました。

——そのような作品を今後も自由に作り続けたいですか?

$HOW5:カルチャー・ボランティアじゃないですけど、本当に大事にしているものが広がることは嬉しいです。時間もお金もそういうことに投資していきたいし、そうしていると好きな人が自動的に集まってくれるので毎日楽しいです。この数年で共感してくれる人が集まってきて、やっとおもしろくなってきました。だから、これからも自由に作っていきたいです。無理してわかってもらおうとは思わないですけど、新しい表現って最初は理解されにくいので、どうやってアプローチしていけばいいのかということも、今後はもう少し心掛けて制作するようにしたいですね。

Photography Kazuo Yoshida

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TWIGY × dj honda――アルバム『RAPATTACK』が生んだ無敵の化学反応 https://tokion.jp/2022/12/29/twigy-x-dj-honda/ Thu, 29 Dec 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=161673 TWIGYとdj hondaによる対談。ヒップホップに終わりなし。アルバム『RAPATTACK』の誕生のきっかけから本作が生んだ化学反応に迫る。

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TWIGY 「RAPATTACK」 produced by dj honda

ラッパーのTWIGYと、DJ・サウンドプロデューサーのdj honda。間違いなく日本のヒップホップシーンをけん引し、その歴史に跡を残してきた。この2人がタッグを組んだアルバム『RAPATTACK』が2022年にリリースされた。

2011年からしばらくラッパーとしての活動のペースをゆるめていたTWIGYが、2021年に約10年ぶりにアルバム『WAKING LIFE』をリリースしてから、約1年。日本のラップ界をリードしてきたリリシストがリリックにのせ、“今”伝えたいことは、長年世界で勝負し続けてきたdj hondaのビートだった。このアルバム、聴けば聴くほど脳内が覚醒して体が熱くなってくる。

2022年現在、まだまだ止まることを知らないヒップホップカルチャーだが、その中で聴いてみるべきアルバムなのではないかと感じている。本作の誕生について2人に聞く。

Left→Right
TWIGY(ツイギー)
1971年生まれ。愛知県出身。1980年代後半からラップをはじめ、1987年に刃頭とともにBEATKICKS(ビートキックス)を結成し、名古屋を拠点に活動開始。1992年に活動の場を東京に移してから、MURO、P.H.FRONらとともにMICROPHONE PAGER(マイクロフォン・ペイジャー)を結成。1994年にYOU THE ROCK☆RINO LATINA IIらともに雷を結成し、翌年LAMP EYE(ランプ・アイ)の「証言」に参加。1997年にイスラム教へ改宗。1998年に1stソロアルバム『AL-KHADIR』をリリースした後は、数々のアルバムを制作。2016年に自叙伝TwiGy『十六小説』を出版。2021年には、約10年ぶりとなるアルバム『WALKING LIFE』をリリース。また2022年11月に、東京・原宿で絵画を中心とした初の個展「THINGS THAT PASS」を開催。日本のヒップホップ界屈指のラッパーの1人。
Instagram @twigy71

dj honda(dj ホンダ)
1961年生まれ。北海道札幌市出身。ヒップホップDJ・サウンドプロデューサー。1980年代半ばからDJ KOOらとともにリミキサーグループ、The JG’s(ザ・ジェイジーズ)を結成。国内でのDJ活動を経て、1992年に渡米し、ニューヨークで開催されたDJバトル大会「DJ Battle For World Supremacy」で準優勝を果たす。1995年に1stアルバム『dj honda』をリリースした後は、『h II』『dj honda IV』などのアルバムをリリース。Common(コモン)Fat Joe(ファット・ジョー)DJ Premier(DJ プレミア)Mos Def(モス・デフ)De La Soul(デ・ラ・ソウル)、EPMD(イーピーエムディー)、Redman(レッドマン)など東海岸をを中心としたUSラッパーやDJが参加する。1999年に「dj honda RECORDINGS US」と「dj honda RECORDINGS JAPAN」を設立。ファッションブランド「h(エイチ)」をプロデュースし、1990年代には世界中で大ブレイクした。2021年、THA  BLUE HERB(ザ・ブルー・ハーブ)のill-bosstinoとともに『KINGS CROSS』を制作。現在は、札幌を拠点に活動中。
https://www.djhonda.co.jp
Instagram:@djhonda_official

リアル・ヒップホップを生きる2人が今できること

TWIGY 『RAPATTACK』All Produced By dj honda
(GOD INK ENTERTAINMENT®)

——何がきっかけでアルバム『RAPATTACK』を制作することになったのですか?

TWIGY:僕が脳内ドラムに書きためていたリリックがあって、それをストリートのヒップホップの音にしたいなと思って。でも自分で作るのは大変だし、いろいろな人にオファーするのは時間がかかるなと思っていたところに、(dj)hondaさんとやらないかっていう話がちょうどあって。今みんなhondaさんと曲をやったり、アルバムを作ったりしているし、それで2週間くらい札幌のhondaさんのスタジオに行って作った感じです。

——お2人はいつから互いを知っているのですか?

TWIGY:いや~、長い。

dj honda:TWIGYが、まだちっちゃい頃(笑)。まだ名古屋にいた頃。

TWIGY:ちっちゃい頃っすね(笑)。17とか、18とかの頃。

dj honda:イベントを東京でやっていた時に、TWIGYに会ったんだよ。2回くらい来たよね。

TWIGY:「PEACE BALL」ってイベントやっていたの。

——その頃の印象はどうでしたか?

dj honda:当時ラップをやっている人はそんなにいないからさ。やってる奴はほ友達じゃなくても知っているって感じだったから、みんな知ってたよ。

TWIGY:僕はもう大先輩なので、観ていた側ですね。刀頭と僕は一番年下で、周りは年上の人ばかりだったから、「こうやるんだ」とかもう衝撃を食らっていた人の中の1人。「PEACE BALL」ってイベントには、EAST END(イースト・エンド)だとかいろいろ出ていたんだけど、僕らはBEATKICKSで出て、自分達のライヴが終わったあとに観る側に戻って観てたんだけど、hondaさんのDJの時にいきなりギターをギーンッ! と出してきて終わったってのがあって、「すごい人だ!」「髪もロックだし!」っていう印象で。だけどその時は年上過ぎてしゃべれない人ですね。

dj honda:確かにね。10歳くらい離れてると違うよね。これくらいになったらほとんど一緒だけど。

「TIGHT -24th Anniversary, Since 1998- 」 at Club Asia 2022/12/3 

——今回はTWIGYさんからhondaさんへアプローチしたんですか?

TWIGY:そうです。やっぱり本物の音を作る人というか、間違いないと思っていたので。僕のリリックが絶対に合うと思っていたから、ぜひと思って。

——hondaさんは一緒にTWIGYさんとレコーディングされていかがでしたか?

dj honda:どうもこうもなにもないけど、「もっと作るぞ!」って言った(笑)。

TWIGY:それで僕が終わるっていう(笑)。

——札幌にはどれくらい滞在していたんですか? リリックは現地で調整していったのでしょうか。

dj honda:札幌には1週間から10日間くらいいたね。それを2回にわけて来たよね。

TWIGY:書きためていたのもあるし、でも脳内ドラムで作っているから、ズレているところとか、小節数が合わないところとか、言葉尻とか。ちゃんとライヴで自分で声を出して録っていないものだから、なおさら調整はいろいろ必要で。またバースが必要になっていたりだとかもあって。あとはそれに合うhondaさんの音を、どれをどれにするかだとか。hondaさんは毎日音を作る人だから。新しいのから、それこそ何十年前のから。古いのはいつごろのものを聴いたんでしたっけ?

dj honda:20年前とか? 1990年代に作ったやつとか。

TWIGY:それを先に僕が音を聴かせてもらって、「これとこれ」「次これでやります」って感じで。

「TIGHT -24th Anniversary, Since 1998- 」 at Club Asia 2022/12/3 

——アルバムを聴いていて、ヒップホップとはなんぞやといったBACK TO HIPHOP的な印象を受けたのですが、コンセプトのようなものはお2人で話されたんですか?

dj honda:ないないない。「今、何ができるんだ!?」ってことをその日やっていたって感じだよね。「今、何ができるの? TWIGYは?」「俺は今、これができるけど」って、それが合わさっただけじゃない。別に昔風とか、なんとか風とか考えていないし。こんな曲作ろうよっていうのもないし。できたものが作った曲だから。それを毎日。

TWIGY:その感覚をシェアしてでき上がった。

dj honda:俺は何も考えていないよ。詞は考えているだろうけど。

TWIGY:常にヒップホップの中にいるから、BACK TO HIPHOPとか、そういう風に受け取ってくれたら、それはそれで嬉しいけど。でももうずっとやってきていることだから。

——リアルライフでやり続けてきたことが、2022年に形になったのでしょうか?

dj honda:そう。それがたまたま出たって感じ。もうそれしかやってないしね。

TWIGY:僕らはずっとそうですよ、リアルヒップホップですよ……ってそんな風にしなくてもいいですけど、言われるとしたらそうですね。

「TIGHT -24th Anniversary, Since 1998- 」 at Club Asia 2022/12/3 

TWIGYにdj hondaがリクエストした「簡単にしろ」

——hondaさんはTWIGYさんの魅力はなんだと思いますか?

dj honda:やっぱ、個性がないとダメだから、ラッパーって。で、(TWIGYは)個性があるじゃん。いろいろなビートがある中で、他の人では使えないなと俺が却下したやつも、TWIGYにはハマったっていうのもあるし。詞も大事なんだろうけど、俺は音楽として聴いてるから。基準は何もないんだよ。DJをずっとやっているから。自由な中でなんか合うな、合ってないなっていうのは俺はわかるから。俺はDJをする時に「かけるか、かけないか」っていう感覚で作っている。それで、「ちょっと違うな」って思った時は「違うよね」っていう判断ですよ。そうすると、「こっちが悪いのか」「そっちが悪いのかっ」ていう判断になるじゃん。そうすると俺はバンバン変える。

TWIGY:どっちが悪いんすか(笑)。

dj honda:俺、聞くじゃん。「これでいいか?」って。これでOKだったら、あとは俺の責任だから、いっぱい変えたり、直したり、ああだどうだって。

TWIGY:すごい変えてくるんですよ。それでどんどん良くなっていくから、もちろんいいんですけど、「どれがいい!?」って何曲もくるんで、それを選ぶのはちょっと大変でしたけど(笑)。

——hondaさんはこれまでに海外のラッパーとも数多くレコーディングされてきていますが、TWIGYさんとレコーディングしていて何か気付きはありましたか?

dj honda:ラッパーだから、外国人も日本人も同じだよ。やっていることも一緒だし、ペースが違うっていうのはあるけどさ、基本同じだよ。やっぱ(TWIGYは)、ラッパーなんじゃないの?

「TIGHT -24th Anniversary, Since 1998- 」 at Club Asia 2022/12/3 

——好きなフロウとか、ありますか? 

dj honda:俺はTWIGYにもっと簡単にしろって言ったんだけど。結構、俺は一緒にやるやつにはみんなに言うんだよね。「簡単にしろ」って。

TWIGY:みんな簡単にしてこないですからね(笑)。

dj honda:俺がついていけないってことは、お客さんもついてこれないんじゃないかってことで。俺としてはもっとって思うし、簡単が一番難しい。曲だってそうだし、スクラッチもそう。だから切磋琢磨しているんだよ、みんな。なんかマジックが起きるかもしれないわけだし、それにチャレンジすればいいわけだから。毎回いい曲ができるんだったらいいよ。たまにレコーディングして、それを出すだけでいいじゃん。もちろん、簡単にできてしまうこともある。でもたいていは、そういうわけにはいかない。だからやったほうがいいし、やったもん勝ちっていうのはある(笑)。

TWIGY:(笑)。……次の質問にいきましょう。

dj honda:TWIGYにはあるのさ。簡単にできない理由が。でも、違うところでやってみてもいいじゃんって。すごい、実験だから。スタジオだって、今は昔みたいに何百万、何千万とバジェッドがないと入れないとかないじゃん。パソコンとマイクがありゃ、曲は作れるからさ。そんな実験を、いっぱいやったけどね。

TWIGY:結構やりました(笑)。

dj honda:やったやった。TWIGYに「ここ変えろ!」とかはないよ。

TWIGY:シンプルにしていったつもりなんですけど、シンプルになっていなかったみたいです。まだ(笑)。

dj honda:「手厳しくやっていますけどおお~!」とか言ってたけど。「まじで~?」って。

TWIGY:「まだダメだ!」とか言って。

dj honda:「もっとだ!」とか(笑)。

TWIGY:2行の連呼で終わってしまうかもしれませんよ。

dj honda:それでハマっていたらやばいじゃん。

TWIGY:でも、そんなラップ聴いたことないっすよ! ……みたいな。

dj honda:ないからさ、逆に楽しみ。サビだけとか(笑)。

——(笑)。楽しそうにレコーディングされていた感じですね。TWIGYさんは、東京を離れて札幌という環境でレコーディングしてみて、変化はありましたか?

TWIGY:集中できたかもしれないですね。毎日、「明日もスタジオ入るんだ!」っていうのがありましたから。スタジオに入ったのは、4月の頭。雪、凍っていましたね。ブーツを履いていかないとって、ブーツを履いていったらツルツル滑って、めちゃくちゃ 「しまった!」みたいな。で、風が冷たかった。よかったですよ。

「TIGHT -24th Anniversary, Since 1998- 」 at Club Asia 2022/12/3 

ストレートな塊が合致して「やっぱり化学反応が生まれた」

——アルバムを聴いていて2022年、現在のことをラップされていて、今の世の中を生きていて思うことをシャウトされているなと。

TWIGY:前作の『WAKING LIFE』は、夢と、夢じゃない境目を作りたかったから、ああいう形にして、今回の『RAPATTACK』は、hondaさんは難しいって言いますけど、自分としてはもっとわかりやすい感じで作りました。楽しいとか、悲しいとか、いろんな喜怒哀楽があるけど、それの“ド”に近いというか。もうちょっと考えさせちゃうやつを、もっと濃いやつをリリックにしたかったから。だからhondaさんのド・ストレートな低音と、アーネスト(本気)というか。そういう塊のようなものが合致したというか、マッチしたというか。リリックを足したやつとかも、音に合わせて作っていったから、それだけハマってしまったという部分もあったりするし、やっぱりすごい。そこで、化学変化が生まれるっていうか。

——化学変化が生まれていますよね。おかげで考えさせられました。

TWIGY: なんかそういうのが今はないじゃないですか。楽しいとか、恋愛ソングとかしかないから。問題定義って、ヒップホップはそういう部分だと思うから、それが希薄だなと思っていて、それを書き殴りたかった。僕のアルバムを聴いた人が、鼻息が荒くなってきて、「寝られなくなった!」って言ってたから。

TWIGY 「LUCY」 produced by dj honda

——自分もアルバムを聴いていて、後半になるにつれてどんどんそういう風になっていきました(笑)。

TWIGY:そういう風に思わせたかったんだよね、今回のやつは。みんな不感症になっていると思うから。だからたぶん昔のTWIGYを聴いていた世代の人達は、「これだ!」ってなっていると思うし。で、hondaさんだし。そこは狙ったところもあって、若い人達にはこの土くさいラップとかもおもしろいだろうし。きれいすぎるからさ。今はレコーディング技術が発達しすぎているから、声を変えたり、息ブレスとかも聴こえないようにしたり、変えていることが多いからね。

僕はその真逆な感じにしたいというのがずっとあって。だから声も最初に録った「CIRCUS」は、hondaさんのスタジオでhondaさんに見られながら、何年ぶりかにスタジオでマイクを持った。それをファーストインパクトで、「I’m Back」ってつんのめりでやっているっていう。だから後半になっていろんな種類の声がまたおもしろくなっていくし、それをhondaさんが作ってくれたんだよね。

——アルバムのタイトルは誰がつけたのですか? そして、どんな気持ちをこめたのでしょうか。

dj honda:それはTWIGYが。

TWIGY:『WAKING LIFE』の次は、『RAPATTACK』っていう題名にしたいって、それが2年前くらいにあって。その中身がこれになったって感じ。だから当初つけたかったネーミングをつけて、そこにさらに同乗していったって感じです。

——どんな化学反応が起きたと思いますか?

dj honda:ん、それは聴いた人が決めることなんじゃない? 

TWIGY:逆に知りたい。

dj honda:聴いてくれた人が決めてくれたらいいんじゃない。俺らはやることはやったから。あ、もっとできるけど(笑)。でもキリがないからね、一生終わらないから。

「TIGHT -24th Anniversary, Since 1998- 」 at Club Asia 2022/12/3 

——最近のヒップホップについてどう思いますか、日本、海外含め。

TWIGY:ヒップホップというのは、音楽?

——音楽もそうですし、カルチャーとしてです。

dj honda:どうですか? ん~……どうですかね~。

TWIGY:(笑)。

dj honda:わかんない。いいんじゃないの? あんまりわかんない。俺、あんまり人の曲を聴かないしな。あまり気にしていない。

TWIGY:右に同じです。それで(笑)?

dj honda:やりたいように、やりたいことをやっているだけ! それが続いていっているだけ! かな。

TWIGY :自分のスタイルをやっている “だけ”っていう。だからいろんなスタイルがあってもいいんじゃないのっていう。俺はあっていいと思うし、それを別に否定する暇もないし。

dj honda:言ったところでな。だってもともと俺らはクソなんだから。クソかなんか知らないけど、みんなそうなんだから。

TWIGY:リアル・シッ○????ですよ。

dj honda:それはわかんないけど(笑)。音楽ってどうですか? ってなったら、話は変わるかもしれないけど、いいんじゃないですか。好きにやって。そういうヤツもいっぱい増えたから、今こうなってるわけじゃん。昔なんかは、ステージにさっきまでいたやつが客席に行って、ステージ観てたわけだから。TWIGYだってそうだったんだから。

TWIGY:何かを夢みて、集まっていたし。

dj honda:「これでいいのかな~」とか。もともと、やってる俺らもわかっていなかったんだから。

——今はわかっていらっしゃいますか?

dj honda:わかってるよ!!! けど当時はわかんなかったよね。それが楽しかったしね。

——今も楽しいですよね。

dj honda:うん、楽しい。

——最後に『RAPATTACK』がリリースされたにあたり、メッセージをいただけますでしょうか。

TWIGY:超ド級のアルバムができているんで、聴いてください。クラシックです。

dj honda:それでいいんじゃない。「クラシックです」っていいんじゃない(笑)。

Photography Atsuko Tanaka
Special Thanks:CLUB asia、DJ YAS、TIGHT

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内なるものと、取り巻くもの。2つの世界を体現したエリック・ヘイズ個展「INSIDE OUT」——鼎談:エリック・ヘイズ × 源馬大輔 × 西本将悠希 https://tokion.jp/2022/12/24/eric-haze-x-daisuke-gema-x-masayuki-nishimoto/ Sat, 24 Dec 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=162074 日本初の個展を開催し来日中のアーティスト、エリック・ヘイズと「サカイ」クリエイティブディレクターの源馬大輔、en one tokyoの西本将悠希の3人が個展を起点に語る。

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鼎談:エリック・ヘイズ × 源馬大輔 × 西本将悠希

左から、en one tokyoの西本将悠希、アーティストのエリック・ヘイズ、「サカイ」クリエイティブディレクターの源馬大輔

1970年代からアメリカを拠点に活動をするアーティスト兼デザイナー、エリック・ヘイズ(Eric Haze)が、日本初となる個展「INSIDE  OUT」を、 東京・渋谷にあるギャラリー「SAI」で開催した。エリック・ヘイズは、グラフィティやグラフィックデザイナーとして活躍しながら、アパレルブランド運営など、ストリートカルチャーとのリンクが多かったのだが、オリジナルの力強いストロークを残しながらもネクストステージに到達した新作アート作品は、コンテンポラリーアートの領域において新たなスタートを切っている。

またファッションブランド「サカイ(sacai)」との最新コラボレーションでは、エリック・ヘイズならではのメッセージ性のあるワードを打ち出し、来日中には「サカイ」青山店で開催中の「Hello sacai」のオープニングでライヴペインティングを行い、相互性の高いファッションとアートの関係を披露してくれた。

そこで数年ぶりの来日したエリック・ヘイズと、「サカイ」クリエイティブディレクターである源馬大輔と、ギャラリー「SAI」を運営するen one tokyoの西本将悠希の3者を交え、個展を起点にいろいろと語ってもらった。

エリック・ヘイズ(Eric Haze)
ニューヨークを拠点に活躍するアーティスト、デザイナー。1970 年代に“SE3”の名前でグラフィティアーティストとして活動をスタート。グラフィティ集団、The Soul Artistの創設メンバーとして、フューチュラ2000(Futura 2000)リー・キュノネス(Lee Quiñones)ドンディ(DONDI)らとともに過ごし、グラフィティ界のパイオニアとしてキャリアを積む。その後、グラフィックアートに焦点を移し、レコードレーベル「TOMMY BOYS」のロゴや、ビースティ・ボーイズ(Beastie Boys)パプリック・エナミー(Public Enemy)などのアルバムカバーなどを数多く制作。1991年には自身のアパレルブランド「ヘイズ(HAZE)」を立ち上げ、数多くの企業やブランドとコラボレーションを果たす。またアート作品の制作に本格的に取り組むようになり、2011年「Art in The Streets」、2018年「Beyond The Streets」などのストリートアートを軸としたアートの祭典ではペインティングやインスタレーションを披露。現在はファインアート、ストリートアートを網羅するアーティストとして、ブルックリンにスタジオを構え多岐にわたり活動中。
https://erichazenyc.com
Instagaram:@erichazenyc

源馬大輔(げんま・だいすけ)
1975年生まれ。1996年に渡英し、1997年にはロンドンにあるBROWNS社に入社し、バイヤーを務める。2002年に帰国後は、中目黒にセレクトショップ「ファミリー(FAMILY)」を立ち上げ、2007年に独立を果たし、源馬大輔事務所を設立。現在は、「サカイ」のクリエイティブディレクションをはじめ、ファッションを軸にさまざまな現場にてクリエイティヴディレクターとして活躍中。
Instagram:@daisukegema

西本将悠希(にしもと・まさゆき)
en one tokyo主宰。

ニューヨークでパンデミック中に描いた作品

「ISIDE  OUT」の展示風景

——個展「ISIDE  OUT」のコンセプトを教えていただけますか?

エリック・ヘイズ(以下、エリック):タイトルの「ISIDE  OUT」は、2つの異なった世界を表現しているんだ。 アブストラクトな作品は、私の内なる部分(=インサイド)……私のスピリット(魂)、頭、手から作り出されたもの。そしてポートレートの作品は、私の周辺にある世界や近しい人を題材に描いた。アブストラクションとリアリティ、その2つを混ぜたんだ。エキサイトだよ。

——人物が登場するリアリティの作品では、どんなひとびとを選んだのでしょうか?

エリック:私自身の個人的な歴史から選んだ人達を描いている。出会った人達も、私の人生の旅の一部であり、歴史へのラブレターみたいなものだね。私にはたくさんの日本の友人がいるんだけど、特に日本での個展を意識したわけではなく、描きたいと思ったのが作品にした人達だったんだ。日本は私の人生の旅の歴史の中で、大きな部分を担っているんだろうね。ニューヨークでパンデミック中に描いた作品だよ。

「ISIDE  OUT」の展示風景

——描かれた人達のことを教えていただいてもよろしいですか。

エリック:ハロシ(HAROSHI)タク(=小畑多丘)ポギー(小木“POGGY”基史)には、自分をレプレゼントできる写真を送ってくれないかと聞いて、それぞれが送ってきてくれた写真を元に描いた。ヒロシ(=藤原ヒロシ)、スケシン(=SK8thing)、ムラジュン(=村上淳)のは、このシリーズの一番最初の作品で、1990年初期の雑誌の広告を元に描いたんだよ。広告は私がまだ彼らに会う前のもの。私は日本に来て来年で30年になるんだんだけど、1990年代初頭はキャットストリートに1つだけセレクトショップがあるくらいだった。

——その頃の東京のストリートカルチャーはどのように感じましたか?

エリック:まだストリートシーンといえるものはなかったんじゃないかな。だけど1つ強く印象に残っているのは、30年前のアメリカはデザインとアートは交わることがなかったんだけど、当時、日本に来た時に感じたのは、日本のひとびとはデザインもアートも理解していたということ。それもスペシャルな方向性の中で。そのことは私をものすごく惹きつけたんだ。

1%から100%までのグレースケールにこだわる

アーティストのハロシとのコラボレーション作品。
「ISIDE  OUT」の展示風景

——ハロシさんとのコラボレーション作品もあります。こちらはどのような過程を経たのでしょうか。

エリック:私は簡単なことしかしていなくて、ハロシと彼の奥さんがハードに仕事してくれた(笑)。私がデザインをした「ハフ(HUF)」のスケートボードに、日本のスケートボーダー達が乗ってくれて、その使い切ったデッキをハロシが作品として作ってくれた。

ハロシと私は強い精神的なつながりがあるんだけど、私達はまだキース・ハフナゲル(Keith Hufnagel)が生きていた頃から「ハフ」と仕事をしていた数少ないアーティストなんだよ。それでキースが亡くなってから、追悼の意を込めた作品を制作したいと感じていたんだ。これはコミュニティのすべてのつながりを示す、またキースへの思いを込めて制作した、ものすごく愛が詰まった作品。

源馬大輔(以下、源馬):この作品は、ハロシと僕が一緒に座って、エリックがアイデアを話してくれたんだけど、「よし! 作ろう!」ってなった時、ハロシはエリックと一緒に仕事ができることにすごく嬉しそうだった。彼にとっては夢がかなったんじゃないかな。

「ISIDE  OUT」の展示風景

——作品全体を通じてブラック&ホワイトに、グレーを使用した理由はなぜでしょうか。

エリック:私はこの世界をあまりカラーで見ていないんだ。たぶんニューヨークで生まれて、グレーで汚いっていう環境で育ったからかな(笑)。それと私がデザイナー、アートディレクターとしてキャリアをスタートさせた時はすべてがローバジェッドで、コンピューターもなければ、jpgもなく、ノーデジタルワールドだった。だからアルバムカバーをデザインする時はブラック&ホワイトでデザインを作って、印刷所に行って色を指定していたんだ。その頃に学んだことが、ブラック&ホワイトと、グレーのレイヤーだったんだけど、その頃から自分のマインドは1%から100%までのグレースケールなんだよね。

多くの人に「色を使ったら?」と何度も勧められて使ったこともあるけど、「ちょっと待てよ?」と。デザインやロゴのデザインにおいての私の哲学は、「色を作るなら、色に依存してしまう」ということ。色は個人の好みだし、ブラック&ホワイトでうまくやることができたらいつでもカラーを追加できる。

——作品はブルックリンにあるスタジオで制作されたと思いますが、ニューヨークで活動をされていていかがですか。

エリック:今はウィリアムズバーグ、ネイビーヤードに近いクリントンヒルに住んでいる。ウォーターフロントだね。15年くらい同じスタジオなんだけど、スタジオのあるビルを2年前に買ったんだ。それによって心持ちも変わったし、そのスタジオで制作をしたよ。

「ISIDE  OUT」の会場風景

——では、ニューヨークのギャラリーシーンはどう変化したと感じてますか?

エリック:かつてのニューヨークには「Jeffrey Deitch」と「Jonathan Grant Gallery」くらいしかギャラリーはなかったんだけど、2010年に12年間住んでいたロサンゼルスからニューヨークに戻ってきた時には、良いギャラリーが増えていたよ。コニーアイランドも「Jeffrey Deitch」がしかけてたくさんのアートウォールがあって、アートの聖地のようになっているし。

西本将悠希(以下、西本):ニューヨークのギャラリーの話でいうと、僕は2008年に「Joshua Liner Gallery」のオープニングで、ブルックリンに行ったんですけど、その時にエレベーターでたまたまエリック(・ヘイズ)、フューチュラ2000、カウズ(KAWS)と一緒になったことがあったんです。それまで雑誌でしか見たことのなかった彼らが一緒にいるのを見て、現実にいる人達なんだって。この思い出は僕の中では、未来の道筋が作られた1つのできごとでもあります。

人生はバランスが大事

——2010年にニューヨークへ戻ってきて、エリックさんにはどのような変化がありましたか?

エリック:ロサンゼルスにいた頃は、服のトレードショーにこれでもかと参加していたけど、ビジネスが良くなるごとに、私はストレスを抱えてしまい、幸せではなくなってしまったんだ。それでニューヨークに戻ることにして、すべて自分で責任を持ってやってみることにしたんだ。それで状況は変わったけれども、最終的にはリスクを負うことはなくなった。そこから再びファッションが自分の中でおもしろくなってきて、何かやりたいなと思えるようになってきたんだ。

人生はバランスが大切だと思うんだ。幸せであるには、人との関係、仕事とバランスをキープすること。僕は10年前に結婚したんだけど、そのことも新しいバランスを与えてくれている。今回の個展の素晴らしい点は、私の中でバランスが取れているということ。プロダクト制作に関しては、アートといい関係性を持てたと思うし、「サカイ」との仕事もだけど、こういったバランスの良いことは10年前や、20年前にはできないことだった。自分を知ることと、再びパッションを見つけたことで、次に進むことができたんだと思う。

源馬:僕はかつてロンドンにいた時に、「Mo’ Wax」の商品を見て、中でもポスターのデザインが本当に素晴らしくて、それが脳裏にこびりついていたんです。僕らがいるファッションの世界ではコレクションのメッセージを印象づけるために、外部の力を借りることがありますが、エリックは音楽やカルチャーとリンクして歴史を作ってきているので、そのメッセージがいつも的確なんですよね。なのでぜひ一緒に何かをやりたいと思ったんです。

エリック:それが私にとってはすごく特別なことだったんだよ。この5年くらいは新しい世代のファッションが出てきていて、その動きがとてもおもしろい。だから私も新鮮な視線を持って戻ってこれることができたんだよね。周りを見渡したら「サカイ」や、バージル(・アブロー)などが素晴らしい内容のことをやっていることに気付いたんだ。同世代にはインスパイアを受けなくなっていたのにね。

それで私は、これまで自分が通ってきた道には戻りたくない、ファッションの市場にカルチャーがもう一度いい形で参入する機会になるんじゃないかと(源馬)大輔に話をした。それまで誰もが知っている私の歴史の一部である、グラフィティやヒップホップなどの流れからは切り離しておきたかった。だから大輔や(阿部)千登勢(「サカイ」デザイナー)と仕事をしたことは自分にとってイメージ通りで、自分の中でフィンガープリントを押せる(=間違いない)、新しいことを証明できるだろうと素晴らしい話ができたんだよ。

「ISIDE  OUT」の会場風景

源馬:僕はエリックをアーティストとして認識したかった。彼はいつも素晴らしいコンセプトを持っているんですよね。2021年のコレクションでエリックに描いてもらった「ONE KIND ONE」という言葉があるんですけど、これはパンクバンドから来ていて、僕と阿部はいつも「愛」について話していたんです。それに対してふさわしい言葉を探していた時に、エリックに「何かおもしろい言葉はないかな」と聞いたらこの言葉が出てきて、「これだ!」ってなりましたね。

エリック:「サカイ」とは、もの作りにおいて最高な信頼関係を築けている。私を信頼してくれていて、手を差し伸べて任せてくれたことは、とても美しいサプライズだよ。

源馬:本当にビューティフル・サプライズ。それ以外ないですね。

オリジナリティを持ち、新しい視点で捉える

——ギャラリー運営やアート展のキュレーションをしている西本さんから見て、エリックさんはどんなアーティストでしょうか。

西本:やはりずっとアートシーンにいるというのは、1つの大きな魅力だと感じています。例えば、過去の作品を知っている人が、今のエリックの作品を観ても、彼の作品だとわかる。これって、もちろん人柄もありますけど、作品にオリジナリティがあるからなんです。最近は作品を見せられても、似ているものが多くて「それ誰の?」ってなってしまうことも多いんですけど、エリックの作品は見ただけで彼のものだとわかるんですよね。それは強み、そうストロングポイントなのかなって思います。

源馬:それは重要ですよね。今は誰かをまねすることが多い中、エリックは自分のものを持っている。

エリック:1980年代の初めにペインティグを始めた頃は、アブストラクトな絵を描きたいなと思ったんだけど、それは自分の前の世代の手法に近かった。そこで僕達はその世代を打ち破らなければならなかったから、自分達のスタイルを見つけられたんだ。私はアート活動をする上でトレンディが何かとか気にしていないし、他で誰かがやっていることをやりたいと思ったことがない。だからトレードショーに出展していた頃も自分のブースばかりにいたんだと思う(笑)。

「ISIDE  OUT」の展示風景

——お2人は今回の個展をどう感じましたか?

源馬:実際に作品を観るとわかると思いますが、写真で見るよりも実際の作品のエネルギーは半端ないです。なので、エリックの作品は生で観てエネルギーを感じてほしいですね。

西本:僕も源馬くんと同じで、ぜひ実物を観てほしいですね。捉え方は人それぞれだと思うんですけど、それまで知らないものを観に行くことって楽しいじゃないですか。なので、これまでのエリックのことを追ってきた人だけでなく、初めてという人でも観てほしいですね。

エリック:100%そう思う。これまでの信頼できるファンに加えて、新しい目を持った人たちにも観てもらって、それが拡大していくことがとても重要だと思う。

源馬:新しい目、大事ですよ。

「ISIDE  OUT」の展示風景

エリック:「サカイ」とのコラボレーションでも、ファッションのオーディエンスをアートに取り込み、アートのオーディエンスをファッションに取り込みたいんだ。それらが交わると新しいことが生まれる。

西本:そして互いに影響し合うんだよね。

——最後にファンにメッセージをください。

エリック:人はみなユニーク。音楽であれ、ビジネスであれ、ペインターであれ、成功するアーティストになるためにはみな自分自身を理解することが必要。なので、自分にしかできない表現方法を見つけほしいよね。そうすることで、世界に1つしかない特別なものを手に入れることがができると思うから

「ISIDE  OUT」の展示風景

■INSIDE OUT
会期:~12月25日
会場:SAI
住所:東京都渋谷区神宮前 6-20-10 RAYARD MIYASHITA PARK South 3階
時間:11:00 – 20:00
入場料:無料
Webサイト:https://www.saiart.jp

Photography Teppei Hoshida

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